村田英雄。 6月13日は村田英雄の命日~大瀧詠一に紹介された“一人GS”作品「太陽に祈ろう」とは

追悼の森/村田英雄さん死去

村田英雄

:顔写真のをお願いします。 ( 2019年8月) 村田英雄 出生名 梶山勇 別名 京山茶目丸(前々名) 酒井雲坊(前名) 二階堂伸 北くすお 生誕 1929-01-17 出身地 , (現・) 死没 2002-06-13 (73歳没) ジャンル 職業 、 担当楽器 活動期間 - レーベル (1958 - 1971) (1971 - 2001) 事務所 村田 英雄(むらた ひでお、公称(昭和4年) - (平成14年))は、の、。 (現・)出身。 出生は(現・)である。 本名、 梶山 勇。 血液型はAB型。 に所属していた。 愛称は、 ムッチー。 で鍛え上げた歌声と男らしい風貌、世界観を持ち味に、戦後歌謡界の黄金期をリードした演歌界を代表する歌手の一人である。 生涯 [ ] 浪曲師から歌手へ [ ] (現・)に、実父・広沢仙遊、実母・矢野ツタ子の子として生まれる。 生後まもなくツタ子の姉弟子である出利葉スミ子のとなる。 その後、スミ子が梶山春雄と結婚し、一家は(現・)へ引っ越す。 4歳の時、両親が雲井式部一座に加わり巡業先で雲井式部から 京山茶目丸と名付けてもらい、宮崎県の孔雀劇場にて『中山安兵衛婿入り』初舞台を踏む。 その後大人気のに因んで 少年 酒井雲と改名。 無許可で名乗っていたが、本家の知るところとなり、これが機縁となり大阪の劇場に出演中の本人を訪ね、楽屋でをしてもらい、5歳のときに門下に弟子入りし、当時師匠が住んでいたに移住し修行を開始する。 64番目の弟子であった。 この時、師匠から 酒井雲坊の名前をもらい、13歳で昇進、14歳で「酒井雲坊一座」のとなり、その後も九州にて地方公演を続ける。 、16歳でに志願し、輸送班に配属される。 6月19日、吉塚の専売局に砂糖を輸送する任務に就いた際に、に遭遇。 翌日、ビル地下室の遺体搬送作業に従事した。 に少女師の吉田伊万里(本名 野口ユイ子)と結婚。 、浪曲界に顔の利いた西川芸能社 現 新栄プロダクション 前社長・(浪曲師出身で、門下だった)に宛て、自ら手紙を書きマネージメントを依頼。 師匠・酒井雲と西川が合意、「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京し、25歳で 村田英雄に改名。 数年後に妻子を呼び寄せる。 新婚当時は浪曲人気といえども貧乏の中で生活していたが、ラジオでの口演や実演で少しずつ名前が売れ出し、若手浪曲師として注目を集めるようになる。 、たまたまラジオで村田の口演を聴いたに見出され、すでにやで知られていた十八番の芸題 演目 であった浪曲『』を古賀が歌謡曲化()、同曲で歌手デビューを果たした。 尚、従来、舞台と映画で知られていたこの作品を取り上げたのは、師匠である酒井雲自身が浪曲界でも屈指の読書家であり『文芸浪曲』 文字の読み書きの出来ない人々にも文学に親しんでもらおうと考えだした芸題群の事 という浪曲のジャンルを確立し、この事を見習って、自身も北九州を舞台とした代表的な文学作品であった同作を取り上げた事と、文学界きっての偏屈者と噂された原作者の岩下俊作自身が浪曲ファンで浪曲化を承諾したといわれる。 11月に発売した作詞作曲の 「」がとなり、翌に特別賞を受賞。 「王将」のヒットで、以前出した「」「」なども相乗効果でヒット、人気を確立する。 、持病のの悪化で倒れ、一年間休業するも復帰。 1970年代に入ってからはヒットもなく一時低迷するも、演歌ブーム最中のに、有線放送から「夫婦春秋」(発売)がヒットし、相乗効果で(当時の)新曲「人生峠」、続いて「夫婦酒」をヒットさせ健在ぶりをアピールした。 また〜には、ラジオ番組『』でその豪快なキャラクターや逸話をネタとして取り上げられた事で若年層からの人気も獲得する。 