パックス シニカ。 » これから起きる本当のこと。(後編) (連載「パックス・ジャポニカへの道」)

「パクス・シニカ」 中国による新たな国際秩序の創生は本当か WEDGE Infinity(ウェッジ)

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もう少しわかりやすい単語・概念に置き換えながら回答します。 また、冷戦に勝利して以降のアメリカが単独覇権国であるか否かは議論の余地がありますが、例えば仮に米国がモンロー主義に回帰して西半球に閉じこもったとして、東半球すべてを中国に任せる可能性があるかと言えばありません。 なんにせよ中国自体が単独覇権を狙っているわけでもない(いや今後50年とか100年の単位でなら狙っているかもしれませんが、そんな超長期計画が具体的に存在するという思考自体が過大評価か誇大妄想でしょう)ので、この設問はほぼ機能しません。 米中の共同覇権を意味するのであればなんとも言えません。 オフェンシブ・リアリストが指摘するように、覇権とは安全保障の追求の一形態であり、米中に共通する安全保障上の利害はほとんどなく、対立する面の方が大きいでしょう。 アメリカ指導部が本当の意味で中国に軍事的脅威を感じているかと言えばノーです。 予算確保の口実としてはともかく、中国の軍事力が「本当に」アメリカにとっての脅威になるにはあと10~30年は必要でしょう。 その前にアメリカか中国のどちらかが財政的にどうにかなるシナリオの方がよほどありそうです。 経済力が脅威になるかと言えば、これはアメリカでも議論は分かれているとこでしょう。 資源争奪戦とか地球環境保全とか、そういうキーワードでの競合の相手とは認識しているでしょうが、逆に言えばその程度の問題です。 政治的にどう考えているかは謎です。 概ね、対中封じ込めを狙いつつも地域安全保障についての負担の大きい部分については協力や肩代わりを求める(押しつける)ように見えます。 中国も覇権の拡大を狙いつつも負担の押しつけを警戒して抑制的に振る舞っているように見えます。 日本は中国とではなく米国と共通する利害・価値観を持ち、これに対して中国は各種の投資対象とマーケットとしての存在に過ぎません。 それ以上に能動的な何かを行う必要があるかは疑問です。 中期的には日本が防衛力の増大や政治力の強化を図ったとしても、それは基本的には米国を筆頭とする先進国やシーパワー側の利益を強化・補完するためであって、途上国やランドパワー側に与するものとはならないでしょう。 米国は地政学的な優位から他者に安全保障についての指図を受けるいわれは何もありません。 中国についても、ソ連の崩壊後は近隣に目立った脅威がない以上は同様にユーラシア東部での優位は揺るがず、これまた他者の意見に耳を傾ける傾向は下がるでしょう。 「打ち出の小槌」が何を意味するかも意味不明です。 影のキープレイヤーなどというものが存在するのかというのはおいとくとしても、日本が諜報に無頓着で外交がとんでもなく下手くそであるのが予見しうる将来に変化する可能性はなく、ありえない想定でしょう。 彼らはソヴィエト崩壊後の自国の実力についてはそれなり以上に冷静に把握していると考えるべきです。 すくなくとも海軍関係の動向をウォッチする限り、現在のロシアに対外的に勢力を及ぼす能力がないことを自覚しているとしか考えられません。 もちろん、それを正面切って認めるのは威信の低下に繋がるので、それなりの場面ではそれなりに口出しをして、「ロシアは大国である」という演技を続けるのも間違いないでしょうけれども。

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「 中国が進めるパックス・シニカの道 」

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この記事にはやの一覧が含まれていますが、 による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。 適切な位置に脚注を追加して、記事のにご協力ください。 ( 2012年2月) パクス・オトマニカ Pax Ottomanica または パクス・オトマーナ Pax Ottomana は、の支配下にあった領域で達成された秩序を指し、近年の1990年代以降で使われるようになった用語である。 、同様、ごく狭い範囲での平和の保持を達成したにすぎず、、と同義と捉えるのは間違えである。 この用語は「」(ローマによる平和)にちなむ。 オスマン帝国に好意的な視点を持つ多くのトルコ共和国の歴史学者は、帝国支配の肯定的な影響を強調するためパクス・オトマニカという用語を使うことを好む。 つまり、オスマン帝国の支配下の地域のほとんどは、オスマン帝国の統治以前は失政と暴力にあえいでいた(例としてはなどが挙げられる)。 また、オスマン帝国は16世紀から17世紀の国力の絶頂期にはと、地域のほとんどと、をも支配下に置いていたが、後にはアナトリアを残すのみとなっており、オスマン帝国から失われた地域は、オスマン支配の崩壊に続く社会的、経済的、政治的な不安定に苦しみ、しかもこの混乱は、近年終結に伴い悪化しているとされる。 このようなオスマン帝国による支配を肯定的にとる見解は、オスマン帝国から独立した諸地域では支持されておらず、たとえばではやのように、オスマン帝国支配下での苦難を受けたが特に記憶されている。 参考文献 [ ]• Kemal Cicek ed. 2001. Pax Ottomana: Studies in Memoriam Prof. Nejat Goyunc 1925-2001. Ankara: Haarlem. 2007.

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中国はパックス・シニカ(Pax Sinica=中国の覇権)をどう実現するか?

