さん け べつ ヒグマ 事件 nhk。 大川春義

大川春義

さん け べつ ヒグマ 事件 nhk

事件の経緯 巨大ヒグマの出没 1915年()11月初旬のある夜明け前、の池田家に巨大なヒグマが姿を現した。 飼い馬が驚いて暴れたため、そのときの被害は保存食のとうもろこしに留まった。 村は開拓の端緒にかかったばかりの土地でもあり、このような野生動物の襲来は珍しいものではなかったが、主人である池田富蔵(いけだ とみぞう)はぬかるみに残った足跡の大きさ(約30cm)に懸念を持った。 11月、ふたたびヒグマが現れた。 馬への被害を避けようと、富蔵は在所と隣村から2人のを呼び、3人でることにした。 30日、三度現れたヒグマに撃ちかけたが、仕留めるには至らなかった。 その夜、長男・富吉 (とみきち)や妻に留守を頼み、次男・亀次郎(かめじろう・当時18歳)を加えた4人で鬼鹿山方向へ続く足跡を追い血痕を確認したものの、地吹雪がひどくなりそれ以上の追撃を断念した。 たちは、件のヒグマは「穴持たず」という、何らかの理由により冬眠し損ねたクマであると語った。 さらに足跡の巨大さから「このクマはあまりの巨体のため、自分の身に合う越冬穴を見つけられなかったのではないか」と推測し、「穴持たず」となったクマは非常に凶暴であることを付け加えた。 引用 最初の惨劇 秋から冬にかけ、開拓村では収穫した農作物を出荷するさまざまな作業に追われていた。 のような僻地では、それらの作業は人力に頼らざるを得ず、男達の多くは出払っていた。 12月9日の朝、川上流に居を構える太田家でも、同家に寄宿していた伐採を生業とする長松要吉(ながまつ ようきち、当時59歳。 通称オド)が一足早く仕事に向かい、当主の(おおた さぶろう、当時42歳)も氷橋(すがばし)に用いる桁材を伐り出すため出かけ、三郎の内縁の妻・阿部マユ(あべ まゆ、当時34歳)と太田家に養子に迎えられる予定であった蓮見幹雄(はすみ みきお、当時6歳)の2人が留守に残り、小豆の選別作業をしていた。 同日の昼、要吉が食事のために帰宅すると、土間の囲炉裏端に幹雄がぽつんと座っていた。 ふざけてたぬき寝入りをしているのだろうと思った要吉は、わざと大声で話しかけながら近づき、幹雄の肩に手をかけてのぞき込んだ。 そのとき、要吉は幹雄の顔下に流れ出た血の塊と、何かで鋭くえぐられた喉元の傷を見つけ驚愕した。 側頭部には親指大の穴があけられ、すでに幹雄は息絶えていた。 要吉は恐怖に震えながらマユを呼んだが何の応答もなく、ただ薄暗い奥の居間から異様な臭気が漂うのみであった。 ただならぬ事態を察した要吉は家を飛び出し、の架橋現場に走った。 駆けつけた村の男たちは、踏み入った太田家の様子に衝撃を受けつつも、これがヒグマの仕業だと知るところとなった。 入口の反対側にあるトウモロコシを干してあった窓は破られ、そこから土間の囲炉裏まで一直線に続くヒグマの足跡が見つかった。 トウモロコシを食べようと窓に近づいたヒグマの姿にマユと幹雄が驚いて声を上げ、これがヒグマを刺激したものと思われた。 足跡が続く居間を調べると、くすぶる薪がいくつか転がり、柄が折れた血染めのまさかりがあった。 ぐるりと回るようなヒグマの足跡は部屋の隅に続き、そこは鮮血に濡れていた。 それは、まさかりや燃える薪を振りかざして抵抗しつつ逃げるマユがついに捕まり、攻撃を受けて重傷を負ったことを示していた。 そこからヒグマはマユを引きずりながら、土間を通って窓から屋外に出たらしく、窓枠にはマユのものとおぼしき数十本の頭髪が絡みついていた。 要吉が幹雄の死に気づいたとき、土間にはまだ温かい蒸し焼きのが転がっていたという。 そのことから、事件が起こってからさほど時間は経っていないと思われた。 また、午前10時半過ぎにの村人が太田家の窓側を通る農道を馬に乗って通り過ぎていた。 彼は家から森に続く何かを引きずった痕跡と血の線に気づいたが、が獲物を山から下ろし太田家で休んでいるものと思い、そのときは特に騒ぎ立てなかった。 