前田 利久。 慶次と前田利久の 絆を描いた原作の名シーン、 「月と涙と・・・」リーチ

前田利久

前田 利久

前田利久 時代 - 生誕 不詳 死没 15年()? 養子に 慶次。 生涯 [編集 ] 荒子城主・のとして誕生。 3年()、父・利春が死去したため家督を継ぎ当主となる。 利久には子がいなかったため弟の娘を養女とし、その婿に自身の妻の甥(弟とも)とされるを迎え養子とした。 永禄12年()、主君・の命により家督を弟のに譲る。 理由は利久に実子がなく、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったからだという(村井重頼覚書)。 この一件により、利家との仲が不和になったといわれ(後に和解したとされる)、利久の妻も前田家代々の家宝を渡すまいと抵抗したと伝わる。 また、利久の重臣である荒子城代のも荒子城の明け渡しを拒絶したが、主命で退去を命じられている。 その後は剃髪して蔵人入道と呼ばれ、11年()からは利家に仕え、その領地である七尾に移り、7千石を与えられる。 利家が不在の時にはを代任するなどした。 15年()、死去(没という説もある)。

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前田氏 - Reichsarchiv ~世界帝王事典~

前田 利久

1552年、尾張下四郡を支配する織田大和守家 清洲織田氏 の 主・ と、織田信長とが戦った萱津の戦いで初陣。 首級を挙げる戦功を挙げた。 「肝に毛のはえた奴だ」と織田信長も称賛している。 その後、元服して前田又左衞門利家と名乗っている。 前田又四郎、前田孫四郎とも? 若い頃の前田利家は武具は三間半 6. 3m もの長槍を駆使し、槍の又左衞門、槍の又左などの異名をもって呼ばれてた。 しかし、血気盛んな年頃であった為に、苦難の日々を送ったのも、この頃であった。 なお、織田信長とは衆道 同性愛 の関係にあったことが加賀藩の資料「亜相公御夜話」にて「鶴の汁の話 織田信長に若い頃は愛人であったことを武功の宴会で披露され皆に羨ましがられた時の逸話 」として残されている。 前田利家は容姿端麗だったようだ。 1556年、織田信長と織田信勝が織田家の家督を争った では、宮井勘兵衛なる小姓頭に右目下を矢で射抜かれながらも、相手を討ち取るという功績を上げる。 100貫が加増され、少年・村井長頼を召し抱えた。 1558年、尾張上四郡を支配者である岩倉城主・織田信安 岩倉織田氏 の息子・織田信賢との争いである浮野の戦いにも従軍し功積を挙げた。 この年、前田利家 22歳 は、まつ 12歳 と結婚。 容姿は美しく、快活で社交的、おまけに読み書き、そろばん、和歌、武芸などをたしなむ才色兼備の女性だった。 また、永禄初年頃に新設された、織田信長の直属部隊である赤と黒の母衣衆の赤母衣衆筆頭に前田利家は抜擢され、多くの与力を添えられた。 1559年、まつとの間に長女・幸姫が誕生したこの歳、前田利家は織田信長の異母弟で雑用を務める同朋衆の拾阿弥を、織田信長の目の前で斬殺し、織田家から追放された。 当初、処刑されるとみられたが、 や らが織田信長に助命嘆願した為、出仕停止処分に減罰され、前田利家は諸国を放浪する 暮らしとなったのである。 浪人中は、松倉城主・坪内利定の庇護を受けたとされるが、良く分かっていない。 1560年、出仕停止は解除されていなかったが、無断で に参加。 朝の合戦で首1つ、本戦で2つの計3つの首を挙げる功績を挙げたが、織田信長は帰参を許さなかった。 1561年、斉藤義龍との森部の戦いにも無断参戦。 斎藤家重臣・日比野下野守の家来で「頸取足立」の異名を持つ猛将・足立六兵衛なる豪傑を討ち取る功績を挙げた他にも首級1つを挙げている。 2つの首級を持参して織田信長に拝謁すると、今度は帰参が認められ300貫 一説に450貫文 の加増を受けて、ようやく織田家に復帰し、織田信長の領土拡大に貢献して行った。 1562年1月、長男・ 初代加賀藩主 が誕生。 1563年、次女・蕭姫 中川光重の正室 が誕生。 