星を掴む手 竜骨が折れれば船は沈む。 帆が破れようが舵が壊れようが人力でどうにかすることはできるが、軸がなくなるともうだめだった。 損傷を受けた竜骨は修復するか、もしくは新しい竜骨を持って組み直すことでしか船は元に戻らない。 その元に戻す作業だけで一隻買えてしまうから、竜骨がひどく損傷するということは、その船が廃船になるのと同義だった。 侍にとっての利き腕は、竜骨だったのだ。 高杉の言った通り果物すら剥けぬ手のひらは、刀を持つまでには到底届かない。 戦場に立つどころか日常生活まで怪しくなって、慣れない左手で汁椀の中身をこぼしながらずるずるとみっともなく食べた。 爆音と金属音と地鳴りとなにかの悲鳴とが風に乗ってやってくるのを、部屋の隅で怪我人の汗をぎこちなく拭いてやりながら聞いた。 坂本辰馬の戦は剣一本で片づくせこい戦ではないのだと、彼が言ってくれた言葉でさえ、曖昧に輪郭を崩して頭の隅で錆びていた。 「腐りそうじゃ」 「…なんだ、えらく弱気じゃねえか」 「弱気にもなるぜよ、…刀も持てん、それどころか箸も持てん、穀潰しにも程がある」 「てめえにそんなデリカシーがあったとはな」 「おまんにはわからんよ」 「どうだか」 笑って言われた言葉が意外で、坂本は伏せていた顔を上げた。 こちらに背を向けて縁側に座る高杉は、振り返ることなく一心に目の前の刀へと向き合っている。 「バカもいる手前ああ言ったがな」 「…高杉」 「倒れてんのが俺の部下だったら、俺だって同じことして腐ってたろうよ」 「…そげなこと」 「勝ち逃げもできるしな」 「…?」 「…忘れろ」 高杉の手によってうつくしく磨かれた刀は、その生き様をあらわすかのように月明かりを吸って輝いていた。 きん、と高い音を立てて鞘におさめられた高杉の愛刀は、明日もまた忙しなく主人の意に沿って首を刎ね飛ばすのだろう。 高杉が優しい男であることなんて、ここにいる全員が知っている。 可能性があるのなら必ず見捨てないところも、望まれて介錯をするときにできる限り笑ってやるところも、鬼総督の所業には程遠い。 「三郎が面白ェモン仕入れてきてな」 「なんじゃ、またカラクリか」 「人殺しのな」 振り向きざま投げられた黒い何かを左手で掴み損ね、がんと鼻頭に当たって悶絶する。 胡座をかいていたところに落ちたそれは、夜の中でも異様なほど黒々としていた。 手のひらよりも幾分か大きく、持ち手と筒とがついている。 「ピストルだってよ」 「…ピストル?」 「火縄銃の小型版だ。 火薬を詰める必要はねェ、弾の中に最初から入ってる。 引き金を引きゃァ自動で飛んでく小せェ大砲みてェなモンさ」 「…そりゃあ、おっかないのお」 「てめえにやるよ」 今度こそ開いた口が塞がらずピストルと高杉とを交互に見比べた。 立ち上がって刀を腰に差した高杉は、布団の上から動かない坂本を見下ろして嘲ることもせず、怒りも込めず、ただ淡々と「餞別だ」と続けた。 「てめえの身くれェてめえで護れ。 腐りたかねェなら捨てられるモンは捨ててけよ」 そう言って遠ざかってゆく足音を聞きながら、坂本は布団に倒れ込んだ。 煤と埃とで汚れた天井が目に入って、そのまま横に滑らせると藍の深い夜空が見える。 月と星とが平等に地を照らすのをぼんやり眺めて、左手でピストルを持ち上げる。 坂本が捨てることのできる荷物がいったいなんなのか、あの男はよくわかっている。 戦場暮らしでここまで分かり合えたことを喜ぶべきなのか、言わせた己の弱さを恥じるべきなのかわからない。 けれど、このままではだめだ。 包帯だらけの右腕を目の前にかざして目を閉じて、坂本は一度眠りについた。 いつかのやさしく力強い声が、繰り返し胸の中で反響した。 「のう辰馬、アレが北極星じゃ」 「ホッキョク?」 「おう、いっちばん明るい星ぜよ。 こがあに暗い日でもわかる、あそこを目指して歩きゃ大丈夫なんじゃ」 「あそこは寒いんかのう」 「さあ、わからん。 瞳とおなじ色をした空が明るく冴え渡って、埃まみれの部屋を隅々まできらめかせていた。 起き上がり、耳をすます。 どこかからよく通る声が響いた。 桂が仲間に今日の作戦の詳細を伝えているときの声だ。 以前はよくあった高杉と銀時のくだらない言い合いは、最近はとんと聞いていない。 齢二十にも満たぬ子どもの背を、ここにいる者達が頼りにしている。 白夜叉の真っ白な羽織などは、あまりにもわかりやすい御旗だった。 あれを目指して走るのだ。 あれが切り拓いた活路を、あるいは生きて帰るための命綱を必死で手繰り寄せ掴むために、白を見上げてひた走る。 まるで、北極星のようではないか。 「…ポラリスなど、似合わんのにのう」 子どもらしく笑い、怒る銀時の姿を頭の中でしっかりと思い描いて、坂本は腹の虫を宥めるため立ち上がった。 今日はよく晴れているから、夜は星が美しいだろう。 今日が終わる前に、彼らに話をしようと思う。 星を掴むかのような絵空事について。 * 九回裏ヒーロー 大団円のハッピーエンドを、いったいいくつ夢みたのだろう。 両手の指では足りなくなって、足を使っても追いつかない。 何度も何度も理想を思い描いて、そのたび朝日の中で絶望した。 馬鹿みたいな夢ばかり見ていた。 奈落の拘束から逃れ、高杉を縛っていた縄を断ち、二人揃って敵へと向かう。 すべてを察していた銀時は先生の拘束を解き、先生を護ってくれる。 その背中を、二人で護るのだ。 そうしてすべてが丸く収まって、俺たちは抜けるような青空の下、抱き合ってみっともなく泣いて、生きていることを手を握って確かめて。 お前らがいてくれてよかった、という銀時の言葉を皮切りに夢は崩れる。 先生の首はごろりと落ちて、血まみれた刀を持った銀時は、その顔を絶望と諦観と哀しみとで汚して静かに泣いて。 その涙が落ちるのとともに、高杉の左目もまたどろりと腐れ落ちるのだ。 涙を受け止めることも、首を押さえることも、目玉を拾うこともできないまま、動けないまますべてを焼き付けて、また朝がくる。 もはや慣れてしまったそれは、まぎれもない罪のかたちだった。 十年ぶりに会った銀時は変わらなかった。 己の名を正しく呼んだ彼の声音を今でもはっきり覚えている。 刀を持てと、お前の居場所はこちら側にあるのだと迫った俺に、銀時はたった三文字で雄弁に否と告げた。 高杉を含め三人にしか伝わらない、あまりにも些細でいて明確な拒絶だった。 今の俺は、将を代わってやるには足りぬ存在なのだと、そう言われたのだ。 美しく生きろと笑った男は、馬鹿みたいな生き方をしていた。 あんなことがあったのにまた刀を持ってなにかを抱え込んでいる。 争いに自分から頭を突っ込んでは大怪我をして、そのくせ最後には幸せそうに笑うのだ。 嫌だ面倒だ鬱陶しいと愚痴をこぼしながら子どもたちについて語る横顔は、あまりにもあの人に似ていた。 だから、今度こそ、護ってやりたかった。 護るというのは今更烏滸がましい話かもしれないが、これは自分なりのけじめだった。 今度、が与えられたことの意味を見つけなくてはならない。 将軍を失い、目の前に立ちはだかったのはあまりにも重い現実だった。 江戸の町ごと飲み込もうとする闇は、きっといずれ何もかも埋め尽くすのだろう。 その中心でおそらく、いや確実に彼は足掻く。 ここからだ。 ここが、これからが。 人間は強い。 絶望の上に時を塗り重ねて希望の色をつけて、そうして顔を上げて前を向く。 涙のあとがついたみっともない顔で、それでも誰より瞳をつよくきらめかせて。 忘却をゆるされておきながら選ばないのは、忘れまいとしているからだ。 忘れてはいけない、変えられない過去を飾り立てて美談にしてはいけない。 あの日、あの時、動けなかった。 刀を振りかざした銀時の背も、高杉の慟哭も、左目めがけて閃いた小刀の輝きも、嘲るように晴れた空の青さも、何もかもはっきりと覚えている。 網膜と鼓膜に張り付いて消えない残像は、眠るたびに枕元に立って泣いていた。 過去に縫い付けられて動かなかった足は、十年かけてようやく剥がれた。 あとはひたすら走れ、動け、酸素を吸って頭を回せ、桂小太郎にできることなどたかがしれている。 夜を待つのは高杉の役だ。 夜を歩くのは坂本の役だ。 だったら彼が朝を迎えるためにやるべきことは。 「夜明けに会おう」 夜を明かすのは、将たる者の務めだろう。 * 海の融解 「起きねえの」 憮然とした声でそう問われて、高杉は左の瞼を持ち上げた。 見慣れた白装束を身にまとった坂田銀時、もとい白夜叉がそこにいた。 頰には傷があり、あちこちを血と泥と天人のよくわからぬ体液で汚している。 洗っても洗っても取れなくて何枚か雑巾にしていたな、とぼんやり思った。 包帯にしなかったのはなんとなく不衛生な気がするという意見が皆と一致したからだ。 「てめー、人の顔見て笑いやがって」 「笑いもするさ、…いい加減泣きやめ」 「無理な相談だね、俺はてめーが作ったんだから」 言い得て妙である。 坂田銀時の涙を閉じ込めたのは、左目に灼きつけて後生大事に離さず思い出しては傷を疼かせていたのは、まぎれもない己なのだ。 なんてことのない顔で、けれど瞳だけはあのときと同じおそろしく澱んだ色を宿して、銀時はぽろぽろと涙を落としながらあぐらをかいた。 改めて周りを見渡すと、高杉は畳の上に敷かれた布団に寝かされていた。 屋敷に見覚えはないが、寝て見える範囲に大きな桜の木があって、自分好みであるなと考える。 風が吹いて舞う薄紅を背にして、泣き続ける銀時は首の後ろをかきながら「あのさあ」とこぼした。 上半身を起こして言葉を促すと、一度視線が外れてから再び合わされる。 これは夢だ。 左にしか見えぬ、高杉が十年も抱え続ける後悔のかたちだ。 「お客さんが来てんだよね」 「…あ?」 「入っていいってー、…アレ、どこいった」 「ここです」 「ひ、」 ぎゃあ、と情けない声をあげて銀時が部屋の中を転がった。 その拍子に涙がきらきら散ってなんとも傷に沁みる。 銀時があぐらをかいていたそのすぐ隣に男が座っていた。 庭から入り込む光と角度のせいで顔はうまく見えないが、なんとなく、そう、記憶の中の姿かたちと一致した。 「黒子野か」 「はい、ご無沙汰してます、高杉さん」 「珍しいじゃねェか」 「珍しいっていうか、なんていうか、こういう場で珍しいで済ませられるあたり、流石高杉さんですよね」 「あったりめェよ、俺たちの総督だぞ」 「何せ戦艦二隻を落とせるお人だ。 いつだって大胆不敵、勇猛果敢に一騎当千!」 「………オイ、増えてんぞ」 障子の向こうからひょこりと顔を出して笑うかつての部下の姿に目を細めて、高杉は銀時にそう問うた。 付き合いの短い者ならばけしてわからぬ程度に喜色の混じったその声音に、名もなき鬼兵隊隊士はにこにこ笑う。 総督、と高杉を呼ぶ彼らは、けれどそのほとんどが高杉よりも歳上だった。 歳下の人間は少なかった。 数少ない、言動が弟じみていた者たちも、皆死んでしまったが。 「高杉さん、あなた今、どうなっているかおわかりですか」 「…あァ、まあ」 「三途の川でバタフライしてんよ」 「てめえはうるせえから黙ってろ」 「今まで黙ってただろうが!」 「顔がうるせえんだよ、こっち向くな」 涙を流し続ける銀時は高杉の言葉に眉を吊り上げてすっくと立ち上がると、わざとどすどす音をたてて廊下の先に消えていった。 「パク!出てこい!」と聞こえたから、ストレス発散の対象にするのだろう。 あいにく、ここには焼きそばパンなどないが。 「総督、起きてんですか」 「…三郎、」 「ちょうどいいや、総督起こすために中華鍋で爆音出すカラクリ作ってたんですけど、聞いてくれますかね」 「…断る」 「まあまあ、そう言わず」 「てめえ」 「ここをね、居心地よく思ってもらっちゃあね、困るんスよ」 ゴーグルの奥の瞳が細くなって、眉がハの字になった。 