これらのことから、事件は午前10時半ごろに起こったと推測された。 事件の一報に村は大騒動となった。 しかし、12月の北海道は陽が傾くのも早く、幹雄の遺体を居間に安置したころには午後3時を過ぎ、この日に打てる手は少なかった。 男達は太田家から500m程の明景安太郎(みようけ やすたろう、当時40歳)の家に集まり、善後策を話し合った。 ヒグマ討伐やマユの遺体奪回は翌日にせざるを得ないが、取り急ぎ苫前村役場と古丹別巡査駐在所、そして幹雄の実家である力昼村 現・力昼 の蓮見家への連絡を取らなければならない。 しかし、通信手段は誰かが直に出向くより他になかった。 太田家の近くに住む男性が使者役に選ばれたが、本人が嫌がったため、代わりに斉藤石五郎(さいとう いしごろう、当時42歳)が引き受けることになった。 太田家よりもさらに上流に家を構える石五郎は、所用にて当主・安太郎が鬼鹿村(現・鬼鹿)へ外出しなければならない。 明景家に妊娠中の妻・タケ(当時34歳)、三男・巌(いわお、当時6歳)、四男・春義(はるよし、当時3歳)の家族3人を避難させ、要吉も男手として同泊する手はずが取られた。 引用 第2の惨劇 そのころ、明景家には明景安太郎の妻・ヤヨ(当時34歳)、長男・力蔵(りきぞう、当時10歳)、次男・勇次郎(ゆうじろう、当時8歳)、長女・ヒサノ(当時6歳)、三男・金蔵(きんぞう、当時3歳)、四男・梅吉(うめきち、当時1歳)の6人と、斉藤家から避難していた妊婦のタケ、巌、春義の3人、そして要吉の合計10人(タケの胎児を含めると11人)がいた。 前日の太田家の騒動を受け、避難した女や子供らは火を焚きつつおびえながら過ごしていた。 護衛は近隣に食事に出かけ、さらに太田家へのヒグマ再出没の報を受けて出動していたため、男手として残っていたのは要吉だけで、主人の安太郎は所用で鬼鹿村へ出かけており不在だった。 太田家から逃れたヒグマは、まさにこの守りのいない状態の明景家に向かっていた。 太田家からヒグマが消えてから20分と経たない午後8時50分ごろ、ヤヨが背中に梅吉を背負いながら討伐隊の夜食を準備していると、地響きとともに窓を破って黒い塊が侵入して来た。 ヤヨは「誰が何したぁ!」と声を上げたが、返ってくる言葉はない。 その正体は、見たこともない巨大なヒグマだった。 かぼちゃを煮る囲炉裏の大鍋がひっくり返されて炎は消え、混乱の中でランプなどの灯りも消え、家の中は暗闇となった。 ヤヨは屋外へ逃げようとしたが、恐怖のためにすがりついてきた勇次郎に足元を取られてよろけてしまう。 そこへヒグマが襲いかかり、背負っていた梅吉に噛みついたあと、3人を手元に引きずり込んでヤヨの頭部をかじった。 だが、直後にヒグマは逃げようと戸口に走っていく要吉に気を取られて母子を離したため、ヤヨはこの隙に勇次郎と梅吉を連れて脱出した。 追われた要吉は物陰に隠れようとしたが、ヒグマの牙を腰のあたりに受けた。 要吉の悲鳴にヒグマは再度攻撃目標を変え、7人が取り残されている屋内に眼を向けた。 ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。 このとき、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気づいたヒグマは彼女にも襲いかかった。 居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた[7]。 川下に向かっていた一行は、激しい物音と絶叫を耳にして急いだ。 そこへ重傷のヤヨと子どもたちがたどり着き、皆は明景家で何が起こっているかを知った。 重傷を負いながらも脱出してきた要吉を保護したあと、男たちは明景家を取り囲んだが、暗闇となった屋内にはうかつに踏み込めない。 中からは、タケと思われる女の断末魔のうめき声、肉を咀嚼し骨を噛み砕く異様な音が響き、熊の暴れまわる鈍い音がした。 