マニフェスト ディスティニー。 【マニフェスト・デスティニーとはなにか】影響から具体例まで解説|リベラルアーツガイド

【マニフェスト・デスティニーとはなにか】影響から具体例まで解説|リベラルアーツガイド

マニフェスト ディスティニー

アメリカ合衆国の拡大 (米英戦争:より) 1783年、独立戦争で勝利したアメリカ合衆国は パリ条約を結びイギリスから独立を果たします。 その時、 アメリカはイギリスからミシシッピ以東のルイジアナを得ました。 以後、アメリカは領土を徐々に拡大します。 1803年、3代大統領のジェファソンの時代に ミシシッピ以西のルイジアナをフランスから買収することで領土を西に広げました。 ヨーロッパでフランス革命が始まると、アメリカは中立を宣言します。 1812年、アメリカはイギリスがアメリカとヨーロッパの貿易を妨げているとしてイギリスに宣戦布告。 米英戦争が始まりました。 米英戦争はナポレオンの没落まで続きます。 また、第5代大統領 モンローの時代にスペインからフロリダを買収しました。 モンローは、ヨーロッパに介入しない代わりにヨーロッパからのアメリカ介入を拒否するとする モンロー教書を発表し 孤立主義の立場をとります。 1845年、メキシコ領テキサスに入植したアメリカ系住民の要求にこたえてテキサスを併合します。 さらに1846年におきた米墨戦争に勝利したアメリカはカリフォルニアを併合します。 これで、アメリカの領土は太平洋沿岸にまで達しました。 アメリカの領土拡大と西部開拓は神から与えられた使命であるとする考え方です。 この考え方に従いアメリカ人たちは西部開拓を進め西部に移住する西漸運動を行いました。 先住民族であるインディアンと戦いながら、アメリカの白人たちは西部の フロンティアを開拓します。 白人に敗れ土地を失ったインディアンはアメリカ南西部の居留地に強制的に移住させられました。 特に チェロキー族の強制移住は「 涙の旅路」とよばれます。 アメリカ人の西部開拓は 1848年にカリフォルニアで金が見つかったというニュースが伝わると、アメリカ各地から人々がカリフォルニアに押し寄せます。 このことを ゴールドラッシュといいました。 南北の対立 (アンクルトムの小屋:より) 19世紀後半に入ると、アメリカの 南部と北部と対立が深まりつつありました。 商工業を中心とする北部は奴隷制に反対し、 国内産業を育てるための保護貿易を主張しました。 また、強い連邦政府を支持します。 一方、綿花の輸出に頼る南部は農業中心でイギリスなどの綿花を必要としている国と自由に貿易したいと考えます。 大農園を維持するには奴隷制の プランテーションは必要。 そのため、奴隷制に賛成します。 また、州の自治を重視する州権主義の考えを主張します。 奴隷をめぐっては 1820年にミズーリ協定が結ばれていました。 この協定では北緯36度30分以北には奴隷州を認めないと定めます。 ところが、1854年にできた カンザス・ネブラスカ法では自由州とするか奴隷州とするかは住民の意志に任せるとされ、ミズーリ協定が破棄されてしまいます。 この状況に危機感を持った奴隷制反対論者は1854年に共和党を結成しました。 南北戦争の始まり (リンカーン:より) 1861年、奴隷制反対を主張していた共和党から出馬した リンカンが大統領選挙に勝利しました。 アメリカ合衆国の維持を考えるリンカンは 南部との対決を決意します。 ここに、アメリカ史上最大の内戦である南北戦争が始まりました。 戦いは南部の優秀な将軍の活躍もあり、一進一退を繰り返しました。 リンカンは西部諸州を味方にするためホームステッド法を制定します。 ミシシッピ川以西に一家で移住し5年間定住した場合は160エーカーの土地を与えるとした法律でした。 開拓により無償で土地が手に入る ホームステッド法の制定で西部諸州は一気にリンカン支持へと傾きました。 1863年、南軍と北軍はゲティスバーグで激突。 この戦いで北軍が勝利し戦局は北軍優位へと傾きました。 戦闘後、ゲティスバーグを訪れたリンカンはゲティスバーグの演説で 「人民の、人民による、人民のための政治」を訴えます。 また、リンカンはイギリスなどが南北戦争に介入できなくなるよう、奴隷解放宣言を発表し戦争の大義名分を明らかにしました。 イギリスは国内の奴隷制反対の声を重視し、 南北戦争への介入を控えます。 1865年、北軍は南部の首都であるリッチモンドを制圧。 南軍のリー将軍を降伏させ戦争を終結させました。 南北戦争後のアメリカ (大陸横断鉄道開通式:より) 1865年、南北戦争を勝利に導いたリンカンは暗殺されてしまいました。 しかし、戦争を終わらせたアメリカは持っている力を 経済成長へと振り向けます。 1867年にロシアからアラスカを購入し領土を拡大。 1869年には大陸横断鉄道を開通させ、大陸の東西にわたる大動脈を作り上げます。 ちなみに、 大陸横断鉄道開通の労働力として活躍したのが中国系移民でした。 大陸横断鉄道の開通により西部開拓は一気に進みます。 1890年、フロンティアの消滅宣言がなされ西部開拓が終わりました。 以後、アメリカは海外に積極的に進出します。 今回のまとめ 19世紀、アメリカは西へと拡大する時代でした。 インディアンとの戦いを制し領土を拡大したアメリカですが、南部と北部の対立が激しくなり南北戦争へと突入します。 北部のリンカンが勝利することでアメリカ合衆国の統一は維持され、大国アメリカの礎が築かれました。 リンカンが南北戦争中行ったことは受験頻出なのでしっかり覚えましょう。 次の記事 (生徒による私の似顔絵…似てない…) こんにちは。 emitaと言います。 現役の某私立高校で教員をしております。 現役中高生のみならず学び直しをしたい大人の方々のために教育系ブログをはじめました。 このブログを通じてみなさんの学力が上がれば嬉しいです。 疑問・質問は。 詳しいプロフィールは• 教師になった経緯は• 好きな言葉:継続は力なり• 趣味:読書、問題研究、ランニング カテゴリー• 記事の更新日.