笑いながら告げられた言葉にはっとしたのも束の間、銅鑼か鐘かはたまた爆弾ともつかぬ音が眼の前で炸裂して、高杉は咄嗟に耳を覆った。 屋敷の中のすみずみまで響く目覚めの音が腹の奥をぐわんぐわん揺らして、押さえた耳の鼓膜にここではないどこかからの声を届ける。 しんすけさま、と女の声。 「お前はさ」 いつの間にか銀時だけになっていた。 黒子野も、三郎も、隊の人間もいない。 屋敷も。 まっしろな空間のなかをふたり揃ってなかよく落下しながら、銀時はこぼれる涙を拭うこともせず高杉を見た。 「もう、向いてもいいと思うんだよね、前」 「……は、前なんざ、見たところで」 「勘違いすんなよ、前向きでいろとか、後悔すんなとか、そういうことを言ってんじゃねえ」 「……」 「鬼兵隊総督が、背中で語らねえでどうするよ。 ハタチにも満たねえガキの俺らがそれでも先頭走ってたのは、全員が全員、背中になんかを見てたからだろ」 「…なんかってなァ、なんだよ」 「しるか。 考えろアホ」 「てめえのがアホ」 「アホならアホらしく踊れよ高杉。 そうだな、お山の猿の大将らしく、崖の上で啖呵切りなんてどうだ。 戦場じゃあ、てめーの声はよく通る」 それに、と銀時は続けかけて、高杉がずっと抱え閉じ込めてきた十年のなかで、はじめてその目もとを指の腹で拭った。 うす青い氷めいた瞳が目蓋の裏に隠れて、次に現れたとき、色が変わっていた。 青くゆらめき闇を照らす鬼の焔。 「俺、いざって時はキラめくんだよね、ああそれから」 腹を思いきり蹴飛ばされて、てめえ、と吼える間も無く一気に降下する。 どんどん闇の中に落ちていって、けれど高杉はしっていた。 夜明け前が、目覚める前がいちばん暗いのだと。 ぎりぎり見えた銀時は、泣いてはいなかった。 腹の立つ顔で笑いながら、秘密だけどよお、と遠く叫ぶ。 お前の声だってよっぽど通る。 俺だって、もう雨はごめんなんだ。 開いた目蓋は右だった。 女の涙と、薄暗い空と、いつかのような剣戟の音。 立ち上がり向かった先にはまばゆい銀髪が見えた。 手に馴染む刀を振り抜いて、高杉はふかく息を吸い込んだ。 鬼兵隊総督の名を、一度だって捨てたことはない。 鬼兵隊を、一度だってだれかに譲った覚えはない。 この荷、手放してなるものか。 真剣よりもずっと軽い木刀を片手に、高杉は笑った。 右の視界に白夜叉がいる。 左で泣いていたいつかの英雄は、今、高杉の目の前で刀を持って駆けている。 それがどれほどのことか。 誰にも、わからなくていいと思う。 あの凍るような哀しみのあらわれは、まさしく高杉だけのものなのだから。 * 臆病者の善戦 思い出すたびに手が震える。 情けないと感じることすら難しくなった。 十年経っても、十年経とうが変わらない。 右の指先から手首を通って筋や神経すべてに刻まれたあの感覚は、忘れたくとも忘れられなかった。 忘れてはいけない、とも思っている。 「銀さん」 上から降ってきた声に顔を上げた。 体のあちこちに包帯を巻いた新八は、壁を背にして座り込んでいた銀時に対して怒るでもなく、ただ「木刀は」と続けた。 「船の荷物の中には無いそうです。 取り寄せならできると思いますけど」 「そ」 「つか、あれ通販だったんですか。 通販で買えるヤツで今まであんな大立ち回りしてきたんですかアンタ」 「うるせーよ、俺くらいになると何使おうが一緒なの。 使い手の問題なの」 「そりゃ、そうでしょうけど」 「……なに」 「…銀さんって、なんで真剣持たないのかなって。 …ずっと気になってはいたんです」 「………」 「…べつに、言わなくていいんですけど」 隣に座り込んで、新八はこちらを向かずそう言った。 言わなくていいと告げた口が尖っていて、隠しきれないそれにすこし笑ってしまう。 ごうごうと、静かに深くエンジン音が響いていた。 あまり揺れることもなく進んでゆく戦艦は、たくさんの怪我人とたくさんの希望を乗せて地球へと向かっている。 廊下の端はひんやり冷たく、合わせた背中からずっと小刻みに振動が伝わってきていた。 震えは、このなかにかき消されている。 「人を」 「…」 「人を、斬るってのはさ」 「はい」 「お前ならわかると思うけど、結構しんどいことでさ」 「…はい」 「全部伝わんだよね。 手の先から、目ん玉とか耳とか感覚片っ端から使って、死ってのが」 立てた膝に顔を埋めた。 包帯とギブスが邪魔で動きづらい。 今ならたぶん、怪我のせいで苦しいからだと言ってもゆるされるのだろう。 「でも、そうやって生きてきたんだ。 負けたら死ぬ、だったら勝ち続けなきゃならねえ。 勝ち負けが生死で決まるなら、俺は誰かを踏み台にして生きなきゃならねえ。 踏んで、踏みつけて、生き残った後には何も残ってなかったよ」 後悔を、したいのではない。 悔やむ暇はなかった。 生きていくために当然のことで、弱いものは淘汰される、ただそれだけのことだった。 死ぬよりは生きるほうがよくて、負けるよりは勝つほうがよかった。 坂田銀時がそこに在り続けるために振るう刀は、薪割りの斧より軽かった。 十六の、まだ若く未来のある子どもに話すものではないことくらいわかっている。 話すつもりもなかったのにこうして口から溢れる理由なんて、ひとつしかない。 「…俺が真剣を持たなかったのはな」 「はい」 「現実の中でまで、首を斬りたかねェからだよ」 ごお、と一際大きく船が鳴いて、同じ仕草で銀時らも揺れた。 だらりと体から力を抜いた銀時に焦るでも問い詰めるでもなく、新八はたったひとこと「そうなんですね」と呟いた。 轟音にかき消されてしまいそうなそれに込められたやさしさに喉の奥が鈍く鳴った。 「銀ちゃん」 いつの間にか、子どもは二人に増えていた。 痛々しい体でまっすぐ立った神楽は、銀時が顔を上げたのを確認するとにっこり笑った。 「銀ちゃん、ご飯の時間ヨ」 「……定春じゃねえんだから」 「早く行くネ。 私もうお腹と背中がマッチングしそうアル」 伸ばされた手を掴みかけてためらった。 両の手のひらにぐるぐると巻かれた包帯の下には、大きく走る傷がある。 あの瞬間、銀時を護ったせいでついたものだ。 受けた気になった。 あのとき首を刎ね飛ばすために振るわれた刀の切っ先で、すべての罪を雪がれたような心地になってしまった。 殺されて然るべきだと、それが当然のことだと。 「銀ちゃん」 飽きるでもなく再三名前を呼んで、神楽は包帯だらけの手で銀時の頰を包んだ。 ガーゼと包帯とが互いに触れ合って、皮膚の感触はあまりない。 そのくせあたたかいのだからたまらなくなる。 「銀ちゃん、もう大丈夫ヨ」 それが傷のことを言っているのか、それとも他の何かなのかは終ぞ定かではない。 何もしらない子どもは、何もしらないくせに銀時のことだけはよくわかっている。 褒めるように、宥めるように、あるいは母性にも似たそれに銀時は苦笑するしかなかった。 ちんちくりんと称していた子どもに、命どころか心まで救われるなんて。 まだ立ち上がれない銀時を怒るでもなく、二人はただそこにいた。 そのやけに甘いようなやさしいような空気がむず痒くて、銀時は必死で言葉を探す。 焦りの中で見つけた言葉は、まぎれもなく本音の一部だった。 「…俺、案外、ビビりなんだよね」 「知ってますよそんなこと」 「今更アルな」 「……あ?」 「だって銀さん、怖いもの嫌いでしょう。 打たれ弱いし、ヘンなとこでヘタレだし、今更すぎますよ」 「夜中のトイレくらいなら着いてってやるアルよ。 なんたって私はかぶき町の女王様だからナ!」 「…いや、そういうことじゃなくて」 「わかってますよ」 半ば呆れ混じりに言いかけた言葉は、凛とした声に遮られた。 護られるべきであるはずの子どもは、銀時よりよっぽどつよい目でそこにいる。 「僕も神楽ちゃんも、わかってますから。 だから銀さん、大丈夫なんですよ」 「…臆病者なのに?」 「怖いもの知らずのほうがよっぽど怖いです」 「……なんつーか、お前、強かになったね」 「誰の弟だと思ってんスか」 折れて、笑われて、馬鹿にされて、弱くて、弱さを嘆くことができて、ひとりじゃ歩けないくせに、銀時のうしろには必ずいるのだ。 それが、どれほど眩しいことか。 「アンタが生きるのにビビッてるぶん、僕らはアンタが死ぬことにビビッてますから。 これでいいんですよ」 「……」 「人間なんてそんなものでしょ」 「………そうかよ」 「そうです。 だから」 強くなりましょうね、銀さん。 頑張ろうネ、銀ちゃん。 差し出された手のひらは、銀時が掴もうとする前に握りしめられた。 誰かによく似たたちの悪い笑みが目の前で輝いて、やわらかくあたたかな体温が剣だこだらけの指先に染みる。 銀時の手を握って、子ども二人は歩き出した。 半ば引き摺られるかたちでたたらを踏み進みながら、頭を搔くことも顔を隠すこともゆるされず、ただひたすらに光あるほうへ。 銀時を導くふたりの背中は、いつの間にかひどく頼もしかった。 細く小さいままなのに、弱々しさは微塵もない。 それにどこか誇らしく思って、そう思えた自分に笑った。 単純な話だった。 怖いなら連れ添って歩けばいい。 疲れたら助けを求めればいい。 だれかのことを思いやって、背筋を伸ばしてぴんと立って。 いつかどこかの私塾の年間目標のような、そんな、馬鹿みたいに簡単な話。 「……アホらし」 聞こえない程度にそう呟いて、銀時は笑いを噛み殺した。 腐れに腐れ切った縁のあの二人は、今の銀時を見たらどう思うだろうか。 これは予想なのだけれど、たぶんきっと、深く呆れたように首を振って、それから小さく笑うはずだ。 あの人は。 あのひとなら、そう、おそらく。 「…オメーらさあ、馬鹿だよな」 「誰のせいだと思ってんですか」 「今日の晩飯なんなの」 「肉ヨ!ウチじゃ出てこないおたかーい肉アル!腹いっぱい詰め込むネ!」 「よっしゃ神楽、野郎を破産させるつもりでいけ」 「ルージャ!」 「ラジャーな」 * やさしいゆうれい べつに、いつ死んだって構わなかった。 そうであるべきだと思っていたし、時を選ばず殺しをしてきたぶん、いつかどこかの折に殺されることになっても当然だと考えていた。 目の前には子どもがいる。 歩いていた信女にぶつかってきた女の子は、尻餅をついてぶるぶる震え、大きな瞳に涙を溜めてこちらを見上げていた。 今にも声を上げて泣き出しそうな様子に、信女は屈んで手を伸ばす。 「…大丈夫?」 「…………うん」 濁点と鼻水が混じった声で頷いた女の子は、立ち上がり裾と尻のあたりを手で払ってから「あっ」と声を上げた。 視線の先には、砂に沈んだりんご飴がある。 「…買ってあげる。 着いてきて」 「えっ、でも」 「なに?」 「し、しらない人から何かもらっちゃ駄目って、お母さんが」 「…いいお母さんね」 「ぶつかってごめんなさい。 ありがとうお姉ちゃん」 数分先まで泣きそうだったのに、女の子は母親を褒められるとぱっと笑顔になった。 人混みの中に走ってゆく小さな背中を見送って、信女も立ち上がる。 ざわざわとした喧騒は一秒たりとも止むことなくあたりに満ちていた。 客引きの声、笑い声、太鼓の音、下駄がからから鳴って、どこかで歓声が上がる。 焼きそばとわたあめとカステラの匂いが混じって、ここにうつくしい火薬の匂いが仲間入りするのを、皆が今か今かと待っていた。 屋台の通りからは少しだけ外れたところで木にもたれ、ぼんやりと人波を眺める。 笑顔ばかりが並んでいるのが不思議だった。 祭りなんて、犯罪を隠すにはうってつけなのに。 浴衣姿の中に、たまに黒服が混じっていた。 この空気には無粋なそれは、横行する悪を見逃さぬようにと目を光らせている。 仕事熱心なそれらから視線を外しかけて、息が止まった。 ありふれた浴衣に屋台で買えるお面、祭りの中に溶け込んだなにかを目にとめた瞬間走り出す。 いつものブーツではない、浴衣に合わせた下駄が邪魔で仕方なかった。 あの背中を、見間違えるはずがない。 「異三郎ッ!」 