エジプト 宇宙 人。 あなたの知らないピラミッド!作り方の謎や宇宙人との関係

エジプト <宇宙論の歴史、孫引きガイド

エジプト 宇宙 人

エジプト <宇宙論の歴史、孫引きガイド エジプト * 古代エジプト語の日本語表記は、勉強不足のため残念ながらわかりません。 そこで、『』 1997 で見つけることができたものは、そちらに従いました。 他方、言及している資料が他の方法で表記している場合、引用は出典に従い、統一することはしません。 ともあれ例によって、多々誤りもあろうかと思いますが、ご寛恕ください。 さて、古代エジプトの文化については少なからぬ本が出ていますが、宇宙論ということで目に入ったのは; J. プラムリー、「古代エジプトの宇宙論」、、pp. 1-30および口絵1-14とその説明(pp. xii-xiii)。 宇宙の構造/〈 原初の水 ヌン 〉/「三つの最も重要で、最もよくあとづけられる宇宙論」 p. 12 ;ヘルモポリス(八柱神、原初の卵と鳥、蓮の花)、ヘリオポリス(アトゥム、〈原初の丘〉、九柱神)、メンフィス(プタハの心臓と舌による創造)/創造の目的;マアト、ヒケ/彼岸など。 i ii iii iv v vi vii viii 神話・信仰等について、手もとにあるものから; 比屋根安定、『埃及宗教文化史』、春秋社、1930 人文地誌/国勢および文化の歴史的変遷/宗教諸相の歴史的変遷/神統論と神観念との発達/祭司 祭儀 呪術/神話及び伝説/経典及び宗教文学/霊魂観及び来世信仰/塑像 神殿 陵墓/異邦及び基督教時代に於ける埃及宗教など、302ページ。 著者は専門のエジプト学者ではなく、 「僅に私蔵する諸書の著者 Budge, Petrie, Brested, Moret, Erman, Sayce, Meyer, Wiedemann, Steindorf, Maspero, Mackenzie, Spiegelberg, Read, Periot, Clipiez の先達に随うて、 Nile 河を瀬踏みしたに過ぎない」 自序 p. 1 とのこと。 なお著者については; 寺崎暹、『比屋根安定 草分け時代の宗教史家(シリーズ民間日本学者 41)』、リブロポート、1995。 エチエンヌ・ドリオトン、「エジプトの宗教」、E. ドリオトン、G. ゴントノー、J. デュシェーヌ・ギュイユマン、稲垣良典訳、『古代オリエントの宗教(カトリック全書 141)』、ドン・ボスコ社、1959、pp. 5-87 原著は E. Drioton, G. Contenau, J. Duchesne-Guillemin, Les religions de l'orient ancien, 1957. 信仰/宗教思想/エジプト宗教の歴史的発展/宗教的慣習/死者の礼拝など。 他に 「」、「」所収。 古代神学の諸方法/上部エジプトの地方神/デルタ地帯の地方神/神学の構成/多神教と一神教など、146ページ。 フック、吉田泰訳、『オリエント神話と聖書』、山本書店、1967 原著は S. Hooke, Middle Eastern Mythology, 1963 2章が エジプトの神話;オシリス神話/太陽神レーの神話/ナイル川の神話など 他に; 序章///など、282ページ。 ジョン・A・ウィルソン、「エジプト」、H. フランクフォート、H. フランクフォート、J. ウィルソン、トーキルド・ヤコブセン、山室静・田中明訳、『古代オリエントの神話と思想 哲学以前』、社会思想社、1971、pp. 他に のパートと、序論「神話と現実」、結論「神話からの思想の解放」など、338ページ。 山崎亨、「」、『基督教研究』、vol. 38 no. 1-2、1974. 18、pp. 1-20 [ < ] E. ウォーリス・バッジ、石上玄一郎・加藤富貴子訳、『古代エジプトの魔術 生と死の秘儀』(mind books)、平河出版社、1982、 原著は E. Wallis Budge, Egyptian Magic, 1899 エジプトの魔術の起源/魔術の護符/魔法の像/魔法の絵と呪文/魔力ある名前/魔法の儀式/悪魔憑き・夢・星占い・変身など、256ページ。 なお、以後もくりかえし登場する著者については、 酒井傳六、『ウォーリス・バッジ伝 古代発掘の物語』、リブロポート、1987、424ページ。 ロザリー・デイヴィッド、近藤二郎訳、『古代エジプト人 その神々と生活』、筑摩書房、1986 原著は A. Rosalie David, The Ancient Egyptians: Religious Beliefs and Practices, 1982 先王朝および初期王国時代の社会/古王国時代/第一中間期と中王国時代/新王国時代/他の宗教への影響など、316ページ。 開闢論についてはpp. 58-63. 、ピラミッド・テキストについてpp. 86-91、中王国期の他界観とオシリス神についてpp. 129-139、テーベの創造神話pp. 152など。 開闢論についてはpp. 53-59、宇宙の構造についてはpp. 65-70、他界観についてはpp. 110-135など。 笈川博一、『古代エジプト 失われた世界の解読』(講談社学術文庫 2225)、講談社、2014 原著は中公新書、中央公論社、1990 古代エジプトの国土と人々/古代エジプトの歴史/宗教と神話/死と来世/言葉と文字/文学作品/王の王、ラアメス二世など、256ページ。 108 no. 1347、1993. 9、pp. 41 no. 2、1998、pp. 166-180 [< 同上] 「エジプトの神話・宗教」、『』、2001、pp. 近藤二郎、「古代エジプト古王国時代の太陽神信仰と有翼日輪の成立」、松村一男・渡辺和子編、『、リトン、2003、pp. 深谷雅嗣、「」、『宗教研究』、no. 79 4 、2006. 30、pp. 340 1232 -341 1233 [ < ] 原典からの翻訳として; 杉勇・三笠宮崇仁編、『古代オリエント集 筑摩世界文學体系 1』、筑摩書房、1978 に 「メンフィスの神学」 杉勇訳、pp. 480-482 、 「ピラミッド・テキスト」の一部 屋形禎亮訳、pp. 579-594 、 「アメン・ラー賛歌」 屋形禎亮訳、pp. 595-603/pp. 604-609 などが収められています。 他に; シヌヘの物語/ウェストカー・パピルスの物語/難破した水夫の物語/生活に疲れた者の魂との対話/雄弁な農夫の物語/ イプエルの訓戒/ネフェルティの予言/ ホルスとセトの争い/二人兄弟の物語/ウェンアメン旅行記/ 宰相プタハヘテプの教訓/メリカラー一世の教訓/アメンエムハト一世の教訓/ドゥアケティの教訓/アニの教訓/アメンエムオペトの教訓/オンク・シェションクイの教訓/ ラー・ホルクアティ讃歌/アテン讃歌/ナイル讃歌/オシリス讃歌/単一神への讃歌/ センウセルト三世讃歌/トトメス三世讃歌/ セド祭の碑文/ミンの大祭の碑文/ 「後期エジプト選文集」より 以上エジプトの部分は 杉勇・屋形禎亮、『エジプト神話集成』(ちくま学芸文庫)、筑摩書房、2016 として文庫化された模様(未見) 本書には他に 、、のパートなど、690ページ。 塚本明廣、「」、『研究論文集/佐賀大学文化教育学部』、vol. 5 no. 2、2001. 3、pp. 91-110 [ < ] 第1章~第32章(章節番号については p. 93 参照) 同、 「」、『研究論文集/佐賀大学文化教育学部』、vol. 6 no. 2、2002. 3、pp. 89-110 [ < 同上 ] 第33章~第71D章 同、 「」、『研究論文集/佐賀大学文化教育学部』、vol. 7 no. 2、2003. 2、pp. 59-78 [ < 同上 ] 第72章~第171章 同、 「」、『研究論文集/佐賀大学文化教育学部』、vol. 8 no. 2、2004. 3、pp. 25-57 [ < 同上 ] 第172章~第222章 同、 「」、『研究論文集/佐賀大学文化教育学部』、vol. 9 no. 2、2005. 2、pp. 75-110 [ < 同上 ] 第223章~第255章 同、 「」、『研究論文集/佐賀大学文化教育学部』、vol. 11 no. 2、2007. 1、pp. 79-110 [ < 同上 ] 第256章~第271章 同、 「」、『研究論文集/佐賀大学文化教育学部』、vol. 12 no. 2、2008. 1、pp. 115-143 [ < 同上 ] 第275章~第321章 古代のエジプト語研究に主眼が置かれたもので、当初は全訳が予定されていたようですが(「 1 」、p. 92)、 「ピラミッド・テキストは、このあと延々と第759章2291節まで続くのであるが、これまでのペースから推して、全文の訳注を終えるにはさらに数倍の紙幅と期間とを要すると思われる。 そこで、ウナス王ピラミッドの本文が完結するこの機会を機に、… 中略 …この一連の翻訳と注釈の作業をひとまず終了することとしたい」 とのこと(「 7 」、p. 138)。 田中達譯、『埃及死者之書(上) 世界聖典全集 10』、改造社、1930 同、 『埃及死者之書(下) 世界聖典全集 11』、改造社、1930 凡例に曰く、 A. Wallis Budge, The Book of the Dead, 1901 版の翻訳(上、p. 初版は1920。 上巻は;序歌7編/日中出現の諸章、第1章~133章など、412ページ。 下巻は;日中出現の諸章、第134~190章/附加篇;ネシ-コンスの死者之書 pp. 233-243 、呼吸之書 pp. 244-252 、羅馬期の死者之書 pp. 253-254 /解題 pp. 255-331 など、342ページ。 31-90、264-266 よみがえるピラミッド/太陽とナイル/ピラミッド・テキスト/代表的ピラミッドなど 石上玄一郎、『エジプトの死者の書 宗教思想の根源を探る』、人文書院、1980 序章/『死者の書』の歴史/『死者の書』の原本/古代エジプトの神々/呪術的思想/『死者の書』の概略/二つの讃歌/古代エジプトの葬制/オシリスの法廷/エジプト人の来世観/結語など、272ページ。 なお著者には、 『ヌンの海から来た人々』、平河出版社、1988 もあり、主としてエジプトとインドの文化の関係を扱っています; 太陽崇拝の風土/蛇類に対する崇拝と敵視/家牛の崇拝について/蓮華の神聖視/その霊魂観などの章を含む、288ページ。 「カイロのパピルス研究所で復元した〈アニのパピルス〉(遠藤撮影」の紹介を中心としている」 p. 180。 147-207+pp. 172-182 ヨアン・ペテル・クリアーノ、桂芳樹訳、「古代エジプトの異界旅行」、同上、pp. 224-231 原著は Ioan Peter Couliano, , 1991, chapter 4 長谷川蹇、「エジプトの『死者の書』とは何か」、同上、pp. 232-237 多田智満子、「死後という謎-エジプトの死者の書から」、同上、pp. 5 1 、2002、pp. 59-63 [ < ] 深谷雅嗣、「死者との交歓-生命力の分配を通じた古代エジプトの葬祭儀礼-」、細田あや子・渡辺和子編、『』上巻、リトン、2006、pp. 43-68 「あの世」の世界と都市景観/歴代の葬祭儀礼と谷の祭/谷の祭-国家儀礼と民衆儀礼/花束と宴会/王の葬祭施設と私人墓など 近藤二郎、「古代エジプトの霊魂観」、『』、勉誠出版、2009. 12、pp. 13-22 古代エジプトにおける人間存在に欠かせない要素/再生の確実性:太陽信仰とオシリス信仰/古代エジプトの死生観/心臓の計量/古代エジプトの天国、「イアルの野」など 岡田明憲、「死者の書」、藤巻一保・岡田明憲、『』、学研パブリッシング、2012、pp. 354-357 和田浩一郎、『古代エジプトの埋葬習慣』(ポプラ新書 031)、ポプラ社、2014 自然環境と死生観の形成/来世の世界/葬儀/墓を造る/死者とともに-副葬品の意味/来世の値段/庶民と死など、324ページ。 科学史・天文学史的な視点からは; O. ノイゲバウアー、『』、1984、pp. 216-231 の節があります。 下巻は『』 ロナルド・A. ウェルズ、「エジプトの天文学」、『』、2008、pp. 11-26 前王朝および初期王朝時代/古王国時代/中王国時代/新王国時代/プトレマイオス王朝時代/エジプトの遺産など 近藤二郎、『わかってきた星座神話の起源 エジプト・ナイルの星座』、誠文堂新光社、2010 古代エジプトの暦と時/古代エジプト人の宇宙観/古代エジプトの星座-北天の星座/南天の星座/デンデラ神殿の天体図/ヘレニズム時代の科学と天文学など、192ページ。 