、ともに同年代で同時期に活躍し、歌謡界をリードしてきた、と「三人の会」を結成、ジョイント・コンサートなどで活動した。 作風はデビューから一貫して『男』、『人生』、『夫婦』を題材に歌った曲が多い。 また『二階堂伸』、『北くすを』、『北くすお』、のペンネームで作詞、作曲もこなしている。 としてはの京都作品の少年浪曲師としての初出演を皮切に、まで等に多数出演。 身長160cmと小柄ながら、男らしい風貌と鍛え上げた声で1960年代後半は任侠映画に欠かせない主演スターとして活躍。 ・・・らと多数共演した。 持病の糖尿病が再び悪化した1991年以降も闘病生活を送りながらも「演歌が再び注目されるまで歌う」という執念から精力的に活動し、話題を集めた。 1993年 芸能生活60周年を記念し、『俺は村田だ!! 』を出版。 1997年 半生記『生命あってこそ』を出版。 芸能生活65周年記念パーティーを開く。 1999年11月13日 (現)の生家に石柱を建立、翌2000年10月18日に若宮八幡宮に生誕地記念碑が建立される。 2000年 石田須眞子と再婚(但し未入籍)。 闘病 [ ] 村田の人生は「との闘い」でもあった。 では大の野菜嫌いで、「太い声を出すには何より肉を食べることだ」として肉を多食した上、無類の酒好きであった。 こうした生活習慣が影響し、35歳で発症。 発症から約8年後のからにかけて病状悪化のため一時入院。 その後、長年連れ添った妻・ユイ子が死去。 その3日前には「三人の会」の仲間で公私共に親しかった先輩歌手のも死去したことで、心労が重なり再び病状が悪化、見かねた周囲の関係者からの勧めで妻の葬儀終了後に治療のため入院。 退院後は後見人 『全国村田英雄後援会』幹部 と「大阪のお母さん」と呼んでいた長年の愛人(本妻も生前「この人ならば」と半ば公認していた)石田須眞子(2009年11月1日、78歳没)が住むに身を寄せ、ここを本拠地とし、仕事のある際だけ上京する生活を続ける。 また同地で村田の闘病生活の支えとなっていた須眞子と「男としてけじめをつける」と再婚(2000年5月発表)。 結婚式も挙げ、合計140歳の高齢婚と大いに話題となった。 体調管理を行い小康を得ていたが頃より糖尿病のが深刻となり、体も痩せてしまった。 その頃も無理を押して当時村田の物真似を度々披露していたのために、 フジテレビ放送 のご本人登場で皆の衆を歌唱をするなどステージに立ち続けていたが、同年8月には、欝血性で一時意識不明に陥る。 翌1996年1月には「三人の会」の仲間・三橋美智也が亡くなり、「この前、私が倒れたとき真っ先に駆けつけて頂いたのが(三橋)先輩だった。 まさか先に逝かれるとは」と思いを語っている。 そうした心労が祟り、1996年2月手術のための入院中に倒れ、6時間におよぶを受けた(白内障の手術は回復した翌3月に受けた)。 さらに5月には右下肢で状態に陥り、右膝下12センチで。 このとき「一切無になりたかった」と剃髪(病の影響で90年代以降、を着用していた)。 以後は坊主頭にがトレードマークになった。 翌97年には公演への特別出演という形で全国公演を実施。 回復ぶりを示したものの、同年10月に発作(今まで呑んだことの無かった白を酒と思わずに大量摂取したためと本人が苦笑いしながら会見)を起こし、一時は生死すら危ぶまれた。 12月には糖尿病性網膜症のため左目を手術。 2000年1月には左足も同様に切断。 それまではで歩いていたが完全に生活となる。 さすがの村田も大きなショックを受けるも「足がなくても歌は歌える」と自ら鼓舞をするなど、ますますその存在感を示した。 2001年4月、同じ浪曲師出身で長年のと言われたも死去。 村田は「もっと歌って欲しかった。 非常に寂しい」「これで生き残ってるのは俺一人だけだな…」と憔悴しきった表情でインタビューに答えている。 