残念なヤジで話題になっている選択的の議論。 反対派が主張する理由は、どれも根拠のないと思われるものばかり。 コラムニストの河崎環さんが、痛快に切り込む。 別姓なら結婚する必要はないというこのヤジの主は、自民党の杉田水脈議員と見られている。 「また杉田水脈議員か」「どうしてこの人は……」と、賢明なプレジデントウーマンオンライン読者の皆さんからはため息が聞こえてきそうだが、そうです、われわれとほぼ同じ世代の働く女性、杉田議員です。 令和だというのに……2020年だというのに……まだそんなことしか言えないのか……。 このあまりに雑なヤジっぷりには多くの人が何度目かの大がっかりに打ちひしがれ、中には怒りのあまり「これがわが国の与党だ」と、今から10年以上も前の「平成21年 参議院 選択的夫婦別姓法制化反対に関する請願文書」までをネットに引っ張り出した人もいて、人々はその日、その文面のひどさにあらためて「言葉を失った」。 それはこのように始まっている。 ついては、民法改正による選択的夫婦別姓制度の導入に反対されたい。 家族が同じ姓を名乗らない文化は洋の東西を問わず世界のあちこちに見られる。 それらの国では「(伝統的な日本と違って)家族に一体感がないので子どもたちが健全に育っていない」と、彼らの文化に対して喧嘩 けんか を売るも同然の内容だったのだ。 「おいおい、家族の一体感ってのは同じ苗字さえあれば生まれるとでも思っているのか? この国で家族の悲劇がさんざん報道されているのを知らないのか?」とか、「夫婦別姓の他文化の子どもたちが健全じゃない、って誰がどんな基準でジャッジしたんだ?」「根拠は? いったいどのへんの統計からどう導き出してこんな恐ろしく無礼なことを言えるんだ?」つっこみどころ満載だ。 10年前の請願書とはいえ、与党議員を通じて提出された文言として由々しきものであることに変わりはないだろう。 一行、いやワンフレーズごとに「ちょっと待て」とツッコんでいると、なかなか先に進めなくて困るレベルである。 日本では、夫婦同姓は、普通のこととして、何も疑問を覚えるようなことはなく、何の不都合も感じない家族制度である。 婚姻に際し氏を変える者で職業上不都合が生じる人にとって、通称名で旧姓使用することが一般化しており、婚姻に際し氏を変更しても、関係者知人に告知することにより何の問題も生じない。 また、氏を変えることにより自己喪失感を覚えるというような意見もあるが、それよりも結婚に際し同じ姓となり、新たな家庭を築くという喜びを持つ夫婦の方が圧倒的多数である。 現在の日本において、選択的夫婦別姓制度を導入しなければならない合理的理由は何もない。 そんなのと結婚したら、どんな酷 ひど い目に遭わせられても「苗字が同じ限り、夫婦だろ! 俺たち/私たち一体だろ!」と血走った目で断固離婚に応じずストーカー化しそうで、ちょっとしたホラーなみに怖い。 別姓を望む者は、家族や親族という共同体を尊重することよりも個人の嗜好(しこう)や都合を優先する思想を持っているので、この制度を導入することにより、このような個人主義的な思想を持つ者を社会や政府が公認したようなことになる。 現在、家族や地域社会などの共同体の機能が損なわれ、けじめのないいい加減な結婚・離婚が増え、離婚率が上昇し、それを原因として、悲しい思いをする子供たちが増えている。 選択的夫婦別姓制度の導入により、共同体意識よりも個人的な都合を尊重する流れを社会に生み出し、一般大衆にとって、結果としてこのような社会の風潮を助長する働きをする。 奴らは私たちにとって安らかで居心地のいい共同体に否定的でワガママな、けしからん危険思想の持ち主たちだ。 夫婦別姓を認めることで、そんな変質者たち(もはや思想犯に値する)を社会が公認するなんてダメ、絶対。 それでなくても家族や地域社会の機能が弱まってる。 夫婦別姓にしようなんていう不届きな奴らが跋扈 ばっこ するとますます悪化するんだよねー、ホント迷惑。 だらしない結婚とか離婚は、夫婦別姓を唱える破廉恥な人たちがパンピーを扇動するせい。 あーあ、子どもたちがカワイソー」 --もう言葉もない。 一体感を持つ強い絆のある家庭に、健全な心を持つ子供が育つものであり、家族がバラバラの姓であることは、家族の一体感を失う。 子供の心の健全な成長のことを考えたとき、夫婦・家族が一体感を持つ同一の姓であることがいいということは言うまでもない。 子どもカワイソー。 家族の苗字がバラバラだったら、健全な心を持った子どもなんか育つわけないし。 やっぱり苗字が同じなのがすなわち一体感。 子どものこともっと考えてやってね。 ホント子どもカワイソー。 --結婚と出産子育てがほぼ同義になっていて、しかも結婚は異性間の関係であると疑問なく断じているのも、いまの時代にはだいぶおめでたい。 そして子どもが可哀想 かわいそう だと連呼するわりに、「親の苗字が同じじゃない環境で育つ子どもは健全な心を持たない、まともに育ってない、イレギュラーだ」とばかりのアンバランスな人間観には、失望を通り越してキナ臭い優生思想めいた何かさえ匂う。 10年前のこの請願書から、夫婦別姓と聞いて杉田水脈議員が放った「じゃあ結婚しなくていい」との脊髄反射的なヤジは、果たしてどれだけ進歩しているだろうか。 彼女、いや、この「夫婦別姓なら結婚の意味がない」思想を支持する人たちは、つまり自分たちの結婚とは「同姓」であることによって絆を維持しているんですよ、それだけがかすがいで、最後の望みなんですよ、と自分たちの残念な結婚(観)を露呈していることに、気づいているのだろうか。 (2月12日14時40分追記) ---------- 河崎 環(かわさき・たまき) コラムニスト 1973年京都生まれ神奈川育ち。 慶應義塾大学総合政策学部卒。 子育て、政治経済、時事、カルチャーなど多岐に渡る分野で記事・コラム連載執筆を続ける。 欧州2カ国(スイス、英国)での暮らしを経て帰国後、Webメディア、新聞雑誌、企業オウンドメディア、政府広報誌など多数寄稿。 2019年より立教大学社会学部兼任講師。 社会人女子と中学生男子の母。 著書に『女子の生き様は顔に出る』、『オタク中年女子のすすめ 40女よ大志を抱け』(いずれもプレジデント社)。 ---------- (コラムニスト 河崎 環 写真=iStock. com) 外部サイト.
