定義・名称 [ ] 分類 [ ] 現在「博多」と「福岡」は、特に九州外において同じ地域を指す地名として認識されることが多く、福岡市やその郊外のことを「博多」と呼び変えることも少なくない。 「博多」という言葉を用いた場合、その言葉が指し示す範囲には曖昧性・多義性があり、人により差異はあるものの、概ね以下のような類型で用いられる。 なお博多駅は、1963年(昭和38年)に現在地に駅が移転する以前は、現在の(祇園大通り)付近にあった。 博多区北西部の(那珂川)と御笠川に挟まれた、旧来の町人町に該当する地域。 博多川対岸の中洲地区を含めることもある [ ]。 南端は時代により変遷するが概ね1963年(昭和38年)に移転前の博多駅(現在の祇園駅・祇園大通り)付近である。 また、矢倉門は現在の博多警察署付近にあった。 博多部周辺 博多部に、博多駅周辺・周辺・博多埠頭および中央埠頭周辺・御笠川対岸の千代地区などを含めた博多区内の地域。 [ ] - 福岡市のの一つ 沿岸地域 黒田入国以前の、古代から中世における文献上の参照に多い。 - 時に「博多市」と誤称される事もある。 、、、、、など福岡市とその郊外も含めた呼称。 博多川 広義 [ ] 「続日本記」において、博多の町は「博多大津」と称された。 博多にある大津、すなわち海上貿易都市である。 そのため博多とは、羽の形をした湾に面する干潟すなわち博多湾の旧沿岸の全域を指したものである。 現代でも、福岡県内(特に旧領域)においては、福岡市とその周辺を、「博多のほう」と呼び、また、福岡市へ行く場合は、「博多に行く」「博多へ出る」など表現する場合がある。 これは「福岡」にいるのに、「福岡」を外部又は目的地として扱う表現には、違和感があるためである。 狭義 [ ] 狭義として、戦国時代には自治都市、江戸時代には町人の町として扱われた領域を限定して博多と呼ぶことがある。 地理的には博多区北西部の那珂川と御笠川に挟まれた区域である。 北西端は明治期の海岸線にほぼ相当する近辺、南東端はかつてが存在した近辺となる部分で、教育行政の区画として、全地域が・のに含まれる。 また、これに三笠川右岸の千代町を含めた部分は、複数町からなる「」を構成して博多祇園山笠や博多松囃子などの伝統行事を受け継いでおり、文化的な共同体としての博多である。 この限定定義での地域を 博多部(はかたぶ)と呼ぶ。 博多部に対して、那珂川以西の旧城下町を 福岡部(ふくおかぶ)とし、この両者を総称して 福博(ふくはく)と呼ぶことにより、博多部の独自性に配慮して福岡市中心部を表現することがある。 博多部まちづくり協議会では特に注釈なくこの狭義の「博多」を用いている。 また、『博多んもんの魂』などの著作ではこの狭義の意味でしか「博多」という言葉を用いていない。 いっぽう現代、福岡市とその周辺において、単に「博多」や「博多にある」という表現を用いる場合は、博多駅周辺の地名が博多区「博多駅前」「博多駅東」「博多駅南」「博多駅中央街」であり、博多駅周辺を中心とした博多区の限定的な地域の地名を指す場合が多い。 市町村制度下において博多市という都市が存在したことはなく、1871年ので福岡部が第一区、博多部が第二区となったあと、これを併せた第一大区が福岡区を経て1889年に福岡市となった。 博多の地名はに博多区という行政区名として復活したが、その区域は旧来の博多(狭義)から大幅に拡張されたものとなった。 博多部を中心に用いられた方言がである。 江戸時代までは福博の住み分けが明確であり、中洲を越えた那珂川対岸の福岡部(城下町)では福岡城勤めの武士層と家族係累が話す「 」(がっしゃい言葉)が用いられていたが、もともと話者の絶対数が少なかったうえ、平成に入ると話者はほぼ消滅し、一部の方言研究家による文献に残るのみである。 かくして明治期以降、博多弁が博多部を中心に福岡市とその周辺に広がった。 交通 博多の玄関口の駅は、新幹線を含む全旅客列車停車駅である。 同時に福岡市内及び九州地方最大のターミナルでもある。 一方、福岡には「」(通称:福岡(天神)駅)が存在する。 1935年以降、単なる「福岡駅」は福岡県・市には存在していない。 なお他に、「」 や、「」 、「」などがある。 港名は「」であり、明治から昭和初期まで用いられていた「福岡港」(現在の福岡船溜)の呼称はの「福岡港駅」(1985年廃止)に残すのみとなっていた。 とを結ぶ線から内側の湾名は、の定義では西部域を「福岡湾」、東部域を「」とするが、一般的には総じて「博多湾」と呼ばれ、によっては両者が併記される。 「博多空港(はかたくうこう)」は(もしくはその旧称である板付空港)の完全な誤用であるが、福岡空港は博多区に所在している。 メディア のみならずといったや全国区のの記事やなどのでは、しばしば曖昧な定義で「博多」 という言葉が利用され、時には福岡市を「博多市」と誤って紹介することすらある。 ターミナル駅であり他県との玄関口となる博多駅をはじめ、・・・など全国的に知られた祭事や土産品や施設などに「博多」という言葉が用いられる。 そのため、九州外での認知度としては「福岡」よりも「博多」の方が高い事がままある。 方面で福岡方面を指す場合、「福岡のほう」と言うよりも「博多のほう」と言う方が通りが良いのも否定できない。 全国区で活躍するやが自らの出身を分かりやすく「博多」と言うこともその証左である。 出身の・作の漫画『』では、やなどを含め、福岡市の意味としてその大部分を「博多」と表現している。 しかし漫画の舞台は博多部でもなければ博多区でさえないのである。 作の『』では冒頭部に「博多市」の名が登場するが、これは福岡市をモデルとしたの都市である。 