ABC順、176ページ。 イアン・ショー&ポール・ニコルソン、内田杉彦訳、『大英博物館 古代エジプト百科事典』、原書房、1997 原著は Ian Shaw and Paul Nicholson, The British Museum Dictionary of Ancienr Egypt, 1995 あいうえお順、670ページ。 リチャード・H・ウィルキンソン、内田杉彦訳、『古代エジプト神殿大百科』、東洋書林、2002 原著は Richard H. Wilkinson, The Complete Temples of Ancient Egypt, 2000 神殿、国土、そして宇宙/永遠の家-神殿の発達と盛衰/神々にふさわしき建造物-神殿の造営、成長と変遷/世界の内なる世界-神殿の各部分とその意義/天と地の間に-神殿の宗教的機能/神々と諸王の神殿-ナイルをさかのぼって/現代の調査と保存修復など、256ページ。 リチャード・ウィルキンソン、内田杉彦訳、『古代エジプト神々大百科』、東洋書林、2004 原著は Richard H. Wallis Budge, The Gods of the Egyptians. , New York, 1969 原著は1904年刊。 1巻 pp. 279 では前者における七頭のバシリスク蛇がピラミッド・テクストにおける七頭の蛇と関連づけられていたりします。 James H. Breasted, Development of Religion and Thought in Ancient Egypt, University of Pennsylvania Press, Philadelphia, 1959 原著は1912年刊。 『古代エジプトにおける宗教と思想の展開』 自然と国家がその刻印を宗教に刻む-最初の体系/生と死-墓所での滞在-死がその刻印を宗教に刻む(初期から紀元前25世紀まで)/死者の王国-ピラミッド・テクスト-天空への上昇(紀元前30世紀から25世紀まで)/死者の王国-最初の天での彼岸(紀元前30世紀から25世紀まで)/彼岸のオシリス化(紀元前30世紀から25世紀まで)/倫理的感覚の出現-倫理的ふさわしさと彼岸-懐疑主義と苦難の問題(紀元前29世紀から18世紀まで)/社会的諸力がその刻印を宗教に刻む-最初の社会的再生(紀元前22世紀から18世紀まで)/古い王家の彼岸の大衆化-オシリスの勝利-良心と死者の書-呪術と倫理(紀元前22世紀から1350年まで)/帝国の時代-世界国家がその刻印を宗教に刻む-最初の一神教-アクエンアテン(紀元前1580年から1350年まで)/個人的敬虔の時代-僧侶制と最初の頽唐期(紀元前1350年以降)など、380ページ。 Patrick Boylan, Thoth. The Hermes of Egypt, Ares Publishers, Inc. , Chicago, 1987 原著は1922年刊。 『トト エジプトのヘルメース』 トトの名前/オシリスとホルスの伝説におけるトト/トトとヘリオポリスの九柱神/トトと太陽の舟におけるラー/月の神格としてのトト/トトの諸象徴/ラーの代理としてのトト/月の神格としてのトトの特別な諸機能/社会的秩序と聖なる儀礼の創設者としてのトト/〈神的な言葉〉の著者としてのトト/全知のトト/創造者としてのトト/呪術におけるトト/死者の神としてのトト/エジプトの儀礼におけるトト/トトの主な神殿と聖地など、216ページ。 17-91. Erik Hornung, translated by John Baines, Conceptions of God in Ancient Egypt. Erik Hornung, translated by Elisabeth Bredeck, Idea into Image. Essays on Egyptian Thought, Timken Publishers, New York, 1992 原著は Geist der Pharaonenzeit, 1989 (英訳は12章中9章のみ)。 『観念からイメージへ エジプト思想に関する試論』 言葉とイメージ/諸起源/時間と永遠/限界とシンメトリー/彼岸/宇宙としての神殿/マアトの概念/祝典としての歴史/身体と魂など、210ページ。 『エジプト神話の総色刷り本』 創造神たち、そして宗教的思想の中心地/主な神々/二つの地の主/来世/エジプトの聖なる動物など、72ページ。 Ugo Bianchi, "Seth, Osiris et l'ethnographie", , 1978, pp. Academy of African Thought, Section I, Vol. 上掲前著同様、古代エジプトとバントゥー語族のルバ族それぞれの神学を連絡させようという動機に発した著述で、前著以上に、いささか論争的な性格が目につきます。 Allen, Genesis in Egypt. Edited by Byron E. Shafer, Religion in Ancient Egypt. Gods, Myths, and Personal Practice, Cornell University Press, Ithaca and London, 1991 『古代エジプトにおける宗教 神々、神話と個人的実践』 序論 Byron E. 第2章に当たる Lesko の "Ancient Egyptian Cosmogonies and Cosmology" pp. 88-122 中には、ヘリオポリス、ヘルモポリス、メンフィスなどの他に、テーベ版開闢神話をよく伝えるものとして、プトレマイオス朝のテクストに残された「コンスの宇宙開闢論 Khonsu Cosmogony 」が引用されていました pp. 105-106。 Dimitri Meeks and Christine Favard-Meeks, translated by G. Barbara S. Lesko, The Great Goddesse of Egypt, University of Oklahoma Press, 1999 『エジプトの偉大な女神たち』 初期の女性たちと信仰の最初の証言/空の女神ヌト/ネイト、サイスの貴婦人にして万物の創造者/二人の貴婦人:遙かな過去のなごり/ハトホル、愛の女神/ムトと聖なる猫たち/イシス、魔術に傑しもの/神殿、その儀礼と聖職者など、320ページ。 Mark Smith, On the Primaeval Ocean. The Carlsberg Papyri 5. CNI Publications 26. The Carsten Niebuhr Institute of Near Eastern Studies, Museum Tusculanum Press, University of Copenhagen, 2002 『原初の海について』 コペンハーゲン大学の Carsten Niebuhr 研究所、フィレンツェの 「G. Vitelli」 パピルス学研究所などに分散した、しかし一つの文書をなすと思われる、宇宙開闢論を扱ったデモティック文字の断片群の校訂、翻訳、註釈。 ただし損傷が激しいため、平行すると思われる資料との比較によらないと理解が難しく、その分逆に、註釈が充実しているという本です、276ページ。 Wente, Jr. , in William Kelly Simpson ed. 289-298 「天の雌牛の書」、『古代エジプトの文学』所収 このテクストの大筋は 大林太良編、『』、1976、pp. 179-180:「70 天の雌牛(古代エジプト)」 で紹介されていました。 Anne-Sophie vin Bomhard, The Naos of the Decades. From the Observation of the Sky to Mythology and Astrology. 『 十分角 デカン の 厨子 ナオス 空の観察から神話と占星術へ』 起源と一般的記述/王と神/創造とデカンの出現/デカンの総体的呈示/各デカンの研究など、290ページ。 「創造の話」の節で、ナオスに記された開闢論のテクストが訳され、論じられています pp. 54-76。 Wallis Budge, Egyptian Religion. 『エジプトの宗教 来世に関するエジプトの観念』 全能なる神への信仰/復活する神オシリス/エジプト人の〈神々〉/死者の審判/復活と不死など、198ページ。 The Book of the Dead. The Hieroglyphic Transcript of the Papyrus of ANI, the Translation into English and an Introduction by E. Wallis Budge, Late Keeper of the Egyptian and Assyrian Antiquities in The British Museum, Citadel Press, New York, 1960 原著は1913年刊、704ページ。 『死者の書 アニのパピルスの転写 大英博物館エジプト・アッシリア遺物の前管理人E. バッジによる英訳と序論』 R. Faulkner, The Ancient Egyptian Pyramid Texts. Oxford University Press, 1969 330ページ。 『古代エジプトのピラミッド・テクスト』 発言 nos. 1-759。 Faulkner, The Ancient Egyptian Coffin Texts. 『古代エジプトのコフィン・テクスト』 呪文 nos. Faulkner, The Ancient Egyptian Book of the Dead. 『古代エジプトの死者の書』 呪文 nos. 1-189. Andreas Schweizer, edited by David Lorton, The Sungod's Journey through the Netherworld. 著者はユング派の精神科医。 原典の翻訳ではなく解説です。 Translated by David Warburton, revised and edited by Erik Hornung and Theodor Abt, The Egyptian Amduat. 58, 1959, pp. 73-80 「パピルス Salt 825 B. 64, 1966, pp. 1, 1991, pp. 99, 1999, pp. Phil-Hist. Klasse. おまけ いささか怪しげなもの-勘違いしていたら深謝; ウォリス・バッジ編纂、今村光一編訳、『世界最古の原典 エジプト死者の書 古代エジプト絵文字が物語る6000年前の死後の世界』、たま出版、1994 アニの霊の告白/死の河を渡る/新しい世界への入口/霊界の構造/オシリスの闘い/霊たちの生活/霊界のあちこち/霊の生活の知恵と修行/霊界の祭りや儀式/葬儀と死後/霊界の伝説と神々/凶霊の国/極楽/神の国/ラアの舟など、248ページ。 243 とのこと。 Rosemary Clark, The Sacred Tradition in Ancient Egypt. The Esoteric Wisdom Revealed, Llewellyn Publications, Woodbury, Minnesota, 2000 『古代エジプトにおける聖なる伝統』 聖なる科学/宇宙論/聖なる天文学/神的な家/死者の家/神殿の主たち/通過儀礼など、456ページ。 大貫隆訳、『』、2018、pp. 139-141:第4巻43-4~44 占星術についての項 2 の中でエジプト人のものとされる数秘学的宇宙開闢論が記されています。 150-151:第4巻51、pp. 242-243:第6巻21~23も参照。 Sarolta A. vol. 124 , E. ……………………… 亀谷学、「ピラミッドという驚異」、山中由里子編、『』、2015、pp. 5, 1969, pp. 82-88. 「エジプト・マニアを探して」 有田忠郎、「イシス変幻」、、pp. 42-47 荒俣宏、『』、1985、pp. ジャン・リシェ、「ロマン派のイシス 母=妻の神話 ヘレネ、ソフィア、マリア」、『』、2001、pp. 280-289 など 伊藤博明、「」、『19世紀学研究』、vol. 9、2015. 