成田山新勝寺境内の像 、・、奉賛会初代会長を歴任。 時代のの政治家・に例えられ「江戸前フーシェ」や、「寝業師」、「道中師」、「おとぼけの正次郎」と渾名されたりもした。 来歴 [ ] 生い立ち [ ] (現・)に、柳原謙次郎・コウ夫妻の三男として生まれた。 なお、を出生地とする事もある。 出生後すぐに母が死に、で屋を営む川島才次郎の養子へ入って、川島姓となった。 小さな時からで知られ、正次郎をに欲しいという芝居小屋の主人まで現われたという。 (尋常小学校4年、尋常高等小学校4年)を卒業した時、中学への進学を希望したものの、父親から「鼈甲屋を手伝え」と命じられたため、一年間見習いとして働いた。 を経て、旧制に学んだ。 卒業後、に入省し、のと知り合った。 ここはの際に情報を集める部署であり、川島は選挙の分析から次第に選挙そのものに関心を抱くようになった。 に転じ、東京市長となった後藤新平の引きで、東京市商工課長となった。 政治家へ [ ] でに初当選し、に属する。 苦労して学校を卒業した川島には有力なコネもなく、政治の表舞台に出る機会に恵まれなかったが、政友会の先輩のから「政界では欲を出さずに、ナンバー2でいるのが大切だ」とアドバイスされたことを契機に、以後ナンバー2の座を目指すようになる。 川島は政界入りした当初はと、森の死後は前田と行動をともにし、(昭和14年)の政友会分裂に際しては前田とともに革新派(総裁)に属した。 (昭和17年)のでは非推薦で当選し、(昭和20年)にはの情報部長を務めた。 占領下では院内会派のに属したがまもなく。 その間公刊され間もない『日記』(乾元社全9巻)を熟読、としての生き方を模索した。 追放解除後の(昭和27年)に政界復帰。 (昭和30年)、でとに任命され、当選9回目にしてようやく初入閣を果たす。 鳩山内閣ではを推進し、自民党の創設にも大きく関わった。 (昭和31年)には導入を狙う首相の意を受けて、小選挙区法案()を提出するが、これは内務省時代以来、に関する研究を続けてきた川島だからこそ出来た仕事だった。 小選挙区法案は廃案となるが、川島はその仕事振りから自民党内でも一目おかれるようになった。 ナンバー2への道 [ ] 鳩山内閣退陣後は政権の樹立に動き、岸内閣の下でに就いている。 川島は(昭和35年)を前にして動揺する党内の混乱をよく押さえつつ、を安保特別委員会委員長に起用しての段取りを進め、とにかく新の成立まで岸政権を守り抜いた。 なお、川島はこのときのを検討していたという。 安保条約に調印した岸は解散をもくろむが、これに猛反対し解散を断念させる。 解散できなかった岸はそのまま総辞職に追い込まれた [ ]。 岸内閣総辞職後、からとがに名乗りを上げ、からはが名乗りをあげていた。 その頃、川島は岸派内で一定の勢力を有し、川島系といわれる川島に同調する議員10人ほどを連れて、大野支持に向かう様子をにおわせていた。 川島は大野に対して「党人派が二分されると官僚派の池田に勝てないので、党人派は石井一本にまとめたほうがいい」と進言して、大野に総裁選を辞退させた。 すると、手のひらを返したように川島は「大野を支援しようと思ったが、大野が辞退したので池田を支持する」と表明して池田支持に乗り換え、池田の総裁選出に寄与した。 (昭和37年)10月岸派が解散すると、岸が派閥をに譲ることに反発し、翌11月「交友クラブ」として分派した。 (昭和39年)の自民党総裁選で池田の3選に貢献したことから、病死した大野の後任として自民党副総裁に就任した。 池田が病いで退陣する際には、後継者にを指名させるのに功績があり、佐藤政権でも自民党副総裁に任命された、佐藤政権の下で川島は終生自民党副総裁の地位を維持し、常に与党ナンバー2の地位を保ち続けた。 (昭和43年)ににを決定させたのが川島である事が、近年機密解除されたの公文書により明らかになっている。 1970年(昭和45年)秋、「佐藤栄作は次期首相の座を大蔵官僚出身のに譲ろうとしている」という情報をキャッチすると、川島は「岸・池田・佐藤と官僚出身者による内閣が続き、人心は官僚出身者に飽いている」として福田のライバルだったを支持。 田中が勢力を拡大するための時間を稼ぐため、1970年の自民党総裁選では福田への禅譲 を考えていた佐藤を、川島副総裁、田中幹事長という立場で、総裁選に出馬させ佐藤政権の延命を図り、佐藤の機嫌を取りたい中間派を水面下で佐藤出馬支持にとりまとめた。 結果として佐藤はとのに勝ち4選したが、政権末期の約一年間に求心力が急速に低下し事実上「禅譲」が不可能になった。 (川島は)党人派政治家として田中に総理総裁への道を開いた。 総裁選から9日後の11月9日山王の自宅にて、持病であるの発作により急逝した。 にて自民が行われた。 人物 [ ] 川島の派閥運営 [ ] 川島の運営は経済合理性が特徴であった。 加入希望者が続出したにもかかわらず、川島は「資金集めが大変だから」という理由で自派を20名程度までしか増やさなかった。 派閥成員17人ぐらいで大臣ポスト1つの割合で閣僚ポストを割り振るのが当時の人事慣行で、20人程度を擁していれば確実に大臣ポストを1つ確保できる上、派内の議員たちに効率よく満遍なく大臣ポストをまわせることを川島は知っていたのである。 川島は自派の結束を固めつつ、常に党内のを握る位置を確保し続けた。 