死にたい言わない主義の。 何をしても報われない人生、消えたい、死にたい

新婚アラフィフ。結婚ってこんなもの?死にたい。

死にたい言わない主義の

いつもご覧いただきましてありがとうございます。 突然ですが、質問です。 毎日を過ごしていく中であなたは楽しくて楽しくてたまりませんか? もしそうなら相当あなたは幸せ者でしょう。 それは非常に喜ばしいことです。 一方で、毎日を過ごしていく中で「死にたい」「消えたい」と思うことがありますか? もしそうならそれは辛いですね。 ちなみに惜しみもなくいうと、私は後者です。 そんなことを思ってるのは私だけか?というそうではないかもしれません。 そこで、私は長らく「死にたい」「消えたい」と思ってしまった時にどうすべきかを考えてきました。 そして、何かしら同じ考えを持つ人の力になれればと考えてきました。 考える中でいろいろとわかってくることがあるもので世の中一般に正しいとされている対処法こそおかしいのです。 今日は、「死にたい」「消えたい」で苦しんでいる人にぜひとも聞いて欲しいお話を書かせていただきました。 Contents• 友達に話す• 旅行をする• 好きなものを食べる などなど。 まあこういったもので解消されれば問題ないですよね。 ただ、「死にたい」「消えたい」と思い詰める人は上に書いたような段階で解消できる人はそう多くありません。 そこで、 どのように対処するのかなのですが、最近はやりの方法があるのです。 それは 「心理学」に助けを求めるというものです。 これは心理学の本を読むというパターンもありますが、他にもカウンセリングを受けたり、自己啓発書を読んだりといった少し姿を変えた形でも現れます。 共通点は自らの内面を見つめ直し、自らを世界に合うように変更するというものです。 このような形で生きていく方法を支援する本というのは世の中にたくさん出回っています。 本屋に行くと心理学や自己啓発と呼ばれるジャンルがバカ売れしているようで、出版不況でありながら何万部何十万と売れる本も少なくありません。 例えば、アドラー心理学でおなじみ『嫌われる勇気』だったり、コーヴィーの『7つの習慣』だったりが有名でしょうか。 日本人でいうと本田健さんや千田拓哉さん、堀江貴文さんなどが有名です。 さて、これらは大人気であるということを承知の上で申し上げるのはなんとも勇気がいるものですが、読むべきではありません。 特に「死にたい」「消えたい」とまではいかなくても精神的に弱っている人ほど心理学の本は読むべきではありません。 その理由については私がハンナ・アレント『政治約束』という名著の中でも下記の有名な一節を紹介させてください。 現代心理学は砂漠の心理学である。 私たちから判断能力・・・が失われた時、私たちは、もし砂漠の生活という状況下で生きて行けないとしたら、それは私たち自身に何か問題があるからなのではないかと考え始める。 心理学は私たちを「救済」しようとするのだろうが、それは心理学が、私たちがそうした情況に「順応」する手助けをして、私たちの唯一の希望を、つまり砂漠に生きてはいるが砂漠の民ではない私たちが砂漠を人間的な世界に変えることができるという希望を、奪い去ってしまうということを意味しているのだ。 心理学は全てをあべこべにしてしまう。 私たちは未だに人間であり、未だに損なわれていないのである。 危険なのは砂漠の本当の住人になることであり、その中で居心地よく感じることである。 『政治の約束』ハンナ・アレント(2008)筑摩書房 p233 ここでは何が書かれているのか?ということを少し補足します。 アーレントによれば、現代社会とは見渡す限り一面、道標のない砂漠のような世界であるとのことです。 彼女の言う砂漠とは何を意味しているのか? これは彼女の代表作である『全体主義の起源』と私の推測も踏まえた解釈ですが、宗教、ギルド、農村といった既存の中間組織の崩壊の結果、人々は何も寄る辺とすることができない孤立した世界に放り込まれたということを意味しています。 そんな何も信じられない状況に追い込まれた個人が何をするのかというと心理学に助けを求めると彼女は述べているんですね。 確かに、心理学は苦しむ我々に手を差し伸べてくれるかのように見えます。 しかしながら、これを手に取ることが、我々をその砂漠で安住することに導いてしまうということを彼女は嘆いているのです。 つまり、決してその砂漠を緑豊かな世界に変えようという発想は生まれてこなくなるのです。 実は、私は心理学や自己啓発の類が数年前まではとても好きで一週間に一冊は読んでいたくらいのハマりようでした。 これを読めば自分が強くなるとかこれを読めば自分は変われるとか根拠なきオプティミズムに浸っていたのです。 しかしながら、アーレントの『政治の約束』という本の中にある先の一節は私の考えを180度変えました。 この本を貫徹する考えというのは「我々がおかしいのではないか」という哲学が時として我々自体を滅ぼしかねないという主張です。 確かに『嫌われる勇気』は「死にたい」と思うあなたに勇気をもたらすかもしれません。 確かにホリエモンの本は「消えたい」と思うあなたに勇気をもたらすかもしれません。 