59-89 上の文庫版に掲載された羽鳥徹哉「作家案内 - 川端康成」によると、 「人間救済を目指す川端は、文学書だけでなく、聖書や仏典、当時出ていた世界聖典全集の中のエジプトの『死者の書』、インドの『リグ・ヴェーダ』等の他、フラマリオンやロッジの心霊学関係の本を熱心に読んだ」 とのことです p. 306。 東雅夫編、『川端康成集 片腕 文豪怪談傑作選』(ちくま文庫 ふ 36-1)、筑摩書房、2006、編者「解説 心霊と性愛と」、また仁平政人、「川端康成における心霊学とモダニズム」、坂井セシル他編、『川端康成スタディーズ 21世紀に読み継ぐために』、笠間書院、2016、pp. 96-105 も参照。 同文庫版所収の「抒情歌」 1932 でもそうした文献が引きあいに出されます(『川端康成集 片腕 文豪怪談傑作選』の最後に収められた未発表の「時代の祝福」 1927頃 も参照)。 さて、川端の「死者の書」には冒頭近くと末尾近くの二箇所で、エジプトの『死者の書』から引用されるのですが、これは上掲 1930;初版は1920 より引かれたものでした; 「我は形なき物体より存在するに至れり…… 後略 」 pp. 62-63 は上巻、「日中出現の諸章」第83章、pp. 255-256 「汝は自ら純潔の上衣もて己れの身を纏う…… 後略 」 p. 89 は下巻、同第172章6、p. 176 なお上の文庫版では二つめの引用中、三つめの文「腰の肉は汝の」に続く文字は漢字の「力(ちから)」のようにも見えますが、田中達訳版では片仮名の「カ」で、〈バ〉とともに古代エジプトの霊魂観の重要な概念です(ちなみに「腰の肉」中の「の」は入らない。 「えうにく」とルビ)。 戻って折口信夫『死者の書』と田中達訳『埃及死者之書』の関係については、 安藤礼二、『』、講談社、2008 所収の「『死者の書』の謎を解く」 p. 318 や 「光の曼陀羅 『初稿・死者の書』解説」 pp. 399-401、また pp. 406-412 などを参照 中島敦、「 木乃伊 ミイラ 」、『中島敦全集 1』(ちくま文庫 な 14-1)、筑摩書房、1993、pp. 19-26 4篇からなる「古譚」中の一。 初出は1942 「文字禍」ともども、この短篇について知ったのは澁澤龍彦、『』、1977、「円環の渇き」ででした pp. 198-200。 中島敦、「セトナ皇子(仮題)」、『中島敦全集 3』(ちくま文庫 な 14-3)、筑摩書房、1993、pp. 323-326 遺稿。 執筆時期不明。 ラヴクラフト、大瀧啓裕訳、「ナイアルラトホテップ」、『ラヴクラフト全集 5』(創元推理文庫 523-5)、東京創元社、1987、pp. 31-37 原著は H. ラヴクラフト、大瀧啓裕訳、「ファラオとともに幽閉されて」、『ラヴクラフト全集 7』(創元推理文庫 F ラ-7)、東京創元社、2005、pp. 169-210 原著は H. 389-394)。 舞台は現代の日本ですが、いろいろとエジプト・ネタが出てきます。 ちなにシリーズ第7巻 篠田真由美、『魔道師と邪神の街 魔都トリノ』(NON NOVEL)、祥伝社、2007 では、ヘルモポリス八柱神が一、アモンの連れあいアマウネトなんて名前が飛びだしました p. 360、p. 368。 またp. 351も参照。 355、pp. 401-402。 などをはじめとして、あまたあるものと思われ、またユニヴァーサルの古典『ミイラ再生』(1932、監督カール・フロイント)からハマー・プロの『ミイラの幽霊』(1959、監督テレンス・フィッシャー)を経て、『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』(1999、監督スティーヴン・ソマーズ)などにいたる一連の〈呪いのミイラ〉ものも忘れてならないところですが(石上三登志、「怪奇城の伝説 5 イム・ホ・テップの禁断世界」、『』、奇想天外社、1977、pp. 238-247;ジョン・ランディス、アンフィニジャパン・プロジェクト訳、『』、ネコ・パブリッシング、2013、pp. 17 天空の神話」で主人公は、ヘロドトスを連れに、「天命の書」を求めてエジプトからメソポタミアへと時間を超えて旅し、宇宙の実相を垣間見ることになります。 神林長平、『ラーゼフォン 時間調律師』(徳間デュアル文庫)、徳間書店、2002 出渕裕監督のアニメーション『ラーゼフォン』 2002 のノヴェライズならぬ「シェアワールド・ノベル」 カヴァー裏表紙)、256ページ。 参考文献として上掲『図説 エジプトの「死者の書」(ふくろうの本)』が挙げられています。 黒史郎、『』、2013 ブバスティスが顕現します。 『キング・オブ・エジプト』、2016、監督:アレックス・プロヤス 原題は Gods of Egypt ホルスとセトの争いを主軸に、オシリス、イシス、ネフティス、ハトホル、トト、アヌビス、さらにラーとその舟、アポフィスまで登場します。 監督のプロヤスは『スピリッツ・オブ・ジ・エア』 1989 、『ダークシティ』 1998 で一部のファンから大いに期待され続けているのでした。 美術の方面からは、モローの《ナイル河に捨てられたモーセ》を挙げておきましょう。 舩曳将仁監修、『トランスワールド・プログレッシヴ・ロック DISC GUIDE SERIES 039』、シンコーミュージック・エンターテイメント、2009、p. 同上、p. 『ストレンジ・デイズ』、no122、2010. 1、「デヴィッド・サーカンプ〈パヴロフス・ドッグ」、p. 同上、p. 岸野雄一、「フランク・ザッパ ディスコグラフィー」、『ユリイカ』、vol. 26 no. 5、1994. 5、p. 237。 舩曳将仁監修、前掲書、p. 和久井光司、『フランク・ザッパ キャプテン・ビーフハート ディスク・ガイド』(レコード・コレクターズ2月増刊号)、2011、pp. 66-67。 『ストレンジ・デイズ』、no. 119、2009. 10、「シカゴ アルバム解説」、p. 101。 さて、話を戻せば、アラン・パーソンズ・プロジェクトにアルバム『ピラミッド』 1978 6 があり、アース・ウィンド・アンド・ファイアーにもエジプトに関わるイメージがあったかと思いますが、レコードが手もとにないのでおくとして、ここでは Utopia, RA , 1977(邦題;ユートピア、『太陽神』) 7 を挙げておきましょう。 アルバム全体が太陽神ラーをテーマにしているわけではなさそうですが(B面1曲目は「ヒロシマ」)、裏ジャケットにはメンバー4人が古代エジプト風の衣装を着て、ピラミッド型に配された写真を載せ、さらに4人の顔がピラミッドの各面を占める切り抜き付録までついていました。 大鷹俊一監修、『ヤング・パーソンズ・ガイド・トゥ・プログレッシヴ・ロック』、音楽之友社、1999、p. 大鷹俊一監修、『レコード・コレクターズ増刊 プログレッシヴ・ロック』、2010、p. 103。 立川芳雄、『プログレッシヴ・ロックの名盤100』、リットーミュージック、2010、p. 121。 舩曳将仁監修、前掲書、p. 同じタイトルのアルバムが Eloy, RA , 1988(邦題;エロイ、『輪廻』) 8 ドイツのバンドの14枚目とのことですが、『2001年宇宙の旅』 1968、監督:スタンリー・キューブリック のラストを思わせるジャケット表、左遠景に白いピラミッドが描かれていました。 歌詞は直接エジプトの太陽神に触れているわけではなく、最後の曲の最後に「(老子)」となっていたりします。 『ジャーマン・ロック集成 ユーロ・ロック集成2』、マーキームーン社、1994、p. 189。 LPであればA面全部を占めていたであろうタイトル曲では、オルガンやシンセサイザーのポワーンという響きに、サード・イアー・バンドと比べられなくもなさそうなパーカッションがからみ、やがてエレクトリック・ピアノが加わるのでした。 『ジャーマン・ロック集成 ユーロ・ロック集成2』、マーキームーン社、1994、p. 小柳カヲル、『クラウトロック大全』 ele-king books 、Pヴァイン、2014、p. 152。 ピンク・フロイドのサウンド・トラック・アルバム『モア』 1969 からのカヴァーとのこと(未聴)。 器楽曲ですが、ともあれエジプトの神皇のことらしいということで、挙げておきましょう。 日本のバンド ミスター・シリウス、『ダージ』、1990 10 6曲目「ナイルの虹」は6部構成、21分24秒の大曲です。 歌無しのキーボード中心のバンドです。 ヌメロ・ウエノ、たかみひろし、『ヒストリー・オブ・ジャップス・プログレッシヴ・ロック』、マーキームーン社、1994、pp. 192-194。 舩曳将仁監修、『トランスワールド・プログレッシヴ・ロック DISC GUIDE SERIES 039』、シンコーミュージック・エンターテイメント、2009、p. 173。 『ユーロ・ロック・プレス』、vol. 28、2006. 2、pp. 9-11。 舩曳将仁監修、『トランスワールド・プログレッシヴ・ロック DISC GUIDE SERIES 039』、シンコーミュージック・エンターテイメント、2009、p. 146。 , ヌメロ・ウエノ、たかみひろし、『ヒストリー・オブ・ジャップス・プログレッシヴ・ロック』、マーキームーン社、1994、p. 『ユーロ・ロック・プレス』、vol. 40、2009. 2、pp. 58-59。

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古代エジプトよりももっと前に宇宙人は地球を侵略していた?ロラドフ・プートが示す過去

エジプト 宇宙 人

概説 [ ] エジプトは不毛の地帯であるが、毎年春のの増水で水に覆われる地域には河土が運ばれて堆積し、農耕や灌漑が可能になる。 このだけが居住に適しており、主な活動はナイル河畔で行われた。 ナイル川の恩恵を受ける地域はケメト(黒い大地)と呼ばれ、ケメトはエジプトそのものを指す言葉として周囲に広がるデシェレト(赤い大地、ナイル川の恩恵を受けない荒地)と対比される概念だった。 このケメトの範囲の幅は非常に狭く、ナイル川の本流・支流から数kmの範囲にとどまっていた。 しかしながら川の周囲にのみ人が集住しているということは交通においては非常に便利であり、川船を使って国内のどの地域にも素早い移動が可能であった。 この利便性は、ナイル河畔に住む人々の交流を盛んにし、統一国家を建国し維持する基盤となった。 ナイル川本流からナイル川の上流は谷合でありナイル川1本だけが流れ、下流はデルタ地帯()が広がっている。 最初に上流地域()と下流地域() でそれぞれ違った文化が発展した後に統一されたため、()の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。 毎年のナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、が作られた。 太陽と星が同時に昇る頃、ナイル川は氾濫したという。 また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、、、が発達した。 から派生した()は世界の殆どのの起源となったされる。 エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つであるが、民族移動の交差点にあたり終始異民族の侵入を被り支配民族が代わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定しており、部族社会が城壁を廻らせて成立するの痕跡は今の所発見されていない。 古代エジプトの歴史 [ ] 詳細は「」を参照 古代エジプト人は、のように「『王の名前』の統治何年目」のように歴史を記録していた。 そのため、絶対的な年代表記法に置き換えた時に、幾分かの誤差があるだろうと言われる。 初期王朝の始まりも、5年から20年ほどの誤差がある可能性が指摘されている。 古代エジプトは、次の時代に区分されている。 (頃-)• (紀元前3150年-)• (紀元前2686年-)• (紀元前2181年-)• (紀元前2040年-)• (紀元前1663年-)• (紀元前1570年-)• (紀元前1069年-)• (紀元前525年-)• (紀元前332年-) エジプト原始王朝時代(黎明期、上エジプト、下エジプト) [ ]。 上から順に、古代エジプトの、(草書体)、を用いて同じ内容の文章が記されている。 が誕生し、人々が定住し農耕を開始したのは、およそ紀元前5000年ごろと考えられており 、紀元前4500年ごろには畔にが成立し、紀元前4400年ごろからは上エジプトの峡谷地帯を中心にが興った。 