インフラ整備との関わり [ ] では・の長官に就任すると共に、担当国務大臣を務め 、その間には事業整備を進め、・などのを構築しながら、の仕組みを作り上げ、池田の「」実現も、この仕組みを作った川島の功績によるところが大きかった。 成田空港問題 [ ] で委員長を務めていたとき、(羽田空港)に代わる新たな開設が当初東京湾千葉県側での建設するプランで進められており、これを聞いた川島は「そりゃあ千葉県の開発になるなあ」と喜んでいたという。 池田が外遊中の1962年11月16日には臨時首相代理を務めて第2国際空港建設方針を閣議で了承させている。 なお、このとき川島は「最近、羽田空港のレーダー装置が再三故障し、飛行機の離着陸に支障をきたしているが早急に改善措置をとる必要がある」「運輸省は、新空港を沖を埋め立てて建設する計画を検討していると言うが、船橋では航空管制、気象条件等が羽田とほとんど同じで新設の意義が薄い。 むしろ東京近郊の埼玉、千葉、茨城三県の内陸に建設してはどうか」と発言している。 このときは浦安案を推す綾部と木更津案を推す河野が激しく対立し口論となった。 同年8月27日に行われた2回目の4者協議で運輸省側から案が出されたときには、川島は「富里だって?1500戸の農家をどうやって移転させるのだ。 羽田と管制塔を一緒にして浦安沖に作ったほうが有利だ」「たかが一人でがんばっている、でさえあれだけモメるんだ。 富里の千五百戸もの農家をどうするんだ。 でも出してを起こす気か」と内陸空港に否定的であり、の埋め立てによる空港建設を主張していた。 新東京国際空港(三里塚案)の計画図 1965年11月18日に政府は富里での新空港建設を内定するが、地元では大規模な反対運動が展開された。 「富里一本やりの運輸省のアタマは固すぎる」「運輸省のやり方では新空港はつくれない。 (運輸相の)君は政治を知らない」と批判した川島は、富里案を白紙に戻したうえでの建設地の再調査を主張し、羽田を縮小して沖合を埋め立てる木更津案を支持した。 この立ち回りについて、川島は他の土地に動く可能性をほのめかして反対派の中でも条件闘争に近い考えを持っている層を切り崩そうとしたのではないかとの解釈もある。 この主張の中で羽田も併用する前提で"つなぎ"の空港を建設して、急場をしのいではどうかという提案が出てきた。 友納によれば、からを提供してもらえないかという議論が出てきたことから、川島が瓜生順良宮内庁次長を呼び出して尋ねたところ「皇室は空港問題に介入したくないが、は不便な点も多いので、よい代替地さえあれば移転したいと思っている」と答えたため、三里塚での空港建設計画が運輸事務次官を通じて友納のもとに持ち込まれたのだという。 長引く富里での反対運動を受けて、政府と千葉県の間で水面下での調整が進められたが、富里内定直後に千葉県副知事であったによれば、運輸事務次官ら運輸官僚らが富里案をあくまで推していたのに対し、川島が自民党県連を通じて「これは富里はもう無理だからなどはどうか」という案を出してきたという。 なお川上は、その後の若狭運輸次官との会談で「自民党の三里塚案のほうが私としては受け入れやすい」と言ったかもしれないが、記憶が定かでないとしている。 川島はこの三里塚案について事前にら交通部会から進言を受けており、瓜生順良に対しての提供について打診していたともいわれる。 のは「あれは、()と川島の芝居だ。 三里塚には、川島の友人が経営していたがある。 川島は一ホール一億円という値段を出した」と主張している。 1966年6月17日に、現在のが位置する三里塚に建設地を移す交通部会の斡旋案や、木更津が不適とする運輸相の報告を受けて、その経過を知事に伝える役割を担った。 なお、川島は長であったを口説いて、地元代表として理事に就任させている。 富里への空港誘致説 [ ] やがの証言を根拠に、新東京国際空港の建設地が一時富里になったのは、当初の沿いが候補地であったところ、3選を狙う佐藤栄作が川島から総裁選での協力を得るために取引の対価として川島の選挙区に移されたからだと主張している。 しかし、佐藤が3選を果たした総裁選はこれより3年後の1968年11月であるうえ(その間に別の総裁選が行われている)、1963年12月11日には既に運輸省航空審議会が富里を最有力候補として挙げていることなどから、この主張は時系列の整合が取れない。 また上述のとおり川島は富里案を打診された時には埋立による新空港建設を支持しており 、川上副県知事が川島に問い合わせたところ、川島が「閣議協の内定は、自分は全く知らない。 けしからぬことである」と語り、事前の相談を受けていない千葉県について「(運輸大臣との)会見を断ったのは当然である」と述べたとする証言 とも矛盾する。 更に、川島の選挙区であるには、富里も成田も含まれていない。 教育者、文化人として [ ] 川島は教育界の発展にも貢献している。 母校・専修大学の総長となって、専修大学の発展に尽くしたという側面も持っている(の創立は地元出身の彼の主導による)。 また、の理事長も務めた。 さらに設立に当たっては、川島の甥にあたる後の理事長となる平山善司氏の要請によっての土地のとりまとめを行ったのも、川島によるものである。 またリングを始め、日本学生連盟会長、日本協議会総裁、会長、江戸消防記念会名誉会長、江戸火消防存会会長、の後援会長など教育、スポーツ、文化、芸能の振興にも尽力し各分野の要職を務めた。 