同年6月に「私にはもう時間がない、生きているうちに何としてでも世に出さなければ」と、「三人の会」のコンサートで発表したオリジナル楽曲をレコード会社の垣根を越えてCD化にこぎつけた。 2002年5月に体調を崩し入院していたが、6月13日午前9時52分、合併症ののため、ので死去。 73歳没。 戒名は 「玉泉院英聲日楽大居士」(ぎょくせんいんえいしょうにちぎょうだいこじ)。 没後にを授与された(勲記は没日の2002年6月13日付)。 共演経験のあるが3日後に死去、ビートたけしは「村田さんの次は室田さんが…」と故人を悼んだ。 なお死去5日前の6月8日には、が訃報の誤報を一面に掲載。 その情報を受けてテレビ番組「」、、が同様に報道し、その後訂正・謝罪するという騒動が発生している。 記念館 [ ] 村田英雄記念館 5月23日に地元の有志により村田の業績を後世に伝えるため故郷の(現唐津市)に「村田英雄記念館」がオープンした。 旧・相知支店として使用されていた店舗を改装した館内では、遺品の展示や、の再現コーナー、出演映画や出演番組を放映する音響コーナーなどがあり、喫茶コーナーでは遺品のカップや食器をそのまま利用して提供しており、BGMのリクエストにも応えている。 年に1回「村田英雄音楽祭」、「生誕祭」(1月17日)が行われている。 にはも合同に「生誕祭」を行い、村田英雄を通して両市の交流が深まることとなった。 1月17日に地元の寄付を募り. JR相知駅構内に記念碑が建立される。 実父・広沢仙遊、実母・矢野ツタ子 生後、ツタ子の姉弟子の出利葉スミ子の養子になる。 その後、梶山春夫と結婚 妻 吉田伊万里(本名 野口ユイ子) 長男 裕司 長女 みどり 次男 達也 2000年 石田須眞子と再婚 但し未入籍 NHK紅白歌合戦出場歴 [ ] にはに初出場、73年の第24回紅白は糖尿病治療のため入院中だったため事前に出場辞退を表明。 70年代はヒットが出ず紅白でも過去のヒットを歌う形が長く続いていたが79年に12年前に発売した「夫婦春秋」が有線リクエストで人気を得て、それに相乗し当時の新曲「人生峠」が20万枚を超えるヒット。 続けて「夫婦酒」もヒットしレコード歌手の第一線に返り咲く。 1980年代に入っても、発売する曲はほとんどランキングにチャートインするなど根強い人気を見せ、までに通算27回の出場を果たした。 しかし、コロムビアに所属していた女性歌手がトリになることが多かった事情もあり、他の常連歌手と異なりコロムビアの村田は結局白組トリを一度も務めておらず、トリ未経験の歌手としては最多出場回数となっている。 ・、・、・では村田が白組トリの候補として挙がっていた。 対戦相手の歌手名の 内の数字はその歌手との対戦回数を表す。 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。 そもそもの発端は、に始まった『』内の「デカ頭コーナー」だった。 芸能界では有名な三波春夫とのエピソードから派生し、「村田先生の頭はデカい」という話になり、どの位デカいかのネタを投稿するコーナーが出来た。 「セーターを試着しようとしたら、頭が出なかった」等の「頭がデカい」ネタから徐々にトンチンカンな村田の言動や行動をネタにする内容に転じて行き、リスナーの間でブームになる。 その噂を聞きつけた村田本人からに電話があり、急遽番組に出演して行ったトークが好評で、任侠物のラジオドラマを作るなど、同番組に度々出演するようになる。 当時いわゆる「業界聴取率」が高かった同番組がテレビ番組などへも影響を与え、従来は出演しなかったや番組などへも出演の幅が広がり、「ムッチーブーム」と言われるまでになったものである。 代表的なネタ• のに「村田だ!! キー出せ!! 」と言った後、売店で「 村田だ!! 」と言った。 のディレクターに、「ずぶの素人」と言おうとして「バカ野郎! 俺は、 ブスの素人じゃねえんだぞ! 