浪人中の1560年に父・前田利春 前田利昌 が死去した為、前田家の家督は長兄・前田利久が継いでいたが、1569年、織田信長は、前田利家に兄に代わって前田家の家督を継ぐように命じた。 理由は前田利久に実子がなく、病弱のため「武者道少御無沙汰」の状態にあったから、器量に欠ける前田利久より武勇に優れた前田利家を荒子城主に据えた方が良いからとされている。 前田家の重臣・ も荒子城の明け渡しを拒絶したが、主命で退去を命じられている。 前田利久の継室の甥?で、養子に入っていた 、前田利益 も、前田利久らと共に荒子を去った。 前田利家は荒子衆を家臣に抱え、知行合計2450貫となった。 城下に住んでいた頃は、屋敷の塀を隔てた隣に 夫妻が住んでおり、ねねとまつは毎日のようにどちらかの屋敷で話し込んでいたという。 1570年4月、浅井氏・朝倉氏との では、退却する織田信長の警護を担当し、三段崎勘右衛門 みたざき-かんえもん を討ち取ったと言われています 同年6月の では浅井助七郎なる者を討ち取る功績を挙げ「日本無双の槍」と称えられた。 同年1570年9月には との間に起こった春日井堤の戦いでは、春日井堤を退却する味方の中で、ただひとり踏みとどまって敵を倒す功績を挙げている。 1573年、三女・摩阿姫 の側室、後に万里小路充房の正室 が誕生。 この頃から、 ・野々村正成・ ・ らと共に鉄砲奉行としての参戦が見受けられる。 1573年9月の の戦い、1574年7月の 、1575年5月、 との では追撃戦で、敵将・弓削左衛門と太刀打ちして深傷を負ったが、家臣の村井長頼に救出され、弓削の首級を挙げた。 1573年11月24日、母・長齢院が荒子城にて死去。 1574年、四女・ が誕生。 豪姫は幼少の頃に、子がいなかった豊臣秀吉夫婦の養女となり、豊臣家で養育され、のち の正室となっている。 1574年からは柴田勝家の与力となり、越前にて一向一揆の鎮圧に従事。 翌年に越前一向一揆を平定すると、佐々成政・ とともに府中10万石を与えられ「府中三人衆」と呼ばれた。 越前国平定後は、柴田勝家の与力として佐々成政らと共に と戦うなど北陸地方の戦闘に従事したが、織田信長の命により の摂津・ 攻め 有岡城の戦い や、 らの播磨・三木城攻め 三木合戦 にも参加している。 1581年、能登の所領を得ると、前田利家は最初、羽咋・ 鳥毛山砦 に入ります。 しかし、水の便が悪く、 に移りました、 そのあと、前田利家 44歳 は織田信長より能登一国23万石を与えられて、 主となったのです。 翌年1582年、難攻不落の七尾城を廃城とし、 を築城開始した。 下記は、小丸山城跡にある前田利家松子之像。 1582年6月、 により で織田信長が横死した際には、前田利家は柴田勝家に従って の越中・ を攻略中であり、 に加わることができなかった。 6月27日に織田家の後継人事などを話し合う では、羽柴秀吉 豊臣秀吉 と柴田勝家が対立すると、前田利家は柴田勝家の与力と言う事もあり、そのまま柴田勝家に味方したが旧交ある豊臣秀吉との関係にも苦しんだとされる。 1582年11月、柴田勝家の命を受けて ・不破勝光とともに山城・ 城 現 府大 町 にいた豊臣秀吉と一時的な和議の交渉を行っている。 1583年4月、 で前田利家は5000を率いて柴田勢として布陣したが、 が敗走した為、かねてからの豊臣秀吉の誘いを受ける判断をし、前田利家は合戦中に突然撤退。 その為、柴田勢は総崩れとなり羽柴勢 豊臣勢 の勝利となった。 佐久間盛政が敗れていなければ、そのまま豊臣秀吉勢の砦を攻めていたと考えられる。 前田利家は 現福井県武生市 に籠城したが、敗北して へ逃れる途中の柴田勝家が立ち寄ったとされる。 柴田勝家はこれまでの労をねぎらい、前田利家に湯漬けを所望したという逸話が残っている。 また、柴田勝家は人質の三女・麻阿 まあ を前田利家に無事に帰している。 その後、府中城に使者として遣わされた の勧告に従って前田利家は豊臣秀吉に降伏し、北ノ庄城攻めの先鋒となった。 柴田勝家は と自刃。 