人物像 [ ] 小野小町の詳しい系譜は不明である。 彼女は絶世のとしてなど数々の逸話があり、後世にやなどの題材としても使われている。 だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。 出自 [ ] 系図集『』によればであるのである・の娘とされている。 しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。 加えて、数々の資料や諸説から小町の生没年は2年() - 3年()の頃と想定されるが、小野篁の生没年(21年() - 2年())を考えると篁の孫とするには年代が合わない。 ほかに、小野篁自身の娘 、あるいはの娘 とする説もある。 血縁者として『』には「 小町姉(こまちがあね)」、『』には「 小町孫(こまちがまご)」、他の写本には「小町がいとこ」「小町姪(こまちがめい)」という人物がみえるが存在が疑わしい。 さらには、の(小野吉子、あるいはその妹)で、またやの頃も仕えていたという説も存在するが、確証は無い。 このため、架空説も伝えられている。 また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、に仕える女性だったのではと考えられる。 ほぼ同年代の人物に「 三条町()」「 三国町(皇子の母)」が存在する。 生誕地に纏わる伝承 [ ] 生誕地については、伝承によると現在の小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。 ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、平安時代初期に北方でのので出羽を()に移しており、その周辺とも考えられる。 この他にもとする説、とする説、とする説、とする説 、植木町小野とする説 、小野とする説 など、生誕のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。 に伝わるものはおそらく『』の歌人目録中の「出羽娘」という記述によると思われるが、 それも小野小町の性を高めるために当時の日本の最果ての地の生まれという設定にしたと考えられてもいて、この伝説の裏付けにはなりにくい [ ]。 ただ、にはにゆかりのある人物が多く、小町の祖父であるは青年時代に父のに従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたと言われる。 また、小野篁のいとこであるは若い頃辺境の地に暮らしていたことから、夷語にも通じていたという。 晩年に纏わる伝承 [ ] 前述の秋田県湯沢市小野で過ごしたという説の他、小野はの栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説がある。 ここにあるには、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。 後述の「花の色は.. 」の歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされる。 墓所 [ ] 小野小町の物とされる墓も、全国に点在している。 このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。 平安時代位までは貴族もが一般的であり(皇族等は別として)、墓自体がない可能性も示唆される。 小野には二ツ森というと小野小町の墳墓がある。 なお、近隣には、小野小町の母のお墓とされる姥子石など、小野小町ゆかりの史跡が多数存在している。 にも小野小町の墓があり、生地の秋田県雄勝郡横堀村に帰る途中、この地で病に倒れ亡くなったと伝えられている。 山形県米沢市の塩井町には小野小町の墓とされるがある。 高郷町には、小野小町塚があり、この地で病で亡くなったとされる小野小町の供養塔がある。 岩舟町小野寺にも小野小町の墓があり、小町は裏の断崖からの世界を見て、身投げをしたという伝説がある。 とには、小野小町の墓があり、この地で亡くなったとの伝承がある。 この2つの地は、の峠を挟んでかなり近いところにある。 小野には、元年に建てられた拝殿の横に、小町塚が存在する。 に小町塚があり、背面には「小町東に下るとき此処で死せし」とある。 も小野小町終焉の地と伝わり、小町の墓と伝えられる小町塚や、小町を開基とするがあり、が整備されている。 京都府では、小野小町が当地にて69歳で没したと伝えられ、小町の墓と伝えられるが残されている。 