この時期のエジプトはいくつもの部族国家に分裂しており、やがてこの国家群が徐々に統合されていくつかの国家にまとまりはじめた。 ただし統合された部族国家は地域的なまとまりをもち続け、に22、に20、合計約42あると呼ばれるとしてエジプト各王朝の行政単位となっていった。 頃にはまず上エジプト、そして下エジプト、二つのが成立したと考えられている。 頃にはヒエログリフのが確立し、()が普及した。 エジプト初期王朝時代(第1 - 2王朝) [ ] 頃、上エジプトの王が下エジプトを軍事的に征服し、上下エジプトを統一してを開いたとされる。 従来はエジプト第1王朝の建国者とされてきた王がナルメル王にあたるのか、それとも別の王に比定されるのかについては諸説ある。 また、ナルメルは上下エジプトの王として確認される最古の王であるが、ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。 ヘロドトスによれば第1王朝期に、上下エジプトの境界地域に首都としてメン・ネフェル()が築かれたとされ、以後第一中間期の第8王朝にいたるまでエジプトの各王朝はここに都した。 エジプト第1王朝は紀元前2890年頃に王統の交代によってとなった。 この初期王朝時代の2王朝については史料が少なく、不明な点も多い。 エジプト古王国時代(第3 - 6王朝) [ ] の。 左手前から、、、のピラミッド。 紀元前2686年頃成立したからは、エジプト古王国期と呼ばれ、エジプト最初の繁栄期に入る。 首都は一貫してに置かれた。 古王国時代には中央政権が安定し、強力な王権が成立していた。 このことを示すのが、頃に第3王朝第2代の王である王が建設した階段ピラミッドである。 このピラミッドは当初それまでの一般的な墓の形式であったで建設されたが、宰相による数度の設計変更を経て、最終的にマスタバを6段積み重ねたような階段状の王墓となった。 これがエジプト史上最古のとされるである。 このピラミッドは以後の王墓建設に巨大な影響を与え、以後マスタバに代わりピラミッドが王墓の中心的な形式となった。 紀元前2613年にはが即位し、が始まる。 この第4王朝期には経済が成長し、またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。 スネフェル王は頃に、、に遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、まずを、さらに世界初の真正ピラミッドであるを建設した。 スネフェルの次の王であるの時代に、ピラミッド建設は頂点を迎え、世界最大のピラミッドであるが建設された。 その後、クフの2代あとにあたる王がとその門前にあるを建造し、さらにその次の王がを建設し、ピラミッドの建設は頂点に達した。 この3つのピラミッドはと呼ばれ、エジプト古王国時代を代表する建造物となっている。 この後、に入ると経済は引き続き繁栄していたものの、ピラミッドの意味が変質してクフ王時代のような巨大な石造りのものを建てられることはなくなり、材料も日干しレンガを使用したことで耐久性の低いものとなった。 続くも長い安定の時期を保ったが、紀元前2383年に即位し94年間在位したの治世中期より各地の州(セパアト、ではと呼ばれる)に拠る州侯たちの勢力が増大し、中央政府の統制力は失われていった。 紀元前2184年にペピ2世が崩御したころには中央政権の統治は有名無実なものとなっており、紀元前2181年に第6王朝が崩壊したことにより古王国時代は終焉した。 エジプト第1中間期(第7 - 10王朝) [ ] 第6王朝崩壊後、首都メンフィスには、という短命で無力な後継王朝が続いたが、実際には各地の州侯たちによる内乱状態が続いていた。 この混乱の時代を総称し、第1中間期と呼ぶ。 やがて上エジプト北部のヘラクレオポリスに興ったがエジプト北部を制圧したものの全土を統一することはできず、上エジプト南部のに勃興したとの南北対立の情勢となった。 エジプト中王国時代(第11 - 12王朝) [ ] 紀元前2060年頃に第11王朝にメンチュヘテプ2世が即位すると、頃に第9王朝の後継であるを打倒してエジプトを再び統一し、時代が始まった。 首都は引き続きにおかれた。 また中王国期に入るとピラミッドの造営も復活したが、第4王朝期のような壮大なピラミッドはもはや建造されず、日干しレンガを多用したものが主となった。 紀元前1991年頃にはアメンエムハト1世によってが開かれ、首都もメンフィス近郊のイチ・タウィへと遷した。 第12王朝期は長い平和が続き、国内の開発も急速に進んだ。 特に歴代の王が力を注いだのは、ナイル川の支流が注ぎこむ広大な沼沢地であったの開発であり、センウセルト2世の時代に着工した干拓工事は王朝後期のアメンエムハト3世時代に完成し、ファイユームは広大な穀倉地帯となった。 センウセレト2世は頃にアル・ラフーンにピラミッド()を造営している。 中王国はヌビアに対するものを除き対外遠征をあまり行わず、とくに方面には軍事進出を行わなかったが、唯一の例外として頃にセンウセレト3世がおよびに遠征した。 センウセレト3世は名君として知られており、国内においては州侯の勢力を削ぎ、行政改革を行って国王の権力を拡大している。 つづくアメンエムハト3世期にも政権は安定しており、頃にはファイユームの開発が完成し、またが造営されている。 しかし彼の死後は短命な政権が続き、紀元前1782年頃には第12王朝が崩壊して中王国期も終焉を迎えた。 エジプト第2中間期(第13 - 17王朝) [ ] 第12王朝からへの継承はスムーズに行われ、制度その他もそのまま引き継がれたものの、王朝の統治力は急速に弱体化していった。 この時期以降、と呼ばれる混乱期にエジプトは突入していく。 まず第13王朝期にはヌビアがエジプトから独立し、ついでなどいくつかの小諸侯が各地に分立したが、やがて紀元前1663年頃には方面からやってきたとされるという異民族によってが立てられ、各地の小諸侯を従属させて覇権を確立した。 下エジプトのに拠点を置いていた第15王朝に対し、一時は従属していたテーベを中心とする勢力がとして独立し、南北分立の体制となった。 また、第15王朝は下エジプトのみならず、隣接するパレスチナも自らの勢力圏としていた。 エジプト新王国時代(第18 - 20王朝) [ ] ツタンカーメン王の黄金マスク 頃、上エジプトを支配していた第17王朝のがヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、時代がはじまった。 イアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらずこれ以後の王朝は慣例としてと呼ばれる。 イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。 これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝はそれまでの古王国期や中王国期とことなり、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。 このため、新王国時代は「時代」とも呼ばれる。 首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。 イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。 次のはの拡張などの内政に力を入れた。 紀元前1524年頃に即位したはこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国へと侵攻し、畔の重要都市まで侵攻してその地に境界石を建立した。 また彼は陵墓の地としてを開発し、以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。 次のは早世したため、紀元前1479年頃に子のが即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるが実権を握り、統治を行っていた。 ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、この時代にとの交易が再開され、またなどとの交易も拡大したが、一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。 紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、実権を握ったは打って変わってアジアへの積極的なを行い、など数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。 続く、、の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。 しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神を奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。 こうしたことから、次のは紀元前1346年ごろにと名乗って伝統的なアメン神を中心にしたを廃止、アメン信仰の中心地である首都テーベからへと遷都し、太陽神のに改める、いわゆるを行った。 このアテン信仰は世界最初のといわれ、アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、国内の統治に集中して戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下する。 紀元前1333年頃に即位した王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、を経てが即位する。 ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、親友であるを後継に指名して死去した。 これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。 王朝が交代したと言ってもラムセス1世への皇位継承は既定路線であり、権力はスムーズに移譲された。 ラムセス1世も老齢であったために即位後ほどなくして死去し、前1291年に即位した次のはアマルナ時代に失われていた北シリア方面へと遠征して再び膨張主義を取るようになった。 紀元前1279年ごろに即位した次のは古代エジプト最大の王と呼ばれ、彼の長い統治の時代に新王国は最盛期を迎えた。 紀元前1274年にはシリア北部ので率いると衝突し、が起きた。 この戦いは痛み分けに終わり、この時結ばれた(現存する最古の平和条約)はのちにヒッタイトの首都から粘土板の形で出土している。 またラムセス2世は国内においてもさまざまな大規模建築物を建設し、下エジプトのデルタ地方東部に新首都ペル・ラムセスを建設して遷都した。 その次の王の時代には紀元前1208年ごろにの侵入を撃退したが、彼の死後は短期間の在位の王が続き、内政は混乱していった。 紀元前1185年頃には第19王朝は絶え、第20王朝が新たに開かれた。 第20王朝第2代のは最後の偉大なファラオと呼ばれ、この時代に新王国は最後の繁栄期を迎えたが、彼の死後は国勢は下り坂に向かい、やがて紀元前1070年頃に第20王朝が滅ぶとともに新王国時代も終わりを告げた。 これ以後古代エジプトが終焉するまでの約1000年は、基本的には他国に対する軍事的劣勢が続いた。 エジプト第3中間期(大司祭国家、第21 - 26王朝) [ ] 第20王朝末期にはテーベを中心とするアメン神官団が勢力を増していき、頃にはアメン神官団の長ヘリホルがテーベに()を立てたことでエジプトは再び南北に分裂することとなった。 紀元前1069年に成立した第21王朝は首都をペル・ラムセスからへと移し、アメン大司祭国家に名目的な宗主権を及ぼした。 紀元前945年には傭兵の子孫であるシェションク1世が下エジプトに第22王朝を開き、アメン大司祭国家を併合して再統一を果たすが、その後は再びアメン大司祭が独立したほか下エジプトに5人の王が分立するなど混乱を極めた。 こうした中、エジプトの強い文化的影響を受けていた南のが勢力を拡大し、紀元前747年にはがヌビアから進撃してエジプト全土を制圧し、第25王朝を開いた。 しかしその後、メソポタミアに強力な帝国を築いたの圧迫にさらされ、にはアッシリア王エセルハドンの侵入をうけて下エジプトが陥落。 一時奪回に成功したものの、王率いるアッシリア軍に紀元前663年にはテーベを落とされて第25王朝のヌビア人はヌビアへと撤退した。 