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選択的夫婦別姓制度とは? まず最初に、実際に提案されている民法改正案「選択的夫婦別姓制度」というのが いかなるものか、ということを確認しておきます。 選択的夫婦別姓制度というのは、法律上の婚姻のとき、夫婦となるものの氏を同じに するか、それともそれぞれの元の氏のままにするか、夫婦が(合意のうえで) 選択できるようにする、という制度案です。 すなわち、田中弘さんと佐藤直美さんが婚姻する場合、田中弘・直美となるか、 佐藤弘・直美となるか、または田中弘・佐藤直美となるか、 二人が話し合って決める ことができる、ということです。 子供の氏についてはいくつか案が分かれており、婚姻前にあらかじめ定めておく案や、 子供の出生の都度、ひとりひとり氏を決めていく案などがあります。 その他に例外的(または家裁許可制)夫婦別姓制度案などもありますが、ここで触れる のはこの選択制度のみとします。 では現在の制度は? ではいま現在の法律ではどういう制度になっているのでしょうか? 現在は民法と戸籍法によって婚姻のときの氏の決め方が定められています。 民法第750条 『夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。 』 つまり夫となる人、または妻となる人のいずれか一方の氏を夫婦の氏とする、 ということです。 ここには大きな誤解を招く要素があります。 この規定を大半の人は「片方が 氏を『変える』」と理解しています。 それは日常生活において日本の文化では、ごく親しい間柄を別にして互いに 氏で呼び合う習慣があるため「氏は自分個人の名前の一部」という誤解をしている からです。 しかし歴史をきちんと学んだ人であればわかることですが、日本における氏という ものは、個人をあらわす名称ではありません。 そのことは戸籍の記述をよく見るとわかります。 筆頭者のみが氏と名で書かれており、 その他の家族は続き柄と名しか書かれていません。 つまり、 氏は家族をあらわす名称なのです。 田中さんの家族を「田中家」と呼ぶのは今でも自然な呼び方ですし、それをおかしいと 感じる人はいません。 個人を呼ぶときに氏で呼ぶのは単なる習慣の問題で、たとえて言うなら各会社の代表が 集まっているときに、それぞれの代表者を個人の氏名ではなく、所属の社名で呼ぶ (たとえば「山田商事さん」というように)のと同じことです。 ですから民法の規定は「新しく夫婦となるものは、その新しい家族の名前を、夫の 実家の氏または妻の実家の氏のいずれかから選ぶことができる」と定めているのであって、 「片方が名前を変えなければならない」と定めているわけではありません。 この点で、一部の選択制推進派の人たちがいう 「現行制度の改氏強制」とか 「改氏に伴う精神的苦痛」とかが、単に氏というものの役割に対する誤った 理解から発しているということができます。 以上のことから、現行の氏に関する制度は古来から家族の名称として使われてきた 氏というものの役割に合わせて、戸籍登録上のルールを定めたものとして、一定の 合理性を有すると考えてよいと思われます。 選択別姓制度の必要性とは? ではそのような中で選択制度に変更をしなければならない理由はなんでしょう? 残念ながら、いろいろなところで選択制を支持する方々にこの質問を何度もしましたが、 きちんとした回答を得られることはありませんでした。 現在の制度に一定の合理性があり、かつそれを別の制度に変えたいという主張をし、 それだけではなく法律の改正案が国会に何度も提出されているわけですから、 その背景には当然「どうしてもそういう制度にしなければ困る」という事情なり 問題なりが存在すると考えるのがあたりまえでしょう。 もしもそのようなものが存在せず、単に「こんなのがあったらいいね」程度のことなら そこまで大規模な運動にすることもなかったでしょうし(事実、この問題に対する 社会の関心はどちらかといえば低いですが)、廃案になった時点で諦めたはずです。 しかし現実にはそうはならず、いまだに根強い推進運動をしている人たちがいます。 であるなら、やはり「どうしてもそうしなければならない理由」を説明してほしいと 思うことは、正しい判断を下すうえでは大事なことだと思いますし、あたりまえだと 思います。 ではそのような推進派の人たちが掲げている 「選択制度が必要な理由」とは何でしょう? 以下にいくつか例示しながら検証してみたいと思います。 【理由1】夫となる者、妻となる者、どちらの氏にしてもよいと定められているにも かかわらず、ほとんどの夫婦が夫の氏を選んでいるのは不公平であり、男女差別である。 では「鰻重とかけそば、どちらでも好きなほうを驕ってあげる」と言ったら、鰻重を 選ぶ人が多いのは、驕る側が不公平である、と言えるでしょうか? そもそも不公平とか差別とはどういうことなのでしょうか? それは本人の意志や考えに関係なく、一方的に不利な扱いを受けることのはずです。 そう考えるとこの理由には疑問な点がたくさんあります。 つまりすべての人が「夫婦の氏が相手の氏だから損、自分の氏だから得」と考えるのが あたりまえといえるのか、ということです。 