特産品 福岡県産の農産物が全国の市場に向けて出荷される際、戦略として「博多」のにあやかったがなされている。 その例として、の博多あまおう、博多、博多万能、はかたなどがある。 これら博多ブランド農産物の生産地には、に隣接するや、に隣接するなども含まれる。 概要 [ ] 博多は、日本最古のであり、古代においてはの外港として機能した。 筑紫館(つくしのむろつみ)、迎賓施設である(こうろかん)が置かれた。 中世には商港として栄えた。 平安時代から鎌倉時代までの地形は現代と大きく異なっていた。 やが派遣される以前から在地のとの交流があり、中国や日本の歴史上の文献に見える那の大津の記述などは、そのいにしえの古さを物語る。 の筆頭でもある。 縄文海進 [ ] 現代から約3000年前の頃にのピークがあり、博多湾の海岸線は、次の中世期の袖の湊形成期に述べるよりも、さらに大きく後退しており、これに現代の福岡市の主要河川の樋井川、那珂川、御笠川が注ぎ込むことと、縄文海進ピーク以降の現代までの緩慢な海退により、縄文期の海岸線より海側に向けて徐々に海浜砂による砂礫層が形成されていった。 中世の袖の湊形成期は、「冷泉津」や「草香江」が現在の市内中心部に大きく進出していた時代であるが、これは(~)頃に始まるによるやや大規模な海退の手前の時期にあたる。 参考文献: 袖の湊 [ ] 中世の博多津は、平安時代の1161年ににより日本初の人工港「袖の湊」が建設されたことにより始まる。 蔵「博多古図」によると、当時の博多津は大きく「草香江」、「冷泉津」、聖福寺や櫛田神社などがある博多中心部とそこから橋で繋がれた「沖の浜」と言う出島により分けられていた。 当時の比恵川(現在の・石堂川)は西に流れ住吉神社の北側で海に注いでおり、博多中心部はそれより北の部分にあった。 「冷泉津」は現代の天神地区を中心として東西は中洲地区から赤坂地区周辺、南は住吉神社手前までに及び、この一帯は当時は全て海の底であった。 冷泉津と草香江は当時のを中心とするやや小高い丘陵(現在の南公園から西公園に至る地域)によって隔てられ、「草香江」もまた、現在の草香江・六本松地区を中心として、全て海の底であった。 平尾村の丘陵の北端からは東方の沖の浜に向け細長いが伸びており、これを「長浜」と呼んだ。 「冷泉津」には南から那珂川、東には比恵川が注ぎ込んでおり、当時の那珂川河口(現在の塩原地区)付近に浮き島として「箕島」(現在の地区)があり、そのすぐ北に江を隔てて、「冷泉津」のほとりに住吉神社が鎮座していた。 筥崎八幡宮は、博多中心部から見て東北方向の海岸沿いにあった。 現在の向野地区に鎮座する石投げ地蔵は当時「潮焦塚(塩煮塚)」と呼ばれていた。 鎌倉時代以降 [ ] 博多南縁の堀 福岡博物館所蔵の博多古地図(1550年頃)によると、博多湾の海岸線は、現在の九州大学病院付近から博多区古門戸町付近を結ぶ付近にあり、また、現在の博多川より西側は、住吉小学校付近まで海岸線が下がっており、現在の博多区中洲、中央区天神や渡辺通付近は海であった。 三笠川(現在の・石堂川)は現在の堅粕小学校付近から西に大きく曲がり、現在のキャナルシティ付近で那珂川に注いでいた。 この部分は当時は比恵川と呼ばれていた。 なお、 2016年11月8日の地下鉄七隈線の延伸工事中の陥没事故地点(博多駅前2丁目交差点付近)はかつての比恵川跡と重なる。 ・年間にの命を受けた臼杵鎮続により大規模な治水工事がおこなわれ、三笠川から博多湾に直接そそぐようにされた(現在の石堂川)。 また比恵川は博多防衛のために堀を築造し、とした。 房州堀の門を矢倉門とし、直近の出来町に小砦を築く。 このようにこの時代の博多津は、概ね、古門戸町付近の海岸線、現在の博多川、房州堀と、当時新造された、現在の石堂川に囲まれた地域であり、水郷都市の様を呈していた。 中世初期までの博多津は入江などによりさらに海岸線が凹んでおり、現在の付近で東西に括れた地形になっていた。 そこから北の部分を息の浜(沖の浜)、南側を博多浜と呼んでいた。 鎌倉時代の元寇の後、沖の浜(現在の蔵本町付近)から現在の古門戸町付近までの海岸線沿いにが築かれている。 このころ、博多津の海沿いには、、、が鎮座しており、文字通り博多の中心部であった。 前述の石堂川の築造により(旧比恵川)の流量は著しく下がり、旧比恵川河口に中州が形成され、これが現在の中洲地区にあたる。 安土桃山時代から江戸時代にかけては、の太閤町割や、により築造が行われた。 中央の東西に凹んだ入江は狭められるとともに東西が連結されて、博多大水道と呼ばれる小運河が作られた。 近代では中洲ほか周辺地形が前述の海退現象()により形成もしくは埋め立てにより広がり、房州堀はほぼ消失し一部は暗渠化され 、現在の那珂川、博多川、御笠川(石堂川)を境とするほぼ連続した地形が形成され、さらに北側に海岸線が上がり、人工埠頭が形成されて現在の地形に至っている。 歴史 [ ] 「」も参照 起源と古代 [ ] 古く「那津(なのつ)」「荒津(あらつ)」「灘津(なだつ)」「冷泉津」「筑紫大津」と呼ばれていた博多湾は、(16年)の『』において「博多大津(博多津)」と記されているのが見出される。 「ハカタ」の語源は、「土地博(ひろ)く人・物産多し」という言葉から「博多」、大鳥が羽を広げたような地形から「羽形」、海外へ出る船の停泊する潟から「泊潟」、射た鶴の羽が落ちたとして「羽片」(鶴の墓はのにある)、切り倒された大樹の葉が舞い落ちたので「葉形」などの説がある。 この当時の「博多」というのは現在の博多湾に面する一帯を指すものであった。 の外港であった博多津にはにも読まれたという日本最古の外交施設が存在した。 