界には今でも「川島が務めていた頃のコミッショナーはお飾りではなかった」と評価する声がある。 1965年にを受章、没した際にに叙しを追贈された。 千葉県政界の重鎮 [ ] 地元の千葉県では、県議会の長老で戦時中に行動をともにしたを担いで初代民選に押したてて追放中ながらもその腹心となった。 後にも務めた川口からその人脈を引き継いで地元の有力議員として千葉県選出の国会議員や地方議員のまとめ役としても辣腕をふるった。 県議(創業者)の擁立を仕掛けたのは川島であると言われている。 死後 [ ] 唯一の子供であった川島正孝(まさたか)を11歳で亡くしているため選挙地盤を親族から継ぐものは無く、直系の県議だったが国政転進で受け継ぐことになった。 また派閥川島派と呼ばれた交友クラブは後藤新平を通じて盟友となったが継承したが椎名の死後消滅した。 一族からは姉千代の孫が川島の選挙区から県議選に出馬し政治的基盤を受け継いだ。 追悼出版 [ ]• 『川島正次郎 川島正次郎先生追想録編集委員会編』(交友クラブ編・非売品、1971年(昭和46年)11月) 政治語録 [ ]• 「政界一寸先は闇」• 「要は勝つこと。 負けた後に文句を言っても何の解決策にもなりませんよ」(大野下ろしに成功した直後のコメント)• 「やはり野に置け蓮華草 」(が深谷駅問題で運輸大臣を辞任した際のコメント)• 「70年代は自共対決の時代になる」 演じた俳優 [ ]• (『』、) 脚注 [ ] []• 平成27年版 障害者白書(全体版). 内閣府. 2019年11月24日閲覧。 産経ニュース 2015年9月23日. 2019年1月17日閲覧。 日本経済新聞 電子版 2010年8月9日. 2019年1月17日閲覧。 最晩年に、日米関係をめぐる提言「七〇年代日本外交の展開」(昭和44年)の<第2回日米関係民間会議>より(『沖縄以後の日米関係』に所収、、1970年(昭和45年))、「太平洋新時代と日米関係 一九七〇年代を迎えて」(『現代日本の外交』の一章、、1970年(昭和45年))、「七〇年代の展望 <安保>もう十年続く」(『』シリーズインタビュー「政権」より、同社で1970年(昭和45年)) を残している。 は弟の佐藤に4選目への不出馬を促し、福田へのを提言した、福田もそれを期待していた。 一方で福田は、佐藤政権延長には反対できない立場なのを(川島・田中は)見抜いていた。 はるかなる三里塚. 講談社. 30-46• 朝日新聞: p. 1962年11月17日• 『交渉力の時代』PHP文庫、1984年• 友納武人 1981. 疾風怒濤 県政二十年のあゆみ. 社会保険新報社. 201• 『三里塚アンドソイル』平原社、2001年、74頁。 『成田の空と大地』岩波書店、1996年、13-14頁。 成田空港問題シンポジウム記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、143頁。 原口和久『成田空港365日』、2000年、205頁。 石原慎太郎 『国家なる幻影〈上〉 わが政治への反回想』文春文庫、2001年。 石井紘基『日本が自滅する日: 「官制経済体制」が国民のお金を食い尽くす!』PHP研究所、2002年。 記録集編集委員会『成田空港問題シンポジウム記録集 資料編』1995年、19頁。 地元関係者による評伝は、林政春『川島正次郎』(花園通信社、(昭和46年))、小畑伸一『政界一寸先は闇 ある川島担当記者の手記』(黄帆社、(昭和47年)2月)がある。 『続近世畸人伝』に紹介されている、が、知人が遊女を身請けしようとしたのを諫めて詠んだとされる句「手に取るなやはり野に置け蓮華草」を引用したもの。 参考文献 [ ]• 『人物戦後政治』(岩波書店・)• 『自民党・ナンバー2の研究』(講談社文庫・) 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• 議会 先代: 衆議院人事委員長 1953年 - 1954年 次代: 公職 先代: 第22代:1961年 - 1963年 第13代:1955年 次代: 先代: 第20代:1961年 - 1962年 次代: 先代: 第5代:1955年 次代: 党職 先代: 川島正次郎 第4代:1967年 - 1970年 第3代:1964年 - 1966年 次代: 川島正次郎 先代: 結成 初代:1962年 - 1970年 次代: 先代: 第5代:1959年 - 1960年 第3代:1957年 - 1959年 次代:.