それは各個人のとらえ方次第であって、常にどちらかが得だとか損だとはいえない のではないでしょうか。 次に、男女の間で夫婦の氏が選ばれる割合に差があるのは、どちらの氏にしてもよいと 定めた法律に問題があるのでしょうか? 鰻重のたとえでもわかるように、どちらを選んでもよいといわれた結果、どちらかに 結果が偏るとするなら、そちらが選ばれる何らかの理由があるということで、それが すなわち選ばせている側の責任だというわけにはいきません。 「もっと妻の旧氏を名乗る夫婦が増えるべきだ」という考えを持つことじたいは自由 ですし、そういう考えがあってもいいですが、それがすなわち 現行の民法が不平等とか 不公平とか差別だということにはならないでしょう。 最後に、この理由は選択制度の理由として直結するものとは考えられません。 なぜなら、夫側妻側どちらの氏を選択してもよいという環境下において、大多数が 夫側の氏を選択している現状がある以上、たとえ選択制度になったとしても、人々が 夫側の氏を選択したがる理由が変わらない限り、何も変わらないからです。 選択制度ではなくすべての夫婦が別姓という制度ならわかりますが、選択制度である 以上、 選択する側の事情が変わらなければ、選択の結果は同じではないでしょうか。 【理由2】一部の職業では婚姻前と後で氏が異なっていると業績の連続性が失われる。 そのような職業の人どうしが婚姻することができなくて困っている。 これは非常によく聞く話ですし、また事実であれば最も説得力のある理由だと思います。 ところが、です。 こういう話題はよくあちこちで見かけるのですが「では具体的にどのような職業で、 どのように業績の連続性が失われた実態があるか、例を挙げてみてください」というと みんな沈黙してしまうのです。 あるいは回答があっても、よくよく調べてみると実際にはその職業でもそのような 業績上の不利益が存在しなかったり、回避する手段がきちんと存在していたりするのです。 また、みなさんもよくご存知の女子柔道金メダリスト谷亮子選手も、婚姻前の田村亮子時代 からその業績の連続性が失われたりすることはなかったはずです。 冷静に考えればわかると思いますが、たとえ氏が変わったとしても、それが婚姻によるもので かつ同一人物であるとわかる方法が存在していれば、何も問題はないはずです。 もし仮に問題があるとするなら、それは婚姻時の氏の統一を定めた民法に原因があるのではなく、 婚姻によって氏が変わる人がたくさん存在するという現状に対応できていない、 その業界の ルールなり運用に問題があるということです。 実際にすでに婚姻前の旧氏を通称として使用することを認めている企業は多いですし、 通常は「結婚して苗字がかわりました」と挨拶があって周囲が認知すればそれで済む ケースがほとんどです。 引越しで住所が変わったときや、電話番号が変わったとき、あるいは社内で部署が変わった ときなどと何も変わりない、ごく日常的に普通に行われていることではありませんか? 【理由3】氏が変わると自分が自分ではなくなったような気がする(自己喪失感)。 または相手の家に取り込まれたような気がする。 これについては前章ですでに述べたとおり、おもに氏の役割に関する誤解がもとに なっていると考えられます。 婚姻が新しい家庭を作るということである、ということを否定しないのであれば、 所属する家庭が変わることで家庭の名称である氏が変わるのはあたりまえのことですし、 それによって自分が自分でなくなるというようなことはあり得ません。 もし家庭の名称としての氏の役割を理解したうえでなお、自己喪失感を感じるという のであれば、それはつまり 家庭の建設そのものを自分が望んでいないということに ほかならず、別姓で婚姻できればそうならずに済む、という問題ではありません。 相手の家に取り込まれる、というのもまた誤解にもとづくものです。 氏には家庭の名称としての役割とともに、家系の継承をあらわす役割も同時にあります。 家系というのは、もともと同家ではないふたりが夫婦となってその夫婦から子供が生まれて くる以上、どちらか一方しか継承できない宿命にあります。 これは人類が単性生殖にでもならない限りどうにもならないことですし、まして夫婦同氏を 定めた民法に原因があるわけでもありません。 いずれにしても、氏が相手の実家の氏と同じであることは自分が相手の実家の一員となる ことを示すわけではありません。 基本的に氏が示す家庭の単位は夫婦とその未婚の子(すなわち核家族)であって、婚姻に よって建設された新家庭はすでにその両者の実家からは独立しているのです。 またよくあることですが、妻が夫の親(姑)と反りが合わず、そのため姑と同じ氏である ことが苦痛になる、という人もいます。 しかしこの場合はたとえ別姓で婚姻できたと しても、今度は「あなたはわたしたちとは氏が違う、家族ではないから」と言われて 不愉快な思いをするだけでしょう。 つまりそのような個人の人間関係や感情の問題は、氏やそれに関する制度に原因がある のではなく、あくまで その関係性それじたいにそもそも問題があるだけなのです。 氏の性質や役割ということに対する正しい理解がなされるならば、ここで理由として 挙げられたような考えにいたることはありません。 誤った理解や解釈にもとづく個人の感情が、それらの感情とは直接関係のない法律を改正 しなければならない理由となるとは考えにくいでしょう。 【理由4】理由はどうあれそれを希望する人が存在するのだから、その選択肢を広げる ことはいいことだ。 ここまでくるとさすがに苦し紛れという感がなきにしもあらずですね。 確かに「何がよいことか」を考え、それぞれがよいと思うことを提案し主張し、 それによって社会や政治が動き、変わっていくということは否定しません。 