その後、同じ場所にとして建て直され、鴻臚館貿易が行われるとともに、、が経由地として訪れていた(鴻臚館は現在の内で発掘作業が行われている)。 (元年)にが創建。 (元年)に唐より帰朝したは博多にを建立している。 に際しては、朝廷ととの争いで博多の町が焼失する。 この争いの前、好古は戦勝祈願にと櫛田神社にを勧請したとされる。 日宋貿易 [ ] 鴻臚館の衰退ののち、博多津ではやの商人や・などや領主らの私貿易によるの拠点となった。 (3年)のや(元年)の追捕使による襲撃があったものの日宋貿易で栄え、近年のからが博多でも流通していたことが判明している。 平安時代末期から、後世「大唐街」と呼ばれる宋国人街が筥崎宮周辺に形成された。 異国風の建物が建ち並び、多数の外国人商人が行き交うであった。 宋人は船団を組んで盛んに往来し、博多に居を構え、寺社とも結び付いた。 このような宋商人は「綱首」(ごうしゅ、こうしゅ)と称される。 (6年)に帰朝したが博多にを開山したのも、博多綱首が心物両面で援助したからであった。 (2年)に宋より帰朝した聖一国師(弁円)の開山も博多綱首での謝国明が援助したことによる。 この時期、宋により・・・が日本にもたらされ、博多はこれらの発祥だという説がある。 は父の後を継いでのなどを輸出品に宋との貿易を活発化させた。 (3年)にとなった頃に清盛は博多に人工港「袖の湊」(そでのみなと)を開いて日宋貿易の中継地としたと考えられている。 の前身であるは、清盛の子が博多の町にもたらした恩恵への謝意を示したのがはじまりとされ、または円爾が疫病の流行する博多の町を甘露水で清め回った1241年を起源としている。 ちなみに(元年)にが博多の海に流れ着いたという記述があり、その骨とされるものがに所蔵されている。 元寇 - 室町時代 [ ] が襲来した文永の役(1274年)によって博多の町は焼失した。 再来を警戒して博多湾沿岸にはが築かれる。 防塁が築かれたことから博多の別名として「石城」の名が生まれる。 元寇ののち(元年)にが設置され(現在のの近く)、大宰府に代わって九州統治の中心となる。 鎌倉時代末期には、全国主要の造営費を獲得するため、博多商人が幕府公認の下、しばしば元との間に交易船を往来させた()。 (3年)にが挙兵すると、が鎮西探題を襲い博多の町を焼き払った。 武時はやによって駆逐されるが、によって京都のが陥落したことが伝わると貞経や貞宗さらにはらは北条英時から離反、鎮西探題を滅ぼした。 (3年)、に離反して九州へ落ち延びた足利尊氏は・・らとともににて菊池氏を破る。 治世の(4年)にによって(了俊)がに任命され、等勢力の掃討、の守護被官化に務めた。 貞世はまた、、、を本拠地としたによって博多に売られたであろう捕虜を哀れみ、帰国させている。 さらに、からの討伐の要請などを受け、とともに倭寇を討伐し、幕府の(勘合貿易)開始に携わったが、讒言にて失脚した。 貞世の次に九州探題となったは、に際して博多商人をして幕府との連絡を行い、博多商人の平方吉久(の由来である陳宗敬の子)と妙楽寺住職の無涯亮倪をに派遣し、使者の宋希璟が博多を訪れたときは自ら接待した。 は、私貿易を行っていたをで討ったのち、出身といわれる博多商人肥富(小泉)の進言を受けて(8年)にを正使、肥富を副使として明へ第1回遣明船を出してもいる。 この頃の博多商人は日明貿易や日朝貿易のみならず、を経由してとの貿易にも関わり、中でも道安という商人はの名代として貿易を行った。 明で買い付けたは日本で20倍の価値になり、逆に日本のは明で4~5倍の価値になったという。 またを輸入し、やなどを輸出し、博多商人は巨万の富を得ていた。 その様子はにも記載されている。 渋川満頼が九州探題を辞したのち、大友氏は(元年)朝鮮に使者を遣わして博多支配を宣言、宗金など商人たちは大友氏の保護下で貿易を行う。 当時の博多の町は、港がある北東部「息浜」(おきのはま)に6000戸、聖福寺・承天寺周辺の南西内陸部「博多浜」に4000戸あり、息浜を大友氏が、博多浜を少弐氏が治めていた。 日明貿易が再開した(永享4年)、家臣・三原入道の家人と満種家臣・原田種泰の家人が見物に来ていたの「追い山」の会場にて衝突、三原方50人余、原田方20人余の死者を出した。 翌年には少弐家人と家人が博多で衝突。 さらに翌年には大内家人と少弐家人が箱崎にて衝突している。 この他にも同士やらは、筑前国の覇権や日明貿易の主導権をめぐって抗争を各地で起こした。 (10年)、は少弐勢力を博多から追放、筑前や豊前までを勢力下に置き、博多の町は大内勢力と大友勢力の配下となる。 戦国時代 [ ] ののちがやらの日明貿易の拠点として台頭すると、博多商人や大内氏と利害が衝突するようになる。 そのもっともたるのが日明貿易の港で一味と一味が争った(1523年)である。 こののちが(5年)に遣明船を再開する。 義隆はまた博多祇園山笠の舁き山12本のうち6本をに分け移したと言われている。 (天文20年)に義隆が家臣の謀反で追われ自害したのち、博多の町はにより統治される。 宗麟は(2年)に幕府から九州探題に任命されてもいる。 だが同年に大友宗麟に反旗を翻した筑前国衆のは、1559年 永禄2年 に兵2,000で博多の街を焼き払って破壊し、大友氏の博多代官を殺害した。 のによれば、上旬 永禄13年 の博多の町は森林のごとくに変貌して20戸ほどしか居住していなかったという。 このとき多くの商人はに避難しており、もに逃れていた。 大友氏は、博多の町の南東を流れ那珂川に注ぐ比恵川の氾濫を防ぐため大規模な治水工事を元亀・年間に家臣に命じて行わせ、博多湾に直接流れ込むようにした。 今の石堂川(御笠川)である。 そして比恵川の跡を堀として敵の来襲に備えた。 臼杵鎮続が安房守であったことからと呼ばれる。 