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川島正次郎役をいだてんで浅野忠信が演じる! 戦前〜戦後にかけて活躍した大物政治家の川島正次郎役を、今回大河ドラマ『 いだてん』では、俳優であり音楽家として活躍される 浅野忠信さんが演じられます。 川島正次郎は、好んでナンバー2のポジションにいた人物で、自民党幹事長、副総裁に長く君臨した男です。 役どころは、自民党幹事長で初のオリンピック担当大臣。 浅野忠信さんは「 川島正次郎は田畑政治と違う目線でオリンピックを見ている男。 」と、役柄を紹介されています。 川島正次郎の写真を見てみると、なかなか素敵なおじさまで、人に好かれそうな感じもありつつ、どこかミステリアスな感じで、裏で何か手をまわしてる。 って言われたら見えなくもない感じのオーラがある方です。 (笑) この役は演技力があっても結構難しそうに思いますが、浅野忠信さんがキャスティングされたと聞いて、ビビッ!ときました。 合ってる!って。 浅野忠信さんて、落ち着きがあって素敵でいつまでも見とけるくらいカッコイイですし、人からもちろん好かれそうですが、 プライベートは全く想像できませんよね。 良くも悪くも想像を楽しめちゃう芸能人としては、花丸(はなまる)な方です。 (笑) ちょっと影があるというか…。 二面性があるような感じがリンクしますよね。 wikipedia. 川島正次郎は力のある政治家で、総理も夢ではないと言われていましたが、トップに拘らず、いわゆるナンバー2とか補佐役といったサブ的存在に常にいた人物でした。 しかし、トップじゃないとはいえ、 存在感を示した大物政治家です。 川島正次郎は、戦うということはせず、計算&判断を貫きました。 その時その時の勝者を見抜き、味方につく。 で、ちゃっかり…。 いや、しっかりナンバー2のポジションゲット! 川島正次郎は「 脇役に徹する中で大事なことは、本流の中の脇役であること。 傍流はダメ。 勝ち馬は誰か、それを見分ける能力が問われる」 と語っています。 そのことがわかるエピソードもたくさん残されています。 かなりデキる人だったことが伺えます。 二番手で、活躍していた川島正次郎には たくさんの呼び名がありました。 遊び人で花柳界にも通じ、日本画や歌舞伎を愛する文化人でもあったそうです。 「 政界一寸先は闇」などの語録は広く知られていますよね。 背広のポケットに手を入れ、口笛を吹きながらさっそうと歩く姿の印象があり、政界では、 陽気な寝業師と、呼ばれていたそうです。 他にも・・・ ・カミソリ正次郎 ・ひまわり。 ・トボケの川正。 ・ズル正。 ・道中師 スリ。 ・小判鮫の川島。 などなど。。。 つけられている異名からは、言い方は悪いかもしれませんが、裏工作が得意ってことが想像できますね。 きっと、先を見て計算して判断して手回しして結果を出していったのでしょう。 いわば、この呼び名は川島正次郎にとって褒め言葉なのではないでしょうか。 ナンバー2と言われますが、このポジションはかなり難しいポジションです。 自分のことをよくわかって選択し、それを恥じたり隠すことなく堂々としている生き方は本当に粋ですよね〜。 昔からよく言う、一番手よりも二番手の方が賢い。 二番手は賢くないとできない。 っていうのは、まさに川島正次郎のことですね。 といいますか、川島正次郎が生んだ言葉だったのかもしれませんね。 スポンサーリンク 川島正次郎は田畑政治と対立し失脚させた? 川島正次郎は 1964年、東京オリンピック初の担当大臣としてオリンピック事業整備を進め、高度経済成長の仕組みを作り上げました。 (池田勇人内閣の時。 ) 田畑政治がオリンピックに尽力されたのはもうご存知ですよね。 で、この当時の田畑政治は何をしている頃かというと・・ 日本がオリンピックで、もっともっと金メダルが取れるように。 と、いうことで女子バレーボール(男子バレーボールは既にありました。 )&柔道の採用を強く訴えていた頃です。 で、熱意が伝わって、じゃあ東京オリンピックの特例として採用となりました。 この頃の女子バレーは全盛期! みなさん、よくご存知「 東洋の魔女」と呼ばれた時代。 めちゃくちゃ強かった時代で、世界を驚かせることになるのです。 柔道は嘉納治五郎の頃からの尽力もあって、採用されます。 しかし順調に思えたその頃、第4回アジア競技大会で事件は起こります。 デヴィ婦人の旦那様のインドネシアのスカルノ大統領が、第4回アジア競技大会を開催しましたが、政治的な理由から招待していない国があることがわかり、 国際スポーツの精神に違反している。 ということで、田畑政治が問い合わせたのです。 しかし『 違反はしていない』という答えが返ってきたので、田畑政治は日本選手団を引き連れ、ジャカルタに向かいました。 到着すると、招待状を出していない国があること(違反)がわかりました。 世界の各国代表は、締め出された国(不参加とされた国)の台湾とイスラエスの参加を要求します。 もちろんそれに対し、日本も大会に参加するのか不参加するのかという問題になってきます。 オリンピック組織委員会の会長・津島寿一は、もし日本が参加すれば、東京オリンピックを返上させられる可能性もあるので、ボイコットすべきだと主張。 しかし田畑の思いは『 ボイコットはやってはいけない』という信念があり、悩んでいました。 そして、田畑政治と川島正次郎が話し合い、最終的には出場することを判断し、決定。 日本選手団はアジア競技大会に参加できました。 その後の記者会では、川島正次郎が『 参加を決めたのは、東や津島、田畑らだ。 』と明言しました。 すると後に、『 この騒動は問題だった』と取り上げた『 田畑政治反対派』から、当時、その問題の責任者は田畑だった。 という話になり、事務総長を辞任する事になったのです。 それは、川島正次郎の策略だったのでは?と言われています。 ドラマでは、初のオリンピック担当大臣として田畑政治と対立し、田畑失脚の引き金となるシーンもありますので、 どのような展開になるか見ものですね。 阿部サダヲさんが、どんな態度でどんな表情でそれを受け入れていくのか・・・ トントン拍子に進むより、他にあり山ありだからドラマって面白いんですよね〜。 楽しみですね。 スポンサーリンク•