茶々 ・ ・お豪の浅井三姉妹は豊臣秀吉を頼った。 戦後は本領安堵だけでなく、佐久間盛政の旧領・加賀国のうち二郡を豊臣秀吉から加増され、本拠地を能登の小丸山城から加賀の尾山城 のちの に移した。 この時、兄・前田利久と前田慶次郎 前田利益 を迎えて、前田利久に2000石、前田慶次郎に5000石を与えている。 1584年、豊臣秀吉と ・ の連合軍が となった際、北陸でも徳川家に味方した佐々成政が加賀・能登国に侵攻。 これを豊臣勢として前田利家は2500の手勢で、15000の佐々成政の背後を突いて に入り佐々成政を撃退した 能登・末森城の戦い。 4月9日に で豊臣秀吉が敗れたあとも、北陸では戦線が膠着状態となったが、前田利家は と共に北陸を守り抜いた。 その後、前田利家は、加賀と越中の国境にある荒山砦・勝山砦を攻略し、越中へも攻め込んだ。 9月19日に、豊臣秀吉より一連の戦勝を賀されている。 佐々成政との戦いは翌年までもつれ込み、その間に前田利家は豊臣に臣従した上杉景勝に協力を仰ぎ、越中国境まで進出させたり、佐々成政の配下に加わっていた越中国衆・菊池武勝を調略するなどして越中を攻撃した。 1585年、摩阿姫が豊臣秀吉の側室となり「加賀殿」と呼ばれるようになった。 1585年3月、豊臣秀吉が を鎮圧。 6月には弟・ を大将として黒田官兵衛らを四国へ派遣して を攻め、四国を平定。 1585年8月、関白に就任した豊臣秀吉は織田信雄、 、 、 、金森長近、蜂屋頼隆、 、 、 、 、 、 、中村一氏、 、 、 、 、上杉景勝ら10万の大軍で佐々成政が籠城する を包囲。 前田利家は10000を率いて先導した。 佐々成政に協力した、飛騨の姉小路頼綱も、金森長近率いる別働隊によって征伐され、佐々成政は織田信雄の仲介で降伏。 領土没収も命は助命され 下で豊臣秀吉のお伽衆になった。 論功行賞では前田利家の嫡子・前田利長は越中4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増された。 また、越前の丹羽長秀が没すると丹羽家は国替えとなり、前田利家に加賀・越前・能登の3カ国「加賀百万石」として北陸の覇者となり君臨した。 下記は、金沢城に隣接するの境内にある、前田利家の騎馬像。 晩年は豊臣家になくてはならない重要な存在に 1585年、前田利家は羽柴性 名字 を賜り、筑前守・左近衛権少将に任官。 1586年以降、前田利家とまつは上洛して、豊臣秀吉の側近として大阪城下で仕えた。 1586年の九州征伐の際には、前田利長が九州へ従軍したが、前田利家は8000を率いて畿内まで進出し後方警戒をした。 1588年には豊臣姓 本姓 をも下賜されている。 1590年1月21日には参議に任じられ、豊臣秀吉が主催した北野大茶会や の 行幸にも陪席。 晩年の徳川秀吉に意見できる、数少ない人物であった。 一行に臣従しない を攻める為の では、北国勢の総指揮として上杉景勝・ らと共に を越えて関東に入り松井田城を攻略。 続いて ・ などを攻略した。 が小田原に出向いた際には、前田利家らが尋問している。 小田原落城後には、奥羽へ軍を進めた。 豊臣秀吉は8月に帰陣の途についたが、前田利家らは残って奥羽の鎮圧に努めている。 1591年8月、朝鮮出兵に向けて九州・名護屋城の築城が開始され、1592年3月16日に前田利家は諸将に先んじて8000を率いて京を出陣し名護屋に向かった。 この時、嫡子・前田利長は京に残っている。 当初、豊臣秀吉は自ら渡海するつもりであったが、前田利家と徳川家康が説得して思い止まらせている。 豊臣秀吉が母・ の危篤により約3カ月間、大阪城に戻っていた際には、名護屋にて前田利家と徳川家康が諸将を指揮した。 1593年1月には、前田利家にも渡海の命が出たが、間もなく明との講和の動きが進み、結局は朝鮮に渡る事は無かった。 5月15日、明使が名護屋に到着すると、徳川家康・前田利家の邸宅がその宿舎とされている。 8月、 が誕生すると、豊臣秀吉は大坂城に戻ったが、前田利家も続いて退陣し、11月に金沢城に帰城した。 