房州堀は江戸時代には古屋堀とも呼ばれ、に入って(現在の付近)が建設されるまで残っていた。 堀の近く、現在のの場所に矢倉も建てた。 大友氏時代の博多は九州で最も富裕な町であったと言われる。 有力商人を中心として自治が行われていたとイエズス会士は伝えている。 博多では「年寄」と呼ばれる役職が自治運営をしていたと考えられ、後年の(2年)の資料において「十六人之年寄衆」と残っている。 また宣教師アルメイダは「博多はキリスト教を受け入れず日本一布教しづらい土地であった。 その理由は裕福で贅沢な町だからである」と伝えている。 はから京都へ赴く途中に博多にも立ち寄っているが、男色の酷さに辟易とし足早に去っている。 当時の西欧の文献において博多は「Facata」「Focata」「Facatta」と記載された。 博多商人は戦国時代も活躍し、その一人で神屋宗湛の祖父寿禎は大内義隆の父の支援でを開発する。 またに漂着(1543年)した明国船に乗船していた明国人は博多商人3人を貿易仲間としていた。 この時期、日明貿易船やとに来航しているポルトガル船・オランダ船などに無担保で買付用のを融資し、航海成功時に3~11割の高を付けて返済させる「抛銀」(なげがね)というの高い商行為がおこなわれており、神屋氏をはじめ博多商人もこれによって多額の利益を得た。 6年 のでがに大敗したことが筑前国に伝わると間もなく、博多でとの軍勢による掠奪が起き、 天正6年 にのとは博多を脱出した。 (天正8年)にはが筑前国に進撃し、博多の町のほぼ全土が焼失した。 続いての軍が復興した博多を占領するも(天正14年)8月下旬に博多を焼き払って撤退する。 (天正15年)はを行い島津氏を降伏させる。 九州平定後秀吉はに滞在し、や神屋宗湛らを招いて茶会を開く。 同年に秀吉は、平戸と長崎からコエリョとモンテイロが秀吉に謁見するため乗って来たフスタ船に、箱崎浜から乗船して焦土の博多を眺める。 そしてすぐに博多の復興に取り掛かり、をして住民を呼び戻す役目を担わせた。 その後にはを博多に任じ、博多商人の宗湛やにも協力をさせ、本格的な復興に取り掛かった。 入り江や湿地を埋め立て、息浜と博多浜を一つの町とし、最初の縄張りを行った南北の街路を「一小路(市小路)」とし、町をの七条になぞらえて七小路(七筋)七堂七厨子七口七観音とし、七小路に面する町々を「」(ながれ)という単位に集合させた。 この復興事業は「太閤町割り」と呼ばれる。 また荒廃したに社殿を寄進した。 秀吉は復興とともに9か条からなる「定」(さだめ)を発布。 やを禁じ、土地家屋への課税「」や武士への労役「諸役」も免除し、博多に武士が家を持つことも禁止され、博多の廻船を全国で保護し、喧嘩も両成敗とした。 政策である。 これらはを見越して博多の町を供給地とするためであったとされる。 また、秀吉はこの博多滞在中のにを発布している。 ただし、秀吉の当初の復興計画は、博多を九州統治及び将来の朝鮮出兵のための政治・軍事都市とする予定であった。 (当初は豊臣政権の筆頭であるに筑前52万石を与える予定であった。 )この年の5月から6月にかけて、やらに充てた複数の書状によれば、博多に城を建設して秀吉の九州における居城にするとともにの一人に筑前を与えて留守居役を兼ねさせること、・・とのを博多一港に限定する代わりに博多の中心地から寺院・神社を排斥して郊外に移転させ、市内にはイエズス会に教会を建設させる構想があったとされている。 ただし、その代わりにがイエズス会に寄進した長崎の返上と商船の博多回航を条件としたことから、イエズス会側が警戒を強めてこれを辞退、これが全国の支配者たる秀吉への非服従と看做されての一因になったとする説がある。 また、建設予定であった博多の留守居役に予定していた小早川隆景もこれを辞退したため、結局秀吉の新城建設・寺社排斥構想は中止されて従来通りの商業都市としての復興路線に修正を余儀なくされた。 いずれにしろ福岡湾は水深が浅く、ナウ船、ガレオン船が停泊出来なかったため、天然の良港である平戸と長崎のようなポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスとの貿易港になれなかった。 秀吉がポルトガル側通商責任者ドミンゴス・モンテイロに対し、平戸、、長崎だけでなく、博多にも入港するよう言い渡すが、博多湊の水深の浅さを理由に拒絶(この直後にバテレン追放令が出されている)。 博多港に大型船が停泊出来るようになるのはらの力によりになってからである。 江戸時代 [ ] 秀吉により豊臣政権のの一人であるが筑前国領主になり、前述のように博多ではなく東区のに城を築いた。 隆景の後を継いだ養子のはの勲功によって・に移封され、代わってが筑前国に封じられた。 長政は父如水とともに博多の町の那珂川対岸の、旧福崎の地にを(慶長6年)から建設(はにも出て来るが建っていた場所でもある)。 も整え、城北側の唐津街道沿いには前封入地から従った商人や職人を居住させた。 「福岡」の地名は福崎という地名の丘に城を建てたことと、黒田家の故地(福岡村、現在の)に因んだもので、長政が移封に際し名付けたものである。 ここにおいて町 博多と城下町 福岡の二極都市が生まれる。 藩政時代において既に「博多」と「福岡」は別個と考えられていた。 神屋宗湛はをつうじて如水と旧知の仲であった。 また嶋井宗室は朝鮮出兵に反対し秀吉から蟄居を命じられたが福岡城築城に際して協力していた。 しかし長政はから賜った(シャム)貿易の朱印状を商人のに与え、藩の代わりに貿易を行わせた。 これは宗九が築城に際して多額の金銀を献上したからのみならず、大商人として権威を持ち秀吉と親交深く三成とも関係のあった宗湛や宗室が新領主にとっては疎ましかったためと考えられる。 