次のNHK大河ドラマ「いだてん」のモデル・田畑政治(たばた・まさじ)の生涯を描く立志伝の後半です。 前半は「」をご覧ください。 国際舞台への復帰-フジヤマのトビウオ 日本がオリンピックに参加するためには、各種競技が国際連盟に復帰し、日本オリンピック委員会が国際オリンピック委員会(IOC)に認められなければならなかった。 そこで、昭和24年、永井松三がIOC総会に出席して日本のオリンピック復帰を訴えると、IOC総会はオリンピック復帰の前提として、各競技の国際連盟への復帰を勧告した。 この勧告を受けた田畑政治は国際水泳連盟に強く働きかけた。 これに協力してくれたのが、水泳の日米交流で田畑と親交のあるアメリカ水泳のキッパス監督である。 キッパス監督は「日本水泳連盟は戦時中、会費を払っていなかったので資格停止となっただけでとなっただけなので、会費を納めれば、自動的に国際水泳連盟に復帰するのではないか」と言い、資格停止処分を会費滞納へとすり替えるという詭弁で、国際水泳連盟に働きかけてくれたのだ。 田畑政治は戦前から国際水泳連盟と親密にしていたことも功を奏し、国際水泳連盟が親書で決議を取るという特別な計らいをしてくれ、日本水泳連盟は昭和24年6月に国際水泳連盟へ復帰した。 これに喜んだハワイの日系人が、日本水泳連盟の国際水泳連盟を記念して、日本チームをハワイに招待したい誘ってくれた。 田畑政治は、これを利用して、アメリカ本土まで足を伸ばし、ロサンゼルスで開催される水泳大会への参加を計画する。 しかし、日本はアメリカの占領下にあり、色々な規制を受けており、外貨おなく、メリカ遠征など夢の又夢という話だった。 ところが、田畑政治は、GHQの総司令官ダグラス・マッカーサーはアムステルダム・オリンピックで選手団長を務めるほど、スポーツに理解がある事を知っいた。 そして、方々に働きかけた結果、マッカーサー元帥の許可がおり、マッカーサー元帥から直々に「徹底的にアメリカ選手をやっつけろ。 手心を加えるな。 真剣な態度で立ち向かい、これを打ち破ることこそ、スポーツマンにとって最高の礼儀である」と激賞されて、日本水泳チームはロサンゼルスの大会に出場することだが出来た。 さて、ロサンゼルスで協力してくれたのが、アメリカ在住の日系2世フレッド・イサム・ワダ(和田勇)である。 フレッド・イサム・ワダ(和田勇)はスーパーの経営で成功しており、日本水泳チームを自宅に泊めてくれた。 そして、フレッド・イサム・ワダ(和田勇)のおかげで、日本人選手は日本食を食べることができ、日本水泳チームはロサンゼルス大会で本領を発揮し、古橋廣之進と橋爪四郎が同大会で数々の世界記録を樹立。 特に古橋廣之進は「フジヤマのトビウオ」としてアメリカを驚愕させた。 日本水泳の活躍によって、日本人はアメリカ人に認められ、日系二世への差別も無くなっていった。 日本水泳は日系人に大きな勇気と希望を与えた。 一方、マッカーサー元帥はオリンピック委員に日本のIOC復帰を要請していた。 また、日本水泳の活躍によって世界の日本に対する世論が代わり始めたので、国際オリンピック委員会(IOC)は、態度を一転させ、「日本を除名した事実は無い」と表明し、日本はIOCに復帰したのである。 さて、古橋廣之進と橋爪四郎の活躍もあり、田畑政治は日本での水泳大会の招致に成功し、昭和25年に日本で水泳大会が開催された。 この大会で日本はアメリカに惨敗してしまうが、大勢の観客が訪れたことにより、日本水泳連盟はオリンピックに向けての潤沢な資金を得ることが出来た。 そして、日本は昭和27年のサンフランシスコ平和条約によって独立国となり、同年のヘルシンキ・オリンピックで、オリンピックに復帰を果たす。 ヘルシンキ・オリンピックでは、レスリングの石井庄八が戦後日本初となる金メダルを取得したが、日本水泳陣は銀メダル止まりと振るわず、「フジヤマのトビウオ」の異名をもつ古橋廣之進も不調でメダルを逃がした。 朝日新聞から追放される 戦後の戦争責任問題で朝日新聞の幹部が退陣したため、田畑政治は、みんなに推されて、昭和22年に朝日新聞の取締役に就任して朝日新聞東京本社の代表を勤め、昭和24年には常務取締に就任していた。 しかし、昭和26年に公職追放を解除された村山長挙が朝日新聞の会長に復帰すると、村山長挙は社長の長谷部忠に田畑政治の解任を要求した。 社長・長谷部忠は不当を訴えて、田畑の解任を拒否し、昭和26年に退陣した。 田畑も翌年の昭和27年に朝日新聞を辞めた。 そして、昭和27年、田畑政治は選手団長として日本人選手を率いてヘルシンキへと乗り込んで、レスリングの石井庄八が戦後初となる金メダルを取得したが、日本水泳陣は振るわず、銀メダル止まりとなった。 しかし、その一方で、田畑は大きな収穫を得ていた。 東京オリンピックの野望 ヘルシンキ・オリンピックから帰国した田畑政治は、突拍子も無い事を提案する。 東京オリンピックの開催するというのだ。 田畑政治は終戦直後から、オリンピックの開催を考えており、ヘルシンキ・オリンピックは規模が大きくなかったので、この程度の規模なら日本でもやれるという勇気を得て帰国したのだ。 