このとき、まつの侍女である千代の方との間に生まれた子供が猿千代、のちの第3代・加賀藩主の前田利常である。 猿千代については、豊臣秀吉の隠し子という説もある。 前田利家の次男・前田利政が元服すると、前田利政が能登21万石、長男・前田利長が越中3郡32万石、前田利家は北加賀2郡23万5000石で、合計76万5000石を前田利家が統括した。 1594年1月5日、前田利家は、上杉景勝・ と同日に従三位に叙位され、4月7日には2人よりも先に権中納言に任ぜられ、官位で上杉景勝・毛利輝元より上位となった。 1598年になると、豊臣秀吉と共に前田利家も高齢で衰えを見せ始めた。 3月15日、醍醐の花見に正室・まつと列席 摩阿姫も出席 すると、4月20日に嫡子・前田利長に家督を譲って隠居。 湯治のため に赴いた。 この時、隠居料として加賀石川郡・河北郡、越中氷見郡、能登鹿島郡にて計15000石を与えられている。 しかし、実質的には隠居は許されず、草津温泉より戻ると前田利家は、五大老・五奉行の制度を定めた大老の1人に任じられた。 そして1598年8月18日、豊臣秀吉は、前田利家らに嫡子・豊臣秀頼の将来を繰り返し頼んで没した。 1599年、諸大名は に出頭して、豊臣秀頼に年賀の礼を行った。 前田利家も病中ながらも傳役として無理をおして出席し、豊臣秀頼を抱いて着席した。 そして、豊臣秀吉の遺言通り、徳川家康が伏見城に入り、前田利家が豊臣秀頼の補佐として大坂城に入った。 しかし、程なくして徳川家康が無断で、伊達政宗・ ・ ・ らと婚姻政策を進めた為、前田利家は反発し、諸大名が徳川家康・前田利家の両屋敷に集結する騒ぎとなった。 前田利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の 、また武断派の細川忠興・ ・ ・ らが味方したが、1599年2月2日に前田利家を含む四大老・五奉行の9人が、徳川家康と誓紙を交換。 さらに前田利家が徳川家康のもとを訪問して和解した。 この直後、前田利家の病状は悪化し、徳川家康が病気見舞いに訪れている。 この時、前田利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたというエピソードが残されているが、生涯38の戦に参戦した前田利家も、妻・まつに遺書を代筆させ、1599年閏3月3日に大坂の自邸で病死。 享年62。 死因は「腹痛」で苦しんでいたとあるため、胃ガンなどの可能性が高い。 遺言に従い金沢の野田山に葬られた。 朝廷から従一位が追贈されている。 カテゴリー• 126• 762• 111• 108• 128• 115• 113• 208• 162• 156 いつもご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。 各ページのリンク・紹介は自由で報告も不要です。 当サイトに掲載されている写真・画像、その他商品名・番組名などは、各社の商標・登録商標・著作物です。 記載内容は可能な限り事実に基づき、公平になるよう配慮致しておりますが、史料自体の問題などもあり、中には誤認もあるかと存じます。 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マイナー武将列伝・前田利久

前田 利久

2012年5月、新聞に「加賀藩主・前田家墓所の清掃が、有志によって行われた。 」という記事を読み、 前田家墓所の見学に向かう。 その後、6月には「熊出没」のニュースが報じられたが・・・・・・。 平成21年2月12日、野田山の加賀藩主前田家墓所は、富山県高岡市の前田利長墓所とともに国史跡として指定された。 藩祖前田利家の実兄利久 がこの地の山頂近くに葬られたのが、野田山墓地の始まりとされている。 利家以降、歴代藩主とその正室のほんんどは野田山に葬られた。 前田家墓所の周囲には家臣の墓が造られ、のちには町人の墓も立ち並ぶようになり、現在の野田山墓地へと続く。 現在は加賀藩主前田家墓所は成巽閣が管理をしている。 前田家の墓はいずれも土を高く盛り上げた土饅頭形式。 