京都府静市市原町にある()には、小野小町老衰像と小町供養塔などがある。 大谷にある内には、小野小町百歳像がある。 湯屋谷にも小町の墓があり、熊野参詣の途中この地で亡くなったとの伝承がある。 にも同種の言い伝えがあり、小町地区に墓がある。 また隣接して小野地区も存在する。 清音黒田にも、小野小町の墓がある。 この地の伝承としては、小町が「四方の峰流れ落ちくる五月雨の黒田の蛭祈りますらん」とよむと、当地の蛭は吸い付かなくなったという蛭封じの歌が伝えられている。 川棚中小野にも、小野小町の墓がある。 [ ] 一般に、と共に「世界三大美人」(または世界三大美女)の一人に数えられている。 小野小町の代わりに、楊貴妃の代わりにを加える場合もある。 明治中期、日本国内でナショナリズムが高まる中のメディアに登場するようになったのが始まりとされている。 作品 [ ] 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを 『古今集・序』 色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける 『古今集・序』・今昔秀歌百選 選者:伴紀子(池袋松屋社長) わびぬれば身を浮草の根を絶えて誘ふ水あらば往なむとぞ思ふ 『古今集・序』 わが背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛のふるまひかねてしるしも 『古今集・序』 いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞきる うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人めをもると見るがわびしさ かぎりなき思ひのままに夜もこむ夢ぢをさへに人はとがめじ 夢ぢには足もやすめずかよへどもうつつにひとめ見しごとはあらず うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき 秋の夜も名のみなりけりあふといへば事ぞともなく明けぬるものを 人にあはむ月のなきには思ひおきて胸はしり火に心やけをり 今はとてわが身時雨にふりぬれば事のはさへにうつろひにけり 秋風にあふたのみこそ悲しけれわが身むなしくなりぬと思へば — 『古今集』 通小町(『能楽図絵』) 小野小町を題材とした作品を総称して「小町物」という。 能 [ ] 小野小町を題材にした七つの謡曲、『』『』『』『』『』『』『』の「」がある。 これらはの名手として小野小町を讃えたりのを題材にしたものと、年老いて乞食となった小野小町に題材にしたものに大別される。 後者は能作者らによって徐々に形作られていった「」として中世社会に幅広く流布した。 歌舞伎 [ ]• 『』 (つもるこい ゆきの せきのと) 通称「関の扉」、()、4年 1784 江戸初演• 『去程恋重荷』 (さるほどに こいのおもに) 通称「恋の重荷」、歌舞伎舞踊(常磐津)、2年 1819 江戸初演• 『』 (ろっかせん すがたの いろどり) 通称「六歌仙」、歌舞伎舞踊(・・)、2年 1831 江戸中村座初演• 『和歌徳雨乞小町』 (わかの とく あまごい こまち) 通称「雨乞小町」、歌舞伎狂言、29年 1896 東京初演 御伽草子 [ ]• 『 ()』 美術 [ ] に描かれた、野晒しにされた美女の死体が動物に食い荒らされ、蛆虫がわき、腐敗して風化する様を描いたは別名を「小野小町九相図」と呼ばれる。 モデルとしては他にも知られ、両人とも「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる(飢ゑたる)犬の腹を肥やせ(よ)」の歌の作者とされた。 裁縫用具 [ ]• 裁縫に使う「」の語源は小野小町にちなむという俗説がある。 言い寄ってくる多くの男に小野小町がなびくことがなかったため、穴()のない女と噂されたという伝説に基づき、穴のない針のことを「小町針」と呼んだことから来ているというものである。 の推理小説『』に登場する手毬唄では、「穴がない女性」という意味で「小町」の語が用いられている。 舞台 [ ]• 『夜会』Vol. 5(1993年) の舞台。 サブタイトルが「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に」である。 ポスターにはを着て小野小町に扮したが後姿で写っている。 ストーリーは小野小町の伝承と、のの中のをモチーフにしている。 『ミュージカル小野小町』 2007年上演の舞台。 