のちに「博多三傑」と言われるこの3商人のうち宗湛と宗室は凋落し、宗九は栄えた。 宗九は貿易のほか抛銀を行い、またの建設資金を拠出して家主株を獲得している。 2代藩主は宗九の子であるやにの兵站を任じた。 また(9年)に鎖国令が発布されて14年後の(4年)にポルトガル国王使節シケイラがに来航し日本との通交再開を求めたとき、が長崎警備であった。 忠之は再び宗伯と小左衛門に兵站を任じる。 宗伯は長崎伊奈佐郷の住居を買い占めて打ち壊し、焼き討ちの資材をいち早く準備した。 大賀宗伯とともに御用商人として活躍した伊藤小左衛門はそののち(7年)、朝鮮への武器密輸の金元(出資者)であったことが発覚。 の判決により一族全員が処刑された。 また博多商人でとなったは密貿易に絡み(寛永7年)ににて幽閉のうえ斬殺された。 黒田忠之の時代(鎖国の時代)に海外貿易を生業とする博多商人の活躍は急速に色褪せていったが、変わりに廻船の中継湊として栄え、花街の博多柳町など華やかな商人文化も生まれた。 博多の町は秀吉の「定」により武士の居住が禁じられ、江戸時代になっても武士の居住は行われなかった。 博多の町は藩から遣わされた2人の(も兼任)により管轄された。 奉行所は寛文年間には博多の中(須崎町)にあったが、そののち博多の外に置かれることとなる。 それとは別に博多津中の家格の高い知名士らから12人のが輪番で任命され、の徴収や事件等の町奉行への報告などの任に就いた。 100ほどあった各町内からは年寄と年寄助役が1人ずつが選任され、町費の収拾など自治活動の中心に立った。 また町内の10~20軒を1組とし組頭取1人が選出された。 そして年寄の中から流ごとに月行司が1人選任され(1-2か月ないし半年ほどで交代)、流内の取りまとめと博多全体での相談事での流代表の任に当たった。 年行司が徐々に減少し、一時期は2人にまでなった。 一時的に途絶えていたは黒田忠之の命により(寛永19年)に再開となった。 松囃子一行は博多から出発し、城下町福岡に入り、福岡城の藩主に年始の挨拶をすることとなる。 は江戸時代にも博多の町中で行われ、(4年)に追い山が始まっている。 (17年)のの折には博多でも多くの餓死者が出た。 に今でも残る餓人地蔵尊は、飢饉で行き倒れた人々を弔ったものである。 江戸時代後期には第123世の(せんがいぎぼん)(~)が活躍した。 仙厓和尚はを描いており、禅の境地を簡素に説いたユーモアな戯画を多く遺している。 近現代 [ ] 時代はとなり、(明治4年)にによって福岡藩は福岡県となる。 に福岡県は32区に分けられ、城下町福岡は第一区、町人町博多は第二区とされた。 そののち32区は16区に再編成され、福岡は第一大区、博多は第二大区となった。 には16区は9区に再々編成され、福岡と博多を統合して第一大区とされた。 には施行によって福博は福岡区となった。 「市制及び町村制」の公布により博多・福岡に於いて市制を施行しようとする際、市名を「博多市」とするか「福岡市」とするか、博多と福岡の間で大論争が巻き起った。 4月1日時点での人口は博多25677人、福岡20410人、東中洲ほか四字1530人であった。 「福岡市と博多市を分離独立するべき」など極端な論調まで飛び出すもののまとまらず、翌年3月、県令により博多・福岡をまとめて1つの市として発足させることとなり、市名を「福岡」とすることになった。 議場は東中洲の「共進会館」に置かれた。 福岡市としての発足のさいに仲裁案として同年に開通することになったの駅名を「」とすることによって県は議論の決着を図ろうとした。 博多駅の立地は現在の付近であって博多の辺縁に位置した。 福岡市境の農耕地だったため駅舎建設が容易であり、また小倉・熊本方面へ鉄道を結ぶに好都合であったと考えられる。 しかし駅名による決着に納得のいかない博多側の議員が翌に市名を「博多市」と改名する案を提出。 議員数は博多側17人・福岡側13人(出席議員は博多側15人、福岡側12人(うち1人は議長))であったが軟禁等妨害工作もあってか票は13対13の同数に割れ、旧福岡藩士であった不破国雄議長も議長席を降りて一議員として投票したが、再び13対13となり、最終的には不破国雄議長に代わって議長席に着いていた議長代理者により「変更せず」とされ否決された。 よって市町村制度下において「博多市」という市が存在したことは過去においても一度もない。 その後も度々市名変更の議論が巻き起こったものの、現在まで市と(市の玄関と言う意味で中心となる)駅とで名前が異なる状態が続いている。 またこの混乱当時、旧福岡藩士中心だった壮士たちは「福岡市」を支持して反対工作を展開した。 には博多電灯(後の)が発足。 同社が東中洲に発電所を建設してより供給を開始したことで、岩田屋呉服店(のちの)など博多の商店で電灯が点された。 また1898年には同じく東中洲に福岡電話交換局が設置された。 には、翌年にはがを福岡市内に開業した(後の)。 明治のを筆頭に、博多は文化の街として多くの人間を輩出した。 (9年)に開店した喫茶店「ブラジレイロ」が文学サロンとなり、、、原田種夫らが足を運んだ。 また(14年)には当時の福岡市内で初の百貨店であるが開業するなど商業の街としても急速に発展した。 末期ののにより博多・福岡はにより被災。 およそ2時間の爆撃により焦土と化し、この空襲により福岡市内で死者902人・行方不明者244人・負傷者1078人の被害を出した。 博多の町も被害甚大で、同年の博多祇園山笠は中止となる。 に施行されたにより1950年代後半以降福岡市でも順次が実施されていったが、博多の旧来からの町名が数多く失われる結果となった。 