藩主とその正室の墓は四角形の土檀を階段状に重ねた特徴的な外観をしていて、 一見、古墳時代の方墳によく似たものとなっている。 墓の周囲には溝を廻らせて外界と墓域を区画している。 大きさは、利家墓で一辺約19m、他の藩主墓でも一辺約16mと、他藩では類を見ない大規模なものとなっている。 6ヘクタールを測り、墓域内には約80基の墓が建てられている。 藩祖前田利家の墓は前田家墓所内の最も標高の高い一角に築かれていて、 そのすぐ横には利家の正室・まつの墓が、さらにその横には利家とまつの長男で加賀藩前田家2代利長の墓がある。 代々の加賀藩主の多くは野田山の前田家墓所に葬られた。 4代藩主光高と9代藩主重靖は金沢市内の天徳院に葬られたが、昭和20年代に天徳院から野田山へと改葬された。 現在、全ての加賀藩主の墓を野田山の前田家墓所でみることができる。 加賀百万石の礎を築いた忠臣を顕彰する 「亀趺碑 キフヒ 」 亀の上に石碑が乗っている。 駐車場のそば、前田家墓所の手前にある 奥村家の墓所入口に立っている。 亀趺碑は、全体の高さ3. 3m 戦国期の末森城の戦い 1584 などで藩祖利家のために活躍した 奥村永福 1541~1624 の軍功をたたえるため、 1673年 5代藩主綱紀の時代 に建立された。 碑文は綱紀に仕えた儒学者木下順安 1621~98 が記した。 全国の亀趺碑、約250例の中でも4例しかない最古級の形式であることが確認された。 これら4例は「山口重信墓碑」 大阪府東大阪市、1647年 などで1639~52年にかけて建立された。 永福碑はそれから約20年後だが、碑上部に方形の穴を横にうがち、他の4例にはない中国古来の形式をとっている。 亀趺碑とは 亀の形を刻んだ台石 趺 の上に碑を立てた墓碑や顕彰碑。 中国で後漢 25~220年 時代にはじまり、高位高官の墓石にのみ許された。 亀は主君を支える象徴で、身分秩序を重んじた儒教の思想を反映。 日本は江戸時代に始まり大名墓などで採用された。 奥村家は、 加賀八家 の一つ 加賀八家 加賀藩では、元禄3年(1690年)以降、、8つの家柄が藩の重役である年寄衆を代々世襲した。 これを八家といい、家臣の中でも別格の扱いとされ、月交代で藩の執政を担当、重要事項の決定には合議制をしいた。 奥村宗家、奥村支家、本多家、前田家( 土佐守系)、前田家(長種系)、横山家、長家、村井家 の八家。 加賀八家のうち、6家は野田山に墓所があり、その面積は、併せて約14ヘクタールになる。 八家墓所は、前田家墓所をとり囲むように配置され、 北東側には長 ちょう 家、 北側には前田土佐守 とさのかみ 家、奥村(宗)家、横山家、 西側には村井家、奥村(支)家がある。 八家の本多家、前田長種 ながたね 家は金沢市内にあるそれぞれの菩提寺(ぼだいじ)に墓所がある。 天文7年 1538 尾張国荒子城主前田利春公の4男として生まれた。 利家公は14才のときに織田信長に仕え、生涯40回以上の戦いに参加、数々の武勲をあげていた。 なかでも初陣の海津の戦い 1551 、桶狭間、長篠、賤ヶ岳の戦いや末森城 現石川県押水町 の激戦 1584 は有名である。 また、「槍の又左」と異名をとるほど槍の名手であったという。 天正13年 1585 9月、豊臣秀吉から羽柴筑前守の号を譲られている。 秀吉の天下統一の大業は、利家公に負うところが多大であったといわれている。 大名としては、元亀元年 1570 、近江国長浜で1万石を領したのにはじまり、越前府中 福井県武生市 で3万3千石余、ついで能登一国を領有し、加賀国石川河北両郡を秀吉から増封され、 天正11年 1583 4月25日 新暦6月14日 に金沢城 当時は尾山城 に入城した。 利家公が金沢入城と共に加賀藩の時代が始まったのである。 この日を記念して毎年6月14日には封国祭と百万石祭が盛大に行われている。 慶長4年 1599 大阪城で逝去、享年62才。 金沢の尾山神社は公を祭神として祀っている。 説明文 芳春院 、名は 松 、または昌。 天文16年 1547 尾張国海東郡沖の島に生まれる。 