名を呼んで、人波をかき分けて、足をもつれさせながら走る。 途中で鼻緒が切れて転びそうになって、そのまま脱ぎ捨てて手に持って走った。 それでも追いつかない、届かない、あの時と同じ。 間に合わなかった。 いつだって、なんだって。 間に合うことも、伸ばした手が何かを掴むこともない。 わかっている、それでも伸ばさずにいられなかったのは、欲しくもなかった名前のせいだった。 骸でよかった。 骸、死体、ただの生きる屍。 それでよかったのに、よりにもよって信じて名を託されてしまったらどうしようもない。 信じてくれるのなら、信じさせてほしかった。 無機質なメールでも言葉の代わりのドーナツでもない、あのぶっきらぼうでそっけない口からこぼれる言葉のかたちで、何もかも。 必死に叫んで伸ばした手が着物に触れようとしたところで、彼は振り向いた。 狐面の下で口がにこりと笑ってほんの少し皺が寄る。 「だめですよ、信女さん」 「…あ、」 「貴女は少しせっかちですから。 まだ来なくても大丈夫です。 …なに、貴女が私を追いかけなくても、私が貴女の傍にいますから」 なめらかに紡がれる言葉に、目の奥が痛んで熱くなった。 人が最初に忘れていくのだという声を忘れまいと、何度も何度も頭のなかで再生して、擦り切れる寸前だったレコードがあたらしいものに取り替えられる。 こんなにも、やさしい声だっただろうか。 それとも、そう思いたいだけなのだろうか。 人混みの喧騒が消えた中で、佐々木、のような男は再び笑った。 どこから取り出したのかもわからぬ鬼灯の実を信女の手に握らせて、それから肩を掴んで後ろを向かせる。 とんと背中を押されてしまったら、あとはもう、足を止めることはできなかった。 「元気そうで、よかった」 「……馬鹿」 早すぎるなんてこちらの台詞だ。 盆にはまだ早いのに、それなのにこんな。 似た者同士ったらありゃしない。 「オイ、あんた」 「………、」 「…今井だったか、…大丈夫か?」 はっと顔を上げた先に、あの人はいなかった。 人波を眺めていたところから一歩も動かず、同じ木の下に自分はいる。 目の前で少しおろおろしながら頭を掻いているのは、真選組の副長だ。 下に視線を向ける。 鼻緒は切れていた。 手の中に、やわらかな感触もある。 すべてが夢なわけじゃ、ない。 「…幽霊を、みたの」 そう言うと男はぴしりと固まった。 それがなんだかおかしくて、信女はくすりと、ちいさく笑った。 * 兄の務め 見たい景色があった。 淡く描いた想像の上に確かな未来を塗りつけて、希望で飾って掲げていたものがあった。 それを壊したのは、まぎれもない自分だった。 すべてのためにも悔やむつもりはないけれど、少しだけ、悲しいとは思う。 松下村塾で育った己の弟弟子は、どうやらまっすぐに成長したらしかった。 あの日、何もかもをばらばらにした日の絶叫と血飛沫とを今もはっきり覚えている。 絶望と驚愕とを溶かして倒れ伏していたいつかの弟は、仇である朧を見事に斬り伏せて立ってみせた。 何もかも。 責めるにも、嘆くにも、喚くにも、あまりに長く生きすぎた。 死ぬこともなく動くことができたのは幸いであったけれど、幸福だったかと言われれば違う。 それでも朧は、たしかに幸せだった。 何かができたわけでも、何かを救ったわけでもない。 壊し踏み潰してきたことのほうが圧倒的に多い長い人生の中で、朧はいくつも予定外の事態に見舞われた。 弟弟子も、妹弟子もいた。 最後は愛すべき弟の手で終わる。 それを、幸せだったと呼ばずしてなんと呼ぶのか、朧には他のこたえがわからなかった。 ……先生、俺は あの人の教えを受けていたら、また変わっていたのだろうか。 学び舎の下で教本を開き、手を挙げて答え、居眠りをする弟を叱り、手合わせの審判をして、明日の朝食のための買い出しに行って、交代で風呂を沸かして。 春の甘さも、夏のあざやかさも、秋のやさしさも、冬の美しさも、違っていたのだろうか。 梅の実を漬け、蚊帳を吊り、落ち葉を燃やし、薪を集め、そんなふうに日々を過ごすことができていれば、未来は違ったのだろうか。 きっともう続きを考えることはないだろう。 いつだって、描いた夢の中に自分が居続けたことはなかった。 兄の役目は、果たし終えたのだ。 いい兄ではなかったことくらいわかっているけれど、自己満足の範疇として、最期に笑うことをゆるしてほしい、などと。 我ながら、ずるいことを思った。 須臾の夢 目蓋を押し上げた先にあった光景に、夢だ、と理解した。 ずっと昔、それこそ時代が違うころから慣れすぎた牢の中はひやりとつめたく無機質で、耳をすますと遠くから地鳴りが聞こえてくる。 それをぼんやり聞きながら、五百の春を越えた脳の中が今はいつなのか考え出すのに任せるのが、もはや日課になっていた。 それが、今はない。 温度のない床も、光の入らない地下牢も、いざとなれば拳で砕いてしまえる鉄の檻も。 「先生、松陽先生」 「……おや」 「ちょっと、どいてくださいよ。 掃除が進みません」 「…これはまた、ずいぶんと」 「なんですか」 「……なんでもありませんよ」 縁側はあたたかかった。 秋、だろうか。 青い空には転々と白がつき、木々はうすく色を変えている。 風が吹くたびにかさかさと音を立てて足もとに葉が寄って、足袋越しにくすぐって逃げていった。 まだ緑の多い紅葉だ。 視線の先には子どもがいる。 大切な、大切にしてやりたかった子だ。 一番弟子の名を与え、業をうむだけの血を与え、文字通りすべてを縛り付けてしまった子どもが、憮然としてそこにいる。 白い髪には三角巾をつけ、小さな着物はたすき上げ、隈のとれない目をこちらに向けて、朧は廊下に四つん這いになっていた。 どいてください、と再三言われ、尻を浮かして朧とは反対の方にすこし寄る。 己の腰掛けていたところに雑巾を丁寧にかける朧を見て、複雑な気持ちになった。 「オイ、狭い」 「………あら」 「何があらだ、オカマ路線か」 「…あらあらまあまあ」 「うるせえ、狭ェ、もう立てば?邪魔だろ」 「お前もだ、銀時。 そこで大福を食うなと言っているだろう、掃除をするのは俺なんだぞ」 「あんたが掃除してくれっから食ってんだろ察し悪りィな」 「そうか、今日は晩飯抜きだな」 「てっめっ、そりゃねえよ!」 松陽が尻を寄せた先、とんとぶつかった小さい体に目を丸くした。 思わず口をついた言葉の揚げ足をすかさず取られ、ああ、あの子だ、と実感する。 口の周りについた粉を雑巾で拭われ騒ぐ姿を、押しのけられながらも手を伸ばすのもやめない姿を、その二人分の真っ白い頭を見て、松陽は笑った。 いやに乾いた音がした。 「…なんて夢だ」 「夢だったんだろ」 「意地悪ですね」 「先生のお陰ですよ」 子どもたちは、同じ目をしている。 死んだ魚のような目は、死を見たことのある者の目だ。 ひとりは本当に死にかけて、もうひとりは死神を背負って生きていた。 片方を生き永らえさせて、片方には鎖をつけた。 どちらも、子どもの背に乗せるにはあまりにも重く錆びたものだった。 夢を夢みる、などと。 滑稽にも程がある。 「…お茶でも淹れましょうか」 「いけませんよ。 もう夕餉ですし、大福は食べられてしまいましたし、それに」 時間です、の言葉で覚醒した。 ばち、と音でもしそうなほどまばたきが鳴って、やわらかな秋の風景は薄暗い土壁に変わる。 落ち葉の声は地鳴りになり、ふたつの白い頭は消え、朧がせっせと掃除していた縁側は、相も変わらず泥で汚れたままだ。 顔を上げる。 長く伸びた髪の隙間と檻の合間との向こうに人影があった。 もう少し視線を上げて、かち合った瞳に松陽は笑った。 「起きろ、飯の時間だ。 吉田松陽」 「…あなたは本当に、時間には厳しい」 「…なんのことだ」 「すみません、忘れてください。 …なに、大したことはありませんよ」 ずいぶんと変わってしまった。 あの日あの松の木の下でまだ見ぬ弟弟子を思い浮かべて笑った子どもは、子どもでいられぬまま巣を立った。 この子が何を思ってここにいるのか、どうしてやればその心の裡に降り積もった孤独を癒してやれるのか、松陽はしっている。 しるだけでは、だめなのだ。 しらぬふりをすることこそが、この世ではいちばん罪深い。 わかっているくせに実行しないから、やはり己はとんでもないひとでなしなのだろう。 「他愛もない、夢の話です」 「一本!」 興奮で上ずった声ののち、わあっと歓声が起こった。 蝉の声すらかき消すそれの中心で、松陽は天井の木目を見つめている。 首もとにすこし絡まった髪が、身じろぎしようとすると頭皮を引きつらせて痛んだ。 周りを囲む子どもたちは相も変わらず興奮を隠せないまま声を上げる。 「すっげえ、すっげえや!高杉兄ちゃんが先生に勝っちゃった!」 「かっこいー!ねえ、みてみて、銀ちゃん!晋ちゃんが!あっ、なにするの!やだもう、拗ねないでよ!大人げないわよ!」 「先生、大丈夫?せんせー?」 顔の傍に足が寄る。 ぎしりと床を鳴らすのは、子どものものではない体重だ。 逆光の中でにやりと笑う子どもの名を、松陽はしっている。 「どうだ、松陽先生。 アンタから一本取ってやったぜ」 「……晋助」 「信じられねえならもう一本やるか?」 「…いえ、…結構ですよ」 行儀の悪く足を開いて松陽の顔の横に屈んだ子どもの、子ども、とは呼べなくなってしまった端正な顔に手を伸ばす。 片手で頬を包み、長く伸びた前髪をさらりと持ち上げてやると、ぽっかり孔のあいた左目がこちらを向いた。 驚くでもなく「目は」と問うと、高杉は笑った。 終ぞ見たことのない笑い方だった。 「あなた、目玉はどうしたんですか」 「なに、俺は元からこうだったよ」 「…そうでしたっけ」 「ほら、立ってくれ。 銀時を待たせてる、あいつともやり合ってもらわねえと公平じゃねえだろ」 「……年寄りには、やさしくしてくださいよ」 体を起こして立ち上がる。 道着の裾をはたいていると高杉が銀時を呼びつけて、そのさまを見るため顔を上げたところで、意識はぶつんと切れた。 「梅とツナマヨ、どっちにする」 「ばっかオメー、そこはな、最近流行りのめーぷるしろっぷをだな、こうやって」 「馬鹿は貴様だばかもの!液体をおにぎりの中に入れるやつがいるか!」 「…そういうことではないと思うぞ、小太郎」 「アンタも馬鹿だな、こいつらが言って聞くかよ。 オラ、中身入れなくていいからどきやがれ。 特に銀時、テメーは兄さんに任せろ」 「はああ!?なんで!」 「わかってねえなら重症だな」 「テメー、ほんっ、ほんっとムカつく!表出ろ、ヅラァ!審判やれ!」 「何を言っている!ああもう、米粒をつけたまま動くな!こらっ、高杉も乗るな!もう、先生も止めてください」 「…先生?どうかされましたか」 「んだよ松陽、ハラでも下したか」 「テメーじゃねえんだからンなはずねえだろ」 「……先生?」 「どうしてあなただけ小さいんです」 「さあ、アンタが想像できねえんじゃねえのか」 「なるほど」 「俺も、もう少しタッパがねえと、この体勢はキツいんだけど」 「…そうですね」 あまり肉のついていない、そのくせ大人よりもずっとやわらかな太ももに頭を沈め、松陽は笑った。 うまく笑えた自信はなかった。 銀時は静かな目をしている。 庭は雪で白く染まって、黒にも近い色をした松の木はすっかり化粧を済ませ、吐く息は途端にうすく凍るのに、彼は着物一枚の格好で裸足を外に垂らしていた。 体温を強く感じる腹の方に顔を向けて、太ももと同じく肉の薄い腹に鼻の先を埋めてみる。 気色悪い、という声が頭の上から降ってきて、そのくせ髪は梳かれるからたまらない。 腕を回した背中はあまりに小さかった。 「…夢ですよね」 「そうだよ」 「私の話を、聞いてくれたりしますか」 「夢だからな。 アンタに都合はいいよ」 「そうですか」 雪の降る世界では、音はやわらかく吸い込まれて消えてしまう。 目覚めたときのあの凛とした静けさは、何ものにも代えられぬ音がして好きだった。 