カルメル 会 修道 女 の 対話。 芸術・文化活動レポート

プーランク:『カルメル会修道女の対話』日本語字幕付き!|HMV&BOOKS onlineニュース

カルメル 会 修道 女 の 対話

解説 ニューヨークのメトロポリタン歌劇場(MET)で上演される最新オペラ公演を映画館で上映する人気企画「METライブビューイング」2018~19シーズンの第10作。 フランス革命に翻弄された修道女たちの史実をプーランクの鮮やかな音楽でオペラ化した「カルメル会修道女の対話」(2019年5月11日上演)を収録。 18世紀末、フランス革命に揺れるパリ。 ド・ラ・フォルス侯爵家の娘ブランシュは極端に神経質なため俗世界で生きていけず、コンピエーニュにあるカルメル会の修道院に入る。 しかし革命政府は修道院の解散と建物の売却を決定し、司祭も追放されてしまう。 修道女たちは殉教を決意するが、怯えたブランシュは修道院から脱走。 やがて、潜伏して密かに信仰を守っていた修道女たちは捕らえられ、死刑宣告を受ける。 修道女たちが断頭台に上る中、群衆の間からブランシュが現われ……。 2019年製作/195分/アメリカ 原題:The Metropolitan Opera HD Live Season 13, Episode 10: Poulenc: Dialogues des Carmelites 配給:松竹 スタッフ・キャスト Powered by• 2020年• 2020年• 2020年• 2020年• 2019年• 2019年• 2019年• 2019年• 2019年• 2019年• 2019年• 2019年• 2019年• 2018年• 2018年• 2018年• 2018年• 2018年• 2018年• 2018年• 2018年• 2018年• 2018年• 2018年• 2018年• 2017年• 2017年• 2017年• 2017年• 2017年• 2017年• 2017年• 2017年• 2017年• 2017年• 2016年• 2016年• 2016年• 2016年• 2016年• 2016年• 2016年• 2016年• 2016年• 2016年• 2015年• 2015年• 2015年• 2015年• 2015年• 2015年• 2015年• 2015年• 2015年• 2015年• 2015年• 2015年• 2014年• 2014年• 2014年• 2014年• 2014年• 2014年• 2014年• 2014年• 2014年• 2014年• 2013年• 2013年• 2013年• 2013年• 2013年• 2013年• 2013年• 2013年• 2013年• 2012年• 2012年• 2012年• 2012年• 2012年• 2012年• 2012年• 2012年• 2012年• 2012年• 2012年• 2012年• 2012年• 2011年• 2011年• 2011年• 2011年• 2011年• 2011年• 2011年• 2011年• 2011年• 2011年• 2011年• 2011年• 2010年• 2010年• 2010年• 2010年 METライブビューイング2018-19 プーランク「カルメル会修道女の対話」• 作品トップ• 映画館を探す• 予告編・動画• インタビュー• ニュース• 「WAVES ウェイブス」 C 2019 A24 Distribution, LLC. All rights reserved. 「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」 C 2019 Gravier Productions, Inc. 「デスカムトゥルー」 C IZANAGIGAMES, Inc. All rights reserved. 「ドクター・ドリトル」 C 2019 Universal Pictures. All Rights Reserved.

