団体名 練習日時 教場により異なります。 ホームページをご参照ください。 練習場所 教場により異なります。 ホームページをご参照ください。 必要なもの [入門時に用意していただく費用・物] 入門料:10,000円(参考書籍代が含まれております。 ) 稽古着・帯・袴:市販の物をご用意ください。 韜(ふくろしない):11,000円。 各教場にて申し受けております。 [定期的に発生する費用] 転会年会費:5,000円(毎年1月。 入門初年は免除。 ) 教場会費(毎月):教場により異なります。 連絡先 ホームページからご連絡ください。 宜しくお願いいたします。 新陰流兵法は、流祖上泉伊勢守信綱が戦国の世に創始した、日本の剣術を代表する流派です。 上泉伊勢守は、日本剣術の三大源流と呼ばれる念流・香取神道流・陰流を学び、特に陰流より「転(まろばし)の道」を抽出し新陰流として大成しました。 その後、新陰流第二世柳生石舟斎は新陰流を更に整備し、その子柳生宗矩が徳川将軍家師範となるに及び、新陰流の盛名は確固たるものとなりました。 新陰流はさらに、尾張藩に兵法師範として仕官し近代剣法への改革を成した三世柳生利厳以降、尾張柳生家によって伝えられ、柳生家最後の師範柳生厳長から、その補佐役を務めた渡辺忠敏へと継承されました。 そして現在では、新陰流兵法転会を発足させた渡辺忠成と、その子渡辺忠久が、流祖以来多くの先師が加味伝承させてきた新陰流の技法を完全な形で伝えております。 新陰流兵法転会は、新陰流兵法二十二世渡辺忠成師範・同二十三世渡辺忠久師範の指導のもと、日本武道の代表的存在である新陰流を技術的にも文化的にも完全な形で誤りなく継承していくことを第一の目的とし、新陰流兵法一門として活動しております。 令和2年1月現在、日本国内に18教場、海外では1教場と3か国の海外転会が活動しています。 各教場においては教場師範を中心とした指導陣の指導のもと、兵法の上達を目指し活気あふれる稽古を続けております。 定期的に、渡辺忠成師範・渡辺忠久師範による指導も行っています。 流儀の伝統、文化を守り伝えていくために、新陰流の弘流(ぐりゅう)・顕彰の活動にも励んでいます。 新陰流は太刀(カタ)の稽古が主体である上、韜(ふくろしない=割竹に革袋を被せたもの)を使用するため危険が少なく、年齢性別を問わず参加できます。 稽古は全くの基本から始めていきますので、武道・スポーツの経験は不要です。 希望者には、制剛流抜刀術、新陰流杖術(目録位以上)の稽古も併せ行っています。 当流の流儀名は、「新陰流」「新陰流兵法」が正式な名称です。 「柳生新陰流」は俗称に過ぎません。 当会では俗称は使用しておりません。 当会は、「新陰流」「新陰流兵法」および「制剛流抜刀術」「新陰流杖術」の商標登録を有して活動しております。
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海に浮かぶ物が海流や風に流されていく現象。 漂流物により植物分布が拡大していることはよく知られている。 また漂流物により海流の状況が明らかになることもある。 昔から難船漂流のは洋のを問わずきわめて多い。 漂流には学術上の目的で行ったものと,事故によるものがあり,では1947年が人類学上のを立証するため,〈コン・ティキ号〉と名づけたいかだで太平洋横断を決行した例 《コン・ティキ号探検記》 ,52年・ボンバールが海の魚とだけを食べ,とで渇きを,単身〈異端者号〉と名づけたゴムボートで大西洋横断漂流に成功した例 《実験漂流記》 ,日本では数次の漂流実験後,75年斎藤実が〈ヘノカッパII世号〉でから沖縄に向かって漂流実験した例 〈漂流実験〉 などが著名である。 