しかし、東京でオリンピックを開催するには莫大な金が要る。 田畑政治は金の問題でオリンピック招致について口を閉ざした。 このようななか、昭和28年、ヘルシンキ・オリンピックの組織委員会の会長を務めたフレンケルが来日して、田畑政治・東竜太郎と会談する。 フレンケルは、田畑らがオリンピックの開催を考えていることを見抜いており、「オリンピックは金になる」と言い、ヘルシンキもオリンピックの開催で観光収入が増えて儲かっていることを明かし、熱心に2人に東京での開催を勧めた。 これを受けて田畑政治は、東京都知事の安井誠一郎や総理大臣の岸信介を説得し、東京オリンピックの招致は都議会で可決、衆議院でも可決され、東京オリンピックの招致が国家事業として動き始めたのであった。 高石勝男の反乱 田畑政治は、昭和31年のメルボリン・オリンピックでも選手団長として日本人選手を指揮したが、日本水泳は金メダルを確保したものの、全体的に成績は悪かった。 そのようななか、水面下で動いていた関西支部長・高石勝男が反旗を翻したのである。 元々、高石勝男は兄と事業をしていたが、現役時代は水泳の名選手として名を馳せてお入り、田畑はその経歴を買われて、関西支部長を任されていた。 戦前の栄光もむなしく、戦後の水泳界は成績が低迷していたことから、日本水泳連盟は高石勝男にメルボリン・オリンピックの監督を要請したのだが、高石勝男は耳病を理由に断った。 しかし、これが高石勝男を刺激したのか、高石勝男は田畑政治の中央集権体制など、蓄積していた数々の不満を爆発させ、水面下で打倒田畑を画策したのである。 そして、高石勝男は、メルボルン・オリンピックの翌年の昭和32年に、日本水泳連盟の会長選に立候補したのだ。 現職会長の田畑政治が再選すると考えられていたので、高石勝男の立候補によって、水泳界は真っ二つに分かれて大混乱に陥った。 これは「日本水泳界の汚点」となった。 結局、田畑政治が1年で辞任するという密約によって事態の収拾が図られ、田畑が再選するが、田畑は1年後に混乱の責任を取る形で日本水泳連盟の会長を辞任し、東京オリンピックの招致に専念するのであった。 東京招致に向けて 昭和30年にIOC会長ブランデージが来日して、東京にオリンピックを招致したいのであれば、昭和35年のオリンピックに立候補して、昭和39年のオリンピックを狙いなさいと助言した。 ヨーロッパ諸国は遠征費の関係で、2度続けてヨーロッパ以外でオリンピックを開催する事を嫌っており、昭和35年のオリンピックはローマ開催が濃厚だった。 このため、東京が立候補しても負けは確実だが、立候補しておくことで、東京もオリンピックを開催する意向があるというアピールになり、昭和39年のオリンピックが狙えるのだという。 こうして、東京は昭和35年のオリンピックに立候補して、アピールに徹し、予定通りにローマに負けて、昭和39年のオリンピック開催を狙うのだった。 東京オリンピック招致活動 祖国思いの日系2世フレッド・イサム・ワダは、田畑政治に請われ駐米委員となっており、東京開催に向けて並波ならぬ情熱を燃やしていた。 その熱意を受けた総理大臣・岸信介は、フレッド・イサム・ワダを東京オリンピック準備委員会の委員に任命して、投票の要所である中南米訪問の全権を委任した。 こうして、フレッド・イサム・ワダは中南米10カ国11都市を私費で訪れて、各国のIOC委員に東京開催への協力を依頼し、確実に9票、上手くいけば10票が得らるだろうという好感触を得た。 一方、ヨーロッパでは貴族が投票権を持っていたことから、「プリンス・タケダ」こと竹田恒徳(日本オリンピック委員会会長)は、元皇族という経歴を活かし、ヨーロッパ方面で東京招致活動に活躍する。 さらに、竹田恒徳は、ブリュッセル(ベルギー)から、今回の立候補はアピールであり、本当に狙っているのは次ぎのオリンピックという本心を引き出し、事実上のベルギーからの投票の確約を得ることにも成功する。 東京オリンピックを勝ち取る オリンピック招致を勝ち取るには、国際オリンピック委員会(IOC)総会のプレゼンテーションでIOC委員に好印象を与えなければならない。 そこで、田畑政治は、IOC委員にはフランス語が分かる人が多いことから、フランス語で東京招致のプレゼンテーションを行おうと考え、フランス語が堪能でスポーツにも理解がある外務省官房総務参事・北原秀雄にプレゼンテーションを依頼した。 北原秀雄は、プレゼンテーションを引き受けたが、運動会のリレーでアキレス腱を切って負傷してしまったので、代わりとして、NHK解説委員として活躍している先輩・平沢和重を紹介した。 平沢和重は、オリンピック招致を時期尚早として批判していたため、簡単には引き受けてくれなかったが、北原秀雄の後押しもあり、自分で原稿を作ることを条件に、プレゼンテーションを引き受けた。 こうして、日本は昭和34年のIOC総会に出席し、平沢和重がプレゼンテーションを行った。 幸運なことに、東京の前にプレゼンテーションを行ったデトロイトが、45分の持ち時間を超過して1時間もプレゼンテーションを行ったうえ、原稿を棒読みするという失態を犯しており、IOC委員たちは辟易していた。 そこへ、平沢和重がわずか15分という短いプレゼンテーションで、見事に東京開催のメリットをアピールしたのである。 