一か八か家に火をかける案や、闇雲に一斉射撃しようという意見も出たが、子供達の生存に望みをかけるヤヨが必死に反対した。 一同は二手に分かれ、入り口近くに銃を構えた10名あまりを中心に配置し、残りは家の裏手に回った。 裏手の者が空砲を二発撃つと、ヒグマは入口を破り表で待つ男たちの前に現れた。 先頭の男が撃とうとしたがまたも不発に終わり、他の者も撃ちかねている隙にヒグマは姿を消した。 ガンピ(シラカバの皮)の松明を手に明景家に入った者の目に飛び込んできたのは、飛沫で天井裏まで濡れるほどの血の海、そして無残に食い裂かれたタケ、春義、金蔵の遺体であった。 上半身を食われたタケの腹は破られ胎児が引きずり出されていたが、ヒグマが手を出した様子はなく、そのときには少し動いていたという[8]。 しかし1時間後には死亡した。 力蔵は雑穀俵の影に隠れて難を逃れ、殺戮の一部始終を目撃していた。 ヒサノは失神し、無防備なまま居間で倒れていたが、不思議なことに彼女も無事だった[8]。 急いで力蔵とヒサノを保護し、遺体を収容した一行が家を出たところ、屋内から不意にの声があがった。 帰りの者がひとり中に戻ると、むしろの下に隠されていた重傷の巌を見つけた[注釈 5]。 巌は肩や胸に噛みつかれて傷を負い、左大腿部から臀部は食われて骨だけになっていた。 の全15戸の住民は、にある分教場(その後、小学校になるが廃校)へ避難することになり、重傷者達も3km川下の辻家に収容されて応急の手当てを受けた。 巌は母・タケの惨死を知るすべもないまま、「おっかぁ!クマとってけれ!」とうわ言をもらし、水をしきりに求めつつ20分後に息絶えた。 この2日間で6人、胎児を含めると7人の命が奪われ、3人が重傷を負った。 重傷者たちは翌日さらに3kmの家に移り、古丹別の沢谷医院に入院したのは12日のことだった。 引用 2日間で7名(内、胎児1名)が犠牲に 重症は3名 ヒグマの最期 空が白むのを待ち対岸を調査した一行は、そこにヒグマの足跡と血痕を見つけた。 銃弾を受けていれば動きが鈍るはずと、急いで討伐隊を差し向ける決定が下された。 一行の他に、10日の深夜に話を聞きつけてに入った山本兵吉(やまもと へいきち、当時57歳。 小説『』では山岡銀四郎)という熊撃ちがいた。 鬼鹿村温根(現在の鬼鹿田代)に住む兵吉は、若いころに鯖裂き包丁一本でヒグマを倒し「サバサキの兄(あにい)」と異名を持つ人物で、軍帽との戦利品であるロシア製ライフルを手に数多くの獲物を仕留めた、でも評判が高いだった。 彼が11月に起こった池田家の熊の出没さえ知っていたなら、9日の悲劇も10日の惨劇も起こらなかったものと、誰もが悔しがった。 孫によれば、(兵吉は)時に飲むと荒くなることもあるが、いたって面倒見もよく、優しい面を持ち合わせていたという。 兵吉は討伐隊と別れ、単独で山に入った。 ヒグマは頂上付近での木につ体を休めていた。 その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、兵吉の存在にはまったく気づいていない。 音を立てぬように20mほどにじり寄った兵吉は、ハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。 銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。 しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって兵吉を睨みつけた。 兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。 12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの死骸だった。 引用 ヒグマを倒したハンターは、山本兵吉さん ヒグマの特徴 ヒグマは金毛を交えた黒褐色の雄で、重さ340kg、身の丈2. 7mにも及び、胸間から背中にかけて「袈裟懸け」といわれる弓状の白斑を交えた大物であった。 