エジプト末期王朝(第27 - 31王朝) [ ] アッシュールバニパルはを支配していたにエジプト統治を委任し間接統治を行った。 この王朝を第26王朝と呼ぶ。 第26王朝は当初はアッシリアの従属王朝であったが、アッシリアの急速な衰退にともなって自立の度を深め、にはネコ1世の子であるプサメティコス1世がアッシリアからの独立を果たす。 これ以後は末期王朝時代と呼ばれ、また第26王朝は首都の名からサイス朝とも呼ばれる。 アッシリアはその後滅亡し、その遺領はエジプト、、、の4つの王朝によって分割された。 プサメティコス1世の次のはパレスチナ・シリア地方へと進出したものの、紀元前605年、で新バビロニアのに敗れてこの進出は頓挫した。 サイス朝時代のエジプトはシリアをめぐって新バビロニアとその後も小競り合いを繰り返しながらも、上記のオリエント4大国のひとつとして大きな勢力を持ったが、にメディアを滅ぼしたのが急速に勢力を伸ばし、リディアおよび新バビロニアが滅ぼされるとそれに圧倒され、にはプサメティコス3世がアケメネス朝のに敗れ、エジプトはペルシアによって征服された。 ペルシアのエジプト支配は121年間に及び、これを第27王朝と呼ぶが、歴代のペルシア王の多くはエジプトの文化に干渉しなかった。 しかしの死後、王位継承争いによってペルシアの統治が緩むと、サイスに勢力を持っていたアミルタイオスが反乱を起こし、にはペルシアからふたたびを達成した。 これが第28王朝である。 第28王朝はアミルタイオス一代で滅び、次いでからにかけては第29王朝が、紀元前378年からは第30王朝が立てられ、約60年間にわたってエジプトは独立を維持したが、東方を統一する大帝国であるアケメネス朝はつねにエジプトの再征服を狙っており、それにおびえながらの不安定な政情が続いた。 そして、アケメネス朝のの軍勢に最後のエジプト人ファラオであるネクタネボ2世が敗れ、エジプトはペルシアに再征服された。 アルタクセルクセス3世はエジプトの信仰を弾圧し、圧政を敷いた。 プトレマイオス朝 [ ] ペルシアのこの圧政は10年間しか継続せず、、王のがエジプトへと侵攻し、占領された。 アレクサンドロスがペルシアを滅ぼすとエジプトもそのままアレクサンドロス帝国の一地方となったが、にアレクサンドロス3世が死去すると後継者たちによってが勃発し、王国は分裂した。 この混乱の中での一人であるプトレマイオスがこの地に拠って勢力を拡大し、にはとして即位することで、古代エジプト最後の王朝であるが建国された。 この王朝は、と並ぶ3王国のひとつであり、国王および王朝の中枢はによって占められていた。 プトレマイオス1世は首都をアレクサンドロスによって建設された海港都市であるに置き、国制を整え、またムセイオンおよびを建設して学術を振興するなどの善政を敷いた。 続くおよびの時代にも繁栄が続いたが、その後は暗愚な王と政局の混乱が続き、またシリアをめぐるセレウコス朝との6回にわたるなどの打ち続く戦争によって国力は疲弊していった。 にはが殺されたことで王家の直系が断絶し、以後は勢力を増していくの影響力が増大していくこととなった。 に即位したはやといったローマの有力者たちと誼を通じることでエジプトの存続を図ったが、に率いるローマ軍にで敗北し、にアレクサンドリアが陥落。 は自殺し、プトレマイオス朝は滅亡した。 これによりエジプトの独立王朝時代は終焉し、以後はローマのとなった。 石器時代から古代エジプトになるまでの歴史 [ ] 新王国時代の墓の壁画に基づく画 古代エジプトの主食はコムギから作るであり、エジプト人は「パン食い人」と呼ばれるほど大量のパンを食べた。 また、による発酵パンが誕生したのもエジプトである。 紀元前3800年頃にオオムギから作るの生産が始まり、紀元前3500年頃にの生産が始まった。 ワインブドウは麦と違い外来作物であり、ワインは高貴な酒で一般市民はビールを飲んだが、後に生産量が増えて市民にも広まった。 ビールはアルコール分が低く、パンと並んで主要な食物とされており、大量に生産・消費された。 ファラオは神権により支配した皇帝。 わずかな例外を除き男性。 継承権は第一皇女にあり、したがって第一皇女の夫がファラオになる。 名前の一部には神の名前が含まれた。 ファラオによって土地を与えられることにより貴族となるが、ファラオが交替したり、王朝が変わると、土地を取り上げられ貴族ではなくなる事も多く、貴族は必ずしも安定した地位にあるわけではなかった。 したのは、エジプトだと言われている。 経済 [ ] 農業 [ ] の・が「エジプトはナイル川の賜物」という言葉を『歴史』に記しているとおり、古代エジプトの主要産業である農業はナイル川の氾濫に多くを負っていた。 ナイル川は6月ごろ、がに降らす雨の影響で氾濫を起こす。 この氾濫は水位の上下はあれど、氾濫が起きないことはほとんどなかったうえ、鉄砲水のような急激な水位上昇もほぼなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。 この氾濫はエチオピア高原から流れてきた肥沃な土壌を氾濫原に蓄積させ、10月ごろに引いていく。 これによりエジプトは肥料の必要もなく、毎年更新される農耕に適した肥沃な土壌が得られた。 浅い水路を掘って洪水時の水をためていたこの方式はベイスン灌漑方式と呼ばれ、19世紀にいたるまでエジプトの耕作方法であり続けた。 作物はとが中心であり、野菜では、、、、などが主に栽培された。 豆類では、。 果実では、、、などがあった。 外国から伝わった作物としては、新王国時代に、、、、。 プトレマイオス朝時代には、などが栽培された。 古王国時代から中央集権の管理下におかれており、水利監督官は洪水の水位によって収穫量を予測した。 耕地面積や収穫量は記録され、収穫量をもとに徴税が行われて国庫に貯蔵され、食料不足の際にはされた。 農民の大部分は農奴であったが、新王国時代になると報酬によって雇われる農民や、自立農民が増加した。 対外関係と交易 [ ] エジプトの本国はナイル川の領域に限られており、それ以外の地域は基本的にすべて外国とみなされていた。 ナイル川流域でも、エレファンティネ()の南にある第一急流によって船の遡上が阻害されるため、それより南は外国とみなされていた。 この南の地域はと総称され、古王国以降の歴代王朝はたびたび侵攻し徐々に支配地域を南下させていったものの、動乱期になるとこの地域は再び独立し、統一期になると再びエジプトの支配下に入ることを繰り返した。 この過程でヌビア地方はエジプトの強い影響を受け、のちに成立した王国においてもピラミッドの建設()をはじめとするエジプト文化の影響が各所にみられる。 ヌビア以外の諸外国については中王国時代までは積極的な侵攻をかけることはほとんどなく、交易関係にとどまっていたものの、新王国期にはいるとヒクソスの地盤であったパレスチナ地方への侵攻を皮切りに、パレスチナやシリア地方の小国群の支配権をめぐってミタンニやヒッタイト、バビロニアなどの諸国と抗争を繰り広げるようになった。 また、古王国期から新王国期末までの期間は、アフリカ東部にあったと推定されていると盛んに交易を行い、や、などを輸入していた。 エジプトの主要交易品と言えばであった。 金は上エジプトのコプトスより東に延びるワディ・ハンママート周辺や、ヌビアのワワトやクシュから産出された。 この豊富な金を背景にエジプトは盛んに交易を行い、国内において乏しい木材・鉱物資源を手に入れるため、、、 、などをシリア、パレスチナ、エチオピア、イラク、イラン、アナトリア、アフガニスタン等から輸入していた。 とくに造船材料として必須である木材は国内で全く産出せず、良材であるレバノン杉を産するのなどからに輸入に頼っていた。 ビブロスは中王国期にはエジプト向けの交易の主要拠点となり、当時エジプト人は海外交易船を総称してビブロス船と呼んだ。 ビブロスからはまた、キプロスから産出される豊富な銅もエジプトに向け出荷されていた。 このほかのも、エジプトと盛んに交易を行っていた。 下エジプト東端からパレスチナ方面にはホルスの道と呼ばれる交易路が沿いに伸びており、陸路の交易路の中心となっていた。 沿いには中王国期以降エジプトの支配する港が存在し、上エジプトのナイル屈曲部から東へ砂漠の中を延びるルートによって結ばれていた。 この紅海の港を通じてプントやインド洋沿海諸国との交易がおこなわれた。 通貨 [ ] 貨幣には貴金属が使われた。 初期はだったが、後期には幣が用いられた。 興味深い例としては、穀物を倉庫に預けた「預り証」が、通貨として使われたこともある。 穀物は古くなると価値が落ちるため、この通貨は時間の経過とともに貨幣価値が落ちていく。 結果として、通貨を何かと交換して手にいれたら、出来るだけ早く他の物と交換するという行為が行われたため、が早まった。 その結果、古代エジプトの経済が発達したという説があり、の研究者によって注目されている。 また、ローマの影響下で貨幣が使われるようになった結果、「価値の減っていく通貨」による流通の促進が止まり、貨幣による富の蓄積が行われるようになりエジプトの経済が没落したという説もある [ ]。 文化 [ ] 数学 [ ] 詳細は「」を参照 エジプトのは、統一王朝成立以前にである(hieroglyph、聖刻文字、神聖文字)とである(Hieratic; 神官文字)の二つが成立した。 ヒエログリフの方がより正式な文字として使用されたが、この二つの文字は並行して発展した。 この両文字が誕生してからはるか後世にあたるごろに、ヒエラティックを崩してより簡略化した(民衆文字、Demotic)が誕生し、紀元前600年頃にはデモティックがもっとも一般的な文字となった。 この文字を元に様々なが成立し、エジプト文学はシュメール文学と共に、世界最古の文学と考えられている。 古王国時代には、讃歌や詩、自伝的追悼文などの文学的作品が存在していた。 中王国時代からは物語文学も現れ、悲嘆文学、、などのジャンルが存在した『』などの作品は、現在まで伝わっている。 書写材料としては(パピルス草)から作られるが主に用いられた。 教育 [ ] 古代エジプトの教育制度については、どのパピルス文書にも、明確なことは記されていないが、知恵文学やその他のテキストからは、古代エジプト人が持っていた教育の目的や教育の内容に関する実際的な知識を僅かながら知ることができる。 裕福な農民の子供たちを含む、裕福な家庭の子供は14歳になるまでの間、公的な教育が施された。 裕福な農民の子は、神殿付属の学校へ、中流以上の子供は政府の建てた学校へ通った。 それ以外の貧しい家庭の子と下層民の子弟の子達は、教育を受けなかったようである。 授業内容は学校の目的によって異なり、神殿付属の学校では、宗教儀礼に関する書物を写したり、宗教文学、葬祭の経典、経典の注解、神話物語などを勉強し、政府の学校では、算数、幾何学、測量術、簿記、官庁の書類作成などを学んだ。 他には、水泳やボート、レスリング、ボール競技、弓などといったスポーツも含まれていた。 また、体罰 鞭打ちや学校の一室に監禁 は、怠けたり、言うことを聞かない生徒を正す良い方法であると思われていた。 後世、ギリシャ人もこうした制度を非常に高く評価している。 大貴族の息子の中には、王家の子供たちの教育にあたる教師のクラスに通う者もあったようである。 他の者は、将来の役人を養成する学校に通っていた。 14歳になると、医師や法律家そして書記を志望する子供たちは、さらに勉学を進めるために神殿へ送られた。 神殿には立派な図書館があり、そこにはさまざまな学問分野のパピルス文書が保管されており、また神官たちは、さまざまな教育設備を用意していた。 学生の訓練には、理論的なものと、実際的なものとの双方が用意されており、授業は、神殿内部の「生命の家」と呼ばれる場所で行なわれていたようである。 この場所では、テキストの写本が作られ、保管されていた。 医学的な訓練としては、神殿の周辺地区で実際の患者の治療などが行なわれていたようである。 この教育がどういう形で行なわれていたかは、ほとんど明らかではないし、試験などがあったかどうかも定かではない。 男子とは違い、女子に対する教育は、必要最低限のもので、王女を除いては、特に教育を受けることもなく、読み書きができる者もほとんどいなかった。 彼女たちは、家庭にあり母親の手伝いを通じて、必要とする技術を習得した。 法律 [ ] 古王国時代、現存する最古の記録が書かれる以前に、こうした法体系は原始的なものから洗練されたものへと発展していたようで、最古の記録から、既に法が公的な手順を踏んでいたことが明らかとなっている。 