オリンピックの五輪は五大陸を表しているが、まだアジアではオリンピックは開催されていなかった。 そこに日本の勝機があった。 このプレゼンテーションが功を奏し、日本はライバルの「デトロイト」「ウィーン」「ブリュッセル」に圧勝し、日本は東京オリンピックを勝ち取ったのだった。 さて、東京オリンピックの開催が決定すると、田畑政治は早々に東京オリンピック組織委員会を発足し、事務総長に就任した。 そして、田畑政治は、東京オリンピック開催に向けた準備を開始し、昭和35年のローマオリンピックでは、選手団長を譲り、東京オリンピックを成功させるために視察に専念した。 女子バレーと柔道の採用 田畑政治は、日本のメダルが増えるように、柔道と女子バレーボールをオリンピックの競技に採用するように強く訴えた。 男子バレーボールは既に競技に採用されているので、田畑の熱意を受けて、「東京だけの特例」として女子バレーボールは採用された。 このころ日本女子バレーボールは全盛期で、東京オリンピックで「東洋の魔女」として世界を恐れさせることになる。 一方、柔道は、柔道の創始者・嘉納治五郎が日本人初の国際オリンピック委員会(IOC)の委員として活躍しており、嘉納治五郎が昭和3年に柔道の採用を訴えて以降、柔道はオリンピック競技の候補になり続けていた。 そして、世界31カ国に柔道が普及しており、今回はヨーロッパ各国が田畑政治に柔道の採用を熱望したのである。 こうした経緯があり、日本が柔道を申請すると、反対者も居たが、各国の擁護が入り、柔道はオリンピック種目に採用されたのである。 第4回アジア競技大会事件 オリンピック大臣・川島正次郎は、池田総理も同意と言い、田畑政治にオリンピック組織委員会の会長・津島寿一を辞めさせるように求めたが、田畑は津島会長を守った。 そのようななか、東京オリンピックの2年後に控えた昭和37年(1962年)、インドネシアのスカルノ大統領(デビ婦人の夫)が国家の威信を賭けて、アジア17カ国から1400人を集め、首都ジャカルタで大々的に第4回アジア競技大会を開催した。 しかし、スカルノ大統領は、中国と親しいという政治的な理由から、台湾とイスラエルに招待状を出さなかった。 メンバー国に招待状を出さないのは、アジア大会憲章に違反しており、「スポーツと政治は別」という国際スポーツの精神にも違反していた。 事前に情報を得た田畑政治は、ジャカルタの大会組織委員会に問い合わせたところ、台湾とイスラエルに招待状を出さないというのはデマであり、一切のルール違反はしていないという回答だった。 この回答を受けた田畑政治は、時間の猶予が無かったので、確認を取らないまま日本選手団を率いてジャカルタへと向かったが、ジャカルタに付いてから、台湾とイスラエルに招待状を出していないという違反が判明したのである。 こうした事態に対して、国際陸上連盟が各国に警告を送ったが、この警告はあくまでも「出場しても公式大会として認めない」という意味合いのものと考えられた。 しかし、日本では、国際陸上連盟オブザーバーの浅野均一が「台湾、イスラエルが参加しない限り国際陸連としては大会を認めることはできない。 したがって、このアジア大会の陸上競技に参加したものは除名する」と表明した。 戦後、日本がオリンピックに復帰する条件として、国際オリンピック委員会は各競技の国際連盟への復帰を勧告しており、日本陸上連盟が国際陸上連盟から除名されれば、東京オリンピックに影響が出ると考えられた。 このため、日本国内では「大会憲章に違反した大会に出場すれば、日本も同罪。 オリンピック開催国として世間に示しが付かない」「このままでは日本は国際オリンピック委員会から除名される。 そんなことになれば、東京オリンピックを取り消されてしまう」という論調が起きていた。 一方、国際オリンピック委員会は「(特定の国を排除した大会に)オリンピック旗をかかげることは許されない」と表明するに留まった。 兎にも角にも、台湾とイスラエルが参加すれば、大会は正常化するため、田畑政治は大会正常化に向けてジャカルタ側と協議したが、ジャカルタ側は「台湾とイスラエルに招待状を送った」の一点張りで、話し合いは進まなかった。 ジャカルタ入りしたオリンピック大臣・川島正次郎は、スカルノ大統領と故意にしていたことから、スカルノ大統領の顔を潰すことはできないため、厳しい判断を迫られたが、日本国内の世論あり、大会不参加を主張した。 一方、大会に参加するアジア各国は、日本の動向をうかがっており、日本の決定に追従しようとしていた。 既に、インドの大使館に投石が行われたり、日本選手団の幹部が滞在するホテルに暴徒が進入したりしており、日本が撤退すれば、第4回アジア競技大会が中止になり、ジャカルタで暴動が起きることは目に見えていた。 そこで、ジャカルタに居る日本選手団の幹部の大半は、大会に出場しても国際陸上連盟の除名は無いと考え、ジャカルタで暴動が起きそうな事情もあったので、大会への参加を決定する。 最終的に田畑と川島正次郎が話し合い、田畑は「日本がルール違反したわけではないので、罰せられるのであれば、インドネシアだ」と説得し、川島正次郎の最終判断により、日本は第4回アジア競技大会に出場した。 韓国だけは大会から撤退したが、アジア各国は、日本が国際陸上連盟から批難されることがあれば、日本を擁護する方針で一致し、第4回アジア競技大会に出場したのだった。 