次の

METライブビューイング2018

カルメル 会 修道 女 の 対話

人は何のために祈るのだろうか? 20世紀フランスの作曲家フランシス・プーランク(1899-1963)のオペラ「カルメル会修道女の対話」(1957年初演)は、まさにこの「祈り」が主なテーマとなっている。 つい先頃、ニューヨークのメトロポリタン・オペラ(=愛称MET)で上演された舞台(ヤニック・ネゼ=セガン指揮、ジョン・デクスター演出、2019年5月11日)が、「METライブビューイング」として全国各地の映画館でも上映され、私も久しぶりにこの作品に接することができた。 物語は比較的わかりやすい。 1789年のフランス大革命の頃。 デリケートな内面を持つ貴族の娘ブランシュは、世を避け、厳格な戒律で知られるカルメル会に修道女として入り、信仰生活を求めるようになる。 やがて革命政府は聖職者を特権階級とみなして破壊・略奪し始め、カルメル会の修道女たちは逮捕される。 台本は作家のジョルジュ・ベルナノス。 礼拝堂を追い出され、平服となった修道女たち。 死刑を宣告され、群衆に囲まれた中、聖歌を歌いながら一人ずつギロチンにかけられていく c Ken Howard/Metropolitan Opera 彼女たちのセリフには、こんな言葉が出てくる。 「あの修道女たちは一体何の役に立っているのか、と人々は言うでしょう。 それも無理からぬことです。 この修道会は苦行したり徳を守るための場ではありません。 ここは祈りの場であり、祈りだけが私たちの存在を正当化するのです。 祈りを信じない人は、私たちを詐欺師か、寄生虫のように思うでしょう。 神の存在が普遍的であるならば、祈りもそうではありませんか? どの祈りも、たとえ羊の群れを守る牧童の祈りであっても、それは人類の祈りなのです」(クロワシー修道院長) 寄生虫、という言葉は心に突き刺さる。 それは修道女たちだけの問題ではない。 「一体何の役に立っているのか」と世間から思われるようなすべての芸術や文化についても、それは置き換えられるだろう。 祈りなんて必要ないじゃないか。 何の役にも立たないくせに。 世間からそのように胡散臭く見られていることに、修道女たちはとても敏感である。 なぜ私たちはここにいるのか。 彼女たちは決して修道院の中の儀式的世界に安住しているのではなく、騒乱と不安の世の中において、自分たちのやっていることの意味を繰り返し問うている。 そんな修道女たちの対話に共感してしまう人は、案外多いのではないだろうか。 この立派なクロワシー修道院長(カリタ・マッティラ、鬼気迫る演技だった)は、重病に冒されている。 新入りの若い修道女ブランシュ(イザベル・レナード、歌も姿も繊細で美しい)を自分の娘のように気遣いながら、苦痛のなかで錯乱し、ついにこんな言葉さえ口走ってしまう。 「哀れな私なのに、こんなときに神のことを考えてどうなるというのです。 神の方にこそ、私のことを考えて欲しいわ!」 貴族の娘で繊細な感受性をもつ若い修道女ブランシュ(イザベル・レナード)らが祈りを捧げるシーン c Ken Howard/Metropolitan Opera 立派な人格者で何十年も信仰生活を続けてきたクロワシー修道院長は、苦悶にのたうち、死の恐怖におののきながら、惨めな最期を遂げる。 どんなに高潔な精神も、肉体の痛みの前には、こんなにも脆いものかと、見せつけられるようなシーンである。 ブランシュの親友となった若い修道女コンスタンス(エリン・モーリー)は、奇妙な洞察力を持っていて、この修道院長の壮絶な死について、こんな独特の見方を述べる。 「院長様があれほど苦しんで、後味の悪い亡くなり方をされるとは、誰が予想したでしょう。 まるで神が死を与える相手をお間違えになったようだわ。 そうよ、あれは他人の死だったに違いない。 だから院長様は他人の服みたいに、袖を通すことができなかった。 …人はそれぞれが自分の死を迎えるのではなく、互いのために死を迎えるの。 だから他の人の代わりに亡くなることだって、あるんじゃないかしら」 これは「死の哲学」だ。 自分の死を死ぬのではなく、他人の死を死ぬこともある…不思議な説得力を感じさせる部分である。 修道女たちのなかで最も気が強く厳しい性格で、ブランシュを叱咤激励するマザー・マリー(カレン・カーギル)も、興味深いことを言っている。 「高慢に勝つ方法はただ一つ。 高慢よりも高いところに昇ることです。 誇り高くありなさい」 「不幸なのは他人から軽蔑されることではなく、自分自身を軽蔑することだけなのです」 これは、誰にとっても励ましとなる言葉ではないだろうか。 自分のやっていることは無意味なのではないか、自分は本当は馬鹿にされてもしょうがない、卑しい人間なのではないか。 ついそう思ってしまうすべての人にとって。 この誇り高さは、プーランクの音楽にも反映されていて、大聖堂の柱のように決然とした響きが随所に出てくるのは、おそらくこの誇りと関係がある。 プーランクの音楽でもうひとつ大事なのは、この誇り高さとともに、甘い優しさ、うっとりさせられるような響きがあるところだ。 ネゼ=セガンの指揮するメトロポリタン・オペラのオーケストラは、こうした甘い音色や、ダイナミックで厚みのある響きにおいて、見事な迫力があった。 ヴィブラートの大きい、深く揺れるような歌い方の合唱も、METならではの説得力があった。 祈りを終えた修道女たちが、大地に口づけするように全員がうつぶせになり、腕を広げると、十字架のなかに天使が羽ばたいているように見える。 宗教的法悦と、性的法悦は、美術の世界でもよく似ているということが言われる。 プーランクの音楽が真にフランス的だと思えるのは、その奥義にもっとも近づいた官能的な美を、とろけるような甘さを、敬虔さの中に含んでいるからである。 こうしたプーランクの音楽に匹敵するものを、当時のフランスの美術に求めるならば、ジョルジュ・ルオーの絵が挙げられると思う。 戦争と騒乱の時代にあって、ひたむきに聖書に基づく絵のなかに朴訥で心に染み入るような優しさと愛を込めていたルオーの精神と、プーランクの祈りの音楽は、一脈通じるものがある。 どちらも、心の真ん中に、ポッと明かりが灯される感覚がある。 その新しさと大切さは、時代の残酷さとの対比において考えてみれば、よりはっきりする。 このオペラのラストシーンは、誰しもが戦慄せずにはいられない。 ただひとつ言えることは、祈りが人を強くする、穏やかにする、美しくする、ということだ。 今回の上演を観ていて改めて思ったのは、この修道女たちは、さまざまな意見の違いやすれ違いを克服しながら、決して強制されることのない、一人でも反対者がいれば犠牲を強要することのない、やわらかい友愛の共同体を作っていたということである。 祈りもまた、彼女たちなりの戦いなのだ。 ラストシーンで、ギロチンで修道女たちが首を一人一人はねられ、聖歌をうたう声が一人また一人と途絶えていくのを、観客は息を詰めて見守ることになる。 それは、優しさの連帯が、愛が、死の恐怖に対して打ち勝つ瞬間を見届けるということでもある。 この世でもっとも美しいものを見せてもらったという感覚、それがこのオペラを観終わっての余韻である。 20世紀フランスの文化と芸術に関心のあるすべての人が、「カルメル会修道女の対話」を体験されることを、願ってやまない。

