JR福知山線脱線事故でもっとも衝撃的だった写真 これは、5月8日(日)の毎日新聞の一面に掲載された、事故調査委員会が 撮影した写真です。 新聞をじかに撮影しました。 マンションに後から当った右側面と車台を撤去し、先に当った左側面と天井と、両側のつり革が高さを違えて 残っています。 解体途中の、半分だけ、形がしっかり残っていて、ある意味では不自然な、静寂な写真です。 実はこれが、70%という、いちばんの死者を出した現場そのものです。 2005年6月8日(日)の毎日新聞にだけ一面に掲載された、事故調査委員会が撮影した、2両目の写真です。 というよりも、後からマンションに当った右側面と車台を撤去し、先にマンションに当った左側面が上方に、天井 が下方に残っています。 いちばん下は、3両目の屋根です。 右側面が撤去されたが、つり革だけは、左側が下に、撤去した右側が上にと、高さを違えて残っています。 左側面の窓は、その奥が見えないように、紙でも貼られているようです。 解体途中の、半分だけ、形がしっかり残っていて、ある意味では不自然な、静寂な写真です。 しかし、ここ こそ、死者の70%を出した現場なのです。 段ボールを縦につぶす時のように、中にある人が左側面の下方に落ち、 そこへ後から当った、重量の大きい車台が押しつぶしたことに、すぐ気が付きました。 普通なら連続して解体し、この状態で写真が撮られることはないと思うのに、ここで休みを取ったということは、 右側面と車台を外した後、多数の遺体があり、それを収容してから、洗浄したのだと推察します。
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約10年前のことです。 いつものように、自転車に乗って 会社から 兵庫県尼崎市の自宅へと帰るところでした。 その 踏切はいつも使う踏切で、 この場所を避けるとかなり遠回りをしなくてはならなかったので、 色々噂を聞いてきたのですが使っていました。 噂というのは、その 踏切の横にはお地蔵様が祀られていて、 昔はお墓だったのを無理やり埋め立てて作られた道で、 雨も降っていないのに大きな水たまりができたりと、 不思議なことが起こるということだったのです。 実際にすぐ側の中学校内にも、お地蔵様が祀られています。 これまで 心霊体験を1度もしたことがない私が、 ついに見てしまいました。 街頭が少なく少し薄暗い踏切で電車が通過するのを待っていました。 カンカンカンカンと響く音と赤い点滅をボーッとみながら、 ふと、線路向こうの小さな林に目が行きました。 そこには、 全体が青白い女性が立っていて、 私はなんとなくじーっとその女性を見ていました。 今思えば、なんだか違和感を感じたからだったのでしょう。 足元も腰も上半身も、青白い。 どーやらショートカットのようにも見える 髪まで青白い?その時気が付きました。 顔がないのです。 いわゆる のっぺらぼうです。 思い出すと、ゾッとします。 私は見てはいけないと思い、慌てて目をそらしました。 電車は通りすぎ、踏切があきます。 自転車を漕いで踏切を渡り林の前を見ないように通り過ぎました。 後ろは決して振り返りませんでした。 それから数日たって、あの JR福知山線脱線事故が起きました。 福知山線脱線事故現場では数多くの 幽霊目撃の噂があるようですが、 あの時の人は、 誰かのお迎えだったのかと思ってしまいます。 都道府県別心霊スポット検索• 203• 209• 178• 176• 115•