田畑の失言 第4回アジア競技大会を終えて一足先に帰国したオリンピック大臣・川島正次郎は、マスコミにしたいして、「インドネシア国民は大会に熱狂しており、日本が引きあげれば、とんでもない事態になりかねなかったのが、現地の事情があった」と釈明した。 その後、帰国した田畑政治も「私たちの行動と国民感情の間に大きなギャップがあることは認める。 しかし、現地の実情を分かってもらえれば、取る道はあれしかなく、全体的によかったと、納得していただけよう。 いま考えてみても、あれが最善のやり方だった」と釈明した。 しかし、国際陸上連盟の意向を無視して出場したことについて、田畑政治は「際競技会(親善試合)として、日本陸上も参加した」と釈明してしまった。 実は、大会開催前に、国際陸上連盟が第4回アジア競技大会を親善試合にするように要請しており、田畑政治の釈明は国際陸上連盟の総会でするべき釈明だったのである。 明らかに失言だった。 このチャンスを見逃さなかったのが、オリンピック大臣・川島正次郎である。 以前、川島正次郎はオリンピック組織委員会の会長・津島寿一を排除しようとしたが、田畑政治に抵抗されて、失敗していた。 そこで、川島正次郎は、今回の田畑の失言を利用して、責任問題を煽り立てたのである。 こうして、川島正次郎の画策によって、「日本に追従して大会に参加したアジア各国への責任」「インドネシアを怒らせるのではないか」「こんな優柔不断な人間に東京オリンピックを任せられない」という批判が続出した。 翌日、田畑は「陸上は国際競技として行われたのではない。 実際は第四回アジア競技大会の一部門として陸上に出場した」と釈明し、「前日の談話は私の説明不足だった」と前日の談話を撤回した。 しかし、経済界から責任問題を追及された会長・津島寿一は辞任。 田畑政治も従兄弟の水野成夫(フジテレビの創業者)からの助言を受けて辞任を決意した。 そして、田畑政治は「レールは敷いた。 後は誰が事務総長をやっても、事務局さえシッカリしてくれれば出来る」「東京オリンピックの種は俺がまいたんだ。 俺が刈り取りたかった」と言い、我が子を奪われるような気持ちで、昭和37年に東京オリンピック組織委員会の事務総長を辞任したのだった。 後日、田畑政治は、朝日新聞時代の同僚・細川隆元から「あの時のしっぺ返しを受けたんだよ」と言われ、事情を教えられた。 実は、東京オリンピックの予算を話し合う会合で、川島正次郎が予算のことで横槍を入れてきたため、田畑は怒って「スポーツの専門家でもないのに、つべこべ言うな。 第一、都知事選の時も資金調達が上手くやれず、よくあれで幹事長が務まるものだ」と批判したことがあった。 川島正次郎は、これを根に持っており、今回の責任問題に繋がったのだ。 さて、田畑政治は、東京オリンピック組織委員会の事務総長を辞任しても、東京オリンピック選手強化対策本部の本部長も兼任していたので、今度は選手の強化に専念するために奔走する。 しかし、「寝業師」と歌われた政治家・川島正次郎の策謀は、それに留まらず、各方面へ根回ししており、田畑政治は選手強化対策本部の本部長からも追い落とされて、常任顧問に就いたが、間もなく常任顧問の肩書も奪われてしまったのである。 田畑は東京オリンピック組織委員会の委員として残ったが、積極的な発言はせず、選手を激賞してまわった。 そして、国際陸上連盟の総会で日本の責任問題は出ず、昭和39年に東京オリンピックは無事に開催され、田畑は東京オリンピック組織委員会の最前列で身を乗り出して選手を応援したのだった。 その後 東京オリンピックは無事に終わったが、水泳ニッポンの栄光は見る影も無く、日本水泳陣は惨敗した。 そこで、田畑政治は、水泳ニッポンの復権を目指し、日本水泳連盟の改革に着手して、10カ年計画を掲げた。 室内プールがほとんど無かった昭和43年に東京スイミングセンターを完成させ、水泳選手の育成に励んだ。 その一方で、田畑政治は、昭和40年に日本体育協会の理事に就任、昭和41年には札幌冬季オリンピック組織委員会の顧問に就任。 昭和44年には東京オリンピック招致の功績が認められ、勲二等瑞宝章を受章する。 そして、昭和47年開催の札幌オリンピックでも尽力し、昭和48年に日本オリンピック委員会の会長に就任。 国際オリンピック委員会(IOC)から離脱していた中国のIOC復帰に貢献した。 晩年の田畑政治は、パーキンソン病を発症しながらも、日本オリンピック委員会を日本体育協会から独立させるために奔走したが実現せず、政治的な背景から、日本体育協会の指示で昭和55年のモスクワオリンピックをボイコットするという事態を招いた。 そして、昭和57年に東京スイミングセンターの会で、食べ物を喉に詰まらせて順天堂医に運ばれたが、酸欠のため脳の一部に障害が残り、車いす生活を送った。 昭和59年7月、ロサンゼルス・オリンピックの直前で危篤状態に陥り、医師から覚悟するように言われるが、田畑安治は奇跡的に復活し、病室のテレビで、ロサンゼルス・オリンピックを開会式から閉会式まで観戦して涙を浮かべた。 そして、閉会式の2週間後の昭和59年(1984年)8月25日に、入院先の順天堂医院で死去した。 享年87。 死後、正四位勲二等旭日重光章に叙された。
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