同19年利家公の邸に入り、後にその正室となる。 当時利家公は尾張国荒子城主であった。 利家公が戦国時代を生き抜いて百万石の太守に出世したが、その夫人としての芳春院の内助の功は高く評価されている。 関ヶ原合戦の後 利家公の没した翌年 徳川方と加賀藩との融和のために進んで人質となつて、江戸へ送られたのである。 慶長19年 1614 までの15年の長い間、加賀藩のために、忍従の月日を過ごされたのである。 元和3年 1617 金沢で没した、享年71才。 説明文 尾張国荒子城主前田利春公の嫡男として生まれる。 永禄3年 1560 父の跡を継いで尾張荒子城主となったが、永禄12年 1569 に織田信長の命によって弟利家公に家督を譲った。 利家公は常に兄を重んじ、利家公が金沢城に入城 1583 後、利久公を金沢に迎えたのである。 利久公は客分として鄭重に待遇され、家臣からは御隠居様と呼ばれていた。 また利家が末森の戦いなどで出陣した場合には、金沢城の守護を代任したりした。 天正15年 1587 没する。 利家公は野田山に墓所を定め、その最も高い所に利久公をはじめて埋葬したのである。 織田信長の娘だから、位が上なのか・・・ 説明文 玉泉院。 名は永、天正2年 1574 織田信長の4女 として生まれる。 天正9年 1581 越前府中 福井県武生市 に入輿した。 豊臣秀吉の側室淀君、2代将軍徳川秀忠の夫人崇徳院とは従姉妹である。 利長公逝去後は玉泉院と称し、高岡より金沢城に移り、元和9年 1623 2月に没した。 享年50才。 金沢城の西の丸館跡は玉泉院丸と称され、樹木・泉石を配し路地が造られ庭園とした。 説明文 瑞龍院。 初代利家公の嫡男 として永禄5年 1562 尾張国荒子に生まれる。 母は芳春院。 幼名利勝、後に利長と改めた。 利家公と共に戦国歴戦の武将である。 慶長3年 1598 2代藩主となったが、同4年には、利家公が逝去され、翌5年には関ヶ原の合戦が起きるなど徳川方と大阪方との関係が悪化し、雄藩たる加賀前田氏の去就は天下の注目を集め利長公の心労は並々ならぬものがあったのである。 利長公の在位はわずか7年であるが、金沢城の修築にキリシタン大名として有名な高山右近を用いて百間堀の石垣などを作らせた。 慶長10年に弟利常に藩主の座を譲り、自らは富山城に住まわれた。 慶長14年 1609 には居城が焼失したので、海陸交通の重要な地である高岡に城を築き移り住んだ。 この間に高岡の開発に努め、今日の商工都市高岡の発展の基礎を築いたのである。 慶長19年 1614 高岡城で苦難の多かった生涯を閉じた。 享年53才。 高岡の名刹瑞龍寺は公の菩提所である。 10代重教の2男 として天明2年 1782 金沢で生まれる。 初めは利厚といったが、将軍家斉の一字をもらい斉広と改めた。 享和2年 1802 から文政5年 1822 まで在位し文政7年に没した。 享年43才。 斉広公は時勢を深く洞察し洋学の移入を急務と考え蘭医宇田川玄真をはじめ、本多利明、伊能忠敬らの学者を招き藩士に教えたので、黒川良安、西村太沖、遠藤高璟らの科学者や富田景周、津田鳳卿、奥村栄実らの学者が輩出した。 兼六園が完成した のも事蹟の一つである。 竹沢御殿という広大な屋敷を造営し、そこに時鐘を置き人々に正しい時刻を知らせた。 「兼六園」という名称は白河楽翁 松平定信 が命名したもので、宏大・幽遂・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ねることをいう。 説明文 真龍院。 名は隆 前関白太政大臣鷹司政凞の2女 として、天明7年 1787 4月に生まれる。 文化4年 1807 12月江戸に入輿し、文政7年 1824 に斉広公が43才で没した後、剃髪して真龍院と称した。 38才の時である。 天保9年 1838 江戸より金沢に移り金沢城の金谷御殿に入った。 文久3年 1863 には、13代斉泰公が真龍院のために造営した巽御殿 現在の成巽閣 に移り住んだのである。 江戸より金沢の旅は自筆の紀行文 道記一巻 として残されている。 