【2001年1月20日配信】[No. 行平は855年に因幡(いなば)国(現在の鳥取 県)の守となりました。 その赴任のための別れを表しています。 【いなばの山】 因幡の国庁近くにある稲羽山のこと。 「往なば(行ってしまったな らの意味)」と掛詞になっています。 【生(お)ふる】 動詞「生ふ」の連体形。 生える、という意味です。 【まつとし聞かば】 「まつ」は「松」と「待つ」の掛詞。 「し」は強調の副助詞、「聞 かば」は仮定を表します。 全体では「待っていると聞いたならば」 の意味となります。 【今帰り来む】 「今」は「すぐに」を意味しており、「む」は意志の助動詞。 「す ぐに帰ってくるよ」という意味です。 818〜893) 平城(へいぜい)天皇の皇子・阿保(あぼ)親王の子で、業平の異 母兄にあたります。 文徳天皇の御代の850年ごろ、過失をおかして 一時期須磨に流されたことがありました。 お別れですが、因幡国・稲羽の山に生える松のように「待ってい るよ」と言われたならば、すぐにでも帰ってきましょうぞ。 都から遠く離れた地方都市へ赴任する自分の身を思い、都への断 ちがたい思慕を詠んだせつない歌です。 別れの名句といえるでしょ う。 ユーモアエッセイの名手、内田百間(門に月の字)の本に「ノラ や」という連作エッセイがあります。 その中でいなくなった愛猫、 ノラが戻って来るように、このおまじないをするシーンがあります。 この歌の切なさが、いなくなった動物へ寄せる思いに通じ、こう したおまじないが生まれたのでしょう。 もし飼い猫がいなくなった時には、試してみてください。 行くときは山陰本線の鳥取駅で下車し、中河原・栃本 方面行きのバスに乗り、宮ノ下で降ります。 宮ノ下バス停からは、稲葉山(標高249m)まで続く4. 8kmの登山 コースがあり、武内宿弥命(たけのうちのすくねのみこと)を祭神 とする「宇倍神社」や、宮下古墳群を通り、最後に在原行平の塚に 到達します。 稲葉山は国守・大伴家持も歌に詠んだ名勝で、新緑や 紅葉時の自然散策を楽しめます。 付近には大伴家持ゆかりの古跡と歌を記念した、「稲葉万葉歴史 館」もありますので、一度訪れられてはいかがでしょうか。
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稲葉山は宇部野山、あるいは上野山とも呼ばれ、その昔多くの歌人に詠まれた山である。 特に因幡の国主であった中納言行平(在原行平)の詠んだ「立ちわかれ いなばの山の 峰におふる まつとしきかば 今かへりこむ(お別れして、因幡の国へ行く私ですが、因幡の稲羽山の峰に生えている松の木のように、私の帰りを待つと聞いたなら、すぐに戻ってまいりましょう)」は、百人一首の16番歌である。 なお、この歌を紙に書き、玄関に貼っておくと、居なくなった猫が帰ってくると言われ、昔から猫返しのおまじないとして知られている。 宮ノ下地区公民館へ駐車 登山口は宇倍神社 稲葉山の登山口は、鳥取市国府町の因幡国一之宮の宇倍神社で、駐車地として宮ノ下地区公民館の駐車場が使えるので、車を置いて登山を開始した。 宇部神社の前に着き、左に神社入口を過ごす。 舗装された車道を折り返しながら、緩やかに高度を上げる。 中国自然歩道の案内 七宝水 やがて進路が北東にまっすぐ向くと、左に宇倍神社から0.5Km、稲葉山へ2.2kmの案内が現れる。 この道は中国自然歩道で、もう少し進むと、右に七宝水があった。 ただし、水量はとても少なく飲める状態ではなかった。 鳥取藩主池田家墓所の案内(クリックで拡大) 作業小屋を過ごす 更に進むと右カーブとなり、この起点には「稲葉山へ2km」の案内と左に向かえば、「池田家墓地へ0.7km」の案内が置かれていた。 この先で「行平塚」の案内を過ごして更に進むと、右に作業小屋を過ごす。 