次の

祈りの本質とは何か~プーランクのオペラ「カルメル会修道女の対話」

カルメル 会 修道 女 の 対話

ランチを済ませ、広場ので時間調整をしてから東劇へ。 14時半からメトロポリタン・オペラのライブビューイング、今シーズン最後の「」。 めったに上演されない地味な作品という認識だったのだけれど、なトがものすごく強くて、最後はもう涙が止まらなかった。 期の恐怖政治のもと、反政策の犠牲となって修道女たちが処刑された史実に基づく作品。 の「ダントンの死」を. TVで観たときにも、革命という名分をかざした狂気と暴力でしかないという印象を抱いたのだけれど、ダントンは実際に反主流派として活動していたわけだからその処刑には理由があるとも言えるのに対し、革命政府が修道女たちに突きつけた処刑の理由は単なるこじつけにしか聞こえず、彼女たちが何をしたっていうのよー、と憤りさえ感じて、ってひどすぎない? なんてことまで思ってしまった。 処刑の場面は、史実のとおりギロチン台を使って描かれることが多いようだけれど、今回の演出では銃殺で、修道女たちがひとりひとり、暴徒と化した民衆に囲まれる中、自ら歩いて刑場に向かい、姿が消える都度、音楽に混じって銃声が鳴り響く(後日の追記:どうやら私の勘違いで、私には銃声に聞こえたんだけど、ギロチン台の音だったらしい。 私の耳、大丈夫か???)。 この場面、「元禄」の「大石最後の一日」で、仇討ちを果たしたたちがを命じられ、ひとりずつ花道に消えていくのと重なった。 彼らは思いを遂げて晴れ晴れと死に向かうのだから、修道女たちとはまったく違うのだけれど。 そんな凄惨な悲劇として終わるこの作品、冒頭には、30年以上も神に仕えてきた長が病苦に苛まれ、神に対する呪いの言葉さえ口にして、錯乱の末「死の恐怖!」と叫んで死んでいく。 この長を演じたカリタ・マッティラの鬼気迫る演技が素晴らしかった。 結果的にひとりだけ処刑を免れた副長に対し、それが神の意思だと司祭が諭す場面があり、実際にこの生き残ったひとりが処刑の経緯を書き遺し、史実として伝える役割を担った点も、のと同じなのよねぇ。 主人公は革命の嵐の中で敵対視されていた貴族の娘で、様々に苦悩しながら、最後には、自分は処刑の宣告を受けていないのに、自ら処刑の列に連なっていく。 演じたのはイザベル・レナート。 美しかった。 いろんな意味でトがものすごく強かったこの作品、演出が異なる他のプロダクションも観てみたいなぁ。 今シーズンはこれで終わりなのが寂しいけれど、来シーズンのラインアップがすでに発表されていて、まだ観たことがない作品がいくつかあるので楽しみ。 maru99.

次の