出典 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について の解説 難船などによって、操縦不能の船上で、または浮遊物につかまり、海上をあてもなくさまようこと。 漂流によって陸上に達した場合には漂着であるが、そこが人間社会と隔絶した孤島などのときには、これも漂流に入れる場合もある。 [梶 龍雄] 漂流と文化交渉海上交通も未発達で、船による目的のある長い航行も不能であった時代には、民族の移動や文化の伝播 でんぱ には、漂流の果たした役割は大きかった。 日本民族の成立論などにある、南方系民族の混血説なども、黒潮に乗った漂流によるものである。 1947年ノルウェーの考古学者、人類学者ヘイエルダールが、南太平洋諸島先住民の南アメリカからの移動説証明のために、インカ時代の船をかたどったバルサ材の筏 いかだ コン・ティキ号で意図的に漂流したのも、このためである。 その後しだいに文明が発達していった近世に至っても、海を隔てた大陸間や国の間の交通は、かならずしも便利ではなかったから、偶発的な漂流が人類文化の歴史のうえで少なからず大きな役目をした。 イギリス人ウィリアム・アダムス(日本名・三浦按針 あんじん )が1600年(慶長5)難船によって日本に漂着し、鎖国政策の徳川幕府に仕えて、洋船建設技術や外交に貢献したり、また、逆に1841年(天保12)遭難後した中浜万次郎(ジョン・万次郎)や、1850年(嘉永3)漂流の浜田彦蔵(アメリカ彦蔵)のように、アメリカ船に救助されてアメリカに行き、英語や西欧の事情に通じて、帰国後は開国後の日本で、通辞として活躍したり、外交や文化啓蒙 けいもう に尽くしたりしたのも、その例である。 [梶 龍雄] 実話としての漂流大洋のただ中をさまよう漂流は、筏や漂流物につかまっての海上漂流はもちろん、船上の漂流でも、肉体、精神ともに困苦の極に追い詰められることが多いため、驚異的な話や、ときにかなり潤色された疑いのものもある。 漂流は浦島説話を生むことも多い。 1719年(享保4)遠州新居 あらい (現、静岡県湖西 こさい 市)の水夫12人は九十九里浜沖で暴風雨のため遭難漂流し、無人島に漂着して困苦の生活に耐え、仁三郎ほか3人がようやく故郷に帰りついたときには、21年が経過していた。 たった1人での水上漂流世界最高耐久記録は、中国人プーン・リームの133日と思われる。 1943年、彼の乗っていたイギリス輸送船が、南アフリカ、ケープタウン沖でドイツ潜水艦に撃沈された。 浮遊物で筏をつくり、わずかに拾い集めた道具類で雨水をため、針金を曲げて釣り針をつくって魚を釣り、困苦に耐えた彼が救われたのは、大西洋を横断したアマゾン河口沖であった。 しかしその際に、体重はわずか4キロ半しか減っていなかったという。 漂流船舶が救助されず乗員全部が死亡すれば幽霊船となる。 1926年(大正15)12月千葉県銚子 ちょうし 港を出港したマグロ漁船良栄丸は、翌年の秋に幽霊船としてバンクーバー沖で漂流中を発見された。 乗組員は全部白骨体となっていたが、残された航海日誌でその間の経過は判明した。 幽霊船のなかには、1913年チリ沖で発見されるまでに23年間も漂流していたイギリス船マールボロー号のような例もある。 同船は1890年1月マゼラン海峡で目撃されたのを最後に消息を絶ち、発見時には、船員の何人かの骨のほかは、航海日誌も発見できなかった。 漂流事件のなかで世界の大きな謎 なぞ の一つとされているのはイギリス船マリー・セレスト号の事件で、1872年ポルトガル沖を漂流中を発見されたときには、乗員全部の姿がまったくかき消えていたのに、船内はきれいに整頓されてなんの騒ぎの跡もみられなかった。 