脚本、主演)は小町が残した「我死なば 焼くな埋むな 野にさらせ 痩せたる犬の 腹を肥やせよ」の歌から、自分の人生を生ききった美しいだけではない強い女性として小町を描いている。 『小町の千年情話』 第一回公演、2013年8月の舞台。 の落語をが舞台劇に脚色、演出。 企画、主演は。 生前の愛憎のもつれのために、没後、一千年も成仏できず、江戸の町をさまよう小野小町の霊。 やっと成仏できる機会がめぐってきたが、小町の霊は、その機会を自分でふいにしてしまい、そして……。 小説 [ ]• 『小説 小野小町「吉子の恋」』 著。 小野小町の本名が「小野吉子」で、のだったとする説を採用して、その一生を描いている。 アニメ [ ]• 『』 六歌仙のひとりとして3話から5話にかけて登場。 声を演じたのは。 『』 原作者であり監督のは、 小野小町の古今和歌集の和歌から着想を得て、この作品をつくったとしている。 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを 《現代語訳》 あの人のことを思いながら眠りについたから夢にでてきたのだろうか。 夢と知っていたなら目を覚まさなかっただろうものを。 ドラマ [ ]• 『』の第2作「きらら坂に住む400歳の氷女」(1981年) 小野小町との「」の如く、公家の裏切りに傷ついたへの想いを証明しようとした面打師・孫四郎(演 - )は九十九夜を最後に通いは途絶えた。 時は流れ、転生した孫四郎は現代の京都で低温科学研究所に勤務する青年・山村三郎(演 - 名高達郎)として幸福な結婚をするが、前世の恋人が死ぬことなく400歳の妖怪「氷女」と化して真夏の上に異常気象で酷暑に見舞われる「きらら坂」に現れて男性を次々と死なせる事件を引き起こし、「百日行」の残り一日を目前にした修行僧・日信(演 - 小林芳宏)や三郎の父・山村孝吉(演 - )も犠牲になった。 の早川六助(演 - )は捜査の過程で、記録にあるだけでも戦後から5件も同様の怪事件が起きていることを知り困惑する。 更には、妻・民子(演 - 村田みゆき)も「氷女」を目撃したショックで眼が見えなくなり入院してしまう。 その一方で、「氷女」の前に非業の死を遂げた日信のが出没して恨み言をぶつける。 真夏の凍死事件の記事を読んだ三郎は父が恋い焦がれた着物デザイナーの九条沙織(演 - )が人間の法律では裁けぬ妖怪だと確信して罠を仕掛け、背後から忍び寄った「氷女」にナイフを突き刺して致命傷を与えるが、彼女は三郎の前世である孫四郎の恋人であり、三郎の妻は沙織の妹の転生だった。 死に際、妹を幸せにしてやって下さいと言い残し、沙織は呪われた人生の幕を閉じた。 その直後、民子は眼が見えるようになる。 小野小町が由来になったもの [ ]• - ・の列車。 秋田県湯沢市小野出身という説に由来。 - にのに採用された日本ののの1つ。 - 秋田県新屋(通称)にあるの愛称。 正式名称は秋田県立野球場。 施設は秋田県が所有し、県の外郭団体であるがとして運営管理を行っている。 - 小野小町の出生地とされる秋田県に本所をおく。 愛称は JAこまち。 湯沢市、との一部を営業エリアとする。 東成瀬村からとされている。 こまち支店 - 秋田県秋田市に本店をおく地方銀行の秋田銀行が開設している支店の名称。 - 秋田県湯沢市の祭り。 毎年6月の第2日曜日開催。 - 秋田県湯沢市の建造物。 観光拠点。 - の温泉地。 小野小町が開湯した温泉と伝えられている。 温泉街には、小町観音があり、美人の湯と称される。 ミス小野小町コンテスト - 小野随心院で開催される。 こまちチャンネル - 秋田県農林水産部が運営する農林水産情報を発信しているウェブサイトの名称。 天然温泉ホテルこまち - 秋田県秋田市卸町にあるホテル及び入浴施設。 関連項目 [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 (ふかくさのしょうしょう)• (びじょづか)山形県米沢市 脚注 [ ]• 前田善子『小野小町』、1943年• 「小野小町の実像」『王朝の映像-平安時代史の研究』、1970年• , pp. 7-11、傍証として小野小町の歌集『小町集』に前のの女性の歌が紛れ込んでいる。 小野町. 2018年1月17日閲覧。 「小野小町と小町神社(厚木市小町)」『神奈川県の伝説』149 - 152項。 日本海トラベル.. 2020年2月18日閲覧。 宮武外骨編(成光館、1930)• 参考文献 [ ]• 『神奈川の伝説』読売新聞横浜支局 編、、昭和42年(1967年)。 『』(コンジヤクシウカヒヤクセン)不出售(フシユツシウ)特定非営利活動法人文字文化協會 2012年 ISBN• 『』、1913年。 外部リンク [ ]•
