南無阿弥陀仏とは・念仏の意味 よく仏教でお坊さんや仏法熱心なおばあさんが、 「 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)・ 南無阿弥陀仏……」ととなえているイメージがあります。 南無阿弥陀仏とは一体どんな意味なのでしょうか? 南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の違い 「 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とよく似た言葉に、 「 南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」があります。 「 南無阿弥陀仏」と「 南無妙法蓮華経」はどう違うのでしょうか? まず、南無妙法蓮華経は、の説かれたにない言葉です。 は一切経七千余巻というたくさんのを説かれたのですが、 南無妙法蓮華経は一回も説かれていないのです。 では誰の言葉かというと、を開いた日蓮です。 では、南無妙法蓮華経にのの功徳が備わっていて、 唱えると即身成仏できると教えますが、 はそのようなことは一言も説かれていません。 日蓮の創作です。 一切経に説かれていないことは仏教といえませんので、 日蓮は、南無妙法蓮華経の根拠としての寿量品の文底に秘沈していると主張します。 これを「 文底秘沈(もんていひちん)」といいます。 こんなことを言うくらいですから、日蓮自身も 南無妙法蓮華経の根拠はのどこにもないことを自覚しています。 文底秘沈という日蓮の主張からも、南無妙法蓮華経が 仏説ではないことは明らかです。 それに対して、南無阿弥陀仏は、が説かれていますから、仏説です。 一例をあげると『 観無量寿経』に 「 南無阿弥陀仏と称せん。 仏名を称するが故に、 念々の中に於て八十億劫の生死の罪を除く」 とあります。 このように、南無妙法蓮華経はは説かれていませんが、 南無阿弥陀仏はが説かれているという違いがあります。 これは、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏の根本的かつ最も大きな違いです。 仏教とは、仏の説かれた教えのことですから、 南無阿弥陀仏は仏教であるのに対して、 南無妙法蓮華経は仏教ではないということが明らかになり、 これによって、仏教上のその他の議論はすべて吹き飛びます。 では、南無阿弥陀仏とは何なのでしょうか? 南無阿弥陀仏とは 「 南無阿弥陀仏」のことを「 名号(みょうごう)」ともいいます。 名号は、私たちの苦しみ迷いを断ち切って、 本当のを与える働きを六字で表したものです。 たとえるなら、私たちの迷いの元を断ち切る薬のようなものです。 私たちは、どんなにお金があっても、 どれだけが進歩しても便利な生活をしても、 心からの安心も満足もなく、 いつもや不満を抱えて苦しんでいます。 そんな私たちの苦しみ迷いを根本から治療する特効薬が 南無阿弥陀仏の名号です。 では、南無阿弥陀仏の名号は、誰がどのように作られたのでしょうか? 南無阿弥陀仏が完成するまで 南無阿弥陀仏を作られたのは、という仏さまです。 大宇宙の諸仏の王であり先生であるが、 すべての人を何とか本当のに救ってやりたいという願いをおこされたのです。 しかし、にいくら大きなお力があっても、 それだけで私たちがになれるわけではありません。 たとえるなら、熱にはものすごいエネルギーがあることが昔から分かっていましたが、 どうすればそれを私たちが仕事に使えるのか、長い間分かりませんでした。 18世紀にようやく蒸気機関ができてはじめて、 私たちが仕事に使えるようになったのです。 このように、大きな力があっても、 それがそのまま私たちをにできるわけではありません。 は、すべての人を本当のにするにはどうすればいいのか、 五劫という長い間考え抜かれ、 すべての人の苦しみの元を断ち切る働きのある 名号をつくるしかないという結論に達せられました。 名号とは、南無阿弥陀仏のことです。 それは、兆載永劫という長い間、が一瞬たりとも雑念を交えず、 純粋に、すべての人を何とか救ってやりたいという心でごなされて、 その功徳を全部封じ込めた名号を作り、 それを私たちに与えて救うということです。 ところが、限りないお力を持たれたが 兆載永劫という長い間、純粋な心でなされたごは、大変なカサになります。 私たちがそう簡単に受け取ることはできません。 肉体の病を治す薬を飲むときでも、 部屋一杯の薬を飲めといわれても、到底飲めないのと同じです。 私たちが飲むには小さい錠剤にしてもらわなければなりません。 そこでは、兆載永劫の間の全身全霊、ごなされた功徳を全部封じ込めて、 南無阿弥陀仏の六字の名号を作られたのです。 南無阿弥陀仏は仏心の表れ このように完成した南無阿弥陀仏は、仏心の表れです。 の、すべての人を何とか救ってやりたいという大心が、 形となってあらわれたものです。 