しかし「理由を問わず、希望者の存在そのものが主張の正当性を裏付ける」 という考え方は間違いだと思います。 そのような考え方では法秩序や社会秩序そのものを否定してしまうことになります。 また「選択肢が広がるのがいいことだから」という理由だけで選択制がベストな 制度案であるという理由にはなり得ません。 そもそも氏というものは個人の意志や自由で決定できるものではありません。 生まれたときに親と同じ氏をもらい、婚姻するときや離婚するときに新しい家庭の 氏に変わるだけで、ごく特殊な事情や例外を除いて、個人の希望で変更することすら できません。 つまり 氏に関する個人の選択権というものは法律上まったく想定されて いません。 離婚後の婚氏続称を例にあげて 「個人の都合で氏を選択できる制度もある」という人も いますが、これはあくまで「一家一氏」の原則に反しない範囲だから個人の都合も 考慮されているのだし、選択できるといっても婚氏か旧氏かの選択しかできません。 現行の民法は氏を家庭の名称という前提で扱っており、それに反する規定やそこから 逸脱する規定はありません。 ですから選択制というのはその前提から変えることを意味するのであって、単に 個人の選択肢が増える「だけ」というわけにはいかないのです。 選択制度の抱える問題点 これまでに書いてきたようなことを選択制推進派の人たちにぶつけてみると、だいたい 以下のような答えが返ってくることが多いようです。 「なにも全員が別姓にしろというわけじゃない。 同姓がいいと思う人は同姓にすればいい。 ただ別姓がいいと思う人が別姓を選べるようにするだけだから、同姓がいいと思う人に とっては何も影響はない」 議論に慣れない人であれば、けっこうこの手の論理には騙されやすいだろうな、とは 思います。 事実、 「どうしても選択制、というわけではないが、そうしたい人がいるならさせればいい」 という、いわゆる「容認派」となる人たちはだいたいこの論理で納得しているようです。 ですがほんとうにそうなのでしょうか?もう少しつっこんで考えてみる必要があるのでは ありませんか? まずそもそも、この論理は選択制に反対している人の意見を正しく反映していません。 つまりここではまるで 「自分(と配偶者)は同姓がいいと思うから選択制に反対」と 言っていることにされてしまっています。 ですが賢明な読者ならすでにおわかりのとおり、 「自分が同姓がいいから」が反対の 理由ではないことは明白ですね? つまりここですでに誤解(なのかあるいはトリックなのか)が生じています。 実際のところ、この点がこの議論のミソであり、最も重要な行き違いの元になっている 部分なのです。 実は反対派の人の多くは、よその夫婦が同氏であろうが別氏であろうが、そのこと じたいはたいして問題とは思っていないのです。 こう言われると賛成派の人は「はあ?だったらなんで反対するの?」と頭にたくさん 疑問符が浮かぶでしょうね。 そう、そこが理解できていないから話が噛み合わないわけ ですね。 他にも賛成派の人は 「別姓にすると家庭が崩壊するというが、実際に別姓で事実婚して いる家庭はうまくいっている」とか 「外国でも離婚率と別姓は関係がない」とか 「別姓くらいで家庭が崩壊するならその家庭は同姓でもうまくいかない」とか、 よく言っていますね。 これらも同じ誤解から生じた的の外れた反論です。 多くの反対派は 「ある任意の一組の夫婦が別姓を選択したならば、その夫婦の家庭は崩壊する」 などという主張をしているわけではないのです。 ですから上記のように 「別姓でもうまく いくんだ」という反論は 意味のない一人相撲なのです。 このズレはどこから生じるのかというと「夫婦、家庭というものに対する視点の置き方」 の違いなのです。 賛成派の人たちの視点は「ある一組の夫婦、その当事者たる個人」からの視点です。 だから 「わたしは別姓がいいから別姓にする。 あなたは同姓がいいなら同姓にすればいい」 という発想になり、 「反対するということはわたしに同姓を強制している」となるわけです。 反対派の人たちの視点は 「氏や婚姻に関する日本国の法律と制度、その社会とのかかわり」 という視点なのです。 なぜならこれはある夫婦がよその夫婦を批判する議論ではなく、法律上の氏の扱いを 変更するべきかそうでないのか、という議論だからです。 そして、その立場から次のように考えるのです。 4 つまり選択制度をよしとすることは、 2 のような誤った個人主義観を法律や 社会や政治が公認したかのような錯覚を与え、ひいてはそれによって 1 のような 問題を起こす人たちを助長する恐れがある。 こういった指摘を「単なる杞憂」と一蹴する賛成派の人もいますが、それはあまりにも 無責任な態度ではないでしょうか。 確かに実際にどうなっていくかはだれにも正確な予測はできません。 しかし現在わかっていることや知られていることから、このような問題がじゅうぶん 予測され得るということは、少なくともその制度を導入するのにもっと慎重でなければ ならないということはいえるはずです。 最低限、それらを視野に入れたうえで考えるという姿勢は必要なはずです。 まして選択制の必要性や重要性がはっきり説明されていない現状ですから、なおさら こういった危険性を考えると迂闊には賛成できないのも仕方ないでしょう。 そしてもう一つ、すでに述べたように選択制は氏が家庭単位の名称である原則を変える ものであるから、 原則じたいを変えるべき必要性が説明されなければならない、という 問題があります。 しかしながら現実にはその原則は一般に定着しており、ごく自然に受け入れられている 現状があります。 その原則そのものが有害であるとか、国民の意識に大きく反しているという事実は まったくないのです。 