」と言った。 バーに行ったとき、キープを出してもらおうとして、「村田だ! ボルト出せ! 」と言った。 村田に乗っている車の名を尋ねると「」と言おうとして「俺のは…デラックスだ! 」と答えた。 飛行機に乗っている時、を通りかかり揺れた際に「2等なんか乗るから揺れるんだ」。 ステーキレストランでの焼き具合を聞かれて「」、「」と答えた(「ガスで焼け!」、「しっかり焼いてくれ!」とも)。 若手を説教していた時に「人という字はお互いに支え合って」と言いながら「入」と書いた。 舞台の上手・下手(かみて・しもて)を「じょうず・へた」と読んだ(後述)。 でをやり、の横一線に「みかんなんて貰ったってしょうがねえな」。 出されたに砂糖とミルクを大量に入れて「うーん、やっぱりコーヒーはブラックに限るな」と言った。 ラジオ番組にゲスト出演した際、ヒットチャートを見て「この と言う歌手はすごいですね、ベスト10に6曲も入ってる! 司会者から「この歌は村田さんの『十八番』(ここでは「おはこ」ではなく「じゅうはちばん」)ですね」と尋ねられ、「この歌は3番までしかないですよ。 そんなにある訳ないじゃないですか」と答えた。 に向かって「って奴は偉いじゃねえか。 俺の歌を作ってるぞ」と、を指しながら言った。 コーヒー専門店で注文の際、コーヒーの銘柄を聞かれ『』と答えた。 と間違えて唇にを塗っていた。 その他にも 「(朝食は)和食にしますか? 洋食にしますか? 」と聞かれ、 「バカ野郎!! 朝食だ。 」と答えたというものや、 力うどん(ちからうどん)を 「かうどんをくれ」と注文した、 ABCDEを 「ABCDヨ」と言った、など数多い逸話があるが、これらの大半は、たけし自身や、高田文夫らたけしのブレーン、或いは当時の、ラジオリスナーらが考えた作り話が広がったものである。 ビートたけしとが司会を務める系列の番組「」で、清水アキラと共演したことがある。 1983年、のゲストとして満を持して番組に登場、トーク中心の構成となったが、途中、紹介されるネタを怒るどころか、豪快に笑い飛ばしながら事実を解説し、「いやあ、たけちゃんや聴いてくれている皆さんが、こうしていじってくれるということは芸人冥利に尽きるよ!!! 」と終始嬉しそうに語っていた。 この事が機縁となり、後にビートたけしとテレビCM(サントリー「バイオミンX」)で共演を果たした。 CMは、バス停に姿のたけしとなぜかステージ衣装とメイクで書類封筒を持つ村田が並んでおり、村田がたけしに「お勤めですか? 」と尋ね、「役所関係に・・・ちょっと」答えるたけしにバイオミンXを勧める。 今度はたけしが「お勤めですか? 」と尋ねると、村田が「芸能関係に・・・ちょっと」と答える、というコント仕立てのもので、決め台詞は 「新しく新発売! 」というものだった。 ビートたけしが発した「村田だ! 」のフレーズは人気となり、が'86年頃から始めた村田のでさらに広く浸透した。 こうした人気を受け、1989年には村田自身がシングル『あゝ万次郎』のカップリングとして『俺が村田だ』という曲を収録している。 たけしがコメンテーターを務める『』(TBS)でも一時、オールナイトニッポン当時のネタを紹介していた。 2014年7月15日に放送された『』で高田文夫は、当時余りにもネタにされ過ぎたことに不満を感じた村田が若い衆に「自分の所に連れてこい」と命じて、たけしと高田を呼びつけ、説教した時の逸話を語っている。 この時村田は「いいか、たけちゃん。 いや、たけし。 お前はだ。 俺は歌手だ。 高田、お前はだ。 お互い仕事のが違うんだ。 俺のジャングル入って来るな。 」それを聞いた高田とたけしは「俺らじゃねえ」と小声で呟いた言う。 しかし、この話も作り話である可能性は高く、番組パーソナリティーのからは「それ本当なんですか? 」と突っ込まれているが、高田はあくまで「本当なんだって! 」と主張している。 