ちょうど、恋心というのは目に見えません。 ところが「 あなたが好き」というラブレターをもらうと分かります。 たったの六字ですが、恋人の心がわかるので、 その人にとっては大変な価値があり、大切にします。 それと同じように仏様が、私たちを絶対変わらないにしてやりたいという仏心は、 心ですから目にも見えず、私たちには分かりませんので、 私たちに分かるように、南無阿弥陀仏という六字に表されたのです。 これを「 垂名示形(すいみょうじぎょう)」の南無阿弥陀仏といわれます。 名を垂れて形を示された、ということです。 「 六字の名号」は、弥陀の大慈悲心の顕現なのです。 恋愛の喜びは、続かないのですが、 それでもラブレターを大切にします。 ところが名号は、私たちを絶対の幸福にする働きのある仏心です。 それで非常に大切にされるのです。 あらゆる仏がほめたたえる南無阿弥陀仏 すべての人を本当のにする働きがある南無阿弥陀仏を作ることができたのは、 だけですので、大宇宙の仏がたは、 「 はすばらしい名号を作られた」 と口々にほめたたえておられます。 そのことをは『 大無量寿経』にこう説かれます。 「 十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまう」 「 十方恒沙(じっぽうごうじゃ) の諸仏如来(しょぶつにょらい)」とは、 大宇宙のガンジス河の砂の数ほどのたくさんの仏様ということです。 「 皆共(みなとも) に」ですから、この中に入らない仏様はありません。 もも釈迦如来も、一人残らず口をそろえて、ということです。 「 無量寿仏(むりょうじゅぶつ)」とはのこと、 「 威神功徳(いじんくどく)」とは南無阿弥陀仏の大功徳です。 「 讃嘆(さんだん)」とは褒め讃えるということですから、 仏様でも想像できない南無阿弥陀仏のな働きを、 すべての仏が異口同音に褒め讃えておられるのです。 実際、は南無阿弥陀仏の功徳を一生涯説き続けましたが、 最後に説ききれなかったと言われています。 一生どころか、 「 もし広説せば百千万劫にも窮め尽すこと能わじ」 といわれて、もし南無阿弥陀仏の功徳をすべて説き尽くそうとすれば、 何億年かかって説いても説き尽くせない、と言われています。 南無阿弥陀仏をとなえれば救われる? この南無阿弥陀仏をとなえることを「 念仏」を称えるといいます。 「 となえる」が「 称える」という漢字が使われるように、 となえるには、たたえるという意味があります。 では、念仏を称えれば救われるのでしょうか? ほとんどの人は、念仏を称えれば死んだらに往けると思っていますが、 それは誤解です。 ある人がを開かれた上人に、 念仏を称えれば死んだらに往けるのでしょうか? とお尋ねした記録が、『 念仏往生要義抄』に出ています。 「問いていわく、『 称名念仏申す人は、みなすべしや』」 すると法然上人は、こう答えられています。 「答えていわく『 の念仏はすべし、の念仏はまったくすべからず』」 (『 念仏往生要義抄』) このように、の念仏を称えれば救われますが、 の念仏ではまったく不可能です。 単に念仏を称えれば救われるわけではないのです。 を開かれた聖人はどうでしょうか? 主著の『 教行信証』に 「 称名憶念すること有れども、無明なお存して所願を満てざる者あり」 と教えられています。 「 称名憶念」とは、を信じて念仏を称えることです。 一生懸命念仏を称えていても、助からない者がいると教えられています。 の蓮如上人は、さらに現代人にわかりやすい言葉遣いで 教えられています。 「 ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば、 にすべきように思いはんべり。 それは大きに覚束なきことなり」(御文章) ただ声に出して南無阿弥陀仏と称えさえすればに往けるように思っていたら それはとんでもない間違いだ、ということです。 このように、ただ念仏さえ称えれば救われるわけではないのです。 ではどうすればいいのでしょうか? 南無阿弥陀仏の力が発揮されるとき ではどうすればいいのかというと、 南無阿弥陀仏の名号の働きによって、 私たちの苦しみ迷いの根元を絶ちきられればいいのです。 これを「 信心獲得(しんじんぎゃくとく)」とか、 「 信心決定(しんじんけつじょう)」といいます。 信心獲得には時間はかかりません。 名号を頂いた「 一念(いちねん)」に、信心獲得します。 一念とは、何億分の一秒よりも短い時間のことです。 これを親鸞聖人は、こう教えられています。 「 一念とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕す」(『教行信証』) 「 信楽開発」とは、苦しみ迷いの根元が絶ちきられて、絶対の幸福になることで、 「 時剋の極促」とは、これ以上速いということのない速い時間のことです。 ですから「 一念」とは、絶対の幸福になる何億分の一秒よりも短い時間をいう、 ということです。 