概要 [ ] (の前身)社長を務めたの 1865 - 1950 が1916年頃からの10年余に 、、、等で収集した美術コレクションで、の・と日本のが主体である。 のやも含む。 西洋美術コレクション約3,000点については散逸・焼失した作品も多い(の項の『松方コレクション 西洋美術全作品』参照)が、このうち、フランス政府から返還された近代フランス・等370点を基礎として、1959年に・にが開設された。 特にの絵画、の(『』 など)がまとまって収集されている。 約8,000点のコレクションは、美術商のを通じて、フランスの細工師で日本美術コレクターのから買い戻したものが中心で 、一括しての所蔵となっている。 、らの名品を含む、一級のコレクションである。 収集の経過 [ ] は、を務めたの子である。 (後の)に進学するが、校内紛争に関わったかどで放校処分となる。 その後、(17年)にへ留学。 を経て、での博士号を取得し、に帰国した。 帰国後は首相となった父・松方正義の秘書を務めた後、創業者のに見込まれ、、へ改組した同造船所の初代社長に就任した。 とは同郷()の旧友であり、幸次郎の留学費用も川崎が用立てていた。 に伴う船舶需要の高まりを受け、は積極経営で業績を拡大していった。 が収集を開始したのは、(5年)3月からにかけての滞在時のことである。 はアメリカ経由での首都へ向かった。 この渡航は、川崎造船所のために貨物船の売り込みやなどの資材の買付をすることが主目的であった。 美術品収集を始めた経緯については諸説あるが、ロンドンので、興味本位で絵画を購入したことがきっかけであったという。 、松方は出身のイギリスの()と知り合った。 同世代の2人は親しい友人となり、ブラングィンは松方の美術コレクションのアドバイザーも務めた。 松方はまでのロンドン滞在中に、イギリス絵画を中心とする1,000点以上の作品を収集した。 この他、1918年にはフランスの宝石商アンリ・ヴェヴェールが持っていた浮世絵約8,000点を一括購入。 同じ年、リュクサンブール美術館館長(後に館長となる)のレオンス・ベネディットの仲介で、の代表作を一括購入している。 上記の1916年から1918年にかけての滞在を第1回目の収集旅行とすると、2回目の収集旅行は(大正10年)4月から2月にかけてで、この時はロンドンのほか、、に渡った。 この時の渡航は、の依頼で、第一次世界大戦で猛威を振るったの()のを入手するのが密かな目的だったという。 松方の名は既にコレクターとして知られており、パリのベルネーム・ジューヌやディラン・リュエル等の巡りには、1921年3月からパリに留学中でフランス語が堪能なが屡々同行した。 成瀬の宛書簡(1921・9・5付)には、「此頃松方さんが 来て方々絵を買ひに歩いてゐる。 十五六枚、四十八枚、十枚を筆頭に沢山買つた。 矢代君も一緒だ。 日本で展覧したら立派なものだらう。 世界の大抵の美術館には劣るまい。 八百枚以上の名画があるんだから」とある。 が後年『』に書いた「松方幸次郎」には「当時、私と共に松方さんについて歩いたのは、私と東大以来親しくしていたであった。 成瀬はのの息子で、やの仲間であった。 彼の当時新婚の奥さんは、川崎造船所の川崎家より来ており、従って松方さんはこの新婚の夫婦をパリで子供のように可愛がり、また成瀬は絵が好きなので、松方さんの画商めぐりにはよく私と一緒について歩き、また二人で松方さんの顔をきかせて方々の蒐集家を訪問して、いろいろ見せてもらつた。 それで自然に成瀬は松方さんに画の選択について言うことになっていたが、もともと非常に金持ちの坊っちゃんで臆面なしであり、殊に、松方さんには何でも言える間柄であったから、成瀬の意見は松方さんに通りがよく、それで私は屡々松方さんに何か言う時、成瀬に応援を頼んだ。... 彼は殊に二人の画家を推奨して已まなかった。 