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第33代天皇である推古天皇の時代、倭国と呼ばれていた日本から、中国の隋に派遣された朝貢使を「遣隋使」といいます。 大阪の住吉津(すみのえのつ)という港から出発し、大阪湾、瀬戸内海、玄界灘をとおるルートを使っていたそうです。 600年から隋が滅びる618年までの間に、5回以上派遣されました。 日本から中国に遣いが派遣されたのは、400年代前半に「倭の五王」が朝貢して以来、百数十年ぶりのことでした。 「朝貢」とは、中国の皇帝に対して周辺諸国の君主が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼の品々を持たせて帰国させ、外交の秩序を築く体制のこと。 また皇帝の徳を内外に示し、政権の正統性を表すという重要な意味もありました。 国や民族の間で君臣関係を結ぶ「冊封」体制下では、中国に従属した国は原則として朝貢が義務とされていたのです。 日本は中国に従属してはいませんでしたが、そのような国でも朝貢自体をおこなうことは可能でした。 百数十年ぶりに中国に使いが派遣されることになった背景には、581年に楊堅によって建国された隋が、184年に起きた「黄巾の乱」以来およそ400年ぶりに分裂していた中国を統一したことが挙げられます。 超軍事大国が誕生し、東アジアの国際情勢は激変しました。 また当時の朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済の3国が激しく争っています。 隋と結ぶのか、それとも対立するのかをめぐり、外交がおこなわれていました。 しかし日本は、この状況に乗り遅れてしまいます。 蘇我氏と物部氏の内紛や、崇峻天皇暗殺事件が起こるなど、内政が混乱していたのです。 最初の遣隋使が派遣されたのは、600年のこと。 しかし隋の初代皇帝となった文帝に拝謁した一行は、皇帝からの質問にまともに答えることができず、未開発の野蛮な国という印象をもたれてしまいます。 失敗に終わったからか、この第1回に関する記録は中国側には残っているものの、『日本書紀』など日本側の記録には残されていません。 ただ、隋の政治の在り方や文化などを持ち帰ることができ、後に聖徳太子や蘇我馬子のもとで、これらの知識が宮殿や寺院の建設、十七条憲法や冠位十二階などの制度を整えることに貢献したと考えられています。 文明国として体制を整えた日本は、608年に2回目の遣隋使を派遣。 この時に大使を務めたのが小野妹子です。 その目的は所説あるものの、隋に従属するでも対立するでもない、いわば第三の道ともいうべき「対等の国」として外交を取り結ぶことにあったといわれています。 遣隋使が持って行った国書に、隋の皇帝が怒った本当の理由 第1回の反省もふまえて派遣された、第2回遣隋使。 しかし小野妹子が持参した「国書」に書かれた「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。 恙無しや」という文言が、隋の第2代皇帝・煬帝を怒らせてしまうのです。 その理由として、「天子」という言葉には「世界を統治する者」の意味があり、煬帝は、それは隋の皇帝である自分のみに許された呼び名だと考えていたこと、また隋を「日没する処」と表現したことが、まるで隋が衰退に向かう国であるかのような印象を与えたことが挙げられます。 598年、隋は万里の長城以北に勢力を伸ばそうと高句麗に30万の大軍で攻め込みましたが、失敗。 翌年の599年には突厥という部族の侵入を受け、604年には煬帝の弟である楊諒が反乱を起こすなど混乱が続いていました。 ちょうど隋の国内情勢に暗雲がうまくいっていなかった時期だったため、遣隋使を派遣した聖徳太子の皮肉だと考えられてしまったのです。 実際に隋は、612~614年にかけて高句麗へ遠征をくり返すものの滅ぼすことができず、負担に耐えかねた人々が各地で反乱を起こして、618年で幕をおろすこととなるなりました。 遣隋使と仏教の関係は? 隋を建国した文帝は、13歳頃まで尼寺で養育されていたこともあり、仏教がとても身近な存在でした。 また遣隋使を派遣した聖徳太子は、法隆寺や四天王寺を建立するなど、仏教に帰依した人物として知られています。 小野妹子が持参した国書には、「海西の菩薩天子重ねて仏法を興さると聞き、故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ばんとす」と書いてありました。 