推定7 - 8歳と見られ、頭部の金毛は針のように固く、体に比べ頭部が異常に大きかった。 これほど特徴のある熊を誰も見たことがないという。 隊員たちは怒りや恨みを爆発させ、棒で殴る者、蹴りつけ踏みつける者などさまざまだった。 やがて誰ともなく万歳を叫びだし、討伐隊200人の声がこだました。 終わってみると12日からの3日間で投入された討伐隊員はのべ600人、犬10頭以上、導入された鉄砲は60丁にのぼる未曾有の討伐劇であった。 ヒグマの死骸は人々が引きずって農道まで下ろされ、馬ぞりに積まれた。 しかし馬が暴れて言うことを聞かず、仕方なく大人数でそりを引き始めた。 すると、にわかに空が曇り雪が降り始めた。 事件発生からこの三日間は晴天が続いていたのだが、雪は激しい吹雪に変わりそりを引く一行を激しく打った。 言い伝えによればクマを殺すと空が荒れるという。 この天候急変を、村人たちは「熊風」と呼んで語り継いだ。 引用 8歳ほどのヒグマで全長はなんと約3mにも及ぶ! 猛吹雪に、5kmの下り道を1時間半かけてヒグマの死骸は青年会館に運ばれた。 から来たの夫婦は、「このヒグマは数日前に雨竜で女を食害した獣だ」と語り、証拠に腹から赤い肌着の切れ端が出ると言った。 あるは、「でやはり女を食ったヒグマならば、肉色の脚絆が見つかる」と言った。 山本兵吉は、「このヒグマが天塩での女を食い殺し、三人のに追われていた奴に違いない」と述べた。 解剖が始まり胃を開くと、中から赤い布、肉色の脚絆、そして阿部マユが着用していたぶどう色の脚絆が、絡んだ頭髪とともに見つかり、皆は悲しみをあらわにした。 犠牲者の供養のため肉は煮て食べられたが、硬くて筋が多く、味はよくなかったという。 皮は板貼りされて乾燥させるため長い間さらされた。 その後、肝などとともに50円で売却され、この金は討伐隊から被害者に贈られた。 毛皮や頭蓋骨は消息不明である。 引用 ヒグマの行動について ・火を恐れない 事件発生後、村民は火を焚いてヒグマを避けようとしており、人々が明景家に避難した際[22]や分教場に退避する際に多くの焚火が燃やされたこと[23]が記録されている。 これらの行動は一般に言われる「野生動物は火を怖がる」という風説を信じたものだが、実際は太田・明景両家の襲撃にみられるように、ヒグマは灯火や焚火などに拒否反応を示すことはない。 ・執着心が強い 事件はこの定説を裏づけている。 トウモロコシを何度も狙っている点や、以前に複数の女を食い殺したヒグマがでも女の衣類などに異常な執着を示している点からも確認できる。 また、阿部マユを食害した際に食べ残しを雪に隠したこと、太田家に何度も出没したことなども同じヒグマの特性による。 その一方で、馬への被害は皆無だった。 また、このヒグマは女や幼い男の子の肉の味を覚えてしまったことも原因である。 ・逃げるものを追う 明景ヤヨらがを得た理由は、ヒグマが逃げるオドに気を取られたためである。 このように、たとえ捕食中であってもヒグマは逃避するものを反射的に追ってしまう傾向にある。 ・死んだふりは無意味 明景家の惨劇において、気絶し無防備に横たわる明景ヒサノと、結果的には助からなかったが胎児はヒグマに攻撃されなかった。 これは、ヒグマが動かないものを襲わないというわけではなく、そのときにただ単に他に食べ物があっただけと考えられる。 ほかにも、ヒサノは女だがまだ幼く、ヒグマは大人の女の肉を好んだ可能性もある。 事実、妊婦を襲ってはいるが、胎児は襲わなかった。 ・一度人間の味を覚えた個体は危険 一般に熊は人を恐れ、人を襲うのは突然人間と出会った恐怖心からと言われている。 それを防ぐためには鈴などを鳴らして人間の存在を事前に知らせ鉢合わせする機会を減らせばよいとされる。 だが、人間の無力さと人肉の味を知った熊の個体は、人間を獲物と認識するようになる。 その場合、鈴の音などを鳴らすと獲物の存在を知らせることになり、かえって危険である。 引用 クマを背に逃げると助からない!.