三波春夫との仲 [ ] 村田と同じ出身の演歌歌手、とは互いに同士という位置付けであり歌番組での競演も多かった。 有名であった三波と村田の不仲説は実際のところ、周囲の関係者やマスコミ、世論が作り出した先入観と偏見に近いものがある。 村田は三波を先輩歌手として慕い、や食事を共にする仲だった。 「上手・下手事件」 など、半ば面白おかしく伝えられているが、実際はほぼ同時期にデビューした良きライバルとして互いに意識していた程度であり、というほどのものではなかった。 村田が1996年に右脚を切断した際、三波は励ましの電話をかけるなど、晩年まで親交は続いた。 村田は基本的に「男の」を的なまで一筋に歌い続けたが、三波は後年、自分の持ち歌にやを融合させるなど的な新しいものにも挑戦しており、仕事に対する考え方や取り組む姿勢、そのスタイルは全く対照的だった。 その他 [ ] また作詞家でフランス文学者だったは当初、王将の作詞を拒み続けたという(を指したこともなかった)。 だが、村田が西條の自宅に何度も断られても足を運ぶことでついに了承した。 で『王将』を歌った際には、村田本人が3番の歌詞の『 何が何でも勝たねばならぬ』の一節を好んでいたこともあり、また『絶対に白組が勝つ』という心意気を込めて必ず1番と3番を歌ったという。 また、自ら作詞・作曲を手掛けた曲もあり、作品の中で『二階堂伸』(作詞者名義)、『北くすお』(作曲者名義)というペンネームを用いていた。 東映任侠映画を中心に映画出演が続いたため、「村田は歌をやめたのか」と皮肉られ、その後は一切出演しなかった。 女に手を出すのが早かったという。 テレビ番組『』で女千人斬りの伝説を認めた。 番組内で「千人ぐらいは斬ってるだろうな」と述べている。 若き日は『ハヤブサのヒデ』と呼ばれたという。 作品 [ ] 日本コロムビア在籍時代の歌 [ ] -• 作詞:吉野夫二郎 作曲: - デビュー曲だが、 〈度胸千両入り〉ではないオリジナル版はあまり知られていない。 作詞: 作曲:古賀政男 - 小説「」の原作者であるゆかりのでは第2となっている。 校歌版は歌詞が5番まで存在する。 もともとはの曲であったが、楠木繁夫は早世したため知名度が低く、今では村田がオリジナル歌手だと認識されがちである。 2月 日本よいとこ• 12月 お染半九郎• 3月 竜馬の恋• 7月 流転街道• 7月 山にかかる夕日• 11月 作詞:西條八十 作曲:船村徹 - 当時としては破格の売り上げ150万枚を記録した。 戦後初の曲という説がある(一方ではの「」説もある)。 この曲が村田の人気を不動のものにした。 最終的には300万枚の売り上げ。 不明 作詞:折小野良一 作曲:権藤円立・並岡龍司 - の民謡「ばんば踊り」を現代風にアレンジした「新ばんば踊り」を、村田が歌ったもの。 作詞の折小野は当時の延岡市長。 日本コロムビア『ふる里の民謡』等に収録されている「ばんば踊り」は、村田の歌唱によるもの。 2019年3月より、JRの駅メロとなっている。 6月 白鷺の城 作詞:星野哲郎 作曲:• 9月 作詞:二階堂伸 作曲:北くすお - ドラマ「村田英雄の花と龍」主題歌。 8月 宮本武蔵 作詞:有吉伸 作曲:古賀政男• 8月 鶺鴒の舞 作詞:南葉二 作曲:古賀政男• 9月 柔道水滸伝 作詞:関沢新一 作曲:安藤実親 - フジ系TVドラマ「柔道水滸伝」主題歌。 4月 独航船の男 作詞:西沢爽 作曲:船村徹• 6月 祝い節 作詞:大矢弘子 作曲: - NHK「きょうのうた」用に作成された。 8月 銭形おどり 作詞:石本美由起 作曲:市川昭介 - 香川県観音寺市「銭形まつり」用に作成された。 4月 「 男の城」 作詞:関沢新一 作曲:市川昭介• 7月 「 夫婦春秋」 作詞:関沢新一 作曲:市川昭介 - 歌手生活10周年記念曲。 1979年頃にでヒットし、52位。 オリコンで約17万枚の売り上げ。 