世界にただ一人、誰もいない、自分だけの空間。 孤独とは少し違うあれを、いったいなんと呼べばよいのだろう。 「私は、あなたに謝りたいのでしょうか」 己の言葉が、彼を縛り付けてしまうとしっていた。 やさしいから、彼は逃げられない。 松陽のことをよく理解して、意味をしって、行動する。 わかっていながら松陽は、握り拳から指を出したのだ。 げんこつで止めておくべきだったのに、いちばん小さな指を差し出して、銀時の小指に鎖をかけた。 その鎖は、松陽の手のひらの中で錆びている。 もうじきこれは首にかかって、そのまま。 「違うだろ、松陽」 「……」 「謝りたいんじゃなくて、赦されたいんだろ」 「…はは、君は、ほんとうに」 「なんだよ」 「…私好みに育つなんて、夢でしかありませんね」 埋めた鼻の先に、甘い匂いがした。 冬の季節には嗅ぐことのない花の香りを肺いっぱいに吸い込んで、松陽は銀時の着物の端を握る。 髪を梳いていた手は、いつの間にか撫でる動きに変わっていた。 悪いことをした子どもを大人が叱ったあとに宥めるときの、指の先から情が滲むような触れ方だった。 自分自身が、それを望んで彼のかたちをしたなにかにさせていた。 「後悔のないようにな」 声変わりはしましたか。 背はどれだけ伸びましたか。 文字はしっかり書けるようになりましたか。 計算の苦手は克服しましたか。 あらゆる教えを覚えていますか。 ご飯はよく食べられていますか。 剣筋はどれだけ冴えましたか。 晋助と喧嘩ばかりしていませんか。 小太郎に怒られてはいませんか。 私に、約束に、縛られてはいませんか。 子どもらしく生きられていますか。 ひとは、声から忘れていくようです。 どうか私の言葉は忘れられましたか。 「……後悔など、」 悔やむ隙もありませんでした。 あなたは、どうでしょうか。 寝ても覚めても同じだ。 変わらない。 だって松陽は、彼らに生きてほしいと夢見てきた。 生きて、生き延びて、大きくなってほしかった。 己の背を越し、己よりも強くなり、あるいはずぶとくしたたかに。 閉じた目蓋の向こうより、開いた目に映るもののほうが、よっぽど夢に近い。 松陽は今から、五百年の夢を叶える。 大切な、大事な子のふたつの手、あるいは五人ぶんの心を代償に。 「…外の暦は、どうなっていますか」 「聞いてどうなる」 「聞きたいだけです」 「……神無月だ」 「ああ、やはり、…金木犀が香りますね」 「このあたりには咲いていない」 「なに、簡単なことですよ、朧」 囚人相手に受け答えをしてしまうあたりが、やさしいのだ。 謝りはしない、謝ってしまっては、おそらく彼を殺してしまう。 尊厳の死は、肉体の死よりもおそろしい。 だから松陽は、彼に直接かけるべき言葉をもたない。 笑う松陽に、朧の目はまたたいた。 今から彼に負わせるものを指折り数えながら、松陽は腕を差し出した。 罪人の、すべてを殺すばけものの腕を。 「私はずっと、夢のなかにいるのです」 五百年ぶんの秋が、肚の底にいる。 鼻を埋めた子どもの匂いも、松陽は平らげてしまった。 告げる言葉は思いつかない。 愛し子に会える事実だけを抱えて立ち上がる。 凝り固まった体がぱきぱきと音を立て、燃える前の薪のようだと思った。 薪にしてくれればいい。 燃やして、手をあたためて、冬を越すための足しにしてくれれば。 冷たい布団が苦手な、声変わり前の子どもだった。
次の
星を掴む手 竜骨が折れれば船は沈む。 帆が破れようが舵が壊れようが人力でどうにかすることはできるが、軸がなくなるともうだめだった。 損傷を受けた竜骨は修復するか、もしくは新しい竜骨を持って組み直すことでしか船は元に戻らない。 その元に戻す作業だけで一隻買えてしまうから、竜骨がひどく損傷するということは、その船が廃船になるのと同義だった。 侍にとっての利き腕は、竜骨だったのだ。 高杉の言った通り果物すら剥けぬ手のひらは、刀を持つまでには到底届かない。 戦場に立つどころか日常生活まで怪しくなって、慣れない左手で汁椀の中身をこぼしながらずるずるとみっともなく食べた。 爆音と金属音と地鳴りとなにかの悲鳴とが風に乗ってやってくるのを、部屋の隅で怪我人の汗をぎこちなく拭いてやりながら聞いた。 坂本辰馬の戦は剣一本で片づくせこい戦ではないのだと、彼が言ってくれた言葉でさえ、曖昧に輪郭を崩して頭の隅で錆びていた。 「腐りそうじゃ」 「…なんだ、えらく弱気じゃねえか」 「弱気にもなるぜよ、…刀も持てん、それどころか箸も持てん、穀潰しにも程がある」 「てめえにそんなデリカシーがあったとはな」 「おまんにはわからんよ」 「どうだか」 笑って言われた言葉が意外で、坂本は伏せていた顔を上げた。 こちらに背を向けて縁側に座る高杉は、振り返ることなく一心に目の前の刀へと向き合っている。 「バカもいる手前ああ言ったがな」 「…高杉」 「倒れてんのが俺の部下だったら、俺だって同じことして腐ってたろうよ」 「…そげなこと」 「勝ち逃げもできるしな」 「…?」 「…忘れろ」 高杉の手によってうつくしく磨かれた刀は、その生き様をあらわすかのように月明かりを吸って輝いていた。 きん、と高い音を立てて鞘におさめられた高杉の愛刀は、明日もまた忙しなく主人の意に沿って首を刎ね飛ばすのだろう。 高杉が優しい男であることなんて、ここにいる全員が知っている。 可能性があるのなら必ず見捨てないところも、望まれて介錯をするときにできる限り笑ってやるところも、鬼総督の所業には程遠い。 「三郎が面白ェモン仕入れてきてな」 「なんじゃ、またカラクリか」 「人殺しのな」 振り向きざま投げられた黒い何かを左手で掴み損ね、がんと鼻頭に当たって悶絶する。 胡座をかいていたところに落ちたそれは、夜の中でも異様なほど黒々としていた。 手のひらよりも幾分か大きく、持ち手と筒とがついている。 「ピストルだってよ」 「…ピストル?」 「火縄銃の小型版だ。 火薬を詰める必要はねェ、弾の中に最初から入ってる。 引き金を引きゃァ自動で飛んでく小せェ大砲みてェなモンさ」 「…そりゃあ、おっかないのお」 「てめえにやるよ」 今度こそ開いた口が塞がらずピストルと高杉とを交互に見比べた。 立ち上がって刀を腰に差した高杉は、布団の上から動かない坂本を見下ろして嘲ることもせず、怒りも込めず、ただ淡々と「餞別だ」と続けた。 「てめえの身くれェてめえで護れ。 腐りたかねェなら捨てられるモンは捨ててけよ」 そう言って遠ざかってゆく足音を聞きながら、坂本は布団に倒れ込んだ。 煤と埃とで汚れた天井が目に入って、そのまま横に滑らせると藍の深い夜空が見える。 月と星とが平等に地を照らすのをぼんやり眺めて、左手でピストルを持ち上げる。 坂本が捨てることのできる荷物がいったいなんなのか、あの男はよくわかっている。 戦場暮らしでここまで分かり合えたことを喜ぶべきなのか、言わせた己の弱さを恥じるべきなのかわからない。 けれど、このままではだめだ。 包帯だらけの右腕を目の前にかざして目を閉じて、坂本は一度眠りについた。 いつかのやさしく力強い声が、繰り返し胸の中で反響した。 「のう辰馬、アレが北極星じゃ」 「ホッキョク?」 「おう、いっちばん明るい星ぜよ。 こがあに暗い日でもわかる、あそこを目指して歩きゃ大丈夫なんじゃ」 「あそこは寒いんかのう」 「さあ、わからん。 瞳とおなじ色をした空が明るく冴え渡って、埃まみれの部屋を隅々まできらめかせていた。 起き上がり、耳をすます。 どこかからよく通る声が響いた。 桂が仲間に今日の作戦の詳細を伝えているときの声だ。 以前はよくあった高杉と銀時のくだらない言い合いは、最近はとんと聞いていない。 齢二十にも満たぬ子どもの背を、ここにいる者達が頼りにしている。 白夜叉の真っ白な羽織などは、あまりにもわかりやすい御旗だった。 あれを目指して走るのだ。 あれが切り拓いた活路を、あるいは生きて帰るための命綱を必死で手繰り寄せ掴むために、白を見上げてひた走る。 まるで、北極星のようではないか。 「…ポラリスなど、似合わんのにのう」 子どもらしく笑い、怒る銀時の姿を頭の中でしっかりと思い描いて、坂本は腹の虫を宥めるため立ち上がった。 今日はよく晴れているから、夜は星が美しいだろう。 今日が終わる前に、彼らに話をしようと思う。 星を掴むかのような絵空事について。 * 九回裏ヒーロー 大団円のハッピーエンドを、いったいいくつ夢みたのだろう。 両手の指では足りなくなって、足を使っても追いつかない。 何度も何度も理想を思い描いて、そのたび朝日の中で絶望した。 馬鹿みたいな夢ばかり見ていた。 奈落の拘束から逃れ、高杉を縛っていた縄を断ち、二人揃って敵へと向かう。 すべてを察していた銀時は先生の拘束を解き、先生を護ってくれる。 その背中を、二人で護るのだ。 そうしてすべてが丸く収まって、俺たちは抜けるような青空の下、抱き合ってみっともなく泣いて、生きていることを手を握って確かめて。 お前らがいてくれてよかった、という銀時の言葉を皮切りに夢は崩れる。 先生の首はごろりと落ちて、血まみれた刀を持った銀時は、その顔を絶望と諦観と哀しみとで汚して静かに泣いて。 その涙が落ちるのとともに、高杉の左目もまたどろりと腐れ落ちるのだ。 涙を受け止めることも、首を押さえることも、目玉を拾うこともできないまま、動けないまますべてを焼き付けて、また朝がくる。 もはや慣れてしまったそれは、まぎれもない罪のかたちだった。 十年ぶりに会った銀時は変わらなかった。 己の名を正しく呼んだ彼の声音を今でもはっきり覚えている。 刀を持てと、お前の居場所はこちら側にあるのだと迫った俺に、銀時はたった三文字で雄弁に否と告げた。 高杉を含め三人にしか伝わらない、あまりにも些細でいて明確な拒絶だった。 今の俺は、将を代わってやるには足りぬ存在なのだと、そう言われたのだ。 美しく生きろと笑った男は、馬鹿みたいな生き方をしていた。 あんなことがあったのにまた刀を持ってなにかを抱え込んでいる。 争いに自分から頭を突っ込んでは大怪我をして、そのくせ最後には幸せそうに笑うのだ。 嫌だ面倒だ鬱陶しいと愚痴をこぼしながら子どもたちについて語る横顔は、あまりにもあの人に似ていた。 だから、今度こそ、護ってやりたかった。 護るというのは今更烏滸がましい話かもしれないが、これは自分なりのけじめだった。 今度、が与えられたことの意味を見つけなくてはならない。 将軍を失い、目の前に立ちはだかったのはあまりにも重い現実だった。 江戸の町ごと飲み込もうとする闇は、きっといずれ何もかも埋め尽くすのだろう。 その中心でおそらく、いや確実に彼は足掻く。 ここからだ。 ここが、これからが。 人間は強い。 絶望の上に時を塗り重ねて希望の色をつけて、そうして顔を上げて前を向く。 涙のあとがついたみっともない顔で、それでも誰より瞳をつよくきらめかせて。 忘却をゆるされておきながら選ばないのは、忘れまいとしているからだ。 忘れてはいけない、変えられない過去を飾り立てて美談にしてはいけない。 あの日、あの時、動けなかった。 刀を振りかざした銀時の背も、高杉の慟哭も、左目めがけて閃いた小刀の輝きも、嘲るように晴れた空の青さも、何もかもはっきりと覚えている。 網膜と鼓膜に張り付いて消えない残像は、眠るたびに枕元に立って泣いていた。 過去に縫い付けられて動かなかった足は、十年かけてようやく剥がれた。 あとはひたすら走れ、動け、酸素を吸って頭を回せ、桂小太郎にできることなどたかがしれている。 夜を待つのは高杉の役だ。 夜を歩くのは坂本の役だ。 だったら彼が朝を迎えるためにやるべきことは。 「夜明けに会おう」 夜を明かすのは、将たる者の務めだろう。 * 海の融解 「起きねえの」 憮然とした声でそう問われて、高杉は左の瞼を持ち上げた。 見慣れた白装束を身にまとった坂田銀時、もとい白夜叉がそこにいた。 