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福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件

さん け べつ ヒグマ 事件 nhk

は日本の歴史上最悪のヒグマ事件と言われているの。 複雑な事件なので、簡単に理解できるように経緯をまとめてみました。 妊婦の惨殺部分は背筋が凍るような内容です。 ヒグマを仕留めた伝説の猟師 山本兵吉についても調べてみました。 熊害事件 が起こったのは、北海道苫前村(現:)。 1915年の12月9日から12月13日まで、7名もの犠牲者を出す大惨事となった。 には主に東北からの開拓民が居住していた。 当時の事件を再現した復元地というのがあるそうなので、ここでチェックしてみましょう。 ヒグマ、でかすぎでしょう……。 体重340kg、体長2. 7mと記録にありますけど、これに襲われたらひとたまりもありませんね。 それに当時の住居って本当に貧弱なのね。 壁は木切れというか、わら束の集まりにしか見えません。 実際、ヒグマは家の壁をいとも簡単に 破壊して侵入したようです。 1915年()11月初旬 池田家の馬が夜中に大騒ぎする。 翌朝、軒先に吊るしたトウモロコシが食い荒らされ、動物の巨大な足跡が見つかった。 冬眠し損ねた「穴持たず」のヒグマがいるということで、住民の依頼で猟師が呼ばれた。 猟師はヒグマに傷は負わせたものの、逃がしてしまう。 12月9日 太田家で妻マユ 34歳 と太田家に預けられていた蓮見幹雄 6歳 がヒグマに襲われ死亡。 12月10日 翌日2人の通夜をしている最中の太田家に再度ヒグマ襲撃。 ヒグマは自分の獲物を取り返しに来たと考えられる。 このときは、出席者が猟銃を発砲し、ヒグマ逃走。 12月10日 ヒグマから避難する目的で、安全と思われる明景家に斎藤家の女子供が避難していた。 しかし、男手が手薄なのを見透かしたように、ヒグマはこの家を襲撃。 斎藤家のタケ(34歳)、四男・春義(3歳)、明景家の三男・金蔵(3歳)を惨殺。 タケは妊娠していたが、胎児も同時に死亡した。 ここまで見てくると、女子供が集中的に狙われてるわね。 残忍な中にもヒグマの狡猾さが見て取れます。 妊婦と胎児が犠牲になった下りの詳しい描写も残っていて、あまりの凄惨さに言葉がなくなっちゃう……。 ヒグマは金蔵と春義を一撃で撲殺し、さらに巌に噛みついた。 この時、野菜置き場に隠れていたタケがむしろから顔を出してしまい、それに気付いたヒグマは彼女にも襲いかかった。 居間に引きずり出されたタケは、「腹破らんでくれ!」「のど喰って殺して!」と胎児の命乞いをしたが、上半身から食われ始めた。 一部抜粋 夢に出てきそう……。 ここまでの惨事に至ってようやくヒグマを追い詰めるんだけど、相変わらず狡猾なヒグマとちょっと間抜けな人間側の構図が続いてしまうの。 12月10日 明景家の惨劇の後、村人たちがようやく救援に駆けつけ、家を取り囲んだ。 飛び出してきたヒグマを猟銃で狙うが不発に終わり、逃がしてしまう。 12月11日 に通報。 12月12日 警察主導によるヒグマ狩り討伐隊本部が結成される。 6人の犠牲者の遺体をおとりにしてヒグマをおびき寄せる作戦が実行されたが、ヒグマに見透かされ失敗に終わる。 12月13日 山狩りのために陸軍歩兵部隊の30人が討伐隊に合流。 夜になって、橋付近でヒグマ発見。 狙撃隊の発砲によりヒグマを負傷させるが、またも逃がしてしまう。 12月14日 討伐隊とは別行動していた、山本兵吉という熊撃ちの猟師がようやくヒグマを仕留める。 よかった!憎いヒグマをようやくやっつけることができたわね。 それにしても、たった一人でヒグマを仕留めた山本兵吉とはどんな人なの? 