しかしながら、その行為自体が「自分自体がおかしい」という認識を決定的にしてしまい自己破壊に繋がってしまう可能性が極めて高いのです。 すなわち、私たちの目下の不安の真ん中に人間を据えて、不安の種が取り除かれる前に人間は変えられねばならないいと持ちかけるいかなる回答も、深い意味で非政治的であるということだ。 なぜなら政治の中心にあるのは、人間ではなく、世界に対する気遣いだからである。 『政治の約束』ハンナ・アレント(2008)筑摩書房 p137 アーレントは哲学ではなく「政治」を取り戻せと述べています。 この「政治」という言葉はどういう意味でしょうか? アーレントの述べる「政治」は一般にイメージされる国会の風景などとは少し異なります。 アーレントにとってはもっと「政治」というのは我々にとって身近なものです。 これをあまり単純化するのがいいとは思いませんが、 「他者との利害調整」「他者との交わり」という意味で理解いただくのが良いかもしれません。 自らの内面を見つめて勝手に自らを改変するのではなく、「他者との利害調整」を通して、自らを修正したり、自らを尊重したりせよということですね。 アーレントが面白いのは彼女が「哲学」という時、その言葉は一人で考えにふける人間像を決して描かないことが特徴的です。 彼女は、哲学を「ポリス」(集会)に求めました。 だから彼女はソクラテスにこだわったとも言えるのですが、アーレントがもし「死にたい」「消えたい」と思っている人に一言言うとしたらおそらく「他者との欺瞞なき対話の場に繰り出してはどうか」というものだと個人的には思います。 自らの困難の克服というのは自分の内面の分析や自ら自体の変更によってなし得ることは不可能であるということは彼女の師範であるカール・ヤスパースも述べたところです。 心理学的・論理学的・形而上学的な言表は常に同時に逸脱の可能性を示している。 そこに使用される普遍性はかかるものとして分離してしまっていることがあるーこの場合には実存解明は成功しない。 「死にたい」「消えたい」と考えてしまう時、今感じている苦痛の克服を我々はともすれば自らの内面分析や自ら自体の変更によって成し得ようとしがちです。 しかしながら、それは極めて安易であるだけでなく時として砂漠の中で生きるという宣言となってしまう可能性があるのです。 結果的にあなた自身を滅ぼす引き金となる。 心理学はあなたを救うどころかあなたにとどめを差しかねない、、、そのことをぜひ知っておいてもらえればと思います。 では「死にたい」「消えたい」と感じる人はどうすればいいのか? それは「政治」の世界へ行くかもしくはないならば自分でその「政治」の世界を作り出すということがアーレントの助言です。 アーレントのいう「政治」とは「他者との利害調整」「他者との交わり」を意味するということを書かせていただきました。 補足するとこの考えの根底には「自己」は「自己」に依ってのみ作られるのではなく、「他者」の存在があって初めて作られるという近代哲学を乗り越えたものが存在します。 心理学は「自己」を「自己」に依って変えるという世界観から逃れられなかった。。。 そのことを心理学を知る上で知っておくべきことかもしれません。 そして安易な解決策として選びがちであるということを心に留めていただけると幸いです。 軽いな。 この世で最も重要、命より大事なものは金。 金がなければ死ぬしかない。 母親の介護で無尽蔵に減る金。 借金も100万に達した。 年収600万、何も抱えていなければそこそこ普通の暮らしができるばずの収入。 でも、母親は年金を払ってた期間と未払いの期間があり障害者年金を受け取れない為、無収入。 全て自分の稼ぎから出さねばならない。 いや、介護費用と生活費では収入では全く足りない。 自分の稼ぎでは生活保護を受けることも不可能。 仕事を続けるには母親をデイサービスに預託する必要があるが、そのデイサービス代だけで家賃とほぼ同額の出費。 光熱費、食費を含めたらもう完全に借金しか生きる道はない。 同世代、余計な介護を抱えていない者は幸せに暮らしている。 結婚している者もいる。 独身でも趣味を謳歌している者もいる。 自分は趣味の釣りすらろくに出来ない。 父親は不倫して消えた。 両親は財産どころか介護と言う負債だけを自分に与えてくれた。 何とか母親を看取ってから自殺しようと思っていたが、金銭的な問題でそれもままならなくなってきた。 金がなければ死ぬしかない。 心中するか、自分だけ死ぬか。 死後の世界だとか、仏様だとかそういう下らないモノは一切信用していない。 母がクモ膜下出血で倒れた時、一命を取り留めてしまったが重度の障害。 親戚からは母親が助かったのは、亡くなったおじいちゃんが助けてくれた云々言われたが、助けてくれるなら最初からクモ膜下出血なんて起こさせるなと言う話。 つまり、仏様もクソも無い。 あるのは自分がこの家に生まれてしまった不運のみ。 もう死ぬしかない。 初めまして、福島直人と申します。 全く同感です。 どうしてこうも同じ人間なのに、境遇に差があるのか、特にアベノミクスか何か知りませんが、様々なこの身に降りかかってくる災難のために、本人には何の落ち度もないのに、「自死」(僕は「自殺」とは言いません。 