つまり「仏教が再興されたという隋へ、朝貢を行なうとともに僧侶を送って仏法を学ばせたい」という意味です。 この一文は外交上の建前ともとれますが、仏法を学びたいという聖徳太子の本心も含まれていたでしょう。 そんな聖徳太子が仏教の師と仰いでいたのが、慧慈という高句麗出身の僧侶です。 聖徳太子にとって慧慈は、単に仏法の師というだけでなく、高句麗との連絡役も兼ねていました。 聖徳太子が煬帝が怒るかもしれない内容の国書を持参させた背景には、高句麗との関係を匂わせることで、高句麗遠征に敗れて国内が動揺している隋が、日本に対して敵対的な態度をとれなくなると計算した外交手腕がありました。 隋が超大国となったことで国際情勢の緊迫度が増していくなか、遣隋使の大使という重要な役割を担ったのが小野妹子。 名前から勘違いをされることも多いですが、れっきとした男性です。 妹子の持ってきた国書を見た煬帝は「蕃異の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」と部下に命じ、遣隋使一行を追い返したと記録されています。 ただ実際のところ、煬帝が怒ったのは小野妹子らに対してではなく、無礼な内容が書いてある国書を自分に取り次いだ部下に向けてでした。 また遣隋使たちを追い返したのでもなく、返書を持たせ、裴世清(はいせいせい)という役人を帯同させています。 こうして帰国の途についた小野妹子ですが、なんと道中で皇帝からの返書を紛失するという大失態を犯してしまいました。 その責任を問われ、流罪にされてしまいます。 しかし不思議なことにすぐに許され、罰せられるどころか冠位十二階の最高冠位である「大徳」に昇進、翌年に実施された第3回遣隋使でも大使を務めているのです。 返書を紛失するという大失態を犯したにもかかわらず、かえって出世をした件について、実は返書の内容に、日本に不都合な点があったため、聖徳太子ら政府中枢の承認のもとわざと紛失したことにしたのではないかなどの説がありますが、定かではありません。 小野妹子は晩年になって出家をし、聖徳太子が建てた六角堂に入ります。 妹子は隋で見た習慣をとりいれて仏像に花を供えたそうで、これが日本における華道の始まりだといわれています。 古代史のロマンを感じる歴史小説.
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607年に聖徳太子が、隋に小野妹子ら遣隋使を送ったときの手紙の内容ですね。。 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。 恙無きや、……」 これはだいたいこういう意味です。 「日の昇る国の皇帝(日本の天皇)が日の沈む国の皇帝(中国の皇帝)に手紙を送るよ。 変わりは無いか?」 ここに出てくる日出づる処と日没する処の意味は・・・ 東の日本の「朝日の昇る」(日の明るい)明日香にいる天皇より、(日本から見れば西の中国の)「日の落ちる(落陽)」洛陽にいる(隋の)煬帝に向けて送った対等な文書とういうことになります。 それは隋書倭国伝の続きを見れば分かります。 「帝これを見て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて曰く『蛮夷の書、無礼なる物有、また以って聞する勿れ。 』と」 これを訳すと次のようになります。 「この国書を見て、煬帝はブチキレ外務大臣の鴻臚卿 コウロケイ を呼びつけ、 『野蛮な国の者がこんな無礼な手紙をよこしやがった。 また何か言ってきても無視しろ!』と」 ・・・当時、中国の周辺の国々は中国に使いを送るときの文書には必ず、臣下の礼をとり、絶対服従の態度で臨みました。 対等外交などは常識外の時代です。 結局、小野妹子はその場を何とかやり過ごし隋も高句麗攻めをひかえていたので日本を敵に回すのを得策と思わず、 翌年答礼使の斐世清を派遣した。 しかしこの斐世清の位階は30のうち29番目すなわち、 外務省の課長補佐級です であり、隋が日本を見下していたことがよくわかりますね。 小野妹子は帰国後、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明しています 「臣參還之時 唐帝以書授臣 然經過百濟國之日 百濟人探以掠取 是以不得上」『日本書紀』。 この事は、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が返書を破棄してしまったのではないかと推測されています。
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