山本兵吉は当時から有名な熊撃ちの猟師で、若いころには包丁1本でヒグマを退治したことがあり、 「サバサキの兄」と呼ばれていた。 の従軍経験があり、戦利品のロシア製ボルトアクション方式ライフルベルダンII M1870をヒグマ撃ちの猟銃として愛用していた。 欠点は酒好きで酒乱の傾向があること。 事件当時は愛用の猟銃を質屋に入れて、そのカネで飲んだくれていた。 の住人からヒグマ退治を頼み込まれ、ようやく質屋から猟銃を取り返した。 ここにあるエピソードのすべてが映画の主人公そのものよね。 現実世界にこんな人がいるのがすごい。 一般社会だと大酒のみのろくでなしなんだろうけど、天才と言われる人は、こんな一面もあったりするのよね。 兵吉がヒグマを仕留めた描写は文学作品のようにカッコいいので、紹介します。 兵吉は討伐隊と別れ、単独で山に入った。 ヒグマは頂上付近での木につ体を休めていた。 その意識はふもとを登る討伐隊に向けられ、兵吉の存在には全く気づいていない。 音をたてぬように20mほどにじり寄った兵吉は、ハルニレの樹に一旦身を隠し、銃を構えた。 銃声が響き、一発目の弾はヒグマの心臓近くを撃ちぬいた。 しかしヒグマは怯むことなく立ち上がって兵吉を睨みつけた。 兵吉は即座に次の弾を込め、素早く放たれた二発目は頭部を正確に射抜いた。 12月14日午前10時、轟いた銃声に急ぎ駆けつけた討伐隊が見たものは、村を恐怖の底に叩き落したヒグマの屠(ほふ)られた姿だった。 一部抜粋 その後、兵吉はに家を建て、しばらくそこに住み着いた。 平吉の長いクマ撃ち人生の中でも、は特別な場所になったということに違いない。 区長の息子、大川春義 事件当時7歳 は、犠牲者一人につき10頭のヒグマを仕留めることを誓い、兵吉に師事した。 そして、この春義も後に兵吉と同様、伝説のヒグマ猟師と言われるまでになった。 兵吉はその後、92歳で亡くなるまで、生涯熊撃ち猟師を続けた。 ヒグマ事件の生存者の証言をもとに元林務官が執念で綴った戦慄のノンフィクションがこちらです。 それにしても、ヒグマの肉って通販で買えちゃうのね。 怖いけど興味ある……。

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ヒグマ事件を読み解く/苫前事件(三毛別事件)

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ヒグマ事件を読み解く/苫前事件 三毛別事件) 2.苫前事件(三毛別事件) 1915年(大正4年)の月、道北の留萌管内苫前村三毛別六線沢(現在は苫前町三渓)の開拓集落で起きたヒグマによる連続襲撃事件は、死者8名、とりわけ民家に避難していた女性や子供が犠牲になったという点で、「無惨」「恐怖」「巨羆」などという言葉とともに記憶され、「苫前村三毛別事件」として語られてきた。 だが、それは、忌まわしい、ヒグマを敵として憎むためだけの物語だろうか。 現在もこの国にクマとともに住む我々は、この悲劇から受け継ぐべき教訓はないだろうか。 林務官という仕事の傍ら、この事件の調査発掘に努め、当事者への克明な聞き取りを重ねた木村盛武氏の記録と分析を元に、ヒグマの動きと人間の対応を検証してみた。 木村さんは元ヒグマの会監事。 年に旭川営林局の部内誌「寒帯林」に事件の調査記録を発表。 いくつかの著書でも触れ、年に「慟哭の谷」(共同文化社)にまとめている。 その記録は、戸川幸夫「羆風」「羆荒れ」、吉村昭「羆嵐」などの小説に基礎資料として提供された。 入植後年足らずの戸が、細長く沢沿いに点在していた。 山の中ではヒグマの痕跡は多いが、当時でも人家付近まで出てくることは滅多になかったという。 それが月上旬から下旬に計3回、池田家の軒下に吊したトウモロコシを夜中にクマが荒らした。 