作業小屋先から展望が開けている 頭上を樹林が覆う 作業小屋から少し進んだ地点で背後を振り返れば、樹林の上に市街地が広がっていた。 このコースでは、ほとんど展望は望めそうにないので、つかの間の展望を楽しむ。 舗装道を黙々と進めば、やがて右に稲葉山と宇部神社にそれぞれ1kmの案内を過ごす。 この案内は中国自然歩道の案内とは違う種類のようだ。 稲葉山が見えてくる(クリックで拡大) 鳥取市街の展望(クリックで拡大) 頭上を覆っていた樹林が切れると左右に畑地が現れ、まっすぐな舗装道の先に稲葉山が現れた。 とても明るい雰囲気なので、これまでの舗装道歩きが報われた思いがする。 再び頭上を樹林が覆い、右カーブを描きながら進んでいると、稲葉山の案内が掲示されていた。 登山道の左右に畑地が続く 稲葉山の案内 案内を眺め、更に舗装道を進む。 間もなく舗装道のピークを越えれば左に平坦な場所が現れる。 稲葉山の三角点は右側のピークに置かれており、ピークへ向かう踏み跡は確認したが、展望の無いことは間違いないのでピークを目指すのはやめて展望広がる草原へ向かう。 間もなく稲葉山のピーク 三角点へ向かう踏跡 山頂広場 久松山などの展望(クリックで拡大) 草原からは北西に向かって展望が広がり、久松山やアンテナの置かれた本陣山が見えている。 また、久松山の左側には市街地が広がり、遠く日本海まで眺めることができた。 稲葉山からの展望を確認することができたので下山を開始。 何も心配の無い舗装道を下っていると、山頂下には畑地が多いことに気づく。 平坦な場所を有効利用して野菜を栽培しているのだろう。 宇倍神社へ参拝 山頂から下山後に因幡一之宮の安部神社へ参拝、この神社は古くから福徳長寿、厄除けの神として病気平癒、交通安全や子供の成長を祈り、さらに志を打ち立てる社として広く崇敬されている。 神社の案内によれば、宇倍神社は、孝徳天皇大化4年の創建と伝えられ、平安時代にまとめられた延喜式では鳥取県で唯一の名神大社、また一の宮として信仰を集め、明治4年に定められた制度により国幣中社に列せられた。 現在の社殿は明治31年に完成し、翌32年には全国の神社では初めて、御祭神である武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)の御尊像と神社拝殿が共に五円紙幣に載せられ、以後大正・昭和と数回宇倍神社が五円・一円紙幣の図柄となっている。 お金に御縁があり、商売繁昌の神様として全国からの参詣が絶えないとのことである。 畑地の先に稲葉山 山頂から鳥取市街 宇倍神社 前の山 を見る 次の山 を見る 歩いた足跡 登山口周辺の地図はこちら 鳥取県鳥取市 稲葉山.
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高野切(高野切古今集)第二種書風 巻子本巻第八・古今和歌集 断簡 高野切(高野切古今集)第二種書風 巻子本巻第八・古今和歌集断簡 清書用 臨書用紙 第五巻と末巻とに奥書された の花王により、永らく伝紀貫之筆とされてきたが、現在では三名の能書きによるものという説が定着している古今和歌集として現存する最古の書写本である。 高野切の名は秀吉から古今和歌集の一部が高野山文殊院の住持である木食応其に色紙型に切断した茶掛けとして分け与えられた物が、高野山から周知されたことに始まり一連の他の書写の物も同様に高野切と呼ばれるようになる。 11世紀中ごろの書写と推定される。 第二種書風(源兼行筆)、第二巻〜第八巻。 二・三・ 五・八巻 は現存。 青字 は完本として現存している。 伝紀貫之筆「桂万葉集」、伝藤原行成筆「雲紙和漢朗詠集」・「関戸本和漢朗詠集」、伝宗尊親王筆「永承四年内裏歌合」・「永承六年内裏歌合」、源兼行筆「平等院鳳凰堂色紙型」などと同筆とみられる。 