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営団地下鉄日比谷線脱線衝突事故 1970年卒 富久邦彦 2000年3月8日午前9時1分、これは私と妻にとって生涯忘れられぬ瞬間となりました。 中目黒駅近くで起きた営団地下鉄日比谷線脱線衝突事故で長男・信介が一撃で命を奪われたその瞬間から私共の人生が一変しました。 私の好きな電車で私の全てを注ぎ込んだ信介が命を落とすとは何という皮肉でしょう。 なぜ、神様は私ではなく僅か17才8ヶ月の信介を選んだのか。 妻も私も3月8日で止まってしまった時間と現実の時間の二つを持って生きて行くことになりました。 あれから5ヶ月が過ぎましたが、後を追うことが出来たらどれ程楽かと何度も思いました。 妻や次男や母のことを思うと出来ることではないのですが、信介のいない人生と独り黄泉の世界に旅立った信介の哀れさを考えると今でも涙が止まりません。 生と死をずっと考えてきましたが、何の結論も出ません。 子供に先立たれる悲しみは想像を絶するものがあります。 妻も私も信介には二度と生きて会えないという絶望感との戦いが生涯続くことを覚悟しています。 私達よりもっと苛酷な人生を強いられている人が世の中には沢山いるんだと思いつつも、信介の不運を、不憫さを嘆き悲しまずにはおられません。 生きるということがこんなにも辛いものとは想像だにしていませんでした。 次男の恭介には「ぐうたらでもいい、なんでもいいが、絶対に私達より先に死ぬな」と言い聞かせております。 鉄研OB会の合宿は信介が乳飲み子の頃におむつとミルクを抱えて参加したのが最初でした。 以来、確か小4まで信介は10回近く参加しました。 テニスやソフトボール大会にも信介共々参加した思い出があります。 宴会でビールの栓を集めて回ったり、舞台の上を走り回ったり、色々楽しい出来事が思い出されます。 皆様も小さいのがチョロチョロしていたのを覚えておられることと存じます。 年賀状の家族写真は殆ど合宿で撮ったものを使いました。 小6になって「何で俺の写真を親の年賀状に使うんだよ」と文句を言われてから、写真を年賀状に使うことはなくなりました。 アルバムを見れば、もう少し色々なことを思い出す筈ですが、幸せだった幼稚園や小学校時代の写真はまだ見ることが出来ません。 スポーツでも勉強でも私よりずっとレベルが上で、サッカー、ラグビー、ボクシング、将棋、酒、麻雀、競馬、パチンコ、ラーメンと何でも自由にやりたいようにやらせてやったのが、その意味で私には後悔がないのが、せめてもの救いです。 何事にも全力で突き進み努力を惜しまなかった直球勝負の信介を見習って、妻と次男のために、私も前に向かって歩き始めたいと思っています。 営団の事故後の対応が余りにもお粗末で、腹立ち紛れに抗議のホームページを開設いたしましたが、一周忌を目途に閉鎖する予定です。 一周忌迄には現場に慰霊碑も建つ予定です。 中目黒駅に行かれる機会がありましたら、お参りしてやって頂けたら幸いです。 信介は即死でしたので、私共にとって事故現場は特別な場所となりました。 あの事故当日に、大勢のOBの方が駆け付けてくれて、K先輩に葬儀委員長のような役割を担って頂き、現役を含め、20人以上の方に通夜・告別式の手伝いをして頂きました。 延べ約1900人もの会葬者があったのですから、鉄研の現役・OBの方の助力なしでは葬儀は到底まともには出来ませんでした。 名古屋のI君など遠方よりお別れに来て頂き、結局数十人の現役・OBの方に会葬して頂きました。 何とお礼を申し上げて良いのか言葉に窮しますが、妻共々心より御礼申し上げます。 私共が皆様から頂戴したご芳志を信介が5年間を過ごした麻布学園に寄付させて頂きましたが、そのお金で麻布学園に「富久信介スポーツ奨学金」が創設され、年間1人のスポーツに熱心な生徒に貸与されることになりました。 信介が生きた証が麻布学園に永久に残り、後進の役に立つことになり、本当にうれしくて、皆様にご報告申し上げます。 また、信介が2年間通った大橋ボクシングジムが追悼ボクシング大会を10月19日横浜文化体育館にて開催してくれる予定です。 