同年に特別賞受賞。 最終的に市川昭介6作目のミリオンセラーとなる。 10月 「 浪花の勝負師」 作詞:三浦康照 作曲:• 1月 「 捨てて勝つ」 作詞:赤城慧 作曲:山本丈晴• 1月 「 太陽に祈ろう」 作詞:赤城慧 作曲:山本丈晴 - 「歌謡」を思わせるアレンジで、村田作品としては異色作である。 には『村田英雄おはこ集』のボーナストラックとして初CD化。 8月 「 竜馬がゆく」 作詞:赤城慧 作曲:土橋啓二 - 原作「」より。 5月 「 闘魂」 作詞: 作曲: 東芝EMI在籍時代の歌 [ ] -• 1971年• 7月 真田十勇士の歌 - 「」主題歌。 5月 新田節• 1991年に録音された。 三人の会のライブ作品• 哀愁 作詞:村田英雄 作曲:三橋美智也 歌:村田英雄、春日八郎、三橋美智也 - より発売。 男のふるさと 作詞:村田英雄 作曲:三橋美智也 歌:村田英雄、春日八郎、三橋美智也 - より発売。 出演 [ ] 映画 [ ]• () 配役:茶坊主• 後藤又兵衛 乳呑三千石 () 配役:少年浪曲師• 旗本退屈男 謎の七色御殿 1961年 (東映) 配役:民吉• 恋しぐれ・秩父の夜祭 1961年 (大映) 配役:信次• 新・人生劇場 1961年 (大映) 配役:村上• 仲よし音頭・日本一だよ 1962年 (大映) 配役:村田英雄• 1962年 (東映) 配役:榊原• 1963年 (東映) 配役:大村竜作• 浅草の侠客 1963年 (東映) 配役:雷門千吉• 関東遊侠伝 1963年 () 配役:村田親分• 1963年 () 配役:寺兼• 男の嵐 1963年 () 配役:乱菊松二郎• 1963年 (東映) 配役:村尾• 東海遊侠伝 1964年 (日活) 配役:村田• 任侠男一匹 1965年 (東映) 配役:阿波登喜蔵• 関東流れ者 1965年 (東映) 配役:高島伯太郎• 日本侠客伝 浪花編 1965年 (東映) 配役:和田島義雄• 関東やくざ者 1965年 (東映) 配役:高島伯太郎• 1966年 (東映) 配役:鳴子治三郎• 1966年 (東映) 配役:藤ヶ谷初太郎• 男の勝負 1966年 (東映) 配役:藤岡重助• 北海遊侠伝 1967年 (東映) 配役:立花伊之助• 兄弟仁義 関東命知らず 1967年• 兄弟仁義 関東兄貴分 1967年• さくら盃 義兄弟• さくら盃 仁義 1969年• 関東義兄弟 1970年• 関東兄弟仁義 任侠 1971年• () 配役:審判係町田• 1974年 (東宝) 配役:田中 ラジオ [ ]• 『ラジオ連続浪曲』 テレビ [ ]• (系)• (日本テレビ系) テレビドラマ [ ]• 村田英雄の(系)1964年10月25日から1965年1月17日まで全13回。 第501話「勝負」(1971年) - 政吉 役• 第734話「絶望を越えて」(1975年) CM [ ]• むぎ焼酎『玄海』(現在はが発売)• 大蔵住宅(福岡県ローカル)• 家庭用ファクシミリ• バイオミンX(ビートたけしと共演。 (つゆ) 関連人物 [ ]• 実父が村田英雄のファンだったことから、 英雄と付けられた。 元・浪曲師という共通の出自から互いにライバルという位置付けであった。 三人の会のメンバー、芸歴はトータルすると村田の方が長いが、レコード歌手として先にデビューし、年長という事で二人を兄事していた。 新栄プロの後輩。 兄弟仁義シリーズ等で共演。 村田のことを最も慕っていたひとり。 東映仁侠映画で多数競演。 ムッチーブームに火を付けた。 「無法松の一生」を伝授され、『 無法松の一生』を歌う。 脚註 [ ] []• 「証言 十五ビルで遺体搬出」『火の雨が降った 6・19福岡大空襲』福岡空襲を記録する会 1986年 P. 95-96• 2002年6月13日. の2002年10月18日時点におけるアーカイブ。 2014年4月14日閲覧。 