明治3年 1870 6月逝去、享年84才。 成巽閣が墓所と指定した地域のすぐ外側にある。 いわば、現代の墓である。 説明板 大梁院。 6代吉徳公の10男 として延亨2年 1745 金沢で生まれる。 明和8年 1771 に藩主となる。 7代から11代までの5人の藩主は、6代吉徳公の実子である。 まさか十男が藩主になるとはだれも予想しなかったが、十代重教公には後嗣がなかったので越中の名刹勝興寺の住職に入れられたのを呼び戻され還俗して11代目を継いだのである。 治脩公は学問の振興に力を尽くし、学者で家老の奥村尚寛を学校総奉行に命じ、藩の学校を創立させた。 学問の明倫堂、武芸の経武館の両校で初代明倫堂学頭には新井白蛾が任じられた。 また、小松にも集義堂、修道館の二校を開校し、藩臣の子弟は入学するためにきそって勉学に励んだのである。 なお、7代から11代まで短期間に藩主の交替が行われたのでその儀式の費用が藩財政を圧迫し、ひいては藩全体に影響したことは否めない。 享和2年 1802 に位を譲り文化7年 1810 に没した。 享年66才。 説明文 元和7年 1621 3代藩主利常公の4女 として生まれる。 母は天徳院。 寛永19年 1642 八条宮智忠親王の妃となる。 寛文2年 1662 京都にて逝去され、霊柩を利常公の墳側に帰葬した。 御墓は明治36年より 宮内庁の管轄 となっている。 京都の桂離宮は八条宮初代智仁親王の時創始されたが、2代智忠親王が加賀百万石のお姫様を奥方に迎えられたので、加賀藩という大きな後ろ盾ができて、新御殿を増築し庭園も現在みられるような美しいものに完成することができたのであろう。 護国院。 元禄3年 1690 、 5代藩主前田綱紀の3男 として江戸で生まれる。 幼名は犬千代、後に江戸幕府 第5代将軍・徳川綱吉の一字をもらい吉治、後に吉徳と改めた。 享保8年 1723 父・綱紀が高齢と病のため、家督を譲られて第6代藩主となる。 公の存命中は元禄・享保の文化爛熟期であり、一般に贅沢の気風が流れ、その反面、家臣の窮や藩財政の逼迫など、加賀藩の財政は急速に悪化した。 そこで財政の建て直しに努め、身分が低いが財政的手腕のある大槻伝蔵を重用し、一時大いに実効をあげたが、老臣たちから反発を受け、後の加賀騒動の原因になったといわれている。 延亨2年 1745 没した。 享年56才。 吉徳公の墓の横にある墓 3つの小さな土饅頭が並ぶ。 幼くしてなくなった子どもの墓。 寛永20年 1643 江戸で生まれる。 4代光高公が夭折されたので、正保2年 1645 嫡男綱紀公がわずか3才の時、5代を継がれた のである。 3代利常公が存命であったので、その後見となっている。 将軍家綱の一字をもらい初め綱利といったが後に綱紀と改めた。 正室は会津の保科正之 3代将軍家光の弟 の娘であり、徳川家とは一段と密接な関係になった。 公の治世は79年の長きにおよび、この間に素晴らしい業績を残された。 自らも学者として著名であるが、その署は中国の乾隆四庫にもまさるといわれ、かの有名な新井白石が加賀は天下の書庫なりと感嘆したほどである。 また多くの名工を招き美術工芸の発達をうながし、薬学の研究、加賀宝生の奨励など文化面での功績は数えきれぬほどである。 さらに内政面においても、藩職制の整備をはじめ土木事業、農政施策や救貧事業などみるべきものが多かった。 中興の英主といわれている。 享保9年 1724 5月、82才の長寿を全うされた。 3代利常公の嫡男 で元和元年 1615 に金沢で生まれる。 母は将軍秀忠の娘珠姫 天徳院 、夫人は3代将軍家光の娘 水戸光国の姉 を迎えたため、徳川家とは至極円満な間柄となった。 公は非常に聡明な若君で学問を好み、江戸の儒家林羅山を師とし、和歌は烏丸光広について研鑽を積んだ。 数々の著書が残されている。 寛永16年 1639 4代藩主となったが、わずか6年目の正保2年 1645 に31才の若さで逝去されたので藩にとっても大きな痛手であった。 幸いにも実子に5代綱紀公がおられ危機をまぬがれた。 重要文化財尾崎神社は公の造営である。 