このことは「町名町界整理」と呼ばれ、博多祇園山笠の運営をおこなう「」や、流を構成する町々に多大な混乱を引き起こした。 その結果、流の再編がなされて現状へと至る。 また、町名に関しては町名の統廃合を実施しつつできるだけ単独の町名を採用することにして対処をすることとなった。 その結果、やなどにおいて本来のエリアより範囲が拡大した町が複数誕生した。 「博多町家」ふるさと館• - ビル。 2011年3月開業。 エキサイド博多 - 2015年4月にに改称。 - かつて博多駅にあった百貨店。 博多工場• - (傘下)の連結子会社。 かつては呉服町交差点(・)にあった。 福岡市天神にある店舗名は「福岡天神店」。 「博多町家」ふるさと館• 博多川端商店街()• スポーツ施設 [ ]• 博多の森 - 公募により決定されたの愛称。 - によりから名称が「スタジアム」となった・専用スタジアム。 のホームスタジアム。 博多の森テニス競技場• 博多の森弓道場• 学校 [ ]• 福岡市立博多高等学園() - 廃校となった旧御供所小学校を再利用し4月に開園。 以上の学校のうち博多部にあるものは博多小学校、博多中学校、博多高等学園の3校である。 宿泊施設 [ ]• 博多グリーンホテル• 博多シティホテル• ホテル博多 交通施設 [ ]• - ・・の駅。 - ・・・その他各社の。 - 福岡県春日市にある・・への回送線を旅客線化。 - 博多南線の駅。 - 西鉄が運行する、福岡市(・)と東京()を結ぶ高速バス。 - かつて路面電車を運営していた事業者。 - かつて西鉄宮地岳線(現・)に存在した駅。 公的施設・公的機関 [ ]• PL62 はかた - のの2番船。 福岡海上保安部所属。 先代はかた(5番船)は現在の「でじま」。 団体 [ ]• 博多祇園山笠振興会• 博多松囃子振興会• 博多ごりょんさん・女性の会• 博多商人塾• 博多食文化の会• 博多町人文化連盟• 博多伝統芸能振興会• 博多の風• 博多の歴史と文化の寺社町ネット• はかた部ランド協議会(博らん協)• 博多まちづくり 祭り・伝統芸能・風習 [ ] 博多祇園山笠• 博多灯明ウォッチング• 博多券番 - 券番(検番)とはと客を取り持つ事務所のこと。 に複数の券番が統合して博多券番となった。 博多をどり - 博多券番の芸妓衆が長唄や民謡を博多座の舞台で披露する。 「博多小女郎浪枕」• 「恋湊博多諷」• - 博多独自の。 博多祝い歌(祝いめでた) - から派生した博多独自の祝い歌。 正調博多節 名産物・工芸品 [ ]• (博多明太子)• - コシのくだけた柔らかさが特徴。 ゴボ天(揚げた)や丸天(白身魚のすり身を揚げたもの。 に近い)を乗せる。 - 博多織職人を主人公としてがに制作・放送した『』シリーズの1作品。 博多 - にが唐鋏の製作に取り組んで生み出された。 に博多鋏を名乗る。 博多曲物 - やの板材を曲げて作った容器。 「まげもん」とも。 のや、茶櫃・・弁当箱など。 博多 - 心棒に鉄を用いる。 曲独楽を発祥させた。 博多張子• 筑前博多矢 土産菓子 [ ]• (発祥は)• (発祥は飯塚市)• 博多ぶらぶら• 博多銘菓 ご当地ソング [ ]• 「博多小女郎波枕」 歌:• 「博多川」 歌:• 「博多子守唄」 歌:• 「博多純情」 歌:• 「博多情話」 歌:• 「博多どんたく」 歌:• 「博多中洲は雨あがり」 歌:• 「博多人形」 歌:• 「博多の女」 歌:• 「博多の女」 歌:• 「博多ばやし」 歌:• 「」 歌:• 「」 歌:(デビュー曲)• 「」 歌:• 「博多夜舟」 歌:• 「夜の博多は恋の町」 歌:• 「博多っ子純情」 歌:• 「俺が博多の無法松」 歌:• 「博多追い山青春ならし」 歌:• 「」 歌: 漫画・小説・文筆 [ ]• 『』 作:• 『博多姉妹』 作:長谷川法世• 『博多学』 作: 人物 [ ] 東京本社への移籍に合わせて「鶴屋華丸・亀屋大吉」から現在の芸名に変更。 にわか好きの大工職人からプロ役者に転向。 一座「淡海劇団」を率い、博多のみならず福岡県内外を回った。 初代博多淡海の子。 に誘われに入団。 跳び上がり婆さんの役で人気を博す。 (3代目博多淡海) 2代目博多淡海の子。 の座長となる。 HAKATA48の略称で、福岡市を拠点に活動するである。 かつて中央区地行浜の内に専用劇場を持っていた。 現在は専用劇場を持たず、中央区天神のと博多区千代のパピヨン24ガスホール、中央区渡辺通のスカラエスパシオを拠点に活動している。 検定 [ ]• 唱歌 [ ] (明治33年)にが作詞した『』第2集山陽九州編では、博多と福岡の合併からまもない時期であり、作者の誤解もあって、以下のように「博多」と「福岡」を混同してこの地域を歌った。 織物産地と知られたる 博多は黒田の城のあと 川をへだてて福岡の 町もまぢかくつづきたり そのほか [ ]• 博多遺跡群 - 博多駅北側の南北1. 6km東西0. 8kmの地域にある晩期からまでの・を残す遺跡群。 - (中期)の古墳。 「福博」を冠する事物 [ ]• 福博であい橋• 『福岡町名散歩』 、1983年、。 柳猛直 『福岡歴史探訪 博多区編』 、1993年、。 福岡本部 編 『はかた学5 江戸の博多と町方衆』 葦書房、1995年、。 岩中祥史 『博多学』 〈新潮文庫〉、2003年、。 編 『博多商人 鴻臚館から現代まで』 海鳥社、2004年、。 ・福岡アーカイブ研究会 編 『古地図の中の福岡・博多』 海鳥社、2005年、• 清水紘一「博多基地化構想をめぐって -天正禁教令との関連を中心として-」(藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』(1993年、雄山閣) ) 脚注 [ ] 注釈 [ ]• ・は、(博多区内ではあるが)狭義の「博多」の外へ、第二次大戦後に新設された流である。 