斎藤 道 三 は 誰 に 殺さ れる。 長良川の戦いとは?斎藤道三・義龍親子最大の戦い明智光秀はどちらについた?

斎藤利三(さいとうとしみつ)とは

斎藤 道 三 は 誰 に 殺さ れる

宮沢賢治の詩「雨にも負けず」。 この最後は「みんなにデクノボーと呼ばれ、ほめられもせず、苦にもされず、そういう者に私はなりたい」と締め括られています。 この「デクノボー」は何を意味するのか。 これまでさまざまな議論がありました。 このデクノボーのモデルではないか、といわれるのが、キリスト教の伝道者・斎藤宗次郎 そうじろう (1877〜1968 です。 斎藤宗次郎は一九六八年(昭和四十三年)に九十一歳で亡くなりました。 七十年間に及ぶ 膨大な日記と全四十巻の和綴じの自叙伝が残されました。 その自叙伝の一部が最近発行されました。 この自叙伝の編集にあたった宗教学者の山折哲雄さんに、今日はお宅にお邪魔してお話を伺います。 どうぞよろしくお願い致します。 山折: 私が宮沢賢治という人間、その文学作品に関心を持ち始めてからもう四十年ですね。 随分文章にもしましたし、お話にも出してきたんですけど、結局、どうも分からない。 分かりませんけれども、もしかすると、宮沢賢治はその人生の最後になんとかこのデクノボーになろうとしていた、というような気がだんだんとしてまいりましてね。 これは宮沢賢治の人生と作品を解くためのキーワードかも知れない。 そう思うようになりました。 もっともこのデクノボーに関しては、いろんな方々の研究がございまして、ご承知のようにキリスト教の影響とか仏教の影響という方々がおいでになるわけですけれども、もしかすると、そういう要素も背景に考える必要があるかも知れません。 けれども、斎藤宗次郎という同じ花巻の出身者で、内村鑑三(1861〜1930)の門に入ったキリスト者の生き方がなんらかの影響を与えていたのではないかというようにも思うようになりました。 しかし、果たしてそれだけですべてが解決するかというと、これは難しい問題でして、今なお私はそれを考え中なんですね。 ちょっと話が飛んでしまうかも知りませんけれども、賢治は果たして人間好きだったのか。 もしかすると、人間嫌いだったかも知れない。 これは私が今抱えている仮説であり謎なんですね。 何とか解きたいと思いますね。 山折: 母親から随分生前の賢治についての話を聞かされました。 いろんな話を聞かされたんですが、その中で忘れることのできないエピソードが一つあるんですね。 それはちょうど宮沢賢治が盛岡高等農林を卒業して、花巻に帰って来て、花巻農学校の先生になりますね。 その頃だったと思いますが、毎年冬になりますと、寒行 かんぎょう という、厳寒の寒い季節に行う修行、これが日蓮宗の修行者たちがやる行なんですね。 寒行とこういいますが、それをやっていた、というんですね。 それでそういう宮沢賢治の寒行の姿を土地の人がどれだけ理解していたかどうか、非常に疑問ですね。 ほとんど理解する人はいなかったのではないか、と思いますね。 まず、姿が非常に異様な姿。 私は「異形の者」といっているんですね。 どこか他界から訪れてきた「まれびと」のような、そういう人物に対して、やっぱり土地の人々は拒否的な態度をとったような気がしますね。 そこから宮沢賢治の詩人としての魂が燃え上がっていく、ということが逆にあったと思いますけれども、賢治の孤独と淋しさと悲しさのようなものを、その寒行を通して、今あらためて思い起こしますね。 しかも必ずしも賢治は健康な身体ではなかった。 花巻の冬は寒いんですよ。 厳しいですよ、この寒さはね。 私、覚えておりますのは、厳冬期に卵の黄身が凍ったことがあります。 そういう地域における、風土における寒行ですから、まあ賢治の思い入れも相当激しい、強いものがあったと思いますね。 宮沢賢 治の一生を見ておりますと、彼は実にいろんな世界に手を出しているんですよ。 今申しましたように、まず農学校の教師をし、やがて農業改革のための農業技術者としての、或いは科学者としての知識を使って農村改良をしようとした、そういう側面もある。 それからやがて詩を書き始めますから詩人。 童話作家、そういう仕事にも手を染めております。 