一念で信心獲得するとどうなるかということについて、 蓮如上人は分かりやすくこう教えられています。 「 一念帰命の信心を発せば、まことに宿善の開発に催されて 仏智よりのを与えたまうが故に、 仏心と凡心と一つになるところをさして信心獲得の行者とはいうなり」(御文章) まったくのお計らいによって一念でのを頂き、 の心と私の心とが一体になったのを、信心獲得した人という、 ということです。 つまり、南無阿弥陀仏と一体になるのです。 これを「 仏凡一体(ぶつぼんいったい)」といいます。 南無阿弥陀仏の3つの名前 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称える念仏が、 なのかなのかは、一念で分かれます。 信心獲得までは、すべての念仏です。 信心獲得した後は、すべての念仏です。 の念仏との念仏は、一念で水際立って切り替わります。 の念仏は、南無阿弥陀仏を頂いて、変わらないに救われた喜びから 称えずにおれないお礼の念仏がの念仏なのです。 この「 名号」と「 信心」と「 念仏」は、 どれも南無阿弥陀仏ですが、 のお手元にある間は「 名号」といい、 私たちが頂くと、「 信心」といい、 それが口から表れたのを「 念仏」といいます。 名前は変わりますが、体は一つです。 ちょうど、娘と結婚すると嫁といわれ、 子供が生まれると母といわれるようなものです。 名前が変わるだけで体は変わりません。 娘のときに出べそなら、 嫁になっても出べそですし、 母になっても出べそです。 ところが、隣にどんな美人で気立てのよい娘がいても、 結婚しなかったら私と関係ありません。 どんなにが名号を完成されていても、 頂かなければにはなれません。 信心獲得の一念が最も大切ですから、蓮如上人は、 「 たのむ一念のところ肝要なり」(御一代記聞書) といわれています。 ではどうすれば信心獲得できるのでしょうか? どうすれば南無阿弥陀仏を頂けるの? どうすれば南無阿弥陀仏を頂けるのかは、 に聞かなければわかりません。 は、このように説かれています。 「 その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん」(『 大無量寿経』) 「 名号」とは南無阿弥陀仏のことですが、 名号を聞いた一念に、信心獲得するということです。 『無量寿如来会』にはこのように説かれています。 「 無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信をおこして、歓喜愛楽せん」 (『無量寿如来会』) 名号を聞いた一念に、信心獲得して絶対の幸福になれるということです。 他にもこのように説かれています。 「仏、に語りたまわく『 それ彼の仏の名号を聞くことを得て 歓喜踊躍し、乃至一念すること有らん。 まさに知るべし。 この人は大利を得と為す、 すなわちこれ無上の功徳を具足するなり』」(『 大無量寿経』) は、にこう仰せられた。 「 どんな人も、の作られた名号・南無阿弥陀仏の大功徳を聞いた一念に、 絶対の幸福になれる。 すなわち無上の功徳と一体になるのである」 ということです。 このように、名号を「 称える」のではなく、 名号を「 聞く」ことで苦悩の根元を断ち切られ、 本当のになれるのです。 ではその苦悩の根元とは何か、ということは仏教の真髄ですので、 小冊子とメール講座にまとめました。 今すぐ読んでみてください。
次の
[PR] 「家の解体を考えているのだけど、どこに相談すればいいの?」 「解体業者を選ぶときに気をつけたほうがいいことは?」 「解体業者ってどうやって探せばいいの?」... [PR企画] 一年中お花の絶えない江戸川区の永代供養墓「久遠廟」 妙泉寺 永代供養墓「久遠廟」... 「ずっと家にいて終活が進まない」 「そろそろ納骨したいのに見学ができない」 そんなお悩みを少しでも解決すべく、青山霊廟 東京都港区北青山2-12-9・外苑前徒歩2... 【PR】不安定な世情の中、終末期について意識させられ、ご不安に思われる方も増えてきています。 エンパークでは、こんな世情だからこそ、心配されている方が増えている「葬儀・... [PR] 葬儀を終えて納骨先を探そうと調べてみると、想像以上に選択肢が多くて悩むことも少なくありません。 墓地や霊園だけでなく、屋内の納骨堂や永代供養墓、樹木... あわせて読みたい 2019. 27 2020. 25 2014. 18 2019. 29 2013. 5 2019. 解体サポート 解体に関する記事の監修者• せいざん株式会社 大人のためのbetterlifeマガジン• クリエイティブ sai 地味に忙しい幸運体質の編集人• 株式会社 FinCube お金に関する記事の監修者• 株式会社HOWL ライター・ディレクター• 敬食ライター ライター・レポーター• 金子智子建築設計室 一級建築士事務所 家の建築・リノベーションの専門家 あなたに おすすめ記事 Recommend.