夫の利常公とは少し離れたところに葬られている。 説明文 天徳院。 名は子々または禰々、後に 珠姫。 2代将軍徳川秀忠の2女 で慶長4年 1599 伏見邸内に生まれる。 同6年 1601 江戸より金沢へ入輿利常公へ来嫁する。 珠姫3才の時である。 公子女8人を生み元和8年 1622 24才で没した。 金沢小立野に葬り、一寺を建て、おくり名をとり、天徳院と称した。 50年後の寛文11年 1671 に利常公の墳墓のあるこの地野田山に移葬された。 公子長男光高公は加賀藩を継ぎ、二男利次公は分藩し富山藩祖、三男利治は大聖寺藩祖である。 6代吉徳の長男。 亨保10年 1725 金沢に生まれる。 延亨2年 1745 7代藩主となったが、在位わずか1年半で没した。 享年22才。 治世上著名なものはないが、加賀騒動の張本人といわれる大槻伝蔵朝元が越中五箇山へ追放され、その牢屋で自殺するという事件があった。 6代吉徳公の7男 として寛保元年 1741 金沢で生まれる。 宝暦4年 1754 から明和8年 1771 まで在位し、天明6年 1786 46才で没した。 6代吉徳公以後、藩主の交替は7・8・9・10代と矢継ぎ早に行われ、そのため藩の財政は逼迫した。 その救済策として銀札という紙幣を発行したが、極度のインフレが生じ、各所で一揆がおこり、藩内は騒然とした。 銀札は1年目で発行を停止したが、藩の財政に尾を引く結果となった。 宝暦9年 1759 には大火が起き 宝暦の大火 金沢の市街は二日間燃え続け、その9割ほどが灰燼に帰すという惨事があった。 さらに天明の大飢饉に見舞われるなど、事件が続発したのであった。 6代吉徳公の2男。 亨保14年 1729 江戸で生まれる。 延亨4年 1747 から宝暦3年 1753 までの6年間在位し、江戸で没した。 享年25才。 6代吉徳の5男。 享保20年 1735 金沢に生まれる。 宝暦3年 1753 位を継いだが、わずか5ケ月間在位しただけで、同年9月に没した。 享年19才。 初代利家公の4男 として文禄2年 1593 金沢に生まれる。 2代利長公に男子がなかったので慶長10年 1605 その跡を継いで藩主となる。 年13才。 2代将軍秀忠の二女珠姫を正室に迎え、徳川方との融和政策を進めたのである。 利常公は改作法という画期的な農政を実施した。 このため加賀藩百万石の治世が安定したのである。 また美術工芸の振興に努め、さらに神社・仏閣の造営にも力を注ぎ、名工をまねいてこれに当たらせた。 羽咋の妙成寺(利常の生母・寿福院の菩提寺、本堂他が国の重要文化財)、小松の小松天満宮(国の重要文化財)と那谷寺(国の重要文化財)、高岡の瑞龍寺(国宝)などはいずれも前田利常の時代に造営されたものである 寛永16年 1639 長男光高に継がせ、小松に隠居所としての居城を作り晩年を過ごされた。 その間に小松の商工業振興に務め、今日の隆盛の基礎をつくられたのである。 万治元年 1658 小松で逝去した。 享年66才。 利常公の墓のそばにある村井家墓所 村井家は 加賀八家 の一つ 中納言宇喜多秀家夫人 豪姫の墓 前田家墓所の配置図には描かれていない。 2代利長公の近くにある。 新しい花が手向けられていた。 最近 はやりの歴女さんたちが花を供えているのかもしれない。 説明文 成巽閣が立てた説明板ではない 藩祖前田利家公の4女 、母は芳春院 お松の方)。 天正2年 1574 生まれ 幼少の頃、豊臣秀吉の養女となり、天正17年宇喜多秀家に嫁ぐ 関ヶ原の合戦の後、備前岡山城主宇喜多秀家は2人の男子と共に八丈島に配流。 豪姫は生家前田家にて余生を送り61才で生涯を閉じる。 寛永11年 1634 没 この墓は三百有余年間、代々前田利包 修理 の子孫によって守り続けられた。 現在は、豪姫を偲ぶ会 大連寺 にて守られている。 豪姫菩提寺は、野町浄土宗大連寺である。 見学し忘れたところがある。 熊騒動が落ち着いたらもう一度行ってみたいと思う。

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