選択制推進派の人たちは 「そんな原則は必要ない」と主張すると思いますが、それは ごく少数の意見にすぎず、間違っても「だから原則を変える必要がある」という結論 には結びつきようがありません。 また 「わたしの家庭では氏は個人の名称、あなたの家庭では家庭の名称、お互い それぞれそう思っていればいい」という人もいます。 ではある人は自分の名前は形であらわす、ある人は文字で、ある人は色で、ある人は 手振りであらわす、そういう場合にそれらすべて同じ「名前」と言えるのでしょうか? あるいはそれぞれが「これがお金だ」と信じるものを通貨として使うことができるとしたら 果たして経済は成り立つでしょうか? 氏というものが何を表すためのものなのか、という定義が一意に定まっていない状態で 互いに「わたしの氏は〜です」と説明しても、 それらはすでに共通した一つのものとは いえないのではないでしょうか。 それが個人間の問題であれば 「個人の勝手だ」で済ませようとするのでしょうが、 氏というものは世代間で継承されるもので、しかもすでに先祖から継承され続けて きたものでもあるのです。 もしそれぞれが自分の好みの意味に変化させてもよいということになれば、もはや その連続性や継承性は失われているのです。 そしてそのような連続性の断絶を望まない人たちも少なからずいるのですから、 選択制を主張する以上はそれらも最低限考慮に入れなければおかしいですし、 どうしても選択制というならそれらの人たちに連続性の断絶を押しつけても仕方がないと いえるだけの、つまり その被害や損失を上回るだけの(別姓希望者だけではない、全体に とっての)利点を説明できる必要があります。 しかしもちろんそのような利点はいまだに説明されたことがないのです。 まとめ 最後にこれまで書いてきたことから、なぜわたしが選択的夫婦別姓制度に反対するのかを まとめてみます。 5 以上のことより、選択的夫婦別姓制度には賛成できない だいたいこういうことになります。 もっとも厳密にいうと 4 は不要で、 1 〜 3 まででもじゅうぶん反対する理由にはなると 思います。 ただ、反対という立場を表明するだけで「現行制度に固執する」と誤解されることが あまりにも多いため、あえて「中立的立場から検証した結果、反対せざるを得ない」という ことを説明するために言及しています。 そして、ここに書いたようなことを丁寧にきちんと説明しても、やはり推進派の人たちは ここですでに反論されていることを繰り返すだけ、という現状を見ていて、もはや 別姓運動というのはニーズに立脚した運動ではなくなっていて、 何らかのイデオロギーに 取り込まれてしまったのかな、と感じています。 もちろん、イデオロギー的背景から反対している人たちもいますから、どのみちこの論争 じたいがイデオロギー対立の中に取り込まれつつあるというのも事実ですが。 その他にも選択制議論においてよく言われることの中に、いくつか誤った認識にもとづく 主張もありますが、ある程度結論に結びつくものでないものは割愛しました。 そういったものについては、また別に機会があれば書こうと思います。
次の選択的夫婦別姓制度とは? まず最初に、実際に提案されている民法改正案「選択的夫婦別姓制度」というのが いかなるものか、ということを確認しておきます。 選択的夫婦別姓制度というのは、法律上の婚姻のとき、夫婦となるものの氏を同じに するか、それともそれぞれの元の氏のままにするか、夫婦が(合意のうえで) 選択できるようにする、という制度案です。 すなわち、田中弘さんと佐藤直美さんが婚姻する場合、田中弘・直美となるか、 佐藤弘・直美となるか、または田中弘・佐藤直美となるか、 二人が話し合って決める ことができる、ということです。 子供の氏についてはいくつか案が分かれており、婚姻前にあらかじめ定めておく案や、 子供の出生の都度、ひとりひとり氏を決めていく案などがあります。 その他に例外的(または家裁許可制)夫婦別姓制度案などもありますが、ここで触れる のはこの選択制度のみとします。 では現在の制度は? ではいま現在の法律ではどういう制度になっているのでしょうか? 現在は民法と戸籍法によって婚姻のときの氏の決め方が定められています。 民法第750条 『夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。 』 つまり夫となる人、または妻となる人のいずれか一方の氏を夫婦の氏とする、 ということです。 ここには大きな誤解を招く要素があります。 この規定を大半の人は「片方が 氏を『変える』」と理解しています。 それは日常生活において日本の文化では、ごく親しい間柄を別にして互いに 氏で呼び合う習慣があるため「氏は自分個人の名前の一部」という誤解をしている からです。 しかし歴史をきちんと学んだ人であればわかることですが、日本における氏という ものは、個人をあらわす名称ではありません。 そのことは戸籍の記述をよく見るとわかります。 筆頭者のみが氏と名で書かれており、 その他の家族は続き柄と名しか書かれていません。 つまり、 氏は家族をあらわす名称なのです。 田中さんの家族を「田中家」と呼ぶのは今でも自然な呼び方ですし、それをおかしいと 感じる人はいません。 個人を呼ぶときに氏で呼ぶのは単なる習慣の問題で、たとえて言うなら各会社の代表が 集まっているときに、それぞれの代表者を個人の氏名ではなく、所属の社名で呼ぶ (たとえば「山田商事さん」というように)のと同じことです。 ですから民法の規定は「新しく夫婦となるものは、その新しい家族の名前を、夫の 実家の氏または妻の実家の氏のいずれかから選ぶことができる」と定めているのであって、 「片方が名前を変えなければならない」と定めているわけではありません。 