頰には傷があり、あちこちを血と泥と天人のよくわからぬ体液で汚している。 洗っても洗っても取れなくて何枚か雑巾にしていたな、とぼんやり思った。 包帯にしなかったのはなんとなく不衛生な気がするという意見が皆と一致したからだ。 「てめー、人の顔見て笑いやがって」 「笑いもするさ、…いい加減泣きやめ」 「無理な相談だね、俺はてめーが作ったんだから」 言い得て妙である。 坂田銀時の涙を閉じ込めたのは、左目に灼きつけて後生大事に離さず思い出しては傷を疼かせていたのは、まぎれもない己なのだ。 なんてことのない顔で、けれど瞳だけはあのときと同じおそろしく澱んだ色を宿して、銀時はぽろぽろと涙を落としながらあぐらをかいた。 改めて周りを見渡すと、高杉は畳の上に敷かれた布団に寝かされていた。 屋敷に見覚えはないが、寝て見える範囲に大きな桜の木があって、自分好みであるなと考える。 風が吹いて舞う薄紅を背にして、泣き続ける銀時は首の後ろをかきながら「あのさあ」とこぼした。 上半身を起こして言葉を促すと、一度視線が外れてから再び合わされる。 これは夢だ。 左にしか見えぬ、高杉が十年も抱え続ける後悔のかたちだ。 「お客さんが来てんだよね」 「…あ?」 「入っていいってー、…アレ、どこいった」 「ここです」 「ひ、」 ぎゃあ、と情けない声をあげて銀時が部屋の中を転がった。 その拍子に涙がきらきら散ってなんとも傷に沁みる。 銀時があぐらをかいていたそのすぐ隣に男が座っていた。 庭から入り込む光と角度のせいで顔はうまく見えないが、なんとなく、そう、記憶の中の姿かたちと一致した。 「黒子野か」 「はい、ご無沙汰してます、高杉さん」 「珍しいじゃねェか」 「珍しいっていうか、なんていうか、こういう場で珍しいで済ませられるあたり、流石高杉さんですよね」 「あったりめェよ、俺たちの総督だぞ」 「何せ戦艦二隻を落とせるお人だ。 いつだって大胆不敵、勇猛果敢に一騎当千!」 「………オイ、増えてんぞ」 障子の向こうからひょこりと顔を出して笑うかつての部下の姿に目を細めて、高杉は銀時にそう問うた。 付き合いの短い者ならばけしてわからぬ程度に喜色の混じったその声音に、名もなき鬼兵隊隊士はにこにこ笑う。 総督、と高杉を呼ぶ彼らは、けれどそのほとんどが高杉よりも歳上だった。 歳下の人間は少なかった。 数少ない、言動が弟じみていた者たちも、皆死んでしまったが。 「高杉さん、あなた今、どうなっているかおわかりですか」 「…あァ、まあ」 「三途の川でバタフライしてんよ」 「てめえはうるせえから黙ってろ」 「今まで黙ってただろうが!」 「顔がうるせえんだよ、こっち向くな」 涙を流し続ける銀時は高杉の言葉に眉を吊り上げてすっくと立ち上がると、わざとどすどす音をたてて廊下の先に消えていった。 「パク!出てこい!」と聞こえたから、ストレス発散の対象にするのだろう。 あいにく、ここには焼きそばパンなどないが。 「総督、起きてんですか」 「…三郎、」 「ちょうどいいや、総督起こすために中華鍋で爆音出すカラクリ作ってたんですけど、聞いてくれますかね」 「…断る」 「まあまあ、そう言わず」 「てめえ」 「ここをね、居心地よく思ってもらっちゃあね、困るんスよ」 ゴーグルの奥の瞳が細くなって、眉がハの字になった。 笑いながら告げられた言葉にはっとしたのも束の間、銅鑼か鐘かはたまた爆弾ともつかぬ音が眼の前で炸裂して、高杉は咄嗟に耳を覆った。 屋敷の中のすみずみまで響く目覚めの音が腹の奥をぐわんぐわん揺らして、押さえた耳の鼓膜にここではないどこかからの声を届ける。 しんすけさま、と女の声。 「お前はさ」 いつの間にか銀時だけになっていた。 黒子野も、三郎も、隊の人間もいない。 屋敷も。 まっしろな空間のなかをふたり揃ってなかよく落下しながら、銀時はこぼれる涙を拭うこともせず高杉を見た。 「もう、向いてもいいと思うんだよね、前」 「……は、前なんざ、見たところで」 「勘違いすんなよ、前向きでいろとか、後悔すんなとか、そういうことを言ってんじゃねえ」 「……」 「鬼兵隊総督が、背中で語らねえでどうするよ。 ハタチにも満たねえガキの俺らがそれでも先頭走ってたのは、全員が全員、背中になんかを見てたからだろ」 「…なんかってなァ、なんだよ」 「しるか。 考えろアホ」 「てめえのがアホ」 「アホならアホらしく踊れよ高杉。 そうだな、お山の猿の大将らしく、崖の上で啖呵切りなんてどうだ。 戦場じゃあ、てめーの声はよく通る」 それに、と銀時は続けかけて、高杉がずっと抱え閉じ込めてきた十年のなかで、はじめてその目もとを指の腹で拭った。 うす青い氷めいた瞳が目蓋の裏に隠れて、次に現れたとき、色が変わっていた。 青くゆらめき闇を照らす鬼の焔。 「俺、いざって時はキラめくんだよね、ああそれから」 腹を思いきり蹴飛ばされて、てめえ、と吼える間も無く一気に降下する。 どんどん闇の中に落ちていって、けれど高杉はしっていた。 夜明け前が、目覚める前がいちばん暗いのだと。 ぎりぎり見えた銀時は、泣いてはいなかった。 腹の立つ顔で笑いながら、秘密だけどよお、と遠く叫ぶ。 お前の声だってよっぽど通る。 俺だって、もう雨はごめんなんだ。 開いた目蓋は右だった。 女の涙と、薄暗い空と、いつかのような剣戟の音。 立ち上がり向かった先にはまばゆい銀髪が見えた。 手に馴染む刀を振り抜いて、高杉はふかく息を吸い込んだ。 鬼兵隊総督の名を、一度だって捨てたことはない。 鬼兵隊を、一度だってだれかに譲った覚えはない。 この荷、手放してなるものか。 真剣よりもずっと軽い木刀を片手に、高杉は笑った。 右の視界に白夜叉がいる。 左で泣いていたいつかの英雄は、今、高杉の目の前で刀を持って駆けている。 それがどれほどのことか。 誰にも、わからなくていいと思う。 あの凍るような哀しみのあらわれは、まさしく高杉だけのものなのだから。 * 臆病者の善戦 思い出すたびに手が震える。 情けないと感じることすら難しくなった。 十年経っても、十年経とうが変わらない。 右の指先から手首を通って筋や神経すべてに刻まれたあの感覚は、忘れたくとも忘れられなかった。 忘れてはいけない、とも思っている。 「銀さん」 上から降ってきた声に顔を上げた。 体のあちこちに包帯を巻いた新八は、壁を背にして座り込んでいた銀時に対して怒るでもなく、ただ「木刀は」と続けた。 「船の荷物の中には無いそうです。 取り寄せならできると思いますけど」 「そ」 「つか、あれ通販だったんですか。 通販で買えるヤツで今まであんな大立ち回りしてきたんですかアンタ」 「うるせーよ、俺くらいになると何使おうが一緒なの。 使い手の問題なの」 「そりゃ、そうでしょうけど」 「……なに」 「…銀さんって、なんで真剣持たないのかなって。 …ずっと気になってはいたんです」 「………」 「…べつに、言わなくていいんですけど」 隣に座り込んで、新八はこちらを向かずそう言った。 言わなくていいと告げた口が尖っていて、隠しきれないそれにすこし笑ってしまう。 ごうごうと、静かに深くエンジン音が響いていた。 あまり揺れることもなく進んでゆく戦艦は、たくさんの怪我人とたくさんの希望を乗せて地球へと向かっている。 廊下の端はひんやり冷たく、合わせた背中からずっと小刻みに振動が伝わってきていた。 震えは、このなかにかき消されている。 「人を」 「…」 「人を、斬るってのはさ」 「はい」 「お前ならわかると思うけど、結構しんどいことでさ」 「…はい」 「全部伝わんだよね。 手の先から、目ん玉とか耳とか感覚片っ端から使って、死ってのが」 立てた膝に顔を埋めた。 包帯とギブスが邪魔で動きづらい。 今ならたぶん、怪我のせいで苦しいからだと言ってもゆるされるのだろう。 「でも、そうやって生きてきたんだ。 負けたら死ぬ、だったら勝ち続けなきゃならねえ。 勝ち負けが生死で決まるなら、俺は誰かを踏み台にして生きなきゃならねえ。 踏んで、踏みつけて、生き残った後には何も残ってなかったよ」 後悔を、したいのではない。 悔やむ暇はなかった。 生きていくために当然のことで、弱いものは淘汰される、ただそれだけのことだった。 死ぬよりは生きるほうがよくて、負けるよりは勝つほうがよかった。 坂田銀時がそこに在り続けるために振るう刀は、薪割りの斧より軽かった。 十六の、まだ若く未来のある子どもに話すものではないことくらいわかっている。 話すつもりもなかったのにこうして口から溢れる理由なんて、ひとつしかない。 「…俺が真剣を持たなかったのはな」 「はい」 「現実の中でまで、首を斬りたかねェからだよ」 ごお、と一際大きく船が鳴いて、同じ仕草で銀時らも揺れた。 だらりと体から力を抜いた銀時に焦るでも問い詰めるでもなく、新八はたったひとこと「そうなんですね」と呟いた。 轟音にかき消されてしまいそうなそれに込められたやさしさに喉の奥が鈍く鳴った。 「銀ちゃん」 いつの間にか、子どもは二人に増えていた。 痛々しい体でまっすぐ立った神楽は、銀時が顔を上げたのを確認するとにっこり笑った。 「銀ちゃん、ご飯の時間ヨ」 「……定春じゃねえんだから」 「早く行くネ。 私もうお腹と背中がマッチングしそうアル」 伸ばされた手を掴みかけてためらった。 両の手のひらにぐるぐると巻かれた包帯の下には、大きく走る傷がある。 あの瞬間、銀時を護ったせいでついたものだ。 受けた気になった。 あのとき首を刎ね飛ばすために振るわれた刀の切っ先で、すべての罪を雪がれたような心地になってしまった。 殺されて然るべきだと、それが当然のことだと。 「銀ちゃん」 飽きるでもなく再三名前を呼んで、神楽は包帯だらけの手で銀時の頰を包んだ。 ガーゼと包帯とが互いに触れ合って、皮膚の感触はあまりない。 そのくせあたたかいのだからたまらなくなる。 「銀ちゃん、もう大丈夫ヨ」 それが傷のことを言っているのか、それとも他の何かなのかは終ぞ定かではない。 何もしらない子どもは、何もしらないくせに銀時のことだけはよくわかっている。 褒めるように、宥めるように、あるいは母性にも似たそれに銀時は苦笑するしかなかった。 ちんちくりんと称していた子どもに、命どころか心まで救われるなんて。 まだ立ち上がれない銀時を怒るでもなく、二人はただそこにいた。 そのやけに甘いようなやさしいような空気がむず痒くて、銀時は必死で言葉を探す。 焦りの中で見つけた言葉は、まぎれもなく本音の一部だった。 「…俺、案外、ビビりなんだよね」 「知ってますよそんなこと」 「今更アルな」 「……あ?」 「だって銀さん、怖いもの嫌いでしょう。 打たれ弱いし、ヘンなとこでヘタレだし、今更すぎますよ」 「夜中のトイレくらいなら着いてってやるアルよ。 なんたって私はかぶき町の女王様だからナ!」 「…いや、そういうことじゃなくて」 「わかってますよ」 半ば呆れ混じりに言いかけた言葉は、凛とした声に遮られた。 護られるべきであるはずの子どもは、銀時よりよっぽどつよい目でそこにいる。 「僕も神楽ちゃんも、わかってますから。 だから銀さん、大丈夫なんですよ」 「…臆病者なのに?」 「怖いもの知らずのほうがよっぽど怖いです」 「……なんつーか、お前、強かになったね」 「誰の弟だと思ってんスか」 折れて、笑われて、馬鹿にされて、弱くて、弱さを嘆くことができて、ひとりじゃ歩けないくせに、銀時のうしろには必ずいるのだ。 それが、どれほど眩しいことか。 「アンタが生きるのにビビッてるぶん、僕らはアンタが死ぬことにビビッてますから。 これでいいんですよ」 「……」 「人間なんてそんなものでしょ」 「………そうかよ」 「そうです。 だから」 強くなりましょうね、銀さん。 頑張ろうネ、銀ちゃん。 差し出された手のひらは、銀時が掴もうとする前に握りしめられた。 