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パックスロマーナは「奇跡」の時代 パックスロマーナは「奇跡」と称されることがあります。 何故ならば地中海世界は、それまでの時代に大規模な戦争が相次ぎ地政学的に不安定な地域であったためです。 戦争ばかりして来た地中海世界において、ローマ帝国が覇権を確立させたことで大きな安定が地域にもたらされることになりました。 古代世界の超大国ローマによる 平和な時代の始まりです。 もちろん、完全に戦争が起きなかったというわけではありませんが、それでもパックスロマーナの前後の時代に比べれば、とても安定していた時代になります。 アウグストゥスの勝利から始まる 共和制ローマ最後の内戦 パックスロマーナを直接的に始めた人物は、皇帝アウグストゥスです。 彼は度重なる戦争と政治闘争を勝ち抜き、ローマの内乱を終結に導きました。 その 最後の戦いは、アントニウスとクレオパトラとの戦いです。 アクティウムの海戦で両者を破り、最大の政敵を倒したアウグストゥスは一世紀のあいだ続いてきたローマの内戦を終わらせました。 権力を得たアウグストゥスは、ローマに帝制を開始させて、自身が初代皇帝となります。 【関連記事】 安定がもたらした地中海貿易の発達 経済面でもローマは豊かとなった 戦乱の時代は終わり、市民生活にも明るい兆しが見えてきます。 地中海世界を支配するローマは、その広大な海域における 貿易を発展させていくことになりました。 平和だからこそ、経済活動も行いやすくなったわけですね。 ローマ人はシルク、宝石、スパイスなどを求めて東へと航海し、ローマ帝国は貿易による収入を拡大させていきました。 同時期、大陸の反対側では中国・漢が覇権を築いていた パックスロマーナの時代と重なるように、中国が東アジアとその周辺の覇権を握っていました(パックス・シニカ、中国の平和とも呼ばれています)。 そのため、東西のあいだにおける貿易が発展していったのです。 貿易だけでなく、旅行者も増えたとされます。 パックスロマーナはいかに築かれたか プロパガンダの多用 超大国ローマによる地中海世界の単独支配は、大きな平和と繁栄をもたらす結果となりました。 軍事的な力でその支配は成り立っているものですが、歴代の皇帝たちは軍事力だけにこの安定を頼っていたわけではありません。 彼らはパックスロマーナを維持するために、さまざまな手法を用いています。 「平和」という概念を宣伝することで、戦争や内乱を防ごうと皇帝たちは考えて、それを実行するのでした。 戦争や内乱ばかりのローマ人には、「平和」という概念が耳新しいものだったったのかもしれません。 皇帝たちの神格化 皇帝たちは自身や先代の皇帝などを、積極的に神格化しました。 皇帝を神として讃えることで、間接的に自身の政治力も高めようという考えです。 神である先代の皇帝から後継者に任命されたこと、そして、神と同列である皇帝の座にいる自分への権威を知らしめること、そういう政治的な加護を得るための行いでした。 初代皇帝アウグストゥスも神として祀られ、になっています。 パンテオン神殿の建立 神殿などを多く建てることを好み、民衆の信仰心を納得させています。 反乱を封じたり、宗教を利用することで人々に安心を与えようとしていました。 公共事業が多かった 市民が仕事に困らないように、多くの公共事業を行いました。 とにかく社会福祉を充実させる ローマ市民の反乱を防ぐために、皇帝たちは 社会福祉を充実させました。 サーカスや闘技場コロセウムなどの娯楽にも力を入れることで、民衆の心を掴むことに力を注ぎました。 民衆に媚びた 元老院など議会の存在を完全に無視することは皇帝にも難しく、ローマ市民たちの不満は間接的に皇帝を打倒させる力を持ちかねません。 そのため、五賢帝たちは ローマ市民を手厚く尊重していましたし、尊敬と支持を集めるためには多くの財政的な負担を容認することになります。 パックスロマーナの終焉 最後の五賢帝アウレリウス どんなに素晴らしい時代だっとしても、あらゆることに必ず終わりは訪れます。 最後の五賢帝の死により、パックスロマーナも終焉を迎えることになりました。 パックスロマーナを定義する方法はいくつもありますが、その終わりはアウレリウスの死だということでは、おおむね決まっているのです。 アウレリウスの後継者である実子、 コンモドゥス。 彼は残念なことに、 ローマ史上に残る悪帝の一人でした。 暴政を働き、貴族や騎士を虐殺したコンモドゥスは、暗殺されて死亡します。 魅力的な政策を実行し、平和な世界を維持してきたアウレリウスも、我が子の教育にだけは失敗していました。 【関連記事】• およそ200年のあいだ比較的、平和な時代であった。 世界人口の三分の一、7000万人もの国民がいた。 経済や文化面でも大きく発展した。 五賢帝たちの時代に最盛期を迎えた。 完全な平和でも、完璧な支配でもなかった。 世界史に燦然と輝く、パックスロマーナ。 その平和で豊かな時代は、歴史家たちに賞賛されて来ましたが、現在の認識ではかつてほどの高い評価を得てはいないところもあります。 この時代にも暗殺や策略と考えられるような政治工作は多発していました。 ローマに支配される立場であった人々から見れば、その支配や政策に納得しがたい部分も多くあり、各地で紛争や反乱も起きてはいたのです。 ローマ人にとっての幸福が、世界の全ての人々の幸福だとは限りません。 とはいえ、皇帝たちが築いた時代は、それ以前それ以後と比べても豊かで平和な時代でした。 貿易などの経済活動はもちろん、大衆文化、芸術などが大きく発展した時代であったことは事実なのです。

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