それから何よりも宗教家たらんとしたところがありますね。 しかし、どうもそのどれか一つを徹底して追求するということはしなかった、という面がありますね。 ですから、これはいろんな人がいうんですけれども、どうも宮沢賢治とい うのは中途半端な人間だ、と。 いろんなことに手を出して、その一筋の道を貫かなかった。 考えてみれば、たしかにそうですよ。 農学校の教師もやがて辞めてしまいます。 詩人として一貫していたかというと、必ずしもそうではない。 農業技術者として最後を全うしたかというと、勿論そうではない。 そういう点では人生の失敗者だった、という評価もあるわけですよね。 見ようによっては、たしかに宮沢賢治の一生というのは、人生の失敗者だった、という面があります。 しかし現代の我々が今置かれている状況を考えてみますと、彼は一つの専門に自分を閉じこめようとしなかったと もいえる。 そういう面が、私には非常に印象的に思えるんですね。 この現代的な社会、我々が現に生きている社会は、何かの専門がなければなかなか社会的に評価して貰えないという、そういう社会であるし、時代ですよね。 ところがもうそういう専門馬鹿の時代じゃないよ。 そういう声がいろんなところから出始めておりますね。 教育の現場でも、或いはいろいろな会社、企業においても、そういう声がだんだん聞かれるようになった。 そう考えた時、この宮沢賢治の一生というのは非常に示唆に富む一生だった、という気がしますね。 人間にもいろんな可能性があるんだ、と。 ともかくその可能性にかけて見ようじゃないか、という。 たとえ失敗しても、それが賢治にとってはより良き、広い総合的な人間たらんとする、そういう世界を当時としては一人垣間見ていた。 そういう人間だったようにも思うんですね。 だから人生の失敗者と考えるよりは、すべての人間の可能性に賭けようとした理想追求者としても見えてくる。 正の面、負の面、両面抱えていた。 そういう人間だったと思いますね。 そこが私には、宮沢賢治という人間のたまらまい魅力と映るんですね。 山折: 印象的なのはやはり此処に「昭和六年九月廿日 再ビ東京ニテ発熱」とあるんです。 発熱の中で花巻に帰ってきて、病床に伏して、病に苦しんで、その苦しみの中から何とか脱出しようと藻掻いている。 そういう賢治の声がこの行間から立ち上ってきますね。 そういう賢治の気持ちを映し出すように、「南無妙法蓮華経」の言葉が書き付けられ、その中でポーンと「雨にも負けず」が出てきて、その最後のところに「デクノボー」が書き付けられているわけですね。 何か私には法華経とか仏教の世界の中に、突然別の神の光が射し込んでくるような、そういう詩のようにも、祈りの言葉のようにも見えるんですね。 しかしそれは本当のところはよく分かりません。 とにかくいろんな問題を考えさせてくれる手帳になりました。 山折: まあ専門家の間では知られていたわけですけれども、私もつい最近まで知りませんでした。 同じ花巻の出身であるにもかかわらずですけどね。 斎藤宗次郎という人は実は花巻の北笹間村というところの曹洞宗のお寺に生まれた方なんです。 だから、本来ならお坊さんになる方なんですね。 お生まれになったのは明治十年です。 やがて斎藤家というところに養子に行きまして、それで岩手師範に入り、卒業して小学校の先生になるんです。 その小学校が花巻小学校でございまして、その花巻小学校の先生になられた頃、内村鑑三の書物を読んで強い影響を受ける。 やがて洗礼を受けて無教会派のキリスト者になっている。 その洗礼を受けて内村鑑三に出会うのが、明治三十三年、二十二歳の時でした。 その時内村鑑三は十六歳の年長。 ですからかなり年齢差があったと考えていいと思いますね。 小学校の先生をやりながら、当時内村鑑三の書物を、或いは論文を実によく読んでおりますが、やがて内村鑑三が日露戦争を前にして非戦論を唱えるようになります。 『万朝報』という新聞にその論説を発表するようになりまして、それで戦争反対の立場から、もし戦争を日本の国家がやるならば、自分は納税を拒否する、というようなことまで言い出すわけです。 勿論兵役拒否のこともいっていますけれども。 