誰かによく似たたちの悪い笑みが目の前で輝いて、やわらかくあたたかな体温が剣だこだらけの指先に染みる。 銀時の手を握って、子ども二人は歩き出した。 半ば引き摺られるかたちでたたらを踏み進みながら、頭を搔くことも顔を隠すこともゆるされず、ただひたすらに光あるほうへ。 銀時を導くふたりの背中は、いつの間にかひどく頼もしかった。 細く小さいままなのに、弱々しさは微塵もない。 それにどこか誇らしく思って、そう思えた自分に笑った。 単純な話だった。 怖いなら連れ添って歩けばいい。 疲れたら助けを求めればいい。 だれかのことを思いやって、背筋を伸ばしてぴんと立って。 いつかどこかの私塾の年間目標のような、そんな、馬鹿みたいに簡単な話。 「……アホらし」 聞こえない程度にそう呟いて、銀時は笑いを噛み殺した。 腐れに腐れ切った縁のあの二人は、今の銀時を見たらどう思うだろうか。 これは予想なのだけれど、たぶんきっと、深く呆れたように首を振って、それから小さく笑うはずだ。 あの人は。 あのひとなら、そう、おそらく。 「…オメーらさあ、馬鹿だよな」 「誰のせいだと思ってんですか」 「今日の晩飯なんなの」 「肉ヨ!ウチじゃ出てこないおたかーい肉アル!腹いっぱい詰め込むネ!」 「よっしゃ神楽、野郎を破産させるつもりでいけ」 「ルージャ!」 「ラジャーな」 * やさしいゆうれい べつに、いつ死んだって構わなかった。 そうであるべきだと思っていたし、時を選ばず殺しをしてきたぶん、いつかどこかの折に殺されることになっても当然だと考えていた。 目の前には子どもがいる。 歩いていた信女にぶつかってきた女の子は、尻餅をついてぶるぶる震え、大きな瞳に涙を溜めてこちらを見上げていた。 今にも声を上げて泣き出しそうな様子に、信女は屈んで手を伸ばす。 「…大丈夫?」 「…………うん」 濁点と鼻水が混じった声で頷いた女の子は、立ち上がり裾と尻のあたりを手で払ってから「あっ」と声を上げた。 視線の先には、砂に沈んだりんご飴がある。 「…買ってあげる。 着いてきて」 「えっ、でも」 「なに?」 「し、しらない人から何かもらっちゃ駄目って、お母さんが」 「…いいお母さんね」 「ぶつかってごめんなさい。 ありがとうお姉ちゃん」 数分先まで泣きそうだったのに、女の子は母親を褒められるとぱっと笑顔になった。 人混みの中に走ってゆく小さな背中を見送って、信女も立ち上がる。 ざわざわとした喧騒は一秒たりとも止むことなくあたりに満ちていた。 客引きの声、笑い声、太鼓の音、下駄がからから鳴って、どこかで歓声が上がる。 焼きそばとわたあめとカステラの匂いが混じって、ここにうつくしい火薬の匂いが仲間入りするのを、皆が今か今かと待っていた。 屋台の通りからは少しだけ外れたところで木にもたれ、ぼんやりと人波を眺める。 笑顔ばかりが並んでいるのが不思議だった。 祭りなんて、犯罪を隠すにはうってつけなのに。 浴衣姿の中に、たまに黒服が混じっていた。 この空気には無粋なそれは、横行する悪を見逃さぬようにと目を光らせている。 仕事熱心なそれらから視線を外しかけて、息が止まった。 ありふれた浴衣に屋台で買えるお面、祭りの中に溶け込んだなにかを目にとめた瞬間走り出す。 いつものブーツではない、浴衣に合わせた下駄が邪魔で仕方なかった。 あの背中を、見間違えるはずがない。 「異三郎ッ!」 名を呼んで、人波をかき分けて、足をもつれさせながら走る。 途中で鼻緒が切れて転びそうになって、そのまま脱ぎ捨てて手に持って走った。 それでも追いつかない、届かない、あの時と同じ。 間に合わなかった。 いつだって、なんだって。 間に合うことも、伸ばした手が何かを掴むこともない。 わかっている、それでも伸ばさずにいられなかったのは、欲しくもなかった名前のせいだった。 骸でよかった。 骸、死体、ただの生きる屍。 それでよかったのに、よりにもよって信じて名を託されてしまったらどうしようもない。 信じてくれるのなら、信じさせてほしかった。 無機質なメールでも言葉の代わりのドーナツでもない、あのぶっきらぼうでそっけない口からこぼれる言葉のかたちで、何もかも。 必死に叫んで伸ばした手が着物に触れようとしたところで、彼は振り向いた。 狐面の下で口がにこりと笑ってほんの少し皺が寄る。 「だめですよ、信女さん」 「…あ、」 「貴女は少しせっかちですから。 まだ来なくても大丈夫です。 …なに、貴女が私を追いかけなくても、私が貴女の傍にいますから」 なめらかに紡がれる言葉に、目の奥が痛んで熱くなった。 人が最初に忘れていくのだという声を忘れまいと、何度も何度も頭のなかで再生して、擦り切れる寸前だったレコードがあたらしいものに取り替えられる。 こんなにも、やさしい声だっただろうか。 それとも、そう思いたいだけなのだろうか。 人混みの喧騒が消えた中で、佐々木、のような男は再び笑った。 どこから取り出したのかもわからぬ鬼灯の実を信女の手に握らせて、それから肩を掴んで後ろを向かせる。 とんと背中を押されてしまったら、あとはもう、足を止めることはできなかった。 「元気そうで、よかった」 「……馬鹿」 早すぎるなんてこちらの台詞だ。 盆にはまだ早いのに、それなのにこんな。 似た者同士ったらありゃしない。 「オイ、あんた」 「………、」 「…今井だったか、…大丈夫か?」 はっと顔を上げた先に、あの人はいなかった。 人波を眺めていたところから一歩も動かず、同じ木の下に自分はいる。 目の前で少しおろおろしながら頭を掻いているのは、真選組の副長だ。 下に視線を向ける。 鼻緒は切れていた。 手の中に、やわらかな感触もある。 すべてが夢なわけじゃ、ない。 「…幽霊を、みたの」 そう言うと男はぴしりと固まった。 それがなんだかおかしくて、信女はくすりと、ちいさく笑った。 * 兄の務め 見たい景色があった。 淡く描いた想像の上に確かな未来を塗りつけて、希望で飾って掲げていたものがあった。 それを壊したのは、まぎれもない自分だった。 すべてのためにも悔やむつもりはないけれど、少しだけ、悲しいとは思う。 松下村塾で育った己の弟弟子は、どうやらまっすぐに成長したらしかった。 あの日、何もかもをばらばらにした日の絶叫と血飛沫とを今もはっきり覚えている。 絶望と驚愕とを溶かして倒れ伏していたいつかの弟は、仇である朧を見事に斬り伏せて立ってみせた。 何もかも。 責めるにも、嘆くにも、喚くにも、あまりに長く生きすぎた。 死ぬこともなく動くことができたのは幸いであったけれど、幸福だったかと言われれば違う。 それでも朧は、たしかに幸せだった。 何かができたわけでも、何かを救ったわけでもない。 壊し踏み潰してきたことのほうが圧倒的に多い長い人生の中で、朧はいくつも予定外の事態に見舞われた。 弟弟子も、妹弟子もいた。 最後は愛すべき弟の手で終わる。 それを、幸せだったと呼ばずしてなんと呼ぶのか、朧には他のこたえがわからなかった。 ……先生、俺は あの人の教えを受けていたら、また変わっていたのだろうか。 学び舎の下で教本を開き、手を挙げて答え、居眠りをする弟を叱り、手合わせの審判をして、明日の朝食のための買い出しに行って、交代で風呂を沸かして。 春の甘さも、夏のあざやかさも、秋のやさしさも、冬の美しさも、違っていたのだろうか。 梅の実を漬け、蚊帳を吊り、落ち葉を燃やし、薪を集め、そんなふうに日々を過ごすことができていれば、未来は違ったのだろうか。 きっともう続きを考えることはないだろう。 いつだって、描いた夢の中に自分が居続けたことはなかった。 兄の役目は、果たし終えたのだ。 いい兄ではなかったことくらいわかっているけれど、自己満足の範疇として、最期に笑うことをゆるしてほしい、などと。 我ながら、ずるいことを思った。 須臾の夢 目蓋を押し上げた先にあった光景に、夢だ、と理解した。 ずっと昔、それこそ時代が違うころから慣れすぎた牢の中はひやりとつめたく無機質で、耳をすますと遠くから地鳴りが聞こえてくる。 それをぼんやり聞きながら、五百の春を越えた脳の中が今はいつなのか考え出すのに任せるのが、もはや日課になっていた。 それが、今はない。 温度のない床も、光の入らない地下牢も、いざとなれば拳で砕いてしまえる鉄の檻も。 「先生、松陽先生」 「……おや」 「ちょっと、どいてくださいよ。 掃除が進みません」 「…これはまた、ずいぶんと」 「なんですか」 「……なんでもありませんよ」 縁側はあたたかかった。 秋、だろうか。 青い空には転々と白がつき、木々はうすく色を変えている。 風が吹くたびにかさかさと音を立てて足もとに葉が寄って、足袋越しにくすぐって逃げていった。 まだ緑の多い紅葉だ。 視線の先には子どもがいる。 大切な、大切にしてやりたかった子だ。 一番弟子の名を与え、業をうむだけの血を与え、文字通りすべてを縛り付けてしまった子どもが、憮然としてそこにいる。 白い髪には三角巾をつけ、小さな着物はたすき上げ、隈のとれない目をこちらに向けて、朧は廊下に四つん這いになっていた。 どいてください、と再三言われ、尻を浮かして朧とは反対の方にすこし寄る。 己の腰掛けていたところに雑巾を丁寧にかける朧を見て、複雑な気持ちになった。 「オイ、狭い」 「………あら」 「何があらだ、オカマ路線か」 「…あらあらまあまあ」 「うるせえ、狭ェ、もう立てば?邪魔だろ」 「お前もだ、銀時。 そこで大福を食うなと言っているだろう、掃除をするのは俺なんだぞ」 「あんたが掃除してくれっから食ってんだろ察し悪りィな」 「そうか、今日は晩飯抜きだな」 「てっめっ、そりゃねえよ!」 松陽が尻を寄せた先、とんとぶつかった小さい体に目を丸くした。 思わず口をついた言葉の揚げ足をすかさず取られ、ああ、あの子だ、と実感する。 口の周りについた粉を雑巾で拭われ騒ぐ姿を、押しのけられながらも手を伸ばすのもやめない姿を、その二人分の真っ白い頭を見て、松陽は笑った。 いやに乾いた音がした。 「…なんて夢だ」 「夢だったんだろ」 「意地悪ですね」 「先生のお陰ですよ」 子どもたちは、同じ目をしている。 死んだ魚のような目は、死を見たことのある者の目だ。 ひとりは本当に死にかけて、もうひとりは死神を背負って生きていた。 片方を生き永らえさせて、片方には鎖をつけた。 どちらも、子どもの背に乗せるにはあまりにも重く錆びたものだった。 夢を夢みる、などと。 滑稽にも程がある。 「…お茶でも淹れましょうか」 「いけませんよ。 もう夕餉ですし、大福は食べられてしまいましたし、それに」 時間です、の言葉で覚醒した。 ばち、と音でもしそうなほどまばたきが鳴って、やわらかな秋の風景は薄暗い土壁に変わる。 落ち葉の声は地鳴りになり、ふたつの白い頭は消え、朧がせっせと掃除していた縁側は、相も変わらず泥で汚れたままだ。 顔を上げる。 長く伸びた髪の隙間と檻の合間との向こうに人影があった。 もう少し視線を上げて、かち合った瞳に松陽は笑った。 「起きろ、飯の時間だ。 吉田松陽」 「…あなたは本当に、時間には厳しい」 「…なんのことだ」 「すみません、忘れてください。 …なに、大したことはありませんよ」 ずいぶんと変わってしまった。 あの日あの松の木の下でまだ見ぬ弟弟子を思い浮かべて笑った子どもは、子どもでいられぬまま巣を立った。 この子が何を思ってここにいるのか、どうしてやればその心の裡に降り積もった孤独を癒してやれるのか、松陽はしっている。 しるだけでは、だめなのだ。 しらぬふりをすることこそが、この世ではいちばん罪深い。 わかっているくせに実行しないから、やはり己はとんでもないひとでなしなのだろう。 「他愛もない、夢の話です」 「一本!」 興奮で上ずった声ののち、わあっと歓声が起こった。 蝉の声すらかき消すそれの中心で、松陽は天井の木目を見つめている。 