多くの法的な問題としては、葬送や財産に関する問題やカー神官の土地の分配などの問題を取り扱っていた。 理論的には、王は絶対君主であり、また唯一の立法者でもあり、そして臣下の人々の生と死、労働、および財産に対して絶対的な力を持っていたが、現実には、民間の法律が存在し、財産の問題などは民間の法律によって処理された。 一般に刑罰は厳しかったが、法自体は、他の古代社会に比して人間的なものであり、特に婦女子は法的に保護されていた。 しかしながら、第19王朝には、裁判の方法に関して問題が起こった。 当時、二種類の法廷があり、そのひとつは地方の裁判所 ケネベト で、これは役人を裁判長とし、地域の有力者によって構成されたもので、ほとんどの事件を処理することができた。 もうひとつの法廷は、いわば最高裁判所にあたるものでテーベにあり、宰相の下で、死刑に当たるほどの重罪を扱う機関であった。 全ての証拠が提出され、裁判官たちによって検討され、判決は訴訟に負けた側が、その負けを認めた後で下された。 しかし、第19王朝以降、判決が神託によって出される場合が生じるようになった。 神の像が裁判官となり、また神の意志が像の前で行なわれる儀式によって伝えられた。 原告は、像の前に立って容疑者の名のリストを読み上げ、犯人の名が呼ばれた時に、神像が何らかの兆候を見せると信じられていた。 こうした方法は、明らかに裁判所の堕落と裁判の悪用を招くものであった。 新王国時代の法律および、それに関する資料は、第20王朝以降のテキストに見ることができる。 社会状況は暗く、貧困が蔓延していたために、この時代になると、もともと普通のことであった墓泥棒があまりにも目に余るものとなってきて、王は墓泥棒たちに対して法的処置を講じ、裁判を行なうようになった。 葬制 [ ] 古代エジプトの象徴ともいえるものがであるが、初期の王墓の形式であったに代わりピラミッドが成立したのが古王国時代の第3王朝期であり、を含むが建設されてピラミッドが最盛期を迎えたのが第4王朝期と、著名なピラミッドの建設された時期は古王国時代の一時期に限られ、エジプトの長い歴史においては比較的短期間のことである。 以後、古王国時代を通じてピラミッドは建設され、中王国時代にも一時建設が復活するものの、技術的にも材料的にも最盛期ほどのレベルに到達することはなく、徐々に衰退していった。 ただしそれに代わり、付属の墓地群などが拡大し、葬祭における重点が移動していった。 新王国期に入るとピラミッドは建設されなくなり、王の墓はに埋葬されるようになった。 その他 [ ] 建築材料としてはが主流であり、も多用された。 特にや、などが盛んに採掘され、豊富な石材と優れた技術を元にピラミッドや、、、といった現在も残る大建造物が続々と建設された。 エジプトにはが存在しないためを産出せず、建築には使用されなかったが、ツタンカーメン時代には国力を背景に交易で各地の木材を入手し、寄せ木や曲げ木などの高度な技法を用いたを製作している。 出典・脚注 [ ] []• 上下というのはナイル川の上流・下流という意味であり、ナイル川は北に向かって流れているため、北にあたる地域が下エジプトである(逆もまた然り)。 「地図で読む世界の歴史 古代エジプト」p18 ビル・マンリー著、鈴木まどか訳 河出書房新社 1998年7月15日初版発行• 『世界経済史』p64 中村勝己 講談社学術文庫、1994年• 「パンの文化史」p106 舟田詠子 講談社学術文庫 2013年12月10日第1刷発行• 吉村作治『ファラオの食卓』 1章• 「古代エジプトの歴史 新王国時代からプトレマイオス朝時代まで」p37 山花京子 慶應義塾大学出版会 2010年9月25日初版第1刷• 「海を渡った人類の遙かな歴史 名もなき古代の海洋民はいかに航海したのか」p138 ブライアン・フェイガン著 東郷えりか訳 河出書房新社 2013年5月30日初版• 古代オリエント集. 筑摩書房. 1978年4月30日 1999• 古代オリエント集. 筑摩書房. 1978年4月30日 1999• 古代オリエント集. 筑摩書房. 1978年4月30日 1999• David, Ann Rosalie. 筑摩書房. 1986. - 関連項目 [ ]• 著名な研究者• 古代エジプトを題材にしたフィクションを多数著している作家•

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古代エジプト

エジプト 宇宙 人

概説 [ ] エジプトは不毛の地帯であるが、毎年春のの増水で水に覆われる地域には河土が運ばれて堆積し、農耕や灌漑が可能になる。 このだけが居住に適しており、主な活動はナイル河畔で行われた。 ナイル川の恩恵を受ける地域はケメト(黒い大地)と呼ばれ、ケメトはエジプトそのものを指す言葉として周囲に広がるデシェレト(赤い大地、ナイル川の恩恵を受けない荒地)と対比される概念だった。 このケメトの範囲の幅は非常に狭く、ナイル川の本流・支流から数kmの範囲にとどまっていた。 しかしながら川の周囲にのみ人が集住しているということは交通においては非常に便利であり、川船を使って国内のどの地域にも素早い移動が可能であった。 この利便性は、ナイル河畔に住む人々の交流を盛んにし、統一国家を建国し維持する基盤となった。 ナイル川本流からナイル川の上流は谷合でありナイル川1本だけが流れ、下流はデルタ地帯()が広がっている。 最初に上流地域()と下流地域() でそれぞれ違った文化が発展した後に統一されたため、()の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。 毎年のナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ、が作られた。 太陽と星が同時に昇る頃、ナイル川は氾濫したという。 また、氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため、、、が発達した。 から派生した()は世界の殆どのの起源となったされる。 エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つであるが、民族移動の交差点にあたり終始異民族の侵入を被り支配民族が代わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定しており、部族社会が城壁を廻らせて成立するの痕跡は今の所発見されていない。 古代エジプトの歴史 [ ] 詳細は「」を参照 古代エジプト人は、のように「『王の名前』の統治何年目」のように歴史を記録していた。 そのため、絶対的な年代表記法に置き換えた時に、幾分かの誤差があるだろうと言われる。 初期王朝の始まりも、5年から20年ほどの誤差がある可能性が指摘されている。 古代エジプトは、次の時代に区分されている。 (頃-)• (紀元前3150年-)• (紀元前2686年-)• (紀元前2181年-)• (紀元前2040年-)• (紀元前1663年-)• (紀元前1570年-)• (紀元前1069年-)• (紀元前525年-)• (紀元前332年-) エジプト原始王朝時代(黎明期、上エジプト、下エジプト) [ ]。 上から順に、古代エジプトの、(草書体)、を用いて同じ内容の文章が記されている。 が誕生し、人々が定住し農耕を開始したのは、およそ紀元前5000年ごろと考えられており 、紀元前4500年ごろには畔にが成立し、紀元前4400年ごろからは上エジプトの峡谷地帯を中心にが興った。 この時期のエジプトはいくつもの部族国家に分裂しており、やがてこの国家群が徐々に統合されていくつかの国家にまとまりはじめた。 ただし統合された部族国家は地域的なまとまりをもち続け、に22、に20、合計約42あると呼ばれるとしてエジプト各王朝の行政単位となっていった。 頃にはまず上エジプト、そして下エジプト、二つのが成立したと考えられている。 頃にはヒエログリフのが確立し、()が普及した。 エジプト初期王朝時代(第1 - 2王朝) [ ] 頃、上エジプトの王が下エジプトを軍事的に征服し、上下エジプトを統一してを開いたとされる。 従来はエジプト第1王朝の建国者とされてきた王がナルメル王にあたるのか、それとも別の王に比定されるのかについては諸説ある。 また、ナルメルは上下エジプトの王として確認される最古の王であるが、ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。 ヘロドトスによれば第1王朝期に、上下エジプトの境界地域に首都としてメン・ネフェル()が築かれたとされ、以後第一中間期の第8王朝にいたるまでエジプトの各王朝はここに都した。 エジプト第1王朝は紀元前2890年頃に王統の交代によってとなった。 この初期王朝時代の2王朝については史料が少なく、不明な点も多い。 エジプト古王国時代(第3 - 6王朝) [ ] の。 左手前から、、、のピラミッド。 紀元前2686年頃成立したからは、エジプト古王国期と呼ばれ、エジプト最初の繁栄期に入る。 首都は一貫してに置かれた。 古王国時代には中央政権が安定し、強力な王権が成立していた。 このことを示すのが、頃に第3王朝第2代の王である王が建設した階段ピラミッドである。 このピラミッドは当初それまでの一般的な墓の形式であったで建設されたが、宰相による数度の設計変更を経て、最終的にマスタバを6段積み重ねたような階段状の王墓となった。 これがエジプト史上最古のとされるである。 このピラミッドは以後の王墓建設に巨大な影響を与え、以後マスタバに代わりピラミッドが王墓の中心的な形式となった。 紀元前2613年にはが即位し、が始まる。 この第4王朝期には経済が成長し、またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。 スネフェル王は頃に、、に遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、まずを、さらに世界初の真正ピラミッドであるを建設した。 スネフェルの次の王であるの時代に、ピラミッド建設は頂点を迎え、世界最大のピラミッドであるが建設された。 その後、クフの2代あとにあたる王がとその門前にあるを建造し、さらにその次の王がを建設し、ピラミッドの建設は頂点に達した。 この3つのピラミッドはと呼ばれ、エジプト古王国時代を代表する建造物となっている。 この後、に入ると経済は引き続き繁栄していたものの、ピラミッドの意味が変質してクフ王時代のような巨大な石造りのものを建てられることはなくなり、材料も日干しレンガを使用したことで耐久性の低いものとなった。 続くも長い安定の時期を保ったが、紀元前2383年に即位し94年間在位したの治世中期より各地の州(セパアト、ではと呼ばれる)に拠る州侯たちの勢力が増大し、中央政府の統制力は失われていった。 紀元前2184年にペピ2世が崩御したころには中央政権の統治は有名無実なものとなっており、紀元前2181年に第6王朝が崩壊したことにより古王国時代は終焉した。 エジプト第1中間期(第7 - 10王朝) [ ] 第6王朝崩壊後、首都メンフィスには、という短命で無力な後継王朝が続いたが、実際には各地の州侯たちによる内乱状態が続いていた。 この混乱の時代を総称し、第1中間期と呼ぶ。 やがて上エジプト北部のヘラクレオポリスに興ったがエジプト北部を制圧したものの全土を統一することはできず、上エジプト南部のに勃興したとの南北対立の情勢となった。 エジプト中王国時代(第11 - 12王朝) [ ] 紀元前2060年頃に第11王朝にメンチュヘテプ2世が即位すると、頃に第9王朝の後継であるを打倒してエジプトを再び統一し、時代が始まった。 首都は引き続きにおかれた。 また中王国期に入るとピラミッドの造営も復活したが、第4王朝期のような壮大なピラミッドはもはや建造されず、日干しレンガを多用したものが主となった。 紀元前1991年頃にはアメンエムハト1世によってが開かれ、首都もメンフィス近郊のイチ・タウィへと遷した。 第12王朝期は長い平和が続き、国内の開発も急速に進んだ。 特に歴代の王が力を注いだのは、ナイル川の支流が注ぎこむ広大な沼沢地であったの開発であり、センウセルト2世の時代に着工した干拓工事は王朝後期のアメンエムハト3世時代に完成し、ファイユームは広大な穀倉地帯となった。 センウセレト2世は頃にアル・ラフーンにピラミッド()を造営している。 中王国はヌビアに対するものを除き対外遠征をあまり行わず、とくに方面には軍事進出を行わなかったが、唯一の例外として頃にセンウセレト3世がおよびに遠征した。 