一人はであり、これは確かに彼の文学趣味から来ていた。... もう一つ成瀬が好きだったのはであった。... 松方さんと一緒に歩くと、頻りにクールベーを求めるので、しまいには画商の方も承知して何時行っても何かよいクールベーを見せてくれるようになった。 その中には随分いいクールベーもあったが、どの程度松方さんが買われたか、よく知らない。 しかし日本に割合に多くクールベーの佳品から、以下いろいろの程度のクールベー風の作品が入っているのは、成瀬と共に歩く松方さんが自然に多くクールベーを買われ、その結果、敏感なるパリの美術市場は日本人のお客とみれば、クールベーを出して見せたためではなかろうか。 お陰で私はよいクールベーの勉強が出来、 松方コレクションにもよい作品が入っているようである。 」とある。 松方は当時健在であったの巨匠とも直接に交渉し、作品を購入した。 画商などから購入する時も剛胆で、で「ここからここまで」と指して購入したとの逸話も伝えられる。 パリ近郊にあった邸を1921年に訪問 した際の様子は、矢代の著書『芸術のパトロン』に描写されている。 それによると、松方はモネの自邸に飾ってある自作の中から18点を選び、所望した。 モネは「自宅に飾ってあるのは自分のお気に入りの作品だが」と言いつつ、「君はそんなに私の作品が好きなのか」と言って快く譲渡してくれたという。 同じく矢代の伝えるところによれば、画商ポール・ローザンベールのところで見かけたの『』との『風のパリの女たち』の2作は希代の傑作なので、ぜひ購入するよう、矢代は松方に熱心に勧めたという。 矢代があまりしつこく勧めるので、松方は買わずに店を出てしまった。 「あの傑作の価値がわからないのか」と憤っていた矢代が、しばらくしてからの所を訪れると、『ファンゴッホの寝室』『アルジェリア風のパリの女たち』の2作とも買ってあったという。 これは、画商に手の内をみせて、絵の値段を吊り上げられないようにという、松方の計算もあったのではないかと言われている。 当時、松方は「私が自由に使える金が三千万円できた」と矢代に語ったということであり、これは現在の通貨価値に換算すれば300億円程度と推定される。 松方は(大正15年)4月から(2年)4月にかけてもヨーロッパに滞在し、コレクションを増やした。 コレクションの行方 [ ] 松方は共楽美術館というを設立する構想を持っており、が設計図を作成していた(ブラングィンが描いた共楽美術館の構想図は現在、国立西洋美術館が所蔵している )。 しかし、にの影響で川崎造船所の経営が破綻し、負債整理のため松方も私財を提供せざるを得なくなった。 そのため、日本にあったコレクションは十五銀行、藤木ビル等のとなり、売立てにより西洋美術1000点以上が散逸 してしまった(その一部が現在、(現在のアーティゾン美術館)、に収蔵されている)。 浮世絵のコレクション約8,000点は、昭和13年()にへ献上され、昭和18年()に帝室博物館(現在の東京国立博物館)へ移管された。 一方、日本国外で保管していたコレクションは散逸を免れたが、に実施された10割(の復興資金のため、買値の10割の関税、つまり買値と同額の税金がかかった)が日本移送の障害となった。 昭和初期に、的風潮が強まる中で、西洋美術のコレクションは軍部に悪印象を与えるのを恐れたこと等もあって、そのまま日本国外に保管されていた。 ロンドンで保管されていたコレクション(約900点と推測されている)はに火災で焼失してしまった。 パリにあった400点以上のコレクションはに預けられていたが (428点との説がある)、のにより、元の日置釭三郎の尽力によりパリ近郊のアボンダンにさせられた。 は免れたものの、ナチス・ドイツと同盟してであった日本は、本国を奪還したフランスにとって敵国かつ敗戦国となったため、在仏の松方コレクションは敵国財産としてフランス政府に接収されてしまった。 