おおらかで力強く堂々として我が道を行くと云った風な筆致で、やや斜めに運ぶ癖は有るものの典雅優麗と呼ぶに相応しい。 現代の平仮名に最も近いかならしい仮名を用いた書風の写本で有り、書を始めたばかりの人にも優しく入って行ける手本となっている。 料紙は麻紙風の鳥の子で雲母砂子を振った薄茶色の素紙(或は具を塗っていない染紙)で、振り量の多い物や少ない物など巻や部位によりまちまちである。 この第二種書風の各巻の料紙は特に雲母砂子が多く振られている物が目立つ。 は本鳥の子製染紙に雲母砂子振 巻子本 『高野切』・巻第五 第二種書風 巻子本 『高野切』・巻第五 第二種書風 巻子本 『高野切』・巻第五 第二種書風 巻子本 『高野切』・巻第五 第二種書風 巻子本 『高野切』・ 巻第五・奧書 後奈良天皇花王 巻子本 『高野切』・巻第二 第二種書風 巻子本 『高野切』・巻第八 第二種書風 子本 『高野切』・巻第八 第二種書風 子本 『高野切』・巻第八 第二種書風 巻子本 『高野切』・巻第八 第一紙 (古今倭歌集巻第八 離別) 巻子本 『高野切』 巻第八 第一紙 第二種書風 へ かな 使用字母 古今倭歌集巻第八 離別 だいしらず ありはらのゆきひらのあそむ 365 たちわかれ いなばのやまの みねにおふる、 まつとしきかば いまかへりこむ よみびとしらず 366 すがるなく あきのはぎはら あさたちて、 たびゆくひとを いつとかまたむ 367 かぎりなき くもゐのよそに わかるとも、 ひとをこころに おくらさむやは をのの、のちふがみちのくにのすけに まかりけるときに、ははのよめりける 368 たらちねの おやのまもりと あひそふる、 こころばかりは せきなとどめそ さだときのみこのいへにて、ふぢはらの きよふむがあふみのすけにまかりける ときに、むまのはなむけしけるよよめる 古今倭歌集巻第八 離別 多以之良数 安利波良乃由支比良乃安所武 365 多知和可礼 以奈波乃也末能 美禰爾於不留、 末川止之幾可者 以末可部利己武 與美比止之良須 366 須可留那久 安支乃波幾者良 安散多知天、 多悲由久比止遠 以川止可末多武 367 可支利那幾 久毛為乃與曾仁 和可留止毛、 比止遠己々爾 於久良散武也者 乎乃々能知不可美知乃久仁乃春計爾 末可利計留止支仁、者々乃與女利个留 368 多良知禰乃 於也乃末毛利止 安比曾不留、 己々呂波可利者 世支那止々女所 左多止支能美己乃以部爾天、不知波良乃 幾與不武可安不美能春个爾末可利計留 止支仁、武末乃者那武个之計留與々女留 解説 離別 お題不明 在原行平朝臣 365 立ち別れ稲葉の山の峰に生ふる、松とし聞かば今帰り来む。 ここを離れて私は因幡の国へ旅立つが、稲羽山の峰に生えている松のようだと聞かされれば(私のことを待っていると聞かされたなら)今すぐにでも帰って来るつもりですよ!。 366 縋る無く秋野萩原朝立ちて、旅行く人を何時とかまたむ。 誰かに縋るでも無く秋野の花の咲き乱れる萩原の様に、朝早くに旅立って旅行く人々を何時と云うことも無くただ待っていたいものだ。 367 限りなき雲居の他所に別るとも、人を心におくらさむやは 限りなく遠く遥かに離れたかの地の如く離れ離れになろうとも、あの人の事を心に置き去りにするだろうか。 (否そんなことはしないよ。 ) 小野のちふが陸奥國の介(次官)に罷りける時に、 母の詠んだ歌 368 垂乳根の親の守りと相添ふる、心ばかりは関な留めそ 親の加護と同じ関係ですよ、気持ちだけでも関を作りなさるなよ。 (誰に対しても分け隔てなく守護の職に当たりなさいよ、との親心) 定時の御子の家にて、藤原清文が近江の介に任ぜられて 赴任する時に、餞別を贈る夜詠んだ歌 いなば;「因幡」と「往なば」との掛詞。 おふる;「生ふる」と「老ふる」との掛詞。 まつ;「松」と「待つ」との掛詞。 