そういうことを斎藤は教室で説くようになる。 これが教育界で問題になり始めていたんですね。 そのことを斎藤宗次郎は、師の内村鑑三に手紙で書き送るわけでありますが、それを聞いて内村鑑三が、これは非常に危険だ。 過激な生き方をしていると心配しまして、花巻にやってくるわけです。 それが日露戦争が勃発する直前のことでありまして、明治三十六年十二月で、暮れも押し迫った頃でありますが、雪の花巻へやってくる。 翌日には花巻の信者たちと集会を持つんでありますが、その機会に内村鑑三がコンコンと諭 さと すんですね。 非戦論を実践することによって家族をはじめとする知人たちが大きな迷惑と被害を受けるということを考えなければいけない。 この時のことを「花巻非戦論事件」と、こういうふうに斎藤宗次郎自身がいうようになります。 そのことを書物にもしております。 あまり一般にはこれ知られていないことなんですね。 ところがせっかくそういう鑑三の勧めがあって、自制をするわけですけれども、既に彼は岩手県の教育界から危険人物視されておりまして、退職に追い込まれてしまう。 それから、曹洞宗の出身でありながら、キリスト教に改宗したということも含めて、また忠実なキリスト者としての生き方を生活面に実践していくという、そういう態度をとったために地域からもの凄い迫害を受けるわけですよ。 そういう孤独と苦しみの中で子どもを失うといったような悲劇にも見舞われるわけですけれども、新しい転身をはかることになります。 それは師の内村鑑三の勧めもあって、新聞取次という仕事をしたらどうか。 新聞だけではなしに最初は雑誌の取次なんかもしていたようでありますが、その師の勧めを受け入れて、先ほどパネルでお示しました求康堂という、そういう新聞取次業を始めるわけですね。 ところがこの新聞取次の仕事のしぶりというのが実に変わっていたというか、キリスト者としての祈りの生活の中で新聞取次をする。 例えば、十メートル行って配達し、神に祈る。 さらに十メートル行って神に祈りながら新聞配達をするというような。 それから病人の人がいれ ば側にいて慰めの言葉をかけたり、時にはなにがしかの喜捨をおいてくる、ということもあったかも知れません。 とにかく一日平均四十キロ市内を走り回って配達をしたというんですよ。 だからのちに「花巻のトルストイ」といわれるまでになった。 そういわれてもまたむべなるかな、と私なんか思いますね。 その宗次郎がこの花巻における新聞配達を十七年間やった後、上京することになります。 年来そう考えていたんでしょう、内村鑑三の側にあって、忠実な弟子として伝道活動の手助けをする。 そのために上京するんですね。 これが大正十五年でありますが、以後内村鑑三の側にあって、その仕事を手伝い、最後に内村鑑三が昭和五年に息を引き取る時も看取りの看護までして 尽くしている。 その後は非常な健康を保持して九十歳まで生き抜いて、昭和四十三年に亡くなられる。 ところが亡くなられた後、斎藤宗次郎が二十一歳から九十一歳までの七十年間に膨大な「日記」を付けていた、ということがわかった。 しかもその「日記」にもとづいて自分の自叙伝まで書いていた、ということが明らかになったんですね。 その自叙伝のことを『二荊自叙伝 にけいじじょでん 』と彼は称しております。 その「二荊」というのは、荊の冠をつけて十字架にかけられたキリストに準 なぞら えて自分を称しているわけです。 山折: 「いばら」という字です。 その宗次郎の「日記」にもとづいた『二荊自叙伝』が、今度刊行されることになって、このようにしてお話をする機会に恵まれたわけでありますが、まず「日記」をちょっとご紹介して見ましょう。 これが「日記」原本でございますが、一九二四年(大 正十三年)のものです、これがもう既に四十八巻目になっておりますね。 ですから明治時代から亡くなる昭和四十三年までの膨大な量の七十年間にわたる「日記」のほんの一部がこれということになるわけでございます。 綺麗な和紙に丹念に毛筆で書かれたものですね。 この膨大な「日記」をもとにして、斎藤宗次郎はさらに自分の自叙伝を編纂しております。 記述はほとんどこれにもとづいているわけです。 正確だと考えていいと思いますね。 