更には、信介の麻雀仲間でもあった私の高校同期の友人が信介の生涯を本にして来年3月8日の一周忌に出版してくれる予定になっております。 併せてご報告申し上げます。 夢を探し求めた5年間 富久邦彦 期末試験の最終日2000年3月8日午前9時1分中目黒駅近くで起きた営団地下鉄日比谷線脱線衝突事故で高2の長男・信介が一撃で命を奪われたその瞬間から私達夫婦の人生が一変しました。 なぜ、神様は私ではなく僅か17才8ヶ月の信介を選んだのか。 妻も私も信介には二度と生きて会えないという絶望感との戦いが生涯続くことを覚悟しています。 私達よりもっと苛酷な人生を強いられている人が世の中には沢山いるんだと思いつつも、信介が哀れで胸の張り裂ける思いを禁じ得ません。 限られた紙面ですので、短い人生の中で最も貴重でかけがえのない、信介の麻布生としての5年間をボクシングを主体に書いてみたいと思います。 信介が求めていたのは全身全霊で打ち込めるスポーツと気の合う友人、親友と呼べる友人だとずっと思っておりました。 入学時に165cmと背が高く、鍛えた身体と自立した心を持っていた信介を私は中1から大学生並に扱いました。 集中力、意志の強さ、惜しまぬ努力、友達思い、私は信介を信頼していました。 「お前の人生だ、人に迷惑を掛けなければ何をしてもいい」と常々言い聞かせておりました。 無論、もう親の言うことを聞く年頃でもなかったのですが。 当然の事ながら、学校のこと、部活のこと、友人のこと、殆ど親には話してくれませんでした。 中2の夏休み前頃、小学校の頃からのサッカーのプロになるという夢が破れ、腹を割って話が出来る友達もいないようで「麻布はつまらねえ、公立へ行けば良かった」などと気持ちが荒んでいたのを私が心配して、格闘技を勧め、信介はボクシングを選びました。 向こう気が強くて、頭に血が上りやすく、キレやすい奴でしたので、半端に強いのは危ないので、本当に強くなればケンカはしないだろうと思ったのです。 直ぐにジム探しをして笹崎ジムに入会しました。 常に上昇志向の奴でしたから、指導方法に不満があり、横浜光ジム、河合ジムと移り、高1からは死ぬ迄大橋ジムに通いました。 ジムには暴走族や働きながらプロを目指す人等、恵まれた麻布生とは異なり、色々な人がおり、信介の人格形成に役立つと期待しておりました。 中2の3月に家を新築する際に、1階にサンドバッグや筋トレマシーンを買って小さなジムと麻雀が出来るように掘り炬燵付きの和室を作りました。 後者は信介の友達のたまり場になればいいと思ってました。 徹夜麻雀も悪い事ばかりではなく、徹夜で遊ぶことによって密度の濃い付き合いが出来、親友が出来ればいいと思ってましたので、妻は「学校でも禁止しているし、遊びならまだしも、カケ麻雀なんてとんでもない」と反対でしたが、私は一切反対はしませんでした。 中3からの3年間、色々な友達が来てくれて、感謝しております。 私も何度か一緒に麻雀を楽しみました。 ただ「金儲けじゃないんだから、あくまで遊びなんだから、厳しく取り立てるようなことはするな、友達失くすぞ」とは申し渡しておりました。 ボクシングは正式に部として高校ボクシング連盟に加入し選手登録をしないと試合に出場できないので、高1の担任であるM先生に自分で頼み込んでT先生と共に顧問になって貰い、ボクシング部を設立しました。 ボクシングは毎年のように死亡事故が起こる危険なスポーツですから校長先生は「判を押すときは覚悟を決めて押した。 生徒の熱意を無駄にしたくなかった。 ただ、ボクシング部は麻布始まって以来のことで驚いた」と信介の死後語ってくれました。 麻布でなければ一人でボクシング部など出来る筈もなく、私は勿論、信介も心底感謝していたと思います。 大橋ジムでも信介の入会する前にスパーリングで植物人間になる事故があり、信介には「何かあっても、学校やジムには文句を言うなよ」と釘を刺されていました。 