自ら死を選択するのも、憲法で定められている「生存権」の裏返しで、自ら「死」を選択するのも人権の一つだと考えています。 ですから「自殺」は自分という人を殺すのではなく、「死」を選択することです。 )に追い込まれる。 そんな人が後を絶たない。 その一方で、その人の努力ではないのに、例えば「棚から牡丹餅」のように、たまたま持っていた、株が価格が急上昇し、使い道に困って、よくわかりもせず「ポルシェ」を乗り回す輩が自宅の近くの青梅街道をほぼ毎日1度は、見かけます。 運転手を見ていると、何の変哲もない我々と同じ人間です。 ちなみにポルシェというのは、ドイツ人の自動車エンジンのデザイナーで、第2次世界大戦中、ナチス・ドイツが世界に誇った重戦車ティガーのエンジンを設計した、札付きの人物です。 たぶんそんなことも知らず「ポルシェ」の価値も知らず、乗り回しているのでしょう。 これで日本の景気が良くなるとは思えません。 お金は、それをたくさん持っている人のところに集まります。 持ってない人のところからはどんどん離れていく気がします。 これが現代の「ギャンブル資本主義」の特徴です。 自分の生き方は、自分で決めて全く構わないと思います。 僕は、「自死」を考えますが、一方で「失踪」も考えています。 すべての人間関係を一度断ち切り、生まれ変わったつもりで、与えられた家族とかではなくもう一度、新しい人間関係から始めたい。 また、お話ししましょう。 生きていたら。 憲法第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。 金無くて苦しくて死にそうなのは明らかに健康じゃないし、自分の時間も持てないなら文化的じゃないし、最低限の生活も維持できてない。 生活保護通らないなんて、憲法違反の可能性ありだよ。 国は国民の生活の向上増進を怠ってるよ。 自分も家族問題で精神的に振り回されてきたから思うけど、人間て平等じゃないよね。 平等は大事な理念だが、現実は人種や性別がある時点で幻想。 日本て変な自己責任論がまかり通って特に冷たいよね。 弱者や不運な人への共感力、想像力がないというか。 オリンピックとかにおもてなししてる間に助け合いはないがしろ。 変にみんな同じ教育受けたせいか、逆に他者への共感性、同情というものがない。 紛争戦争なくて平和が当たり前。 人間関係みんな辛いのは同じ、それが普通。 普通なのが当たり前。 少数派はあくまで変わってて特殊なのであって、理解はできないし、認めようともしない。 辛いのは何となくわかるけど、どうにもできないし、暇ないし。 精神科行けば?みたいな あと関係ないし、どうでもいいだろうけど、仏様の概念は後世の人物が釈迦の説いたものを曲解した言わば捏造みたいなもんです。 新興宗教に惑わされないように。 釈迦はあくまで現実主義者です。 煩悩を否定してません。 仏様とか言って崇めてる人はその時点でもはや釈迦の教えから逸脱してる。 釈迦は神格とか何かにすがるとか念仏お経も逆にやめなさいと言ってる。 釈迦は瞑想により煩悩をコントロールしようと言ってるのだと思う。 『私の指してる指を見るな。 指してる先を見よ』 お経を唱えるだけで救われるなんてもはやビジネス。 お布施、葬式代、法事費用、墓石代などのための墓場利権です。 釈迦は弟子たちに方便を使えと言ってる。 その時代、地域、年令、男女など、一人一人に合わせて口語で説けと。 だから何千年も前の、ある一つの言語を、そこからまた漢語にした言葉が書いてあるお経を唱えることには意味がない。 と、いいながらも全く否定もしずらい。 それを信じることで、それで救われているのなら全くもって悪いことじゃないとも思う。 信じれるものがあることは羨ましいくらいだ。 ただ言っておきたいのは、本当の仏教は宗教ではなく、どちらかというと哲学に近いもの。 いずれにしろ徹底的に考えまくること、自己研鑽、そして実践、失敗試行錯誤の繰り返ししかないのかな。 金があれば幸せだと、コメントで書かれている方がいますが、金があっても、精神が安定した生活を送れるとは限らないと思います。 私の実家は、裕福な家庭でしたが家庭は荒んでおり、恐怖と不安渦巻く、収容所の様な場所で子供ながらに死にたいと思ったことがありました。 さながら、スターリン時代のソ連でした。 一体全体母は、どうしてこんなに心に余裕がないのだろう。 高い外車や、高い家を維持する為にストレスを溜め込み、子供を虐待し、何が幸せなんだろうと思ってました。 そして今、思うことはこの記事にもある通り、母は正に孤独だったのかもしれないということです。 政治に参加していなかったのです。 この記事にもありますが、他者とどうやって関わっていくか?他者との関わりで、どのように自我を保っていくか?がなかった。 他者 特に同性 は、蹴落としてでも勝ちにいき勝ち続ける、競争の対象でしかないと言った感じです。 疑い深く、嫉妬深く、闘争的、そんな母でした。 食っていけるだけの金は、勿論いります。 しかし、沢山のお金よりも、他者との関わりによって得られる、ありがとう の言葉の方が遥かに重みがあると私は感じます。