さらに月に入って松村家でも同様の被害があり、2人のマタギ(狩人)が発砲したが、傷を負わせただけで取り逃がした。 足跡は見たこともない大きさだったという。 すでに雪が降り始め、通常なら冬眠に入っている時期だ。 2,太田家第1襲撃 最初に事件が起きた月9日は、冬の交通路である氷橋を造るため、男衆は総出で木の伐採作業中だった。 午前中、太田家が荒らされ、蓮見幹雄(6歳)の遺体が残され、妻マユ()も近くの山林で食害された状態で翌日見つかった。 木村さんの推測では、以前と同じように軒先のトウモロコシを食おうと現れたヒグマに、家の中にいた2人が気づき、大声に逆上したクマが室内に入り込んで子供を一撃で殺し、妻マユをくわえて連れ去ったらしい。 クマの出入り口はいずれも山側の窓だった。 3,太田家第2の襲撃 翌日、朝から人余りの捜索隊が、クマの足跡を追跡。 それもはずれ、クマは逃げた。 マユの遺体はこのトドマツの木の根元に埋められていた。 足と頭を残し、ひどく食害されていたという。 2人の遺体は太田家に安置され、親族ら9人だけが通夜をした。 「獲物があるとクマが来る」と言われ、村人は通夜にはあまり来ていなかった。 午後8時半ごろ、ヒグマが太田家の壁を破って突入した。 棺桶をひっくり返し、遺体を食べようとしたらしい。 出席者の1人が銃を撃ったので、クマはすぐ逃走した。 人々は梁の上や便所に隠れて無事だった。 大人は男性1人と女性2人、あとは子供だった。 他の集落などから来た若者や猟師らは、別の家に集結していた。 太田家の通夜を荒らしたヒグマは午後9時ごろ、明景家を襲った。 「クマは火を怖がる」と信じられ、いろりに火を燃やしていたが、効果はなかった。 室内を逃げまどう子供たちが次々と頭や胸をかまれた。 妊娠中だった斉藤タケ()は「腹破らんでくれ。 喉食って殺して」と叫びながら、胎児とともに亡くなったという。 このとき、明景金蔵(3歳)、斉藤タケ、巌(6)、春義(3)と胎児の5人が死亡。 3人が重傷を負い、うち1人は3年後に亡くなった。 5,クマは逃げ人も去る 近くの家に集結していた約人の救援隊が明景家を囲んだが、ヒグマの気配や人のうめき声で、家の中には入れず、発砲もできなかった。 1時間あまりして、ヒグマが飛び出したが、このときも一番近い射手は不発で、ヒグマは逃げおおせた。 その夜のうちに、六線沢のすべての住民は、下流の三毛別に避難した。 真冬の夜の雪道を、たいまつを手に逃れたという。 約人の救援隊だけが、集落に残った。 6,クマ狩り本部結成 日になって、大事件の一報が北海道庁に届き、折り返し、羽幌警察分署出動の指示が出た。 熊狩り本部が六線沢に近い農家に設けられ、本部長は警察分署長、副本部長は帝室林野局の職員と分教場の教頭。 最大の方針は、問題のヒグマを三毛別川より下流に侵入させない、というものだった。 その夜、葬儀を待つ遺体でクマをおびき寄せる、という苦肉の案が出され、6遺体が明景家に置かれた。 室内にやぐらを組んで射手が待ち伏せしたが、ヒグマは家の近くまで来たものの、気配を察したのか、中には入らなかった。 翌日には、六線沢の無人の農家をヒグマが次々と荒らし、ニワトリを殺し、穀類を食い、衣類を引きずり出した。 この日だけで被害は8軒にのぼった。 日午後8時ごろ、三毛別川の氷橋を見張っていた討伐隊員が、暗闇で動くものに気づいた。 「人か、クマか」と声をかけ、返答がないところに数丁の銃を撃ちかけたが、またも不発が多く、クマは逃げ去った。 7,射殺 日朝、前夜の川べりの射撃地点では、血痕が残り、クマに命中弾があったことは確かめられた。 数人の討伐隊が、雪上の足跡と血痕を追跡した。 午前時ごろ、隣村の腕利き猟師、山本兵吉がいち早くミズナラの大木の下にいるヒグマを見つけ、2発発射して胸と頭に命中させ、ヒグマを撃ち取った。 