松方は1950年に死去するが、孫の松本健の回想によると、晩年はフランスからの返還に備えて受け取りサインを書く練習をしていたという。 返還の経緯 [ ] フランス政府に押収された松方コレクションの返還交渉はから始まった。 交渉は難航したが、のの際に、首相がフランスの外務大臣に要求し、返還されることが決まった(によれば、フランスを含むに管理されている日本の財産はそれぞれの国が没収するが、日本の占領地以外に合法的に居住していた個人の財産は例外規定により、所有者に返還されるはずであった)。 しかし、その後の交渉の中で、コレクション中、重要なやなどいくつかの作品については側が譲らず、結局、196点、素描80点、26点、63点、5点の合計370点の作品が、を建設して展示するという条件付きで日本政府に返還された。 側は「寄贈だ」と主張したため、「寄贈返還」という言葉が使われた。 返還交渉にあたったらは特に『』と『アルジェリア風のパリの女たち』を要求したが、前者の返還は認められなかった。 受入れのための美術館はにより基本設計が行われ、にとして開館した。 コレクションの研究 [ ] 松方本人や関係者がコレクションについてまとまった著作・記録をまとめることもないまま、松方が経営していた事業の破綻で、コレクションのうち西洋美術については多くを手放すこととなった。 保管場所も日欧に分かれ、コレクション全体が一堂に集められたこともない。 このため「幻のコレクション」とも呼ばれてきた。 国立西洋美術館はコレクションの調査や買戻しを現在まで続けている。 特に近年は各国のや画商が保有する作品リストと過去のがで閲覧・入手できるようになり、散逸・現存作品の所在確認が大きく進んだ。 2016年9月には松方コレクション953点分の作品リスト(絵画255点、版画554点、彫刻17点等)がロンドンで見つかったことが公表された。 リストは、松方と取引のあったロンドンの画商が遺したもので、2010年、に寄贈された文書に含まれていた。 またコレクションの一部(348点)を1920年代半ば頃に撮影したとみられるガラス乾板が、建築・文化財メディアテーク写真部門で見つかった。 現在では所在不明の作品や大きく破損した絵画も含まれている。 主な作品 [ ] 国立西洋美術館所蔵 [ ] に政府から返還された作品(370点)については、の項を参照。 なお、同美術館はこれ以外にも購入または寄贈により旧松方コレクションに由来するを所蔵している。 下記のうち、ミレイ、ロセッティ、セガンティーニの作品は、戦前に売り立てられた旧松方コレクションの作品で、購入または寄贈によって館蔵となったもの。 ドーミエ、マネ、ピサロは、松方家から寄贈されたものである。 『あひるの子』• 『愛の杯』• セガンティーニ『羊の剪毛』• 『観劇』• 『ブラン氏の像』• 『収穫』• 『』 - 60年以上所在不明となっていたが、ルーブル美術館の収蔵庫でロールに巻かれた状態(キャンパスの半分以上が失われていた)で発見され、2018年に返還された。 ブリヂストン美術館所蔵 [ ] (現在のアーティゾン美術館)には松方コレクション由来の作品が16点ある。 うち、モネ『雨のベリール』は松方家から寄贈されたもの。 『聖書あるいは物語に取材した夜の情景』(旧タイトル『ペテロの否認』)• 『オンフルールのトゥータン農場』• ピサロ『菜園』• ピサロ『ブージヴァルのセーヌ河』• マネ『自画像』• マネ『オペラ座の仮装舞踏会』• 『サン=マメス6月の朝』• 『アルジャントゥイユの洪水』• モネ『雨のベリール』• 『カーニュのテラス』• ルノワール『少女』• 『ポン=タヴェン付近の風景』• ドービニー『レ・サーブル=ドロンヌ』• ファン・デル・クロース『ライスヴェイク城』 他に、ゴーギャンとゴッホ各1点があるが、現在では疑問作とされている。 