この点で、一部の選択制推進派の人たちがいう 「現行制度の改氏強制」とか 「改氏に伴う精神的苦痛」とかが、単に氏というものの役割に対する誤った 理解から発しているということができます。 以上のことから、現行の氏に関する制度は古来から家族の名称として使われてきた 氏というものの役割に合わせて、戸籍登録上のルールを定めたものとして、一定の 合理性を有すると考えてよいと思われます。 選択別姓制度の必要性とは? ではそのような中で選択制度に変更をしなければならない理由はなんでしょう? 残念ながら、いろいろなところで選択制を支持する方々にこの質問を何度もしましたが、 きちんとした回答を得られることはありませんでした。 現在の制度に一定の合理性があり、かつそれを別の制度に変えたいという主張をし、 それだけではなく法律の改正案が国会に何度も提出されているわけですから、 その背景には当然「どうしてもそういう制度にしなければ困る」という事情なり 問題なりが存在すると考えるのがあたりまえでしょう。 もしもそのようなものが存在せず、単に「こんなのがあったらいいね」程度のことなら そこまで大規模な運動にすることもなかったでしょうし(事実、この問題に対する 社会の関心はどちらかといえば低いですが)、廃案になった時点で諦めたはずです。 しかし現実にはそうはならず、いまだに根強い推進運動をしている人たちがいます。 であるなら、やはり「どうしてもそうしなければならない理由」を説明してほしいと 思うことは、正しい判断を下すうえでは大事なことだと思いますし、あたりまえだと 思います。 ではそのような推進派の人たちが掲げている 「選択制度が必要な理由」とは何でしょう? 以下にいくつか例示しながら検証してみたいと思います。 【理由1】夫となる者、妻となる者、どちらの氏にしてもよいと定められているにも かかわらず、ほとんどの夫婦が夫の氏を選んでいるのは不公平であり、男女差別である。 では「鰻重とかけそば、どちらでも好きなほうを驕ってあげる」と言ったら、鰻重を 選ぶ人が多いのは、驕る側が不公平である、と言えるでしょうか? そもそも不公平とか差別とはどういうことなのでしょうか? それは本人の意志や考えに関係なく、一方的に不利な扱いを受けることのはずです。 そう考えるとこの理由には疑問な点がたくさんあります。 つまりすべての人が「夫婦の氏が相手の氏だから損、自分の氏だから得」と考えるのが あたりまえといえるのか、ということです。 それは各個人のとらえ方次第であって、常にどちらかが得だとか損だとはいえない のではないでしょうか。 次に、男女の間で夫婦の氏が選ばれる割合に差があるのは、どちらの氏にしてもよいと 定めた法律に問題があるのでしょうか? 鰻重のたとえでもわかるように、どちらを選んでもよいといわれた結果、どちらかに 結果が偏るとするなら、そちらが選ばれる何らかの理由があるということで、それが すなわち選ばせている側の責任だというわけにはいきません。 「もっと妻の旧氏を名乗る夫婦が増えるべきだ」という考えを持つことじたいは自由 ですし、そういう考えがあってもいいですが、それがすなわち 現行の民法が不平等とか 不公平とか差別だということにはならないでしょう。 最後に、この理由は選択制度の理由として直結するものとは考えられません。 なぜなら、夫側妻側どちらの氏を選択してもよいという環境下において、大多数が 夫側の氏を選択している現状がある以上、たとえ選択制度になったとしても、人々が 夫側の氏を選択したがる理由が変わらない限り、何も変わらないからです。 選択制度ではなくすべての夫婦が別姓という制度ならわかりますが、選択制度である 以上、 選択する側の事情が変わらなければ、選択の結果は同じではないでしょうか。 【理由2】一部の職業では婚姻前と後で氏が異なっていると業績の連続性が失われる。 そのような職業の人どうしが婚姻することができなくて困っている。 これは非常によく聞く話ですし、また事実であれば最も説得力のある理由だと思います。 ところが、です。 こういう話題はよくあちこちで見かけるのですが「では具体的にどのような職業で、 どのように業績の連続性が失われた実態があるか、例を挙げてみてください」というと みんな沈黙してしまうのです。 あるいは回答があっても、よくよく調べてみると実際にはその職業でもそのような 業績上の不利益が存在しなかったり、回避する手段がきちんと存在していたりするのです。 また、みなさんもよくご存知の女子柔道金メダリスト谷亮子選手も、婚姻前の田村亮子時代 からその業績の連続性が失われたりすることはなかったはずです。 冷静に考えればわかると思いますが、たとえ氏が変わったとしても、それが婚姻によるもので かつ同一人物であるとわかる方法が存在していれば、何も問題はないはずです。 もし仮に問題があるとするなら、それは婚姻時の氏の統一を定めた民法に原因があるのではなく、 婚姻によって氏が変わる人がたくさん存在するという現状に対応できていない、 その業界の ルールなり運用に問題があるということです。 実際にすでに婚姻前の旧氏を通称として使用することを認めている企業は多いですし、 通常は「結婚して苗字がかわりました」と挨拶があって周囲が認知すればそれで済む ケースがほとんどです。 引越しで住所が変わったときや、電話番号が変わったとき、あるいは社内で部署が変わった ときなどと何も変わりない、ごく日常的に普通に行われていることではありませんか? 【理由3】氏が変わると自分が自分ではなくなったような気がする(自己喪失感)。 または相手の家に取り込まれたような気がする。 これについては前章ですでに述べたとおり、おもに氏の役割に関する誤解がもとに なっていると考えられます。 