作者が因幡の守として任地に赴く時に人々との別れを惜しんで詠んだ歌。 地方へ赴任する際、関係のある地名を歌に詠みこむことはこの種の挨拶では良く見られる事の様である。 第三句までは任地を詠み、四句以降で別れを惜しむ情に応えているもの。 出立後、任地での歌だとすると、年老いてなお私の事を待っていると聞かされたなら今すぐにでも帰るつもりですよ。 との意。 朝立ち;朝方に降るにわか雨。 又、早朝に旅立つこと。 あきの 秋野;様々な秋の草花が乱れ咲き。 あちらこちらで虫が鳴き、爽やかな風が吹き抜ける野原。 情緒豊かな美しさがある。 りょしゅう うれい 旅愁;旅の途中で何となく感じるもの寂しさ、物悲しさ。 「愁」は「秋の心」と書いたもの。 な…そ;間の動詞の禁止を表す表現。 禁止の終助詞「な」よりも、穏かでまるで希望でもするかのような禁止を表す。 …しないでおくれ。 4cmx36. 4cm) 本鳥一号使用の染、雲母振り(現在流通のもの)もしくは高知の鳥の子仕様の染、雲母振り。 4cmx36. 4cm) き ら す な ご 高野切 雲母砂子の様子 (写真は巻第八) 資料館限定販売となりますが、一部やや難あり1枚620円(税込)。 色には多少の偏りが御座います。 正規品の価格はをご覧ください。 数に限りが御座いますので、お越しの祭には予め御問合わせ頂く事をお勧め致します。 色には多少の偏りが御座います。 数に限りが御座いますので、お越しの祭には予め御問合わせ頂く事をお勧め致します。 巻子本 『高野切』 巻第八 第一紙 右上側部分 第二種書風 右上側部分拡大 巻子本 『高野切』・巻第八 第一紙 (古今倭歌集巻第八 離別) 巻子本 『高野切』 巻第八 第一紙 中央下側部分 第二種書風 左下側部分拡大 巻子本 『高野切』・巻第八 第一紙 (古今倭歌集巻第八 離別) ごならてんのう 後奈良天皇;戦国時代の天皇。 後柏原天皇の第二皇子で在位は1526年〜1557年、当時は皇室が最も衰弱した時代で即位式も出来ずに十年が経ち、北条・大内ら戦国大名の献金によってようやく挙行が叶った。 疫病の流行や飢饉の際に宮中で修法を行い、般若心経を書写して祈願したことは窮乏生活を露呈しているとともに有名である。 日記に「天聴集」がある。 また天文十三年三月十五日付の日記に『陽明(前太政大臣近衛種家四十二歳)より、古今集奧書の事申さる。 貫之の筆なり。 近比、比類なき事なり。 』とあることから高野切古今集第五巻・第二十巻の奧書の花王が後奈良天皇の物と分かる。 (生年1496年〜没年1557年) こんごうぶぢ 金剛峯寺;和歌山県高野山にある高野山真言宗の総本山。 816年に空海が開山し、819年寺塔を建立する。 平安中期には東寺と真言宗本山の地位を争ったが、敗れて東寺長者の管轄を受けるに至り勢いが衰えた。 然しながら、平安末期になると復興を遂げ、白河天皇・鳥羽天皇からの崇拝を厚くして1132年には覚鑁が伝法院を建てて隆盛に赴いた。 空海の入定処として多くの参詣者を集め、大師信仰・納骨信仰の中心となるなど、この頃に成ると宗派を超えて納骨、造塔の風習が盛んとなり、真言密教の典籍を主とした高野版の開版なども始められた。 戦国時代には織田信長の家臣の武将の攻撃も受け、豊臣秀吉も当初攻撃を試みたが、その応対をした応其に帰依して保護を加えるようになった。 全山は12区に分かれ、中心部は壇場と呼ばれ金堂・根本大塔がある。 また奥の院には空海の遺体を安置しており、経蔵には高麗版一切経が納められている。 金剛峯寺本坊は秀吉が寄進した青巌寺で、大建築の主殿・書院となっている。 また、不動堂は平安時代の和様建築の様式を伝える鎌倉時代初期の名作で、高野山最古の現存する建築となっている。
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