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西漸運動

マニフェスト ディスティニー

1840年代のアメリカの対外領土獲得を正当化するスローガンとして登場し、それ以降、西部への膨張主義を推進する国家のイデオロギーとなった思想です。 上記のような説明はマニフェスト・デスティニーの概要を示していますが、ここでストップするともったいないです。 この思想は宗教的な観念と結びつきながら、アメリカ史における多様な出来事と関わってきたからです。 つまり、上記の概要からもう一歩理解を深めると、 アメリカという国家の全体像をつかむきっかけになります。 そこで、この記事では、• マニフェスト・デスティニーの起源• マニフェスト・デスティニーの特徴• マニフェスト・デスティニーの影響や問題点 をそれぞれを解説します。 興味のある箇所から読んで、あなたの学びに活用してください。 アジア主義に関しては、次の記事で詳しく解説してます。 日本の事例ですので、より理解しやすいと思います。 1-1-1: ジョン・オサリヴァン そして、 アメリカが西部への拡張をもくろむ1840年代、膨張主義者によって説かれたのが「マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny)」でした。 「マニフェスト・デスティニー」は日本語でしばしば「明白な運命」といわれたりします。 「マニフェスト・デスティニー」を初めて説いたのは、ジョン・オサリヴァン(John L. 彼は1845年の『デモクラティック・レビュー』において、以下のような主張をしました。 アメリカの西部拡大は、神に与えられた使命である• 神によって与えられた土地を拡大し、自由と連邦制に基づく統治をする必要がある• つまり、を拡大することがアメリカ人に与えられた使命である 「マニフェスト・デスティニー」を思想的な支柱としたアメリカは、テキサスの併合や米墨戦争を経て西部の広大な土地を獲得していきました。 (*具体的な歴史展開は2章で解説します) 1-2: マニフェスト・デスティニーの起源 さて、 マニフェスト・デスティニーは1840年代に突如現れたものではなく、似たような表現が歴史的に使われてきました。 特に、「アメリカ人は神によって卓越した国家を建設するという使命が与えられている」という思想は18世紀の後半から繰り返し説かれています。 そのようなマニフェスト・デスティニーの起源について、解説していきます。 1-2-1: 同一の表現 マニフェスト・デスティニーに似た表現は、歴史的にいくつかあります。 たとえば、• ジョン・ダムスは人類の啓蒙と解放とためにアメリカの植民の必要性を説く• 1781年の連合規約にはカナダの領土的併合が規定されており、トーマス・ジェファーソンらは「自由のための帝国」や「大陸的帝国」という思想を提示した といった歴史があります。 このように、 アメリカ人は神によって卓越した国家を建設する使命が与えられているという「マニフェスト・デスティニー」の観念は、18世紀の後半には登場していたのです。 1-2-3: 宗教的な観念:ピューリタリン 「マニフェスト・デスティニー」は神を引き合いに出して、運命が神によって決定されることを説きます。 そのため、 「マニフェスト・デスティニー」は本来宗教的な観念であるといえます。 そもそも、アメリカは 「宗教市場の自由化(教会設立の自由や教会間の競争)」が求められた土地であり、この「宗教市場の自由化」がイギリスではできないと考えた人びと(ピューリタン)が移住して作った国でもあります。 この思想はピューリタリンによって設立された、ニューイングランド植民地において明確に表現されています。 ピューリタリンの思想の特徴• ピューリタリン達はアメリカを教会と社会の改革の地として考えていた• ピューリタリンは宗教的な迫害からの新世界へ逃走したのではなく、模範的なキリスト社会を作るための事業と考えていた• つまり、神の導きのもとに新世界を開拓し、その事業は神の恩寵を拡大するものとピューリタリンは自覚していた このように、ピューリタリン思想の根底にはマニフェスト・デスティニーと同じ宗教的な観念の存在をみることができます。 