7〜8歳くらいのオス。 背から胸にかけて「袈裟懸け」と言われる白い模様があった。 射殺直後、日から日にかけ、大暴風雨が留萌・宗谷地方を襲い、住民はこれを「羆嵐」と呼んだといい、多くの小説や映画のタイトルにもなっている。 木村さんは三毛別を取材した当時の機材や写真などを出してくださり、ノートを見ながら、事件の経過とその要因や人間側の対策の問題を論じた。 木村さんは「この事件は本当に残念だ。 責めるわけにもいかないが、しっかり対応すれば、襲撃を未然に防ぐか、少なくとも2番目の明景家の被害は防げた可能性がある」という。 まず、ヒグマ接近の予兆があった月の3件のトウモロコシ荒らしだ。 「軒先の作物をとるのは、人を恐れなくなってきている危険な兆候。 三毛別は入植して日が浅く、ヒグマの通常の行動と、異常行動の区別がつきにくかったのだろう。 最も大事にされていた馬が無事だったので、安心していたというか、無関心だったような印象だ」 また、数度のチャンスに射撃に失敗し、2度も「手負い」にしてしまったことも、大きな失敗だ。 「銃の手入れも操作も悪く、ともかく撃ち損じが多い。 クマに対してはそれほど熟練していないうえ、寄せ集めの面々で、牽制し合うというか、連携がよくなかった。 まるで烏合の衆」と厳しい。 組織にも問題があった。 「熊狩り本部」といっても、トップは警察分署長、副隊長は林務官と教頭先生。 素人が指揮を執ると、あまりいいことはない。 人数も数人と多いが、肝心な追跡・射殺という場面では、あまり役には立っていない。 実際、あとから参加した隣村の腕利き猟師が、事実上1人で仕留めたのが今回の結末だ。 そもそも、このヒグマはなぜこんな連続襲撃をしたのだろう。 最初の太田家の2人殺害について、木村さんの見方は、「トウキビ狙いだったのが、騒がれて逆上し殺害」というものだ。 「マユさんは室内で強く抵抗した跡があるといい、それがかえってクマを攻撃的にしたのではないか。 不確かだが、このクマが以前、ほかの場所で人を襲って食べた、という話も伝わっている」 クマはいったん手にした獲物には強く執着する。 太田家の通夜を襲ったのは、その例だ。 「獲物を取り戻す、という行動は、ほかでも見られる。 人間にとっては大切な肉親の遺体を回収し、通夜を営むのは当然だが、クマはそれを獲物を奪われたと思いこむ」 太田家を襲って撃退された後、ヒグマはすぐに女性・子供ばかりの明景家に侵入する。 クマは危険を避け、男たちが集まる家ではなく、「獲物」になりやすそうな家を襲撃した。 「人間の方も油断というか、判断の誤りがあった。 明景家は大きな家だと言うが、成人男性は1人だけ。 銃も持っていない。 人くらいの射手が別の家に集結していたのだから、護衛をつければいいのに、それをしていなかった。 リスクの判断をしていないし、きちんと判断する人もいなかった状態なのだろう」 木村さんは初冬という時期にも注目する。 「普通なら冬の穴ごもりに入る時期。 穴に入らず、肉食に依存するタイプのクマだったのかもしれない。 海外でも『穴持たず』は危険だと恐れられている」 木村さんは「ヒグマは『猛獣』ではなく、『強獣』だ」という。 力は強く、牙や爪も鋭いが、本来ならむやみに人を襲うことはない。 何かのきっかけで、異常な行動を起こすようになる。 「三毛別のこのクマも、どこかで特殊になったのではないか」と語った。 (山本牧) Copyright C 2010 higumanokai. All Rights Reserved. site map 個人情報保護について このサイトについて.

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