首もとにすこし絡まった髪が、身じろぎしようとすると頭皮を引きつらせて痛んだ。 周りを囲む子どもたちは相も変わらず興奮を隠せないまま声を上げる。 「すっげえ、すっげえや!高杉兄ちゃんが先生に勝っちゃった!」 「かっこいー!ねえ、みてみて、銀ちゃん!晋ちゃんが!あっ、なにするの!やだもう、拗ねないでよ!大人げないわよ!」 「先生、大丈夫?せんせー?」 顔の傍に足が寄る。 ぎしりと床を鳴らすのは、子どものものではない体重だ。 逆光の中でにやりと笑う子どもの名を、松陽はしっている。 「どうだ、松陽先生。 アンタから一本取ってやったぜ」 「……晋助」 「信じられねえならもう一本やるか?」 「…いえ、…結構ですよ」 行儀の悪く足を開いて松陽の顔の横に屈んだ子どもの、子ども、とは呼べなくなってしまった端正な顔に手を伸ばす。 片手で頬を包み、長く伸びた前髪をさらりと持ち上げてやると、ぽっかり孔のあいた左目がこちらを向いた。 驚くでもなく「目は」と問うと、高杉は笑った。 終ぞ見たことのない笑い方だった。 「あなた、目玉はどうしたんですか」 「なに、俺は元からこうだったよ」 「…そうでしたっけ」 「ほら、立ってくれ。 銀時を待たせてる、あいつともやり合ってもらわねえと公平じゃねえだろ」 「……年寄りには、やさしくしてくださいよ」 体を起こして立ち上がる。 道着の裾をはたいていると高杉が銀時を呼びつけて、そのさまを見るため顔を上げたところで、意識はぶつんと切れた。 「梅とツナマヨ、どっちにする」 「ばっかオメー、そこはな、最近流行りのめーぷるしろっぷをだな、こうやって」 「馬鹿は貴様だばかもの!液体をおにぎりの中に入れるやつがいるか!」 「…そういうことではないと思うぞ、小太郎」 「アンタも馬鹿だな、こいつらが言って聞くかよ。 オラ、中身入れなくていいからどきやがれ。 特に銀時、テメーは兄さんに任せろ」 「はああ!?なんで!」 「わかってねえなら重症だな」 「テメー、ほんっ、ほんっとムカつく!表出ろ、ヅラァ!審判やれ!」 「何を言っている!ああもう、米粒をつけたまま動くな!こらっ、高杉も乗るな!もう、先生も止めてください」 「…先生?どうかされましたか」 「んだよ松陽、ハラでも下したか」 「テメーじゃねえんだからンなはずねえだろ」 「……先生?」 「どうしてあなただけ小さいんです」 「さあ、アンタが想像できねえんじゃねえのか」 「なるほど」 「俺も、もう少しタッパがねえと、この体勢はキツいんだけど」 「…そうですね」 あまり肉のついていない、そのくせ大人よりもずっとやわらかな太ももに頭を沈め、松陽は笑った。 うまく笑えた自信はなかった。 銀時は静かな目をしている。 庭は雪で白く染まって、黒にも近い色をした松の木はすっかり化粧を済ませ、吐く息は途端にうすく凍るのに、彼は着物一枚の格好で裸足を外に垂らしていた。 体温を強く感じる腹の方に顔を向けて、太ももと同じく肉の薄い腹に鼻の先を埋めてみる。 気色悪い、という声が頭の上から降ってきて、そのくせ髪は梳かれるからたまらない。 腕を回した背中はあまりに小さかった。 「…夢ですよね」 「そうだよ」 「私の話を、聞いてくれたりしますか」 「夢だからな。 アンタに都合はいいよ」 「そうですか」 雪の降る世界では、音はやわらかく吸い込まれて消えてしまう。 目覚めたときのあの凛とした静けさは、何ものにも代えられぬ音がして好きだった。 世界にただ一人、誰もいない、自分だけの空間。 孤独とは少し違うあれを、いったいなんと呼べばよいのだろう。 「私は、あなたに謝りたいのでしょうか」 己の言葉が、彼を縛り付けてしまうとしっていた。 やさしいから、彼は逃げられない。 松陽のことをよく理解して、意味をしって、行動する。 わかっていながら松陽は、握り拳から指を出したのだ。 げんこつで止めておくべきだったのに、いちばん小さな指を差し出して、銀時の小指に鎖をかけた。 その鎖は、松陽の手のひらの中で錆びている。 もうじきこれは首にかかって、そのまま。 「違うだろ、松陽」 「……」 「謝りたいんじゃなくて、赦されたいんだろ」 「…はは、君は、ほんとうに」 「なんだよ」 「…私好みに育つなんて、夢でしかありませんね」 埋めた鼻の先に、甘い匂いがした。 冬の季節には嗅ぐことのない花の香りを肺いっぱいに吸い込んで、松陽は銀時の着物の端を握る。 髪を梳いていた手は、いつの間にか撫でる動きに変わっていた。 悪いことをした子どもを大人が叱ったあとに宥めるときの、指の先から情が滲むような触れ方だった。 自分自身が、それを望んで彼のかたちをしたなにかにさせていた。 「後悔のないようにな」 声変わりはしましたか。 背はどれだけ伸びましたか。 文字はしっかり書けるようになりましたか。 計算の苦手は克服しましたか。 あらゆる教えを覚えていますか。 ご飯はよく食べられていますか。 剣筋はどれだけ冴えましたか。 晋助と喧嘩ばかりしていませんか。 小太郎に怒られてはいませんか。 私に、約束に、縛られてはいませんか。 子どもらしく生きられていますか。 ひとは、声から忘れていくようです。 どうか私の言葉は忘れられましたか。 「……後悔など、」 悔やむ隙もありませんでした。 あなたは、どうでしょうか。 寝ても覚めても同じだ。 変わらない。 だって松陽は、彼らに生きてほしいと夢見てきた。 生きて、生き延びて、大きくなってほしかった。 己の背を越し、己よりも強くなり、あるいはずぶとくしたたかに。 閉じた目蓋の向こうより、開いた目に映るもののほうが、よっぽど夢に近い。 松陽は今から、五百年の夢を叶える。 大切な、大事な子のふたつの手、あるいは五人ぶんの心を代償に。 「…外の暦は、どうなっていますか」 「聞いてどうなる」 「聞きたいだけです」 「……神無月だ」 「ああ、やはり、…金木犀が香りますね」 「このあたりには咲いていない」 「なに、簡単なことですよ、朧」 囚人相手に受け答えをしてしまうあたりが、やさしいのだ。 謝りはしない、謝ってしまっては、おそらく彼を殺してしまう。 尊厳の死は、肉体の死よりもおそろしい。 だから松陽は、彼に直接かけるべき言葉をもたない。 笑う松陽に、朧の目はまたたいた。 今から彼に負わせるものを指折り数えながら、松陽は腕を差し出した。 罪人の、すべてを殺すばけものの腕を。 「私はずっと、夢のなかにいるのです」 五百年ぶんの秋が、肚の底にいる。 鼻を埋めた子どもの匂いも、松陽は平らげてしまった。 告げる言葉は思いつかない。 愛し子に会える事実だけを抱えて立ち上がる。 凝り固まった体がぱきぱきと音を立て、燃える前の薪のようだと思った。 薪にしてくれればいい。 燃やして、手をあたためて、冬を越すための足しにしてくれれば。 冷たい布団が苦手な、声変わり前の子どもだった。
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26才まで暮らした寮生活はまあ楽しかった、けれど次第に心が乾いていった・・・ 机の奥から茶色に変色した古びたノートが出てきた・・・ 小さな花が道端に 咲いていたのは夢なのか 信号待ちの交差点 風を切る自転車 そぞろ歩いた街の中 いつだったのか どこだったのか ありきたりの景色の中 移す視線にふと目に留まり 戻す視線で見失っていた 小さな不思議に見返しても 二度と目には映らない 時の狭間の小さな花は だから気にも留まらず消えていた 忘れてしまった花なのに 心の中によみがえり いつしかじっと見つめている いつだったのか どこだったのか 思い出せない景色の中で 小さな花が咲いている 小さな花が道端に 咲いていたのは夢だったのか ・・・友人Kの言葉を継いで 言の葉を吐くたびに 私の心は 空っぽになっていく 父として 男として 何よりも ひとりの人間として 愛し 喜び 憤り… 心を大切に生きてきた 想いを口にするたびに 人を愛するそのたびに 私の中で何かが崩れ そして 失われていく それでも思わず口にする 愛したいが為に 吐いてしまった言の葉は やがて古びた文字となる 込めた思いと別になり 虚しくフレーズだけが残る そしてあなたは 何も変わらず 今日を生きる さまよう心で 新しい言の葉を探してみる 悲しみや怒りが 乾いた文字となり 脳裏を駆け巡る 本当は 本当は あなたを愛していたいのに… 夕暮れの海が見たくなり ひとり居る どこまでも続く砂浜 遠くにかすむ釣りの人 波打ち際に群れるチドリ… 波と遊ぶ子らのよう 夏の名残り 若者たちの季節は去ってしまった いつしか消えた釣り人 もう誰もいない ふと不安を覚え声の限りに叫んでみる 何度も何度も 自分の声が外から聞こえる 不思議な感触 光を失って行く浜辺 ゆがんだ月が浮いている 波頭が白く浮かぶ 見渡す先はどこも無限 吹く風に心を預ける 波の音しか聞こえない 月光に横たわる骸 ひとつの舞台の終焉のよう そして私を離れた意思が 私自身を俯瞰する 何もかも心も脱ぎ捨て波に立つ もう何も怖くない 寄せ来る波は永久の営み 今を過ぎ行き砕けて終える このまま時に流されて 波打ち際に果てるのか… 沖へ向かって 漆黒の未来へ向かって歩き出す 一歩また一歩… 青白く浮かび上がる世界に 心奪われる いつしか外音さえ遠のく 小さな部屋 じっと息を潜め 水の世界に同化していく 水から生まれた祖先の 遠い記憶なのか 何故にこうまで 心惹かれる 切り取られた空間に 悲しみを見た 悠久の自然に生まれ 静かに死んでいく 太古から繰り返された 生きるものの摂理 まがいものの自然に 何が出来る 何のため 誰のために閉じ込める 小さなこの部屋は それでも私を離さない 静かに息づく水の世界が いざない招く 空間を隔てる壁が やがて消え失せ 変わらぬ定めの私が 彼らと共にいる 切り取られた水槽の悲しみは 私の中に繋がる 目の前のコートが ポッカリと空いている 遠巻きにコートを埋めている選手たち コートひとつの隔たりに 遥かな距離を感じる 怒られるのが嫌で 遠くに行ってしまいました 選手の言葉に 罵声を浴びせ続けた日々を思う もっと優しく教えて下さい 遠慮がちに訴える 新チームになって3ヶ月 何かすれ違う日々だった 夏に昇り詰めた思いに その姿はあまりに稚拙 毎年繰り返すリセットが いつしか億劫に 降りて行くことを怠り 高い場所から見てしまう 心が重なり合わない不機嫌 見通せる遥かな道のり これではいけない 思いながらもつい怒鳴っている やっと見つけた糸口 ポッカリと空いたコート 君が大人になって、何かスポーツを教えているとしよう ひとり一人と話してみる 真っ直ぐな瞳が帰ってくる 裸の心で見つめあう そんなことさえ無かったのか いくら言っても出来なかったとしたら 君はどうする? 怒ります 強くなって欲しいからです 怒ることに 憎しみと愛情とどちらを感じる? 愛情です 誰もが 同じ言葉を口にする 怒鳴りつけることで 意識改革をさせているのだ そんな勝手な自己弁護 重ねる年輪への倦怠感 それでも 彼らは付いて来てくれた ありがとう信じてくれて 変わるべきはこの私だったのに 古いノートを めくっていたら セピア色の クローバーがあった 四つ葉じゃなくて 五つ葉 こざかしかった自分らしくて 可笑しい どこで摘んだか 忘れたけれど 恐いもの知らずのあの頃が ふと蘇る いつしか 遠くを見ていた けだるさに 心が流されそう 息苦しさに 視線を振りきり そっと クローバーを戻す ノートを閉じ 小さく息を吐くと まぎれもない今の自分が そこにいた 海が見たい お前はいつも言っていた タイムサービスの総菜を ぎりぎりまでねばって買ったよ 揃いのTシャツが欲しくって バーゲンを回ったよ いつものそんなおしゃべりに フンフンとうなずく僕だった いつしか二人暮らすようになった小さな部屋 道具が無いことさえが 幸せなのだと思えた 雨が降った休みの日 肩を抱いて二人黙っていた ガラス窓を叩く風が なにかをささやいていく いつまでも こうしていられたらいいのに でも 何かが少しずつ変わっていった 遠くを見つめる目つきに ふと 不安を覚え どうしたの? 