2002年6月13日. の2002年10月16日時点におけるアーカイブ。 2014年4月14日閲覧。 当時同じレコード会社の歌手同士がトリをつとめることは暗黙のタブーとされていた。 村田が白組トリを取れなかった経緯の詳細については、『』の項を参照。 この撮影中にも村田が付き人に「おい! 喉乾いたから、買ってこい! 」と叫び、撮影スタッフがひっくり返った・・・との、嘘とも本当ともつかないエピソードが紹介されている。 村田と三波春夫が舞台で共演した際、台本に「三波上手(かみて)、村田下手(しもて)」と、立ち位置について書いてあり、村田が「何で三波が上手(じょうず)で俺が下手(へた)なんだ! 」と激怒したという逸話。 その真偽の程は不明。 『ドキュメンタリー紅白歌合戦 あの時あの歌』(日本放送協会出版刊 1984年)より 外部リンク [ ]• - (英語)• 2013年7月1日時点のよりアーカイブ。 2014年5月4日閲覧。

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村田英雄

この人の糖尿病との関わりをちょっと調べてみた。 村田英雄は1929年(昭和4年)に生まれた。 もしも村田英雄がまだ生きているとしたら、今年で87歳になるはずだ。 男性で87歳でまだ存命の人はたくさんいる。 彼が食生活に気をつけていたならば、もう少し長生きをしていただろう。 しかし、彼の生活は貧乏な中から這い上がってきただけあって、生き方も荒々しくて、節制を中心とした生活はできなかった。 戦後の日本の歌謡を支えてきた歌手の一人として、村田英雄があげられる。 彼の歌は私がもの心ついた頃からラジオやテレビでよく聞こえてきた。 『無法松の一生』で歌手デビューをはたしたのであるが、それ以降も『王将』『人生劇場』などの曲がも大ヒットして、ますます知名度は高まる。 無法松と村田英雄が何となく重なるような気もする。 無法松は小説の主人公であり、無頼の生き方をしたのだ。 無法松は大酒飲みである。 『無法松の一生』は村田英雄以外の歌手では歌えなかった曲のような気がする。 さて、村田英雄は野菜は食べずにもっぱら肉を中心に食事をして、また大酒飲みであったのだ。 (私の知人だが、その人は毎日夕方は外食で一日平均5000円ほど使っていた。 酒もたらふく飲んでいた。 その人は50歳ぐらいで、黄疸や糖尿病の症状が現れ、医者から酒を禁止された。 彼はそれに素直に従い、その結果まだ生きている。 そんな人もいる。 ) 1964年、村田英雄が35歳の時だが、糖尿病を発症した。 その後は彼の人生は「糖尿病との闘い」であったと言われている。 彼は、「太い声を出すには何より肉を食べることだ」と信じて、肉をたくさん食べたのだ。 彼は、当時の金額で酒場で一晩1,000万円使ったなどの噂が流れていた。 いくら稼いでも常に借金まみれであった。 (まさしく、無頼としての生き方である。 でも、何となく私はあこがれたりもする。 ) 1973年、村田英雄が44歳の時に、糖尿病が悪化して歌えなくなり、一年間ほど休業したが一応は復帰して再び歌うようになる。 1995年に、村田英雄は65歳の時に、心筋梗塞(うっ血性心不全)で緊急入院する。 糖尿病の合併症でもある白内障の手術や心臓のバイパス手術と続いた。 (糖尿病もある程度の状態に進めば目も悪化するようだ。 私の母も糖尿病で苦しんだが、医者から網膜の毛細血管が出血していると言われた。 母は視力が低下したが、失明にまで至ることはなかった。 ) 1996年5月(66歳の時):右足に壊疽を起こし膝下12センチで切断する。 動脈硬化症によって血流が遮断されると、その部分から先は壊死を起こすので切断するしか方法はなくなるようだ。 2000年1月 71歳の時 :左足も同様に切断をする。 それまでは義足で歩いていたが、それ以降は完全に車椅子生活となる。 