その他 [ ]• 『マネとマネ夫人の肖像』()• モネ『』() フランスに残された作品 [ ] 1959年のフランス政府による松方コレクション寄贈返還の際、フランスに留め置かれたものである。 オルセー美術館蔵• 『チーズのある静物』• ボンヴァン『鴨のある静物』• ボンヴァン『野兎のある静物』• 『フラジェの農夫たち』• 『ビール・ジョッキを持つ女』• 『シュフネッケルの家族』• ゴーギャン『扇のある静物』• ゴーギャン『ブルターニュの風景』• ゴーギャン『ヴァイルマティ』• 『ジュスティーヌ・デュールの肖像』 ルーヴル美術館(素描版画室)蔵• 『ジョルジョーネの《田舎の合奏》より』(水彩)• セザンヌ『サント・ヴィクトワール山』(水彩)• セザンヌ『調理台の上の瓶とポット』(水彩)• 『ジョット』(水彩) ポンピドゥ・センター国立近代美術館蔵• 『サン・ミシェル橋』• 『鶏』• スーティン『ページ・ボーイ』• 『読書する婦人』 参考文献 [ ]• 編「松方コレクション」- 『近代の美術』2号、至文堂、1971• 石田修大『幻の美術館 甦る松方コレクション』 丸善ライブラリー、1995• 「特集 なるか、世界遺産 国立西洋美術館のすべて」- 『』710号、新潮社、2009• 石橋財団編『西洋美術に魅せられた15人のコレクターたち』展示図録、1997• 『松方コレクション西洋美術総目録』(1990年)• 川口雅子・陳岡めぐみ編『松方コレクション 西洋美術全作品』第1巻(絵画・1207点)、、2018年7月• 川口雅子・陳岡めぐみ編『松方コレクション 西洋美術全作品』第2巻(・など約1800点)、、2019年4月 『総目録』後の調査で明らかになった約1000点の情報が加えられた。 国立西洋美術館『松方コレクション展』、2019年 コレクションについて紹介・解説した図録。 『藝術のパトロン 松方幸次郎、原三溪、大原二代、福島コレクション』新版・、2019年 脚注 [ ]• 山中商会• 矢代幸雄『芸術新潮』昭和30年1月号、岡泰正『「アルルのゴッホの寝室」、松方コレクション、眼力示す。 』および2006年11月17日『日本経済新聞』• NEXT 2016. 6「幻の松方コレクション 作品リスト 英で発見」。 国立西洋美術館ではリストの発見により、コレクションの全容がほぼ明らかになるとしている• 『読売新聞』朝刊2019年3月5日(社会面)2019年3月5日閲覧。 国立西洋美術館では、開館時から所蔵しているものを「松方コレクション」、その後購入したものや寄贈されたものは「旧松方コレクション」と呼んできた。 2017年度には、旧松方コレクション作品群197点を約9500万円で購入した。 『』2018年2月27日。 インターネットミュージアム、2018年02月26日• 作品の特定は、石田修大『幻の美術館 甦る松方コレクション』巻末の一覧表、及び『西洋美術に魅せられた15人のコレクターたち』p. 55による。 作品の特定は、石田修大『幻の美術館 甦る松方コレクション』巻末の一覧表による。 該当作品の画像は、フランス文化省のサイトで参照できる。 関連項目 [ ]• (松方コンツェルン).
次の
日本の芸術家、大勢の人々のために美術館を作るー神戸の川崎造船所(現川崎重工業株式会社)」は30年にわたって率いた松方幸次郎氏(1868~1950)は、大一次世界大戦によって船舶需要を背景に事業を拡大しつつ、1916年~1927年頃のパリやロンドンを中心に西洋の美術品を買い集めた。 その総数は3000点を超え、フランスから買い戻した浮世絵の約8000点を加えれば、約1万点を超える規模であった。 しかし、1927年、昭和金融恐慌により造船所は経営破綻に陥り、コレクションは流転の運命をたどった。 日本に到着した作品群は売り立てられ、ヨーロッパに残された他の作品も流転の運命をたどった。 