次の
なむあみだぶつ/南無阿弥陀仏 にするの意。 、単にともいう。 日本における発音としては、では「なむあみだぶ」「なむあみだぶつ」と発声するが、他宗では「なもあみだぶつ」や「なんまいだぶ」「なんまんだ」などと発音されることもある。 たとえばは「とことはにととなふればなもあみだぶにむまれこそすれ」と詠むように「なもあみだぶ」と唱えていたようである。 [出典] 「」の出典は『』である。 『』に「智者また教えて、叉手してと称せしむ。 を称するが故に、五十億劫の罪を除く」(聖典一・三一一/)とあり、『同』に「汝もし念ずること能わずんば、まさにを称すべしと。 かくのごとくに、声をして絶えざらしめ、をして、と称す。 を称するが故に、念念の中において、八十億劫のの罪を除く」(聖典一・三一三/)とあるように、『』では声を出してを称えることによるのが説かれている。 経典ではこの他に、『』に確認できる。 また類似する表現には『』に「」などがある。 [語義] の意味については、『』玄義分において「と言うは、またこれ西国の正音なり。 また南はこれ帰、無はこれ命、阿はこれ無、弥はこれ量、陀はこれ寿、仏はこれ覚なり。 故に覚と言う。 これすなわち梵漢するに、その義かくのごとし」(聖典二・一六三~四/)と釈される。 これによるととはを音訳したものであり、意味としては「覚」になるという。 この理解は、の全体の意味としては正当なものである。 また「阿」はとの両義を含む語であることが指摘されており、「」にも「にする」との意味と、「にする」との意味が含まれているといえ、に含まれる意味が幅広いものであることが理解される。 [理解] は、について、にはの義があり、はその行であるといい、と称えることで、願と行とがするからが可能になると説く。 は『』を「 の業にはを先となす」(聖典三・九七)と書き始め、はと称えることによって遂げられる、と述べた。 さらに、仏によっての一行がのとして選取されたことについて、仏のは測りがたいと述べつつ「はこれ万徳の帰する所なり」(聖典三・一一八)とが勝れている点を説き、の実践が容易であるが故に、仏は「の一行を以て、そのとしたまえる」(同一二〇)と述べ、について勝劣と難易の二面から考察を加えている。 は『』において「心にはを存して、口にはと称するなり。 この宗の意、この行を以て第一の行と為す」(聖典五・二二六)と述べ、と称える行が、の第一の実践と述べる。 は『』において、『』ののについて「とは、経の題にの言なしといえども、しかも六字のは一経の肝心、一宗の要行」()であるから、のに合わせての釈をあげたという。 の理解に関しては、門下において相違がある。 たとえば、では「=」をがに行をしたと理解し、の召喚によって、は行であるを称えることになると理解する。 しかし、においては、「」とはがを志す「願」であり、その心によって「」と称えることがのための「行」となり、の六字はしたものであり、のための実践行である。 それゆえに六字のを称えることでが叶うとする。 さらに『』や『』においても説かれる、、、五念などについては、を願ってと称えるうちに含まれることとなる。 のためにはと称え、疑いなくすると思う以外に道はなく、それゆえと称えるの相続が肝要となる。
次の