命がけのスポーツだから充実感があったのかも知れません。 1発打たれたら、ムキになって突っ込んで行くブルファイターで、プロの6回戦選手を倒したこともあるくらいパンチが強かったそうです。 「富久はプロ向きだ、私の顔を見ればスパーリングをやらせろとうるさかった。 練習方法に文句を付けたのも富久が初めてだ。 プロテストは受ければ問題なく受かる」と大橋会長は言ってくれました。 減量のこと、視力回復トレーニングのこと、肩の脱臼のこと、ジムの会費からバンデージまでボクシングにかかる費用は全部自分で出すと言い張って親には一切払わせなかったこと等、書きたい事は沢山あり、とても紙面が足りません。 自信と不安の繰り返しでしたが、あの意志の強さと惜しまぬ努力には私自身我が子ながら敬服しておりました。 将来どんな奴になるのか、大したことはないかもしれないとは思っておりましたが、楽しみでもありました。 麻布の5年間、悩み苦しんだ様ですが、型にはまることを嫌い、孤高を恐れず、自分の意志を貫き通した姿は「大した奴だった」と誇りに思うと同時に、道半ばにして命を絶たれた事が哀れでなりません。 思えば、麻布の先生方の温かい庇護の下、正に信介ほど麻布の自由を満喫した奴はいないのではないかと思っております。 スポーツはサッカーに始まりラグビー、ボクシングそして運動会、遊びは将棋、麻雀、競馬、株、パチンコ、酒、ラーメンと、いつも夢を探し追い求めた5年間でした。 勉強については殆ど書くことがありません。 友人の話ですと、中2くらいからノートを取ってないどころかノートを持ってなかったそうで、授業中は漫画かラーメンの本を読むか寝てるか、あるいはさぼってロードワークをしたり雀荘に行く有様だったそうです。 私はこれを聞いて、信介は本当に思うがままにやりたい放題やっていたんだと呆れると共にうれしくなりました。 勉強するも良し、しないも良し、遊び呆けるも良し、スポーツに熱中するも良し、要は悔いのない5年間を、楽しい5年間を過ごしていれば、私には悔いがありません。 社会に出たら一生働き続けなければならないのですから、学生時代くらい好きにやればいいと思っていました。 ただ、春期講習を含め、高3の1年間分の塾の費用は既に払ってありましたので、信介もボクシングを続けながら受験勉強は本気でするつもりだったようです。 信介の名誉のために書き添えます。 信介は幸せな奴でした。 全力で打ち込めるボクシングに出会い、それを可能にしてくれた麻布学園と大橋ジムに出会う事が出来たのだから。 「麻布に入って良かった事はボクシングに出会えたことだ」と高1の時に私に言っておりました。 もう一つの夢であった友人のとの出会いは、高2になってから落ち着いて来て文句も言わなくなりましたから、ラグビー部の仲間、サッカー部の仲間、いつも一緒に帰る友人達や麻雀仲間など、生涯付き合える友人が出来たのだろうと思ってました。 友人の皆様には心より感謝しております。 私どもが皆様から頂戴したご芳志を麻布学園に寄付させて頂きましたが、そのお金で麻布学園に「富久信介スポーツ奨学金」が創設され、年間1人のスポーツに熱心な生徒に貸与されることになりました。 信介が生きた証が麻布学園に永久に残り、後進の役に立つことになり、本当にうれしくて、校長先生初め諸先生方の温かいご配慮に感謝申し上げます。 今後、この奨学金を拡充していくのが信介への供養にもなるし、麻布への恩返しにもなると思っています。 また、信介の麻雀仲間でもあった私の高校同期の友人が信介の短い生涯を本にして一周忌に出版してくれる予定になっております。 末筆ながら、こうして信介の思い出を書く機会を与えて下さったPTA会報の委員の方々に御礼申し上げます。
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