無理に笑って聞いてみる ううん なんでもないの・・・ 戻った視線でそう答えてくれた お前と別れて 3度目の夏 果たせなかった約束の海辺で今 一人水平線を見つめている 海が見たい お前はいつも そう言っていた 勝たせてあげたいは愛すること 愛する努力 愛される努力 楽しくなければ上手になれない 楽しいだけでは強くなれない コートを離れてもなお すべてに心するものに 女神はほほえむ ときに涙するひたむきさ その涙のなんと美しいことよ 大会に舞う子らのまぶしさはどうだ 喜びと少しの淋しさと そして何よりも大切なこと かがやく瞳あふれる笑顔。 (表) 熱き血潮よ 見果てぬ夢よ 臨むコートに 高鳴る鼓動 無為な一日(ひとひ)を過ごすまい 楽すりゃ女神がそっぽ向く (裏) 遊んで暮らそよ 短い人生 のんべんだらりん 楽しきゃサイコー! 夢想は捨てまひょ捨てましょよ 羅漢は羅漢 俺は俺 *(表)(裏)は、アクロスティックになっています。 教えて下さい! 教えて下さい! 泣きながらすり寄ってくる。 もう30分も相手をしたんだよ。 出来ないものはどうしようもないじゃないか。 あまりのヘタさに怒る気にもなれない。 これで少しは分かっただろうに。 おまえだけを相手するわけにはいかないだろ。 ほかのやつと代われよ。 教えて下さい! 教えて下さい! 涙で、ただただ繰り返す。 いいかげんにしろ! ムッとしてラケットを振り上げる。 よけようともしない。 こいつを何とかしろ! 周りに怒鳴りちらす。 とまどいが帰ってくる。 邪魔をするのなら俺は帰るぞ! 泣きながら追いかけてくる。 先回りして運動靴を抱きしめる。 帰らないで下さい! 教えて下さい! 振り切ってサドルにまたがる。 荷台にしがみつく。 涙で、何か言っている。 何だよ! 振り向いて問いただす。 僕はいいから他の子に教えてやって下さい・・・何度目かに、そう聞き取れた。 ゲーム練習で兆候を見つけ、基礎に戻った4番集めのオールショート。 相手の意識をネットに置いてフォア奥へ押し込んでやる。 案の定、繰り返すノータッチ。 何度も何度も言って来たのに、フットワークが理解できていない。 理解しようとしない。 いくらあがいてもシャトルに届かない。 誰もが難なくこなせる練習なのに。 静かにシャトルを送り続ける。 惨めさに顔がゆがんでくる。 泣きながらの繰り返し。 もういいだろう? 頃合いをみて、そう言ったのだった・・・ 戻ったコートで練習を続ける。 横目で見やると落ち着きを取り戻している。 コートに背を向け、相手をして欲しいやつは来いと言ってみる。 いつもなら飛んでくる選手達に躊躇がみえる。 誰も動こうとしない。 気配に振り向くと、悪びれる様子もなく再びコートに立っている。 お願いします! 叫ぶ顔は険しさが消え、謙虚が浮かんでいる。 雰囲気がそうさせたのかも知れない。 仕向けに乗っただけかも知れない。 だがそこに、コートに送り込もうとする仲間達の心が見えた。 久しぶりに手にした本を読み返すと あの頃と違った景色が見えてくる 自分しか見えず他人を傷つけてしまったあの頃 少しでもそれが見えていたら あの無邪気な別れは無かったかも知れない 久しぶりに訪れた街を歩くと あの頃と違った息遣いが聞こえてくる 傷つくことを恐れ耳を塞いでしまったあの頃 少しでもそれが聞こえていたら この街から逃げ出すことは無かったかも知れない こうして立ち止まり振り返えってみると 幾つもの分かれ道を辿ってきた自分に出会う 幾つものあの時もし別の道に進んでいたら 今の自分はいったい何処にいるのだろう 何気なく歩いているこの道も あの角を向こうに曲がっていたら別にいる 僕は違った街を眺め違った人と出会っている 出会いとは何と気ままでふとしたものなのだろう 幾つもの分かれ道を辿ってきた僕と 幾つもの分かれ道を辿ってきた君が 今こうしてここにいる そのことに僕は不思議を覚えてならない 中学生と バドミントンを始めた頃は何も分からず、分からないから楽しかった。 小さな「わからない」の解決にさえ、通じ合える喜びがあった。 経験はそれなりのノウハウをもたらすが、新たな苦しみも生み出す。 希望に満ちた出会いは変わらない。 いつだって選手の瞳は輝いている。 変わってしまったのは、季節を繰り返した私の心。 選手の心と重なり合えない。 いつしか新鮮を失い、その歩みにもどかしさを感じてしまう。 「面倒くさいなあ」思わず口にしている。 何で言う通りに出来ないんだ。 苛立ちを、些細なことで選手に向けてしまう。 激しく罵倒し、追いつめてしまう。 追いつめて、揺さぶって、見つめさせているのだ。 そんな勝手な自己弁護。 怒鳴ってしまうのは、己の不機嫌さゆえ、未熟さゆえなのに。 よい方向に変わってくれる。 信じてはいるが、 万が一でも選手が拒み、信頼が去ってしまえば・・・ きっと楽になれる。 そう考えたりもする。 本当は恐れているのに。 傷つけてしまったことで、大切を確認し 苦しめてしまった負い目を手がかりに、新たな絆を探っていく・・・ 信じてくれる純粋につけこんで、追いつめてしまい どう転ぶか分からない結末に、行く末を賭けてしまう・・・ そんなことをいつまでも繰り返している。 いつも笑顔を絶やさずに、共に歩んでいく・・・ それは出来ないことなのか。 混沌の中から溢れ出した言葉の切れ端を並び立てて相手を翻弄するという方法を ぼくは好んで用いるのだけれど、この頃はその混沌がとてつもなくおおきな怪物と なってしまいぼくの生命にさえ影響を及ぼそうとしている。 頭の中を正さねば、でなければ精神的な廃人への道をたどってしまう。 イメージをひとつひとつの言葉の積み重ねという作業をもって具象化する訓練を 今のぼくは最も必要としている。 天才でもマジシャンでもないただの凡人であることを今こそ思い知らねばならない。 ボクには休養が必要なのかも知れません。 逃げ出したい、逃げ出せない、逃げ出したくない。 クローバーの ちいさな葉っぱをプチンとちぎり そっと唇でぬらし 葉と葉の間にそえて 四つ葉のクローバーだよ! とボクはいう 君はなんだか大げさに驚いて とても簡単に騙されてくれる ふたりとも幸せになれるねって 喜んでくれる ボクはそんな君がたまらなく好きなんだ 君は5月の風に手をさしのべて 花たちと飛んでいってしまった 君の瞳は輝き赤いルージュは微笑みかけた 君は5月の青空(そら)に翼をひろげ 小鳥(とり)たちと飛んでいってしまった 君の唇はきらめき赤いルージュはうたいかけた 君は5月の星空(そら)に瞬きながら 星たちと飛んでいってしまった 君の頬に涙がひかり白い星くずとなって流れていった だから僕も空を飛ぼうと 5月の風に乗ってしまおうと思ったのだけれど いつまで待っても羽根なんか生えやしない いつまで待っても空なんか飛べやしない 君は5月の風に乗って もう僕の手のとどかないところへ 花たちと飛んでいってしまった ぼくはある時kojiさんとサイクリングに出かけたのです。 風はすこし冷たかったけれど桜の花のきれいな時でした。 竜ヶ崎を目指したはずが不思議な予感に誘われて 正直というところから横道にそれてしまったのです。 空は明るかったし何処までも続くジャリ道がとても魅力的に見えたのです。 とある山道から通りへ出るときのこと 勢いのついた自転車にぼくはブレーキをかけることができなかったのです。 あっというまに道ばたに迫ってしまったのに 止めることを思いつかなかったのです。 何の疑いもなく空間に乗り出していたのです。 頭から落ちて自分を取り戻したぼくは その時明らかに空を飛ぼうとしていたのでした。 フワッと体が浮いた時ぼくは本当に羽ばたいてしまったのです。 いつか見た外国映画の若者のように空を飛べると思ってしまったのです。 ぼくは高いところへ行くと自分を失ってしまいそうになる。 空間に魅入られてしまう。 ぼくをかろうじて止まらせるのは あの映画の若者の無惨な死に様 更には遠く 川崎サイカヤデパート屋上からの飛び降り自殺の印象… あなたにお願い もし高いところにたたずんで 飛ぼうとしているぼくを見つけたら どうか現実の世界に連れ戻してください。 (土砂降りの中の行軍) 土砂降りの中の行軍 定期便(くるま)がしぶきをあげて追い抜いていく 水を着たサイクラア 通行人(ひと)も定期便(くるま)も周辺(あたり)の景色までもが 二人をあざけり 白い目を向け 冷たい雨が加勢する ガンバレヨーー ずぶねれの同志の すれ違いざまの一言 その一言の 何とはげみになったことよ (日本海を見た) 日本海を見た 弥彦の山頂から見る日本海は 静かで 蒼かった 太平洋から続いている そんな事実(こと)がウソに思えた ・・・補作 馬鹿にするんじゃねえよ! 込み上げてきた怒りが 爆発寸前 何に怒っているのか 自分でも解らない 目の前にあるのは おだやかな情景 人々のほほえみに いつしか苛立っていた ふと迷い込んだ 知らない公園 水辺を歩く老夫婦 鳩に餌する親子 遠くで子供がはしゃいでいる やわらかな日差し 描いたような日常 ありきたりの風景が 俺を疎外する こらえ切れず殴った コンクリの壁 片隅のはずれ者に 気付く人さえいない 誰もが幸せそうで たまらなく嫌だった 暖かい春の日 幸せ色の景色の中 流れる血の赤さだけが 俺の居場所だった 無限と無限の間のわずかな一閃が 人生であると言う けれど・・・ 人は無限を知ることができる まなこを閉じ じっと見つめると 無限の闇の中 ふと浮き上がり ふと消えていく 気体とも 液体とも 固体ともつかないそれは 私の悩みが見えるのです 確かに私はこの言葉を忘れた ものを見つめる新しい目を失った 今の私にはこの言葉がない あるのはただ 妥協のみだ わたしはこの国の旅行者 童話の国の旅行者 心の中にかすかに残っていた道をたどってきた わたしはこの国の旅行者 童話の国の旅行者 この国の住民はこどもの心 ひとは誰もこの国に生まれ この国で遊ぶ ひとは誰もこの国をすて 大人になっていく この国を懐かしみ訪れたいと思う時 大人の心にこの国への道はない 後輩に 漠に似たやつがいる 夢を喰うと言う あの動物にだ 実物を見たことは 無いけれど その姿を 見るたびに 私の夢を 喰いそうに感じて なんだか 可笑しい 後姿に そっと呼びかけよう バクちゃん… 本当に夢が喰われそうで やめた 僕は君を行かせまいと思っていた 何があっても踏み止まらせようと思っていた 君が僕達にそれを知らせに来たとき けれど僕は何も言えなかった 君の顔にいつもの笑顔がよみがえっていた だから僕は何も言えなかった 君は君の決めた道を 信じた道を歩いて行けばいい 君を止められなかった僕は だから少しも後悔していない 初恋は?って聞かれたら 小学校2年の頃と答えます もちろん恋なんてもんじゃありません 彼女と一緒がとても楽しかった 転校してしまってちょっぴり淋しかった ただそれだけです いつだったかぼくの家(*)に来たときに 恥ずかしくて部屋に入れなかった それだけのことです 姉さんと出かけた時に住んでいるという街をジッと見つめた… 思い出すだけで心がフワリとしてくる ただそれだけのことなんです 初恋は?って聞かれたら やっぱり小学校2年の頃と答えます もしかしてこれが初恋ってものなのか知らん? (*)6才違いの姉同士が友達だったのです。
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