日本に到着した作品群は売り立てられ、ヨーロッパに残された他の作品も一部はパリでフランス政府に接収された。 戦後、フランスから日本へ寄贈という名目で返還された375点と共に、1959年(昭和44年)、国立西洋美術館が設立され、ようやく松方コレクションは安住の地を得た。 (詳細については、図録の冒頭論文「松方コレクション百年の流転」-陳岡めぐみ・国立西洋美術館館長)に詳しく書かれている) 睡蓮 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1916年 国立西洋美術館 「睡蓮」をめぐるモネの作品の中でも、パリのオランジュリー美術館に飾られている大装飾画は、モネの画業の集大成として広く知られている。 ジヴェルニーに居を構えた晩年のモネは、1980年代後半から自宅の庭の睡蓮の池をモチーフとする一連の作品の制作に没頭した。 1918年11月、第一次世界大戦の終結とフランスの勝利を記念してモネは、当時の首相で旧友のジョルジュ・クレマンソー(1841~1929)に作品の国家寄贈を提案した。 完成に向けて努力したが、1926年12月に故人となった。 作品は、その後、1927年にテュイルリー公園の一角にあるオランジュリー美術館に設置された。 松方は、モネと親交があり、二度にわたって松方がジヴェルニーを訪れて多数の作品を購入した。 モネは未完の作品をアトリエから外に出すことを嫌った 松方はモネから入手した2点の「睡蓮」のうち1点が本作品である。 恐らくジベルニーの作品の第一室の東の壁にある「緑の反映」に関連づけることができる。 もう1点が近年発展されたが(睡蓮、柳の反映)、それは最後に紹介する。 松方幸次郎氏の肖像 フランク・ヌラグイン作 油彩・カンヴァス 1916年 国立西洋美術館 この肖像は、松方とブラグイがロンドンで出会った頃、そして美術品収集を始める1916年に制作された。 松方にこの画家を紹介したのは、ロンドンに外交官として駐在していた芸術通の兄正作や、在英日本人画家の石橋和調等と言われるが、画家と石橋は親しい関係を築き、松方はブラグインに彼の作品の売却、東京に建設予定の美術館のデザイン、そして他の画家の作品の購入の代理を依頼するようになった。 本作品では、カンヴァス裏面に「1時間で描く」とあるように、素早い筆さばきで生き生きと、モデルの姿を捉えている。 花野に眠る少女 ジョバンニ・セガンティー作 1884-85 水彩・カンヴァス 国立西洋美術館 牧歌的な情景を描いたパステル画(花野に眠る少女)はブリアンツ地方で描かれた。 後にセガンティーニ画風は「生」や「死」と言って普遍的な概念を扱う象徴主義へと移行していくだが、松方は自然主義的な作品に限って購入した。 実際、コレクション全体を見渡しても、神秘主義や観念を偏重するタイプの象徴主義的作品はほとんど含まれていない。 春(ダフニスとクロエ)ジャン・スランソワ・ミレ作 1865年 国立西洋美術館 農民画家として名高いフランソワ・ミレーはノルマンディーの海辺に生まれた。 1837年にパリに出て、国立美術学校でドラロッシュに師事し、1840年にサロン初入選。 当初は肖像画や物語絵を描いたが、次第に素朴な農民生活を題材とした作品に取り組んでいく。 1849年にバルビゾン村に移住し、後にバルビゾン派と称された。 大地に根差した農民の姿を感情豊かに描き続け、晩年は高い名声を得た。 1864年、ミレーはマールの銀行家トマの注文を受け、翌年にかけて、パリの邸の食堂を装飾するため「四季」を主題に天井画と3枚のタブローを描いた。 そのうち本作は、「春」を描いたものである。 春の陽光が降り注ぐ森の中で少年と少女が雛に餌を与え、木立の向こうには山羊の親子と海辺の遠景が覗く。 場面は二人の捨て子ダフニスとクロエがエーゲ海のレスボス島の牧歌的な自然の中で幼い愛を育み結ばれるという、古代ギリシャで書かれた恋愛物語に取材している。 