車椅子でステージに上がり「足は無くても歌は歌えるんだ」と言って歌い続けた。 2002年6月(73歳の時):合併症の肺炎のため、大阪市都島区の大阪市立総合医療センターで死去する。 自分は軽い糖尿病、正常との境界線上だと言われている。 医者からは歩くこと、腹八分にすること、とのアドバイスを受けている。 自分は村田英雄のように大金を持っていないので、大酒も美食も無縁な話である。 金のないのが幸いして、さほど糖尿病が悪化していないようだ。 村田英雄も歌手としてあんなに大成功を収めなければ、慎ましく生きて、まだ存命だったかもしれない。

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追悼の森/村田英雄さん死去

村田英雄

昭和8年 京山茶目丸を名乗って初舞台を踏む。 昭和17年 浪曲師・酒井雲坊としてデビュー。 師匠は酒井雲 昭和29年 第6回読売賞新作浪曲競演会で優勝。 これをきっかけに村田英雄に改名。 昭和33年 8月、「無法松の一生/度胸千両」で歌謡界デビュー。 昭和36年 11月、「王将」を発売。 空前のヒットを記録し、戦後初のミリオンセラーとなる。 この「王将」のヒットで、以前に発表した「無法松の一生」、「度胸千両」、「人生劇場」なども注目を集める。 以後、「柔道一代」「男の土俵」「皆の衆」「花と竜」「夫婦春秋」などのヒット曲を多数放つ。 昭和46年 東芝レコード 現:ユニバーサル ミュージック に移籍。 平成14年 6月13日、73歳にて死去。 村田英雄 ヒストリー 村田英雄は本名を梶山勇といい、昭和4年1月17日、福岡県浮羽郡吉井町 現:うきは市 に生まれた。 生後まもなく、浪曲師の浪花綱若、曲師の出利羽スミ子夫妻の養子となって佐賀県・相知へ移住。 その頃から茶目丸と名乗って両親と一緒に樺太や朝鮮にまで巡業に廻った。 昭和11年に浪曲師・酒井雲に弟子入りし、昭和17年、13歳の時に酒井雲坊となる。 日本が敗戦し、占領下、義理や人情という日本固有の価値観が否定されて浪曲が衰退する中も盛んに浪曲を演じ続け、昭和29年には新作浪曲コンクールで優勝。 これをきっかけに村田英雄への改名披露公演を行い、浪曲師・村田英雄は名実ともにスターとなる。 そんな折、歌謡界の重鎮・古賀政男から歌謡界デビューの話を持ちかけられ、昭和33年8月に「無法松の一生」で歌謡界デビュー。 「度胸千両」はこのB面曲だった。 現在は「無法松の一生〜度胸千両入り〜」として歌われることが多いこの2曲だが、発売当初は全く別々の曲で、まとめて歌われるようになったのは後のこと。 こうして華やかにデビューを飾った村田だが、「無法松の一生」はヒットしなかった。 そんな村田が花開いたのは、昭和36年11月に発表した、西條八十作詩、船村徹作曲の「王将」だった。 これが空前のヒットを記録、戦後初のミリオンセラーとなった。 この「王将」のヒットで、以前に発表した「無法松の一生」、「度胸千両」、「人生劇場」なども注目を集め、それぞれ発売から約3年の月日を経ての大ヒット曲となり、歌手・村田英雄の地位を不動のものにした。 村田のヒット曲の1つとして知られている「夫婦春秋」は、昭和42年に発売された曲だが、発売から10年以上経った昭和50年代半ば、カラオケブームに乗ってヒットした曲である。 平成3年に愛妻のユイ子さんを亡くして体調を崩すまで、発表する曲は常にチャートインするなど、息の長い熟年パワーを力強く見せてくれた。 その後、長年の持病であった糖尿病からくる壊疽のために足を切断し、不自由な体となっても村田は決して歌うことをやめなかった。 息の長い歌を、息の長い歌手として歌い続けてくれるだろうと期待していたが、平成14年6月13日、男・村田の「人生劇場」は73年の幕を下ろした。

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