この解釈をめぐりいろいろの説が出されたが、まだ完全には解けていない。 [梶 龍雄] 漂流記録と文学漂流には奇異な話、冒険的な話、異国情緒に富んだ話が付きまとうので、漂流の体験を記録した漂流記は数多く残されている。 とくに日本の江戸時代の鎖国では、海外の文化や消息の流入は限られていたから、漂流者の体験は貴重なものであった。 伊勢 いせ の大黒屋光太夫 だいこくやこうだゆう の、北洋を漂流し、ロシアに保護されて帰国するまでの体験を、幕府の侍医桂川甫周 ほしゅう が記録した『北槎聞略 ほくさぶんりゃく 』(1794)、仙台藩の蘭学 らんがく 者大槻玄沢 おおつきげんたく が、津太夫らの漂流とロシアの風物見聞を記録した『環海異聞 かんかいいぶん 』(1807)などがそれである。 また、回船、長者丸で太平洋上を漂流し、アメリカ捕鯨船に救助され、ハワイ、ロシアを経て送還された次郎吉以下6人の船乗りの体験は、幕府の儒学者古賀謹一郎 こがきんいちろう によって記録され『蕃談 ばんだん 』(1849)となったが、同時に漂流民の故郷である富山藩の家臣遠藤高環 たかのり も、彼らの談話を記録して、『時規物語』(1850)を著した。 これらの記録には、漂流者自身の体験ばかりでなく、すでに海外の文化に対して目を開き始めた記録者自身が得た、さまざまな知識も交じり、近づく開国の気運の底流をつくったことも見逃せない。 漂流はまた限界状態における人間の本質性をつく深刻なテーマだけに、小説にもよく扱われる。 実在の人物アレクサンダ・セルカークの無人島漂流をヒントに書かれたというデフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)、漂流中の飢餓からよくおこるといわれる人肉食いを扱った野上弥生子 やえこ の『海神丸』(1922)、井伏鱒二 ますじ の前述の長者丸の漂流記録をヒントにした『漂民宇三郎』(1956)、大黒屋光太夫がテーマの井上靖 やすし の『おろしや国酔夢譚 すいむたん 』(1968)などがある。
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袁紹と結ぶ は皇帝を擁し、好きなように政治を行うと、各地の実力者たちは兵を出し合い董卓討伐軍を結成。 劉表も兵を率いて参加します。 この連合軍の盟主に名門袁家の当主が就任。 連合軍は董卓討伐に軍を進めますが、思うように進まず、結局何の成果を上げられず、解散してしまいます。 この時劉表は同じ名門である袁紹と同盟します。 しかし袁紹を嫌っていた袁術は劉表が袁紹と組んだことを知ります。 袁術は連合軍解散後、劉表を討伐するため自らの陣営に属していた孫堅を劉表討伐に向かわせます。 江東の虎・孫堅との戦い 劉表は荊州に戻るとすぐにから攻撃を受けます。 彼は黄祖(こうそ)に孫堅迎撃を命じますが、孫堅軍攻撃に敗れてしまいます。 劉表は黄祖が敗走して襄陽に戻ってくると「私はここで籠城するから、外から孫堅を攻撃せよ。 」と命じ、遊軍として出撃させます。 その後襄陽は孫堅軍の猛攻を受けますが、劉表は必死に耐え続けます。 遊軍として襄陽城外に居た黄祖は、兵を集め孫堅軍に攻撃を仕掛けますが、再度敗れ、襄陽近辺の山中へ逃走。 孫堅は黄祖軍へ猛追撃を行い、山中へ入っていきます。 この時孫堅は黄祖軍が放った流れ矢に当たって、亡くなってしまいます。 孫堅が亡くなった事で孫堅軍は軍をまとめ撤退し、襄陽の包囲は解かれる事になります。 荊州全域を手に入れる 劉表は孫堅を撃退した後、荊州全域で独立している小軍閥の討伐に向かいます。 