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「死にたい」と打ち明けられたら 僧侶が語る寄り添い方:朝日新聞デジタル

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部屋が多少散らかったり、汚れたりは全然平気なんですが、やると決めたこと、メモした事、運動会や発表会の撮影、子供たちに行きたいと言われた所は本人達がもう忘れていても行かないと私の中で終われなくてモヤモヤする、店で気になった服は手に入れるまで頭から離れず落ち着かない、もし売りきれていたら同じ物を探し出してまで買う、他人にイヤミを言われたり嫌がらせを受けたら、その時の事を本人に指摘できるまで執拗に思い出す、とか、とにかく無数にあって、苦しくてたまりません。 他人からしたら、苦しいならやめたらいいじゃん、てことらしいのですが、やってしまうというか、やらないとスッキリしないんです。 同じような方いますか?• 少し違うけど、毎日掃除はしないといけない。 必ず全て片付けてから寝る。 潔癖症ではないのに。 決まりごとをたくさん自ら作って、何があっても実行。 掃除なんて毎日しなくても、自分を自分で追い込んでるって言われてた。 でも、今思うと私の場合は旦那が嫌でストレスがそこにいってたと思う。 数年後離婚してからそんなことがなくなりました。 掃除もできないときはしないし、 決まりごとがなくなりました。 たぶん、何か自分で気付かないストレスがあるのでは? 完璧にすることで満足を得ている感じが以前の私に似てる。 ストレス発散を違う形で見つけてみたらどうでしょう。 アロマもいいですよ。

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笑顔でない人は邪魔なので“消えましょう”【死にたい人必見の徹底講義】

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自殺の失敗体験談は探せば具体的な話が沢山見つかって読めるのに、成功体験談は本人が死んでいるせいで当然ながら本人が書いた具体的な話は読むことができない。 そのせいで実際にやらないと成功するか失敗するかがわからないのがつらい。 上手く苦しまず楽に死にたい。 の過剰摂取でしたい。 やヘロインの中毒から来る禁断症状はかなり苦しいと聞く。 なので一発で死ぬレベルの量を飲んで死にたい。 を合法化すれば自殺未遂の後遺症に悩まされたり植物人間になってしまうなんてことはまず起きなくなる。 それが一番人道的だと思うんだ。 ができないのにだとかだとか言っているこの社会は一体何なんだろう。 苦しんで生きて死ぬのが人道に基づいた人生なのだろうか。 自殺に失敗して地獄の苦しみを味わいたくないのでが欲しい。 でもどうせ認められるわけなんか無いし、いつ解禁されるかわからない物を待っていてもしょうがない。 何十年も待つのは耐え切れないので一番現実的な首吊りにかけるしかない。 一発で成功させたい。

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