センウセレト3世は名君として知られており、国内においては州侯の勢力を削ぎ、行政改革を行って国王の権力を拡大している。 つづくアメンエムハト3世期にも政権は安定しており、頃にはファイユームの開発が完成し、またが造営されている。 しかし彼の死後は短命な政権が続き、紀元前1782年頃には第12王朝が崩壊して中王国期も終焉を迎えた。 エジプト第2中間期(第13 - 17王朝) [ ] 第12王朝からへの継承はスムーズに行われ、制度その他もそのまま引き継がれたものの、王朝の統治力は急速に弱体化していった。 この時期以降、と呼ばれる混乱期にエジプトは突入していく。 まず第13王朝期にはヌビアがエジプトから独立し、ついでなどいくつかの小諸侯が各地に分立したが、やがて紀元前1663年頃には方面からやってきたとされるという異民族によってが立てられ、各地の小諸侯を従属させて覇権を確立した。 下エジプトのに拠点を置いていた第15王朝に対し、一時は従属していたテーベを中心とする勢力がとして独立し、南北分立の体制となった。 また、第15王朝は下エジプトのみならず、隣接するパレスチナも自らの勢力圏としていた。 エジプト新王国時代(第18 - 20王朝) [ ] ツタンカーメン王の黄金マスク 頃、上エジプトを支配していた第17王朝のがヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、時代がはじまった。 イアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらずこれ以後の王朝は慣例としてと呼ばれる。 イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。 これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝はそれまでの古王国期や中王国期とことなり、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。 このため、新王国時代は「時代」とも呼ばれる。 首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。 イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出し、この地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。 次のはの拡張などの内政に力を入れた。 紀元前1524年頃に即位したはこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行い、ティグリス・ユーフラテス川上流部を地盤とする大国へと侵攻し、畔の重要都市まで侵攻してその地に境界石を建立した。 また彼は陵墓の地としてを開発し、以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。 次のは早世したため、紀元前1479年頃に子のが即位したものの若年であったため、実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるが実権を握り、統治を行っていた。 ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視し、この時代にとの交易が再開され、またなどとの交易も拡大したが、一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリア・パレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。 紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、実権を握ったは打って変わってアジアへの積極的なを行い、など数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。 続く、、の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。 しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神を奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。 こうしたことから、次のは紀元前1346年ごろにと名乗って伝統的なアメン神を中心にしたを廃止、アメン信仰の中心地である首都テーベからへと遷都し、太陽神のに改める、いわゆるを行った。 このアテン信仰は世界最初のといわれ、アマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが、国内の統治に集中して戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリア・パレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下する。 紀元前1333年頃に即位した王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、を経てが即位する。 ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継嗣がおらず、親友であるを後継に指名して死去した。 これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。 王朝が交代したと言ってもラムセス1世への皇位継承は既定路線であり、権力はスムーズに移譲された。 ラムセス1世も老齢であったために即位後ほどなくして死去し、前1291年に即位した次のはアマルナ時代に失われていた北シリア方面へと遠征して再び膨張主義を取るようになった。 紀元前1279年ごろに即位した次のは古代エジプト最大の王と呼ばれ、彼の長い統治の時代に新王国は最盛期を迎えた。 紀元前1274年にはシリア北部ので率いると衝突し、が起きた。 この戦いは痛み分けに終わり、この時結ばれた(現存する最古の平和条約)はのちにヒッタイトの首都から粘土板の形で出土している。 またラムセス2世は国内においてもさまざまな大規模建築物を建設し、下エジプトのデルタ地方東部に新首都ペル・ラムセスを建設して遷都した。 その次の王の時代には紀元前1208年ごろにの侵入を撃退したが、彼の死後は短期間の在位の王が続き、内政は混乱していった。 紀元前1185年頃には第19王朝は絶え、第20王朝が新たに開かれた。 第20王朝第2代のは最後の偉大なファラオと呼ばれ、この時代に新王国は最後の繁栄期を迎えたが、彼の死後は国勢は下り坂に向かい、やがて紀元前1070年頃に第20王朝が滅ぶとともに新王国時代も終わりを告げた。 これ以後古代エジプトが終焉するまでの約1000年は、基本的には他国に対する軍事的劣勢が続いた。 エジプト第3中間期(大司祭国家、第21 - 26王朝) [ ] 第20王朝末期にはテーベを中心とするアメン神官団が勢力を増していき、頃にはアメン神官団の長ヘリホルがテーベに()を立てたことでエジプトは再び南北に分裂することとなった。 紀元前1069年に成立した第21王朝は首都をペル・ラムセスからへと移し、アメン大司祭国家に名目的な宗主権を及ぼした。 紀元前945年には傭兵の子孫であるシェションク1世が下エジプトに第22王朝を開き、アメン大司祭国家を併合して再統一を果たすが、その後は再びアメン大司祭が独立したほか下エジプトに5人の王が分立するなど混乱を極めた。 こうした中、エジプトの強い文化的影響を受けていた南のが勢力を拡大し、紀元前747年にはがヌビアから進撃してエジプト全土を制圧し、第25王朝を開いた。 しかしその後、メソポタミアに強力な帝国を築いたの圧迫にさらされ、にはアッシリア王エセルハドンの侵入をうけて下エジプトが陥落。 一時奪回に成功したものの、王率いるアッシリア軍に紀元前663年にはテーベを落とされて第25王朝のヌビア人はヌビアへと撤退した。 エジプト末期王朝(第27 - 31王朝) [ ] アッシュールバニパルはを支配していたにエジプト統治を委任し間接統治を行った。 この王朝を第26王朝と呼ぶ。 第26王朝は当初はアッシリアの従属王朝であったが、アッシリアの急速な衰退にともなって自立の度を深め、にはネコ1世の子であるプサメティコス1世がアッシリアからの独立を果たす。 これ以後は末期王朝時代と呼ばれ、また第26王朝は首都の名からサイス朝とも呼ばれる。 アッシリアはその後滅亡し、その遺領はエジプト、、、の4つの王朝によって分割された。 プサメティコス1世の次のはパレスチナ・シリア地方へと進出したものの、紀元前605年、で新バビロニアのに敗れてこの進出は頓挫した。 サイス朝時代のエジプトはシリアをめぐって新バビロニアとその後も小競り合いを繰り返しながらも、上記のオリエント4大国のひとつとして大きな勢力を持ったが、にメディアを滅ぼしたのが急速に勢力を伸ばし、リディアおよび新バビロニアが滅ぼされるとそれに圧倒され、にはプサメティコス3世がアケメネス朝のに敗れ、エジプトはペルシアによって征服された。 ペルシアのエジプト支配は121年間に及び、これを第27王朝と呼ぶが、歴代のペルシア王の多くはエジプトの文化に干渉しなかった。 しかしの死後、王位継承争いによってペルシアの統治が緩むと、サイスに勢力を持っていたアミルタイオスが反乱を起こし、にはペルシアからふたたびを達成した。 これが第28王朝である。 第28王朝はアミルタイオス一代で滅び、次いでからにかけては第29王朝が、紀元前378年からは第30王朝が立てられ、約60年間にわたってエジプトは独立を維持したが、東方を統一する大帝国であるアケメネス朝はつねにエジプトの再征服を狙っており、それにおびえながらの不安定な政情が続いた。 そして、アケメネス朝のの軍勢に最後のエジプト人ファラオであるネクタネボ2世が敗れ、エジプトはペルシアに再征服された。 アルタクセルクセス3世はエジプトの信仰を弾圧し、圧政を敷いた。 プトレマイオス朝 [ ] ペルシアのこの圧政は10年間しか継続せず、、王のがエジプトへと侵攻し、占領された。 アレクサンドロスがペルシアを滅ぼすとエジプトもそのままアレクサンドロス帝国の一地方となったが、にアレクサンドロス3世が死去すると後継者たちによってが勃発し、王国は分裂した。 この混乱の中での一人であるプトレマイオスがこの地に拠って勢力を拡大し、にはとして即位することで、古代エジプト最後の王朝であるが建国された。 この王朝は、と並ぶ3王国のひとつであり、国王および王朝の中枢はによって占められていた。 プトレマイオス1世は首都をアレクサンドロスによって建設された海港都市であるに置き、国制を整え、またムセイオンおよびを建設して学術を振興するなどの善政を敷いた。 続くおよびの時代にも繁栄が続いたが、その後は暗愚な王と政局の混乱が続き、またシリアをめぐるセレウコス朝との6回にわたるなどの打ち続く戦争によって国力は疲弊していった。 にはが殺されたことで王家の直系が断絶し、以後は勢力を増していくの影響力が増大していくこととなった。 に即位したはやといったローマの有力者たちと誼を通じることでエジプトの存続を図ったが、に率いるローマ軍にで敗北し、にアレクサンドリアが陥落。 は自殺し、プトレマイオス朝は滅亡した。 これによりエジプトの独立王朝時代は終焉し、以後はローマのとなった。 石器時代から古代エジプトになるまでの歴史 [ ] 新王国時代の墓の壁画に基づく画 古代エジプトの主食はコムギから作るであり、エジプト人は「パン食い人」と呼ばれるほど大量のパンを食べた。 また、による発酵パンが誕生したのもエジプトである。 紀元前3800年頃にオオムギから作るの生産が始まり、紀元前3500年頃にの生産が始まった。 ワインブドウは麦と違い外来作物であり、ワインは高貴な酒で一般市民はビールを飲んだが、後に生産量が増えて市民にも広まった。 ビールはアルコール分が低く、パンと並んで主要な食物とされており、大量に生産・消費された。 ファラオは神権により支配した皇帝。 わずかな例外を除き男性。 継承権は第一皇女にあり、したがって第一皇女の夫がファラオになる。 名前の一部には神の名前が含まれた。 ファラオによって土地を与えられることにより貴族となるが、ファラオが交替したり、王朝が変わると、土地を取り上げられ貴族ではなくなる事も多く、貴族は必ずしも安定した地位にあるわけではなかった。 