婚姻が新しい家庭を作るということである、ということを否定しないのであれば、 所属する家庭が変わることで家庭の名称である氏が変わるのはあたりまえのことですし、 それによって自分が自分でなくなるというようなことはあり得ません。 もし家庭の名称としての氏の役割を理解したうえでなお、自己喪失感を感じるという のであれば、それはつまり 家庭の建設そのものを自分が望んでいないということに ほかならず、別姓で婚姻できればそうならずに済む、という問題ではありません。 相手の家に取り込まれる、というのもまた誤解にもとづくものです。 氏には家庭の名称としての役割とともに、家系の継承をあらわす役割も同時にあります。 家系というのは、もともと同家ではないふたりが夫婦となってその夫婦から子供が生まれて くる以上、どちらか一方しか継承できない宿命にあります。 これは人類が単性生殖にでもならない限りどうにもならないことですし、まして夫婦同氏を 定めた民法に原因があるわけでもありません。 いずれにしても、氏が相手の実家の氏と同じであることは自分が相手の実家の一員となる ことを示すわけではありません。 基本的に氏が示す家庭の単位は夫婦とその未婚の子(すなわち核家族)であって、婚姻に よって建設された新家庭はすでにその両者の実家からは独立しているのです。 またよくあることですが、妻が夫の親(姑)と反りが合わず、そのため姑と同じ氏である ことが苦痛になる、という人もいます。 しかしこの場合はたとえ別姓で婚姻できたと しても、今度は「あなたはわたしたちとは氏が違う、家族ではないから」と言われて 不愉快な思いをするだけでしょう。 つまりそのような個人の人間関係や感情の問題は、氏やそれに関する制度に原因がある のではなく、あくまで その関係性それじたいにそもそも問題があるだけなのです。 氏の性質や役割ということに対する正しい理解がなされるならば、ここで理由として 挙げられたような考えにいたることはありません。 誤った理解や解釈にもとづく個人の感情が、それらの感情とは直接関係のない法律を改正 しなければならない理由となるとは考えにくいでしょう。 【理由4】理由はどうあれそれを希望する人が存在するのだから、その選択肢を広げる ことはいいことだ。 ここまでくるとさすがに苦し紛れという感がなきにしもあらずですね。 確かに「何がよいことか」を考え、それぞれがよいと思うことを提案し主張し、 それによって社会や政治が動き、変わっていくということは否定しません。 しかし「理由を問わず、希望者の存在そのものが主張の正当性を裏付ける」 という考え方は間違いだと思います。 そのような考え方では法秩序や社会秩序そのものを否定してしまうことになります。 また「選択肢が広がるのがいいことだから」という理由だけで選択制がベストな 制度案であるという理由にはなり得ません。 そもそも氏というものは個人の意志や自由で決定できるものではありません。 生まれたときに親と同じ氏をもらい、婚姻するときや離婚するときに新しい家庭の 氏に変わるだけで、ごく特殊な事情や例外を除いて、個人の希望で変更することすら できません。 つまり 氏に関する個人の選択権というものは法律上まったく想定されて いません。 離婚後の婚氏続称を例にあげて 「個人の都合で氏を選択できる制度もある」という人も いますが、これはあくまで「一家一氏」の原則に反しない範囲だから個人の都合も 考慮されているのだし、選択できるといっても婚氏か旧氏かの選択しかできません。 現行の民法は氏を家庭の名称という前提で扱っており、それに反する規定やそこから 逸脱する規定はありません。 ですから選択制というのはその前提から変えることを意味するのであって、単に 個人の選択肢が増える「だけ」というわけにはいかないのです。 選択制度の抱える問題点 これまでに書いてきたようなことを選択制推進派の人たちにぶつけてみると、だいたい 以下のような答えが返ってくることが多いようです。 「なにも全員が別姓にしろというわけじゃない。 同姓がいいと思う人は同姓にすればいい。 ただ別姓がいいと思う人が別姓を選べるようにするだけだから、同姓がいいと思う人に とっては何も影響はない」 議論に慣れない人であれば、けっこうこの手の論理には騙されやすいだろうな、とは 思います。 事実、 「どうしても選択制、というわけではないが、そうしたい人がいるならさせればいい」 という、いわゆる「容認派」となる人たちはだいたいこの論理で納得しているようです。 ですがほんとうにそうなのでしょうか?もう少しつっこんで考えてみる必要があるのでは ありませんか? まずそもそも、この論理は選択制に反対している人の意見を正しく反映していません。 つまりここではまるで 「自分(と配偶者)は同姓がいいと思うから選択制に反対」と 言っていることにされてしまっています。 ですが賢明な読者ならすでにおわかりのとおり、 「自分が同姓がいいから」が反対の 理由ではないことは明白ですね? つまりここですでに誤解(なのかあるいはトリックなのか)が生じています。 実際のところ、この点がこの議論のミソであり、最も重要な行き違いの元になっている 部分なのです。 実は反対派の人の多くは、よその夫婦が同氏であろうが別氏であろうが、そのこと じたいはたいして問題とは思っていないのです。 こう言われると賛成派の人は「はあ?だったらなんで反対するの?」と頭にたくさん 疑問符が浮かぶでしょうね。 そう、そこが理解できていないから話が噛み合わないわけ ですね。 他にも賛成派の人は 「別姓にすると家庭が崩壊するというが、実際に別姓で事実婚して いる家庭はうまくいっている」とか 「外国でも離婚率と別姓は関係がない」とか 「別姓くらいで家庭が崩壊するならその家庭は同姓でもうまくいかない」とか、 よく言っていますね。 