なおの前身となる大牟田線(福岡 - 久留米)の開業は(13年)であり、それまで福岡市との都市間鉄道の窓口は博多駅だけであった。 福岡市博多区の南端にあるの駅。 (との境界部分)にある、の駅• 1989年に笑っていいとも! が福岡市内のホール(天神に立地)で公開生放送をした時にタモリは博多からと表現した。 (なお、タモリは地元福岡市出身である。 石投げ地蔵の由来に、「筑前風土記に塩煮塚と記録される、古い歴史を持つものである」と記されている。 寺社排斥については、の『』にしか記述がないものの、『日本史』に記述されている博多における秀吉の動向に関する他の記事については、他史料によって確認できるために、その信憑性は高いと考えられている。 福岡藩のの『筑前国続風土記』は1巻・2巻の「提要」ののち、3巻を「福岡」に、4巻を「博多」に当てており、また元禄3年(1690年)の住民数を福岡15009人・博多19468人と別々に記載している。 福岡藩筆頭家老の家に伝わる文化9年(1812年)製の地図には、福岡(武士宅838軒・町人宅1629軒)と博多(町人宅3395軒)の戸数が区分され記載されている。 江戸時代後期に書かれたとされる『佐藤元海九州紀行』には「都下(福岡)も富饒に見ゆ。 博多とは、僅なる橋を隔てたる町続にて、両地の市を合すれば、二万余家も有べし。 」とあり、文政10年(1827年)に書かれた紀行文『菅の下葉』には「中川とて大河あり。 大橋二ツあり。 中川橋と云。 これを渡り、見附門あり。 これより福岡なり。 」ともあり、外からの旅行者も「博多」と「福岡」を別個と捉えていたことがうかがえる。 出典 [ ]• 貝原益軒 1709. 筑前国続風土記• 『 6 篇1』209頁、219頁(53年()発行 訳者:、 発行所:)• 『イエズス会士 日本通信 上 (新 1)』 181~182頁、190頁 (昭和43年()発行 訳者: 編輯者:柳谷武夫 発行所:)• 『イエズス会士 日本通信 下 (新異国叢書 2)』 265頁、276頁 (昭和44年()発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版)• 1559年 永禄2年 の筑紫惟門の博多焼討による。 『イエズス会士 日本通信 下 (新異国叢書 2)』(昭和44年(1969年)発行 発行所:雄松堂出版) 230~232頁、241頁、265頁、276頁• 『イエズス会士 日本通信 下 (新異国叢書 2)』(昭和44年(1969年)発行 発行所:雄松堂出版) 230~232頁、241頁、265頁、276頁。 元亀2年 付のの手紙は、博多は昔は栄えていたが、敵に完全に焼き払われて破壊され、2年前から復興が始まったと書く。 1571年 元亀2年 付のの手紙は、昔の博多には1万戸あったが、十余年前の戦争で完全に破壊されて焼き払われた。 博多は1年前から復興が始まり、今では3,000戸あると書く。 1570年 永禄12年 にのの守将のは城をに明け渡して撤兵した。 昭和13年()発行 編纂者: 発行所:朝陽會• 1570年 永禄12年 にと大友宗麟がを結んだ。 『イエズス会士 日本通信 下 (新異国叢書 2)』(昭和44年(1969年)2月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 422頁• フランシスコ・ザビエルはよりに至る途中、天文19年下旬(中旬)に、博多にある巨大な宗を訪問した。 『フロイス日本史 6 豊後篇1』50頁~59頁 (昭和53年(1978年)8月20日発行 訳者:松田毅一、川崎桃太 発行所:中央公論社)• 内容的にFacataはTacataの誤りで、博多ではなくだと思われる箇所もある。 『イエズス会士 日本通信 下 (新異国叢書 2)』(昭和44年(1969年)2月10日発行 訳者:村上直次郎 編輯者:柳谷武夫 発行所:雄松堂出版) 316頁• 『フロイス日本史 10 篇2』84頁~95頁(54年()発行 訳者:松田毅一、川崎桃太 発行所:中央公論社)• この兵火で博多の1万戸が焼け、博多は街の痕跡すら留めぬ有様になった。 『フロイス日本史 10 篇2』178頁、182頁 (昭和54年()発行 訳者:松田毅一、川崎桃太 発行所:中央公論社)• 2014年7月9日閲覧。
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福岡・博多公証役場 FUKUOKA ・ HAKATA NOTARY OFFICE 福岡・博多公証役場 福岡公証役場 福岡市中央区舞鶴3-7-13 大禅ビル2階 博多公証役場 福岡市博多区博多駅前3-25-24八百治ビル3階 CONTENTS 遺言 相談は無料です。 「アクセス」のページから電話・Eメールでお問い合わせ下さい。 公証役場とは 福岡市内には二つの公証役場があります。 福岡市中央区舞鶴の法務局近くにある福岡公証役場と博多駅の前にある博多公証役場です。 両方の役場も業務内容は同じです。 このホームページは両役場共通のウエブサイトです。 公証役場という名称は古くさくて馴染みがない呼び名ですが,120年以上前の明治時代にできた制度に基づくものです(公証人法は明治41年に制定されました)。 そのころからずっと「公証役場」という名称が使われています。 福岡市にも明治24年に最初の公証役場が設置されました。 公証役場は正式には「公証人役場」といって,公証人が職務を行なう事業所を指すことばです。 