後ろに立つ石像は、草花や卵を捧げられた豊穣の神である。 ここでは人生の春に四季が重ね合わせられている。 並木道(サン=シメオン農場の道) クロード・モネ作 1864年 油彩・カンヴァス 国立西洋美術館 貧しき農夫 ピエール・ピュヴィス・ド・シャバンヌ作 1864年 油彩・カンヴァス 国立西洋美術館 19世紀フランスを代表する壁画家ピュツヴィ・ド・シャバンヌは第二帝政期から第三共和政期にかけて、重要な公共建築物を飾る裕福な家庭に生まれるが、病気静養で訪れたイタリアで画家を志し、パリでトマ・クチュールらに師事する。 古典の伝統を受け継ぐ継ぎつつ、抑えた色彩と簡潔な表現、平坦で装飾的な画面構成を特徴とする作風で、独自の象徴主義的な作品世界を築き、続く世代へ大きな影響を与えた。 本作は、ピユヴィ・ド・シャパンヌの代表作の一つ「貧しき農夫(パリ・オルセー美術館)」のヴァリトンである。 貧し気な漁師の一家を水辺に風景と共に横長の画面に描いた1881年の作品は、サロンに出品された当時は批判の声も多かったものの、1887年に当時の所有者エミール・ボアヴァンから国家に買い上げられ、リュクサンブール美術館に展示された。 スーラーやマイヨールをはじめ、多くの若い画家たちがこの作品の影響を受けたことが知られている。 本作については、1893年に画商デュラン=リュエルからポワヴァンのもとに渡った記録が残されていることから、恐らくこの愛好家のためにオリジナルに代わるものとして制作された。 縦長の構図や小船のモチーフとあいまって、画面はジャポニズムの影響をより色濃く見せている。 波 ギュスタヴ・クールベ作 油彩・カンヴァス 1887年 国立西洋美術館 フランス東部、スイスと国境を接するフランシュ=コンテ地方に生まれ育ったクールベにとっては、海は長い間未知の世界だった。 彼が生まれて初めて海を見たのは、ノルマンディーの地方を旅した22才の時である。 1850年代のモンペリエ滞在の折に、地中海の風景をいくつか描いている。 その後、1850年代のモンペリア滞在の折に、地中海の風景をいくつか描いている。 しかし、クールベが海の風景に本格的取り組むのは1860年代後半のことである。 この時期、彼は英仏海峡に面したル・アーブル周辺の海岸をたびたび訪れた。 特に1866年はブーダンとモネを伴なって周辺の海岸をたびたび訪き、海岸の風景を25点ほど描いている。 更に1869年の夏には、断崖の奇観で知られるエトルタ海岸に約2ケ月滞在し、それから翌年にかけて、嵐の海の風景を沢山制作した。 1870年のサロンに出品した「嵐の海」と「嵐の後の風景とエトルタの断崖」は共に高い評価を受け、前者はクールベ歿後間もなく、彼の作品として初めてリュクサンブール美術館のためにフランス政府に買い上げられた。 エトルタの嵐の海を描いた本作には、ほとんんど同一の構図による異作が数点ある。 茜色に染まった雲が広がる暗い空の下で、巨大な波のうねりを頂点に達すると同時に崩れ落ち、岩礁にぶつかって白いしぶきをあげる。 画面は空と海にほぼ二等分され、荒れる海面はカンヴァスの境界を越えて手前に広がり、大波が目の前に迫るかのようである。 構図はごく簡潔だが、茜色の空と暗い緑色とを対比させた配色や、絵筆とペインテイングナイフを使い分けた質感表現に、優れた技量が認められる。 一連の波は物語的要素や感情を一切交えずに、峻厳な自然の実相を客観的にとらえようとした点において、故郷の山岳地方に取材した1860年代中期の「ピュイ=ノワールの渓谷」や「ルー河の水源」の作品に通じる性格を持つクールベの風景画の独自性を示している。 」 芍薬の花園 クロード・モネ作 油彩・カンヴァス 1887年 国立西洋美術館 ヴェトゥイユ時代を経て1883年にモネはパリの北西、ノルマンデイーも南東部に位置する小村ジヴェルニーに移り住む。 