これらも同じ誤解から生じた的の外れた反論です。 多くの反対派は 「ある任意の一組の夫婦が別姓を選択したならば、その夫婦の家庭は崩壊する」 などという主張をしているわけではないのです。 ですから上記のように 「別姓でもうまく いくんだ」という反論は 意味のない一人相撲なのです。 このズレはどこから生じるのかというと「夫婦、家庭というものに対する視点の置き方」 の違いなのです。 賛成派の人たちの視点は「ある一組の夫婦、その当事者たる個人」からの視点です。 だから 「わたしは別姓がいいから別姓にする。 あなたは同姓がいいなら同姓にすればいい」 という発想になり、 「反対するということはわたしに同姓を強制している」となるわけです。 反対派の人たちの視点は 「氏や婚姻に関する日本国の法律と制度、その社会とのかかわり」 という視点なのです。 なぜならこれはある夫婦がよその夫婦を批判する議論ではなく、法律上の氏の扱いを 変更するべきかそうでないのか、という議論だからです。 そして、その立場から次のように考えるのです。 4 つまり選択制度をよしとすることは、 2 のような誤った個人主義観を法律や 社会や政治が公認したかのような錯覚を与え、ひいてはそれによって 1 のような 問題を起こす人たちを助長する恐れがある。 こういった指摘を「単なる杞憂」と一蹴する賛成派の人もいますが、それはあまりにも 無責任な態度ではないでしょうか。 確かに実際にどうなっていくかはだれにも正確な予測はできません。 しかし現在わかっていることや知られていることから、このような問題がじゅうぶん 予測され得るということは、少なくともその制度を導入するのにもっと慎重でなければ ならないということはいえるはずです。 最低限、それらを視野に入れたうえで考えるという姿勢は必要なはずです。 まして選択制の必要性や重要性がはっきり説明されていない現状ですから、なおさら こういった危険性を考えると迂闊には賛成できないのも仕方ないでしょう。 そしてもう一つ、すでに述べたように選択制は氏が家庭単位の名称である原則を変える ものであるから、 原則じたいを変えるべき必要性が説明されなければならない、という 問題があります。 しかしながら現実にはその原則は一般に定着しており、ごく自然に受け入れられている 現状があります。 その原則そのものが有害であるとか、国民の意識に大きく反しているという事実は まったくないのです。 選択制推進派の人たちは 「そんな原則は必要ない」と主張すると思いますが、それは ごく少数の意見にすぎず、間違っても「だから原則を変える必要がある」という結論 には結びつきようがありません。 また 「わたしの家庭では氏は個人の名称、あなたの家庭では家庭の名称、お互い それぞれそう思っていればいい」という人もいます。 ではある人は自分の名前は形であらわす、ある人は文字で、ある人は色で、ある人は 手振りであらわす、そういう場合にそれらすべて同じ「名前」と言えるのでしょうか? あるいはそれぞれが「これがお金だ」と信じるものを通貨として使うことができるとしたら 果たして経済は成り立つでしょうか? 氏というものが何を表すためのものなのか、という定義が一意に定まっていない状態で 互いに「わたしの氏は〜です」と説明しても、 それらはすでに共通した一つのものとは いえないのではないでしょうか。 それが個人間の問題であれば 「個人の勝手だ」で済ませようとするのでしょうが、 氏というものは世代間で継承されるもので、しかもすでに先祖から継承され続けて きたものでもあるのです。 もしそれぞれが自分の好みの意味に変化させてもよいということになれば、もはや その連続性や継承性は失われているのです。 そしてそのような連続性の断絶を望まない人たちも少なからずいるのですから、 選択制を主張する以上はそれらも最低限考慮に入れなければおかしいですし、 どうしても選択制というならそれらの人たちに連続性の断絶を押しつけても仕方がないと いえるだけの、つまり その被害や損失を上回るだけの(別姓希望者だけではない、全体に とっての)利点を説明できる必要があります。 しかしもちろんそのような利点はいまだに説明されたことがないのです。 まとめ 最後にこれまで書いてきたことから、なぜわたしが選択的夫婦別姓制度に反対するのかを まとめてみます。 5 以上のことより、選択的夫婦別姓制度には賛成できない だいたいこういうことになります。 もっとも厳密にいうと 4 は不要で、 1 〜 3 まででもじゅうぶん反対する理由にはなると 思います。 ただ、反対という立場を表明するだけで「現行制度に固執する」と誤解されることが あまりにも多いため、あえて「中立的立場から検証した結果、反対せざるを得ない」という ことを説明するために言及しています。 そして、ここに書いたようなことを丁寧にきちんと説明しても、やはり推進派の人たちは ここですでに反論されていることを繰り返すだけ、という現状を見ていて、もはや 別姓運動というのはニーズに立脚した運動ではなくなっていて、 何らかのイデオロギーに 取り込まれてしまったのかな、と感じています。 もちろん、イデオロギー的背景から反対している人たちもいますから、どのみちこの論争 じたいがイデオロギー対立の中に取り込まれつつあるというのも事実ですが。 その他にも選択制議論においてよく言われることの中に、いくつか誤った認識にもとづく 主張もありますが、ある程度結論に結びつくものでないものは割愛しました。 そういったものについては、また別に機会があれば書こうと思います。
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