しかし、ピューリタリンの思想は短絡的にマニフェスト・デスティニーと繋がるわけではありません。 それは 自由と独立を求めた独立戦争を経て、ピューリタリンの思想はより世俗的に変容したからです。 詳細な内容にはここで触れませんが、 ピューリタリンの宗教的自覚にはマニフェスト・デスティニーの芽生えを見出すことができることを覚えておきましょう。 の拡大…人民の代表による政治体制。 つまり、民主主義の実現と共和政国家を目標にしたもの。 それは本質的に君主制のヨーロッパとは異なる政治体制である• 連邦制の採用…連邦制はアメリカ政治政治制度を同質的に拡大するための政治的措置として採用された• 民主主義の使命…自由と平等を大原則とするを大陸的規模で拡大する使命• アングロサクソン主義…アメリカ植民地はイギリス人によって経営され、独立も彼によって成された。 イギリス系アメリカ人が求めた、自由と平等の限りない発展が中心にあること忘れてはいけない。 マニフェスト・デスティニーは上のような構成要素から、 膨張主義的感情を駆り立てる役割を担いました。 政治的にいえば、「」と密接な関係をもった思想であったといえます。 事実、マニフェスト・デスティニーの実現に民主党大統領のポークの存在は不可欠でした。 ここで紹介できなかった内容が多くありますので、詳細な議論を知りたい方はぜひ読んでみてください。 テキサスが併合される歴史的な展開• 1821年スペインから独立したメキシコは、現在のアメリカ南西部を自国の領土とする• メキシコ政府は1820年代から条件付き(カトリックへの改宗、メキシコ憲法と法令の遵守、国境付近への入植禁止)で、アメリカ人入植者を受け入れ始める• しかしアメリカ人入植者はメキシコ政府との取り決めを無視し、対立を生んでいった• 1830年までにアメリカ人の移民が禁止されるが、入植者数は急増し、1835年にはアメリカ人人口約3万人に対して、メキシコ人人口約7800人となる• 入植したアメリカ人はテキサスを強行的に独立させようという運動が高まり、1835年に一方的にテキサスの独立を宣言した 一方的なテキサスの独立宣言に対して、メキシコ政府のサンタアナ大統領は軍を率いてテキサスを襲撃します。 これは 「アラモの砦」での闘いです。 「アラモの砦」は1899年の米西戦争の原因となった「メイン号爆破事件」、太平洋戦争のきっかけとなった「真珠湾攻撃」とあわせて、 アメリカ史史上の三大屈辱事件として有名です。 結論からいえば、テキサス独立派がサンタアナ大統領を捕虜として確保すると、1836年テキサス共和国と独立をします。 そして、1845年にアメリカに併合され、28番目の州となりました。 しかし、これは アメリカの膨張主義のきっかけにすぎませんでした。 アングロ系のアメリカ人が獲得を目指した土地の大部分は、メキシコに領有権があり、インディアンやメキシコ人が少数ですが居住していました。 これらの土地は 人口が少なくメキシコ政府の統治力が弱かったため、領土拡大の標的とされたのです。 米墨戦争の展開は以下の通りです。 米墨戦争の展開• 1846年、南西部の獲得を試みるアメリカ軍はメキシコとの係争地域であるヌエセス川とリオグランデに突如進出をする• メキシコ軍は自衛のため戦争を余儀なくされ、アメリカ軍に対する攻撃を加える• 14人の死者と7人の負傷者が出たこと理由にアメリカは宣戦布告をおこない、米墨戦争が開始された• 1847年までにメキシコ政府は内政が混乱に陥ったこともあり、不政府状態となり戦争の続行は不可能となったが、多くの領土獲得を狙うアメリカ合衆国は戦争を継続、1848年に米墨戦争の結果としてようやくグアダルーペ・イダルゴ条約が締結された• 38-57)。 このように、 領土拡大はアメリカ合衆国の帝国主義的な姿勢を象徴する出来事でした。 テキサス併合と米墨戦争について、またはその影響について詳しく知りたい方は、まず明石書店の「知るためのシリーズ」を読んでみてください。