したのは、エジプトだと言われている。 経済 [ ] 農業 [ ] の・が「エジプトはナイル川の賜物」という言葉を『歴史』に記しているとおり、古代エジプトの主要産業である農業はナイル川の氾濫に多くを負っていた。 ナイル川は6月ごろ、がに降らす雨の影響で氾濫を起こす。 この氾濫は水位の上下はあれど、氾濫が起きないことはほとんどなかったうえ、鉄砲水のような急激な水位上昇もほぼなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。 この氾濫はエチオピア高原から流れてきた肥沃な土壌を氾濫原に蓄積させ、10月ごろに引いていく。 これによりエジプトは肥料の必要もなく、毎年更新される農耕に適した肥沃な土壌が得られた。 浅い水路を掘って洪水時の水をためていたこの方式はベイスン灌漑方式と呼ばれ、19世紀にいたるまでエジプトの耕作方法であり続けた。 作物はとが中心であり、野菜では、、、、などが主に栽培された。 豆類では、。 果実では、、、などがあった。 外国から伝わった作物としては、新王国時代に、、、、。 プトレマイオス朝時代には、などが栽培された。 古王国時代から中央集権の管理下におかれており、水利監督官は洪水の水位によって収穫量を予測した。 耕地面積や収穫量は記録され、収穫量をもとに徴税が行われて国庫に貯蔵され、食料不足の際にはされた。 農民の大部分は農奴であったが、新王国時代になると報酬によって雇われる農民や、自立農民が増加した。 対外関係と交易 [ ] エジプトの本国はナイル川の領域に限られており、それ以外の地域は基本的にすべて外国とみなされていた。 ナイル川流域でも、エレファンティネ()の南にある第一急流によって船の遡上が阻害されるため、それより南は外国とみなされていた。 この南の地域はと総称され、古王国以降の歴代王朝はたびたび侵攻し徐々に支配地域を南下させていったものの、動乱期になるとこの地域は再び独立し、統一期になると再びエジプトの支配下に入ることを繰り返した。 この過程でヌビア地方はエジプトの強い影響を受け、のちに成立した王国においてもピラミッドの建設()をはじめとするエジプト文化の影響が各所にみられる。 ヌビア以外の諸外国については中王国時代までは積極的な侵攻をかけることはほとんどなく、交易関係にとどまっていたものの、新王国期にはいるとヒクソスの地盤であったパレスチナ地方への侵攻を皮切りに、パレスチナやシリア地方の小国群の支配権をめぐってミタンニやヒッタイト、バビロニアなどの諸国と抗争を繰り広げるようになった。 また、古王国期から新王国期末までの期間は、アフリカ東部にあったと推定されていると盛んに交易を行い、や、などを輸入していた。 エジプトの主要交易品と言えばであった。 金は上エジプトのコプトスより東に延びるワディ・ハンママート周辺や、ヌビアのワワトやクシュから産出された。 この豊富な金を背景にエジプトは盛んに交易を行い、国内において乏しい木材・鉱物資源を手に入れるため、、、 、などをシリア、パレスチナ、エチオピア、イラク、イラン、アナトリア、アフガニスタン等から輸入していた。 とくに造船材料として必須である木材は国内で全く産出せず、良材であるレバノン杉を産するのなどからに輸入に頼っていた。 ビブロスは中王国期にはエジプト向けの交易の主要拠点となり、当時エジプト人は海外交易船を総称してビブロス船と呼んだ。 ビブロスからはまた、キプロスから産出される豊富な銅もエジプトに向け出荷されていた。 このほかのも、エジプトと盛んに交易を行っていた。 下エジプト東端からパレスチナ方面にはホルスの道と呼ばれる交易路が沿いに伸びており、陸路の交易路の中心となっていた。 沿いには中王国期以降エジプトの支配する港が存在し、上エジプトのナイル屈曲部から東へ砂漠の中を延びるルートによって結ばれていた。 この紅海の港を通じてプントやインド洋沿海諸国との交易がおこなわれた。 通貨 [ ] 貨幣には貴金属が使われた。 初期はだったが、後期には幣が用いられた。 興味深い例としては、穀物を倉庫に預けた「預り証」が、通貨として使われたこともある。 穀物は古くなると価値が落ちるため、この通貨は時間の経過とともに貨幣価値が落ちていく。 結果として、通貨を何かと交換して手にいれたら、出来るだけ早く他の物と交換するという行為が行われたため、が早まった。 その結果、古代エジプトの経済が発達したという説があり、の研究者によって注目されている。 また、ローマの影響下で貨幣が使われるようになった結果、「価値の減っていく通貨」による流通の促進が止まり、貨幣による富の蓄積が行われるようになりエジプトの経済が没落したという説もある [ ]。 文化 [ ] 数学 [ ] 詳細は「」を参照 エジプトのは、統一王朝成立以前にである(hieroglyph、聖刻文字、神聖文字)とである(Hieratic; 神官文字)の二つが成立した。 ヒエログリフの方がより正式な文字として使用されたが、この二つの文字は並行して発展した。 この両文字が誕生してからはるか後世にあたるごろに、ヒエラティックを崩してより簡略化した(民衆文字、Demotic)が誕生し、紀元前600年頃にはデモティックがもっとも一般的な文字となった。 この文字を元に様々なが成立し、エジプト文学はシュメール文学と共に、世界最古の文学と考えられている。 古王国時代には、讃歌や詩、自伝的追悼文などの文学的作品が存在していた。 中王国時代からは物語文学も現れ、悲嘆文学、、などのジャンルが存在した『』などの作品は、現在まで伝わっている。 書写材料としては(パピルス草)から作られるが主に用いられた。 教育 [ ] 古代エジプトの教育制度については、どのパピルス文書にも、明確なことは記されていないが、知恵文学やその他のテキストからは、古代エジプト人が持っていた教育の目的や教育の内容に関する実際的な知識を僅かながら知ることができる。 裕福な農民の子供たちを含む、裕福な家庭の子供は14歳になるまでの間、公的な教育が施された。 裕福な農民の子は、神殿付属の学校へ、中流以上の子供は政府の建てた学校へ通った。 それ以外の貧しい家庭の子と下層民の子弟の子達は、教育を受けなかったようである。 授業内容は学校の目的によって異なり、神殿付属の学校では、宗教儀礼に関する書物を写したり、宗教文学、葬祭の経典、経典の注解、神話物語などを勉強し、政府の学校では、算数、幾何学、測量術、簿記、官庁の書類作成などを学んだ。 他には、水泳やボート、レスリング、ボール競技、弓などといったスポーツも含まれていた。 また、体罰 鞭打ちや学校の一室に監禁 は、怠けたり、言うことを聞かない生徒を正す良い方法であると思われていた。 後世、ギリシャ人もこうした制度を非常に高く評価している。 大貴族の息子の中には、王家の子供たちの教育にあたる教師のクラスに通う者もあったようである。 他の者は、将来の役人を養成する学校に通っていた。 14歳になると、医師や法律家そして書記を志望する子供たちは、さらに勉学を進めるために神殿へ送られた。 神殿には立派な図書館があり、そこにはさまざまな学問分野のパピルス文書が保管されており、また神官たちは、さまざまな教育設備を用意していた。 学生の訓練には、理論的なものと、実際的なものとの双方が用意されており、授業は、神殿内部の「生命の家」と呼ばれる場所で行なわれていたようである。 この場所では、テキストの写本が作られ、保管されていた。 医学的な訓練としては、神殿の周辺地区で実際の患者の治療などが行なわれていたようである。 この教育がどういう形で行なわれていたかは、ほとんど明らかではないし、試験などがあったかどうかも定かではない。 男子とは違い、女子に対する教育は、必要最低限のもので、王女を除いては、特に教育を受けることもなく、読み書きができる者もほとんどいなかった。 彼女たちは、家庭にあり母親の手伝いを通じて、必要とする技術を習得した。 法律 [ ] 古王国時代、現存する最古の記録が書かれる以前に、こうした法体系は原始的なものから洗練されたものへと発展していたようで、最古の記録から、既に法が公的な手順を踏んでいたことが明らかとなっている。 多くの法的な問題としては、葬送や財産に関する問題やカー神官の土地の分配などの問題を取り扱っていた。 理論的には、王は絶対君主であり、また唯一の立法者でもあり、そして臣下の人々の生と死、労働、および財産に対して絶対的な力を持っていたが、現実には、民間の法律が存在し、財産の問題などは民間の法律によって処理された。 一般に刑罰は厳しかったが、法自体は、他の古代社会に比して人間的なものであり、特に婦女子は法的に保護されていた。 しかしながら、第19王朝には、裁判の方法に関して問題が起こった。 当時、二種類の法廷があり、そのひとつは地方の裁判所 ケネベト で、これは役人を裁判長とし、地域の有力者によって構成されたもので、ほとんどの事件を処理することができた。 もうひとつの法廷は、いわば最高裁判所にあたるものでテーベにあり、宰相の下で、死刑に当たるほどの重罪を扱う機関であった。 全ての証拠が提出され、裁判官たちによって検討され、判決は訴訟に負けた側が、その負けを認めた後で下された。 しかし、第19王朝以降、判決が神託によって出される場合が生じるようになった。 神の像が裁判官となり、また神の意志が像の前で行なわれる儀式によって伝えられた。 原告は、像の前に立って容疑者の名のリストを読み上げ、犯人の名が呼ばれた時に、神像が何らかの兆候を見せると信じられていた。 こうした方法は、明らかに裁判所の堕落と裁判の悪用を招くものであった。 新王国時代の法律および、それに関する資料は、第20王朝以降のテキストに見ることができる。 社会状況は暗く、貧困が蔓延していたために、この時代になると、もともと普通のことであった墓泥棒があまりにも目に余るものとなってきて、王は墓泥棒たちに対して法的処置を講じ、裁判を行なうようになった。 葬制 [ ] 古代エジプトの象徴ともいえるものがであるが、初期の王墓の形式であったに代わりピラミッドが成立したのが古王国時代の第3王朝期であり、を含むが建設されてピラミッドが最盛期を迎えたのが第4王朝期と、著名なピラミッドの建設された時期は古王国時代の一時期に限られ、エジプトの長い歴史においては比較的短期間のことである。 以後、古王国時代を通じてピラミッドは建設され、中王国時代にも一時建設が復活するものの、技術的にも材料的にも最盛期ほどのレベルに到達することはなく、徐々に衰退していった。 ただしそれに代わり、付属の墓地群などが拡大し、葬祭における重点が移動していった。 新王国期に入るとピラミッドは建設されなくなり、王の墓はに埋葬されるようになった。 その他 [ ] 建築材料としてはが主流であり、も多用された。 特にや、などが盛んに採掘され、豊富な石材と優れた技術を元にピラミッドや、、、といった現在も残る大建造物が続々と建設された。 エジプトにはが存在しないためを産出せず、建築には使用されなかったが、ツタンカーメン時代には国力を背景に交易で各地の木材を入手し、寄せ木や曲げ木などの高度な技法を用いたを製作している。 出典・脚注 [ ] []• 上下というのはナイル川の上流・下流という意味であり、ナイル川は北に向かって流れているため、北にあたる地域が下エジプトである(逆もまた然り)。 「地図で読む世界の歴史 古代エジプト」p18 ビル・マンリー著、鈴木まどか訳 河出書房新社 1998年7月15日初版発行• 『世界経済史』p64 中村勝己 講談社学術文庫、1994年• 「パンの文化史」p106 舟田詠子 講談社学術文庫 2013年12月10日第1刷発行• 吉村作治『ファラオの食卓』 1章• 「古代エジプトの歴史 新王国時代からプトレマイオス朝時代まで」p37 山花京子 慶應義塾大学出版会 2010年9月25日初版第1刷• 「海を渡った人類の遙かな歴史 名もなき古代の海洋民はいかに航海したのか」p138 ブライアン・フェイガン著 東郷えりか訳 河出書房新社 2013年5月30日初版• 古代オリエント集. 筑摩書房. 1978年4月30日 1999• 古代オリエント集. 筑摩書房. 1978年4月30日 1999• 古代オリエント集. 筑摩書房. 1978年4月30日 1999• David, Ann Rosalie. 筑摩書房. 1986. - 関連項目 [ ]• 著名な研究者• 古代エジプトを題材にしたフィクションを多数著している作家•

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