「公証人」とは,法務省・法務局の監督のもとに公文書である公正証書の作成,私文書の「認証」などの公証業務を行なう者で,その意味では公務員ですが,国から給料を支給されていない自営業者でもあります。 公証人になるには,日本国籍を持ち,一定の試験に合格して一定期間の研修を経ることとされていますが,裁判官,検察官,弁護士の資格を持つ人は試験と研修を免除されます。 また,それ以外の法務経験者で多年の経験を経た人についても同様とされています(裁判所,法務局の職員など)。 福岡公証役場には6人,博多公証役場には5人の公証人がいますが,全員が裁判官,検察官の経験者です。 公正証書を作成したい方へ 1 相 談 公正証書作成についての相談は電話,ファックス,Eメールでも可能です。 ケースに応じて適切な内容の公正証書の条項をアドバイスいたします。 合意の内容や条項の定め方が法的に適正かどうかもチェックします。 相談はすべて無料です。 2 準 備 作成にはいろいろな書類が必要です。 ケースに応じてどのような書類が必要かを説明します。 代理人をたてるときは,委任状が必要です。 書類や委任状は事前にファックスかEメールで送っておいてください。 3 予 約 条項案が確定し,書類がそろったら,作成の日時を打ち合わせます。 4 当 日 役場で条項案や住所氏名,意思確認などの最終確認をします。 出頭者と公証人が署名して公正証書が完成します。 公正証書の原本(現物)は公証役場に保管されます。 公正証書の謄本,正本が必要なときは,その場で作成してお渡しします。 5 後の手続 手数料の支払をしていただきます。 現金払となっています。 謄本の送達を希望される場合や登記の嘱託などが必要な場合があります。 係のほうで手続をしていただきます。 6 その他 代理人が出頭して作成したときは,本人あてに通知をします。 遺言公正証書については,日本公証人連合会に登録 されます。 任意後見契約公正証書は東京法務局に登記されます。 All right reserved.
次の私が書くと、また頭ガチガチの人たちから、猛反発受けそうですが、「博多」とは、現在の福岡市とその周辺のエリアのニックネームと考えると分かりやすいです。 博多華丸は早良区?西区?の出身だし、博多大吉は古賀市の出身です。 鉄矢の実家はもちろん、今の博多駅の場所ですら、江戸時代の博多エリアではありません。 明治時代になって、福岡市にするか、博多市にするか!投票で、同数で議長が福岡市!に入れて、福岡市になった経緯があります。 もし、その時に、博多市に決まっていたら、西新、七隈、香椎、大橋を「博多」とは、認めない!って必死になってる連中は、どうするのかな? 六本松は、博多市だけど、「博多」とは認めない!なんて、訳の分かんない事を言うつもりなのかな? ちなみに、北九州は、北九州市という市が存在します。 福岡県北九州市!です。 福岡市は、 福岡県福岡市!です。 東京や大阪などの人間がテレビとかで、九州の北部地方の事を、北九州!と言ってるのを聞くと、バカタレ!そりゃ、北部九州って言うとたい!と思います。 ニックネームとしての博多には、北九州市は、絶対に重なりません。 たかだか、江戸時代250年の期間だけでの、「博多部」しか博多 と認めない連中と、現在の博多駅近辺を博多 という連中も居て、狭い意味での「博多」を主張する連中も2つに分かれます。 姪浜出身の人間が就職で東京に出て、「出身は、博多です。 」これで正しいです。 香椎高校から京都大学に進学して、「博多の香椎高校出身です!」これも、100点です。 福岡市の出身である事を簡潔に分かりやすく表現出来るのが、博多!です。 愛知県と名古屋市の関係とは、違いますね。 名古屋については、詳しくないですが、仮に名古屋市の名称を決定する際に、名古屋市と尾張市で、争って、一票差で名古屋市になってしまったから、国鉄の駅名は、尾張駅にしました! してないけど みたいな感じかな? どの区分ですか?と言われてもちょっとよく意味が掴みづらいですが、博多華丸は福岡市早良区の出身なんで、まあ広い意味での「博多出身」と言ってもいいでしょうね。 そりゃ地元の我々からすれば「早良は『博多』じゃない」んですけど、全国向けにそんな細かい話しても仕方ないですし。 ひとまず福岡市=博多、という緩い括りで問題ないかと思います。 まあ地元民的に厳密に言えば、『博多』ってのは先行回答でも触れてますけど「福岡市博多区の一部地域」であって、雑に広げても福岡市内を流れる御笠川と那珂川の間の狭い地域 那珂川の東側 のことを指します。 那珂川の西側は俗に『福岡』と言いますね。 つまり現在の早良区は『福岡』であって『博多』ではありません。 これは、黒田如水が福岡に転封された時に那珂川を挟んで東が博多商人の街『博多』、西が武士たちの住む『福岡』と分けられた事に由来します。 福岡とは元々は黒田家の発祥地である備前国福岡村 岡山県 にちなんで名付けられたもので、本来は九州の地名ではありません。 ちなみに北九州というと、通常は現在の北九州市を中心とした『北九州都市圏』を指します。 こちら福岡で『福岡』と言うとき、意味が3種類あります。 ひとつは福岡県、ふたつめは福岡市、そして最後が上記の武士の住む街としての『福岡』です。 大吉の方はちょっと苦しいですけど、まあ全国向けには博多で通してもいいと思いますね。 まあギリですけど。 そんな感じなんで、2人が東京進出にあたって芸名を「博多華丸・大吉」に変えたとき 福岡吉本で活動してた時は「鶴屋華丸・亀屋大吉」でした ちょっとしたブーイングもありました 爆。
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