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【世界史B】受験に役立つヨーロッパ史(アメリカ南北戦争)【近現代編その6】

マニフェスト ディスティニー

アメリカ映画でよく、世界の趨勢を決するヒーローが出てくるけどこれって何なんだろう・・・という謎があったけど、・ディティニーに基づくものだったんだね・・・。 がラフ・ライダーズを率いてのスペイン軍と戦うのも、後のアメリカ的ヒーローの原型になっている気がする。 特に、ヒーローになる前に、娘の出産によって妻を失い、同日に母も亡くした衝撃で農場を買って引きこもったりするところが、ドラマのあるべき姿を決めた感がある。 ・ディスティニーに勝つために日本はの世界最終戦論を生み出したけど、やっぱり完全に同じ神授論的地平だと、存在しない神と、実在する人間が神だった場合、存在しない方が何となく強かったのかもしれない。 神(摂理)がに、全体で共和制(偉大な自由の実験)を広げる使命を与えたと考えた。 明白な使命は道徳的な考え(高い法)であり、や調停を含めその他の考慮事項を超越すべきと信じた。 1872年に描かれた「アメリカの進歩」。 女神の右手にはと電信線が抱えられており、合衆国が西部を「文明化」という名の下に征服しようとする様子を象徴している。 背後には1869年に開通したも見える。 文明は、・ローマからイギリスへ移動し、そして大西洋を渡ってアメリカ大陸へと移り、さらに西に向かいアジア大陸へと地球を一周する」という、いわゆる「文明の西漸説」に基づいたアメリカ的文明観 oror.

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