劉表は小軍閥を一年間かけて討伐。 こうして荊州全域を手中に収め、10万以上の兵力を有する南の実力者として成長します。 内政に力を入れる 劉表が荊州全域を手に入れた頃、中原と言われる黄河流域は大いに乱れていました。 北は袁紹との対立。 南は曹操や袁術、陶謙らが熾烈な争いを行っていました。 劉表は中原の戦乱に参加せず、内政に力を入れます。 彼は教育を奨励し、学校を立てます。 また流民が出ないように田畑を耕す事で、肥沃な土地を作り上げ、各地から名士や流民が大勢やってきて、荊州は大いに栄える事になります。 中立が禍になる 曹操と袁紹はついに官渡で決戦を行います。 劉表は袁紹の味方に付いていたため、彼から曹操の本拠地を攻撃するよう要請が来ます。 しかし劉表はこの要請を受け、少しの兵を前線の新野に送り、南から曹操に圧力をかける事に終始して、実際に攻撃を行いませんでした。 劉表の中途半端な行動を見た家臣らは「袁紹と曹操が官渡で決戦を繰り広げております。 今こそ彼らの隙をついて北上すれば、易々と両雄に勝つことができるでしょう。 」と進言。 しかし劉表は彼らの進言を取り上げる事をせず、二人の戦いを静かに見守ります。 天下の大徳・劉玄徳の進言 袁紹の元に居て不遇の時間を過ごしてきた劉備は、袁紹の元から離れ劉表に保護を要請します。 彼は快く劉備を迎え入れ、新野を与えます。 劉表は劉備が困らないように色々と便宜を図り、何かあると劉備を呼び相談します。 こうして劉備を厚遇します。 ある日いつものように劉備を呼び、政治について相談しようとします。 この時劉備は劉表に「劉表様。 今曹操が北方の異民族である鳥桓族討伐に向かっており、本拠である許 きょ はがら空きです。 今こそ曹操を討伐する最大の好機です。 私に兵を貸してくれれば、許を必ず陥落させて見せます。 」と提案します。 しかしここの進言に対しても劉表は頷かず、苦笑いをします。 その後曹操が鳥桓族討伐に成功し戻ってくると、彼は劉備を呼び 「君の言う通り、曹操を攻めればよかった」と後悔を口にします。 劉表の最後 こうして劉表は20年間以上、荊州を統治して戦乱を招き入れず、平和な時間を出現させる事に成功します。 しかし中原の戦乱は曹操の手によって平定され、荊州にも戦乱が及ぶことになります。 曹操は北の袁紹の勢力を完全に駆逐すると、南に目を向け、荊州へ侵攻を開始。 劉表はこの時病にかかり、重病でした。 彼は後継者である劉琮 りゅうそう に決めますが、彼に曹操軍への対処などを指示せず、亡くなってしまいます。 その後劉琮は降伏し、新野に居た劉備は逃走。 劉琮が降伏した後荊州は、魏・蜀・呉の三国が激しい争いを行った事によって荒廃し、荊州を栄えさせた劉表の努力はすべて水の泡になってしまうのです。 三国志ライター黒田廉の独り言 正史「三国志」の作者陳寿は劉表をこのように評価しています。 「劉表は威厳のある風貌で名声も高く名を広く知られていた。 そのおかげで肥沃な土地を得る事に成功するが、疑い深く、有能な人材がいても使いこなせない。 このような人物がトップに立っていれば国が滅びても仕方がない。 」と酷評しています。 確かに劉備や家臣らの進言に従い、南から曹操を攻撃していれば、ほぼ間違いなく曹操は滅び、劉表が曹操に代わって天下第一の勢力を持っていたかもしれません。 そうすればかなり違った未来があったにも関わらず、袁紹と曹操の戦いを何もせず傍観した事が原因で、自分の領地を手放すことになってしまうのです。 非常に残念な劉氏一門の一人といえるでしょう。 関連記事: 関連記事: 『』.
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