」セーヌ河とエプト川が合流する自然豊かなこの水辺の土地を気に入ったモネはやがて自宅の周囲に土地を広げ、後期の制作においては重要な着想源となる庭園の造成を進めた。 「芍薬の花園」は、この題材として描かれた作品の中で初期のものである。 この庭に水を引いて造った睡蓮の池は、モネ晩年のライフワークとなる「睡蓮」の連作を産むことになる。 「芍薬の花園」は「睡蓮」への道のりを示す作品である。 「日本婦人の肖像(黒木夫人)」 油彩・カンヴァス 1922年 エドモンド・アマン・ジャン作 国立西洋美術館 画家モネに愛され、松方とモネの出会いにも貢献した黒木竹子は、松方家長兄で十五銀行頭取の松方巌の娘であり、大蔵省の委嘱により国際金融情勢を調査する目的でパリに対在したていた夫の三次とともに1920年前後のパリに滞在していた。 夫妻も美術を好み、画家と交流し、絵を集めている。 当時のフランス画壇の中心的地位を占め、洋画家児島虎次郎との交流でも知られていた。 和服姿の竹子を描いた「日本婦人の肖像(黒木夫人)」は、夫妻がパリを発つ1922年4月の年紀を持つことから、夫妻のパリ滞在の記念に松方が注文したようだが、1922年4月に始まったパリの国民美術協会のサロンの画家から出品されている。 おそらくそのためにパリに残されたのだろう。 かって「国立西洋美術館名品選」を、「黒川孝雄の美」に連載したことがあり、かなり重複する記事があるので、重複を避けるようにした。 「松方コレクション」は第一次世界大戦後、美術品を日本に持ち帰ろうとした時に、「関東大震災の時と合致し、政府は奢侈品に十割という関税を課すし、それれを嫌って松方が欧州に送り返した」という程度の知識は持っていた。 ところがパリとロンドンに送り返した美術品は、まずロンドンでは倉庫の火災で焼失し、パリに残った美術品には敵国性美術品としてフランス政府に没収された。 戦後、松方コレクションが返還された際には、その専用美術館としてフランス政府の要請で建設されたものであり、かつ「返還」ではなく「寄贈」とすることにより、歴史的意味にかんがみて若干の絵画作品を返還の対象から外すという3点が問題となったとうに記憶する。 幸い、フランス政府の指名した建築家はル・コルビジュであった、 久さしぶりに国立西洋美術館に入館したが、いかにも狭い。 せめて、美術品はゆったりと拝観したいものである。 (本稿は「図録 確率西洋美術館開館60周年記念 松方コレクション展 2019年」、図録「国立西洋美術館名作選」を参照した。 ) 投稿者 投稿日: 投稿ナビゲーション.
次のファンゴッホの寝室(第3バージョン)、1889年、57. 同名の作品が3点あることが認められている。 「 ゴッホの寝室」、「 アルルの寝室」「 ファンゴッホの部屋」、「 アルルの部屋」と表記されることもある。 ・でゴッホが暮らした家の2階の部屋を描いたもの。 家は現存しないが、ゴッホの作品にとして残されている。 絵の左側の扉はゴーギャンの部屋につながっていたとされる。 3点のうち最初のものは、がアルルに来る直前のに描かれたもの。 次のバージョンは、ほぼ同サイズで9月に最初のものを複製して描かれている。 最後のバージョンは1889年9月にゴッホの母のためにサイズを縮小して複製して描かれたものである。 後にが購入しコレクション(いわゆる)に加えられていたが、第二次世界大戦当時はフランスに残され、による戦後賠償の一環としてにフランスの国有となり、現在はにある。 1921年頃、松方がパリに滞在し絵を購入していた際にはのが同行していた。 この作品が、の『アルジェリア風のパリの女たち』と共にで売りに出されていたため、矢代は「希代の傑作」であるとして松方に購入を勧めたが、松方は一度はこれを断り、矢代は落胆したという。 しかし、その後、矢代が知らない間に松方はこの作品を購入していたことになる。 脚注 [ ] [].
次の