それがこれです。 この自叙伝に纏めたものが全四十巻です。 これが四十冊ですよね。 此処に今お示し致しましたのは、『二荊自叙伝』の十四と十五です。 此処に持ってまいりましたのは大正十二年と十三年のものでありますが、実はこの中に宮沢賢治との交遊を示す、交流を示す記述が出てくるんですね。 それを一、二、ご紹介してみたいと思いますが、これは勿論「日記」原本にもある記述です。 斎藤宗次郎は毎日のように、自分の従業員を使って新聞配達もしているわけでありますが、月に一遍ほど集金に行くわけですよ。 この集金に行った時、花巻農学校に上がり込んで、宮沢賢治との交流が始まるというわけで、それを通して賢治は斎藤宗次郎の生き方にだんだん敬意を 表するようになり、自分の作品を生徒たちに上演させるような時には必ず招待していた。 またレコードコンサートをする時にも招待していた。 この頁が花巻農学校におけるレコードコンサートに招かれた時の場面を記述したものですが、斎藤宗次郎にも絵心がございまして、非常に上手な絵をあちらこちらに挿絵代わりに描いて挿入しておりますね。 これがレコードコンサートの場面ですが、こちらの頭が黒いのが賢治だと思いますね。 こちらの頭のちょっと禿げているのは斎藤宗次郎だと思います。 老青年と若き青年の対比ですね。 妹トシ(とし子)が死んで、そのとし子に呼び掛けるように、賢治がこの詩を書いている。 そうすると、その向こう側からとし子の花巻方言の言葉が聞こえてくる。 微熱があって喉が乾いているんでしょうね。 そのみぞれを取るために外へ鉄砲玉のように飛び出した、という非常に印象的な場面を詩にしたものであります。 この詩を宮沢賢治が一番最初に見せたのは、おそらく斎藤宗次郎ではないかと思いますね。 その詩を読んで斎藤宗次郎が感動して、その感動の言葉をこの『二荊自叙伝』の中に記述しております。 それは「二青年の対話」というところに出てくるんですね。 そういう二人の、つまり老青年と若き青年という二人の対話という形で、自分がこの「永訣の朝」を読んで得たその感動をここに、しかも詩の形で記述しているんですよ。 これは非常に印象的な場面ですね。 ちょっと読んで見ましょうか。 と、それで終わっているんです。 私はこの頁を捲って読んだ時にほんとに感動致しました。 宮沢賢治と斎藤宗次郎の出会いが如何に深いものであったか。 ある意味では如何に美しい火花を散らしたか、ということです。 この「日記」原本と、『二荊自叙伝』の原本を私に見せて下さったのが、斎藤宗次郎のお孫さんにあたる兒玉佳與子 こだまかよこ さんという方です。 この方がちょうど京都にお住いでありまして、私が国際日本文化研究センターに勤めていた時でありますけれども、わざわざこれをお持ちになって見せて頂いた。 手が震えましたね、私は。 できるならば、これだけの資料をなんとか一般の方々にもお見せしたい。 出版できないものか。 それが実はこれなんですね。 宮沢賢治の研究家としてよく知られております栗原敦(実践女子大学教授)さんと私が編集の任にあたりまして、『二荊自叙伝』の上下二巻として出版されることになりました。 まだ上巻が出たばかりでありますが、間もなく下巻が出て、一応大正十年から十五年までの二人の交遊を示す時期、この部分の「日記」がこのようにして、一般の目に触れるようになったわけであります。 大正十年というのは、宮沢賢治が花巻農学校の教師になった年なんです。 この時既に斎藤宗次郎は新聞取次の仕事をして十何年、やがて斎藤宗次郎は大正十五年になって花巻を去って、一家あげて上京して、内村鑑三のもとに馳せ参じる。 ですからそういう意味で大正十年から大正十五年というこの期間を限って、『二荊自叙伝』の刊行に踏み切った、というわけであります。 これ全部刊行するとすれば四十巻ですからね、とてもとてもできることではございませんが。 山折: そうですね。 花巻における宗次郎と賢治の出会いの時代が終わって、やがてそれぞれが独自の道を歩み始めることになるわけですね。 その二人の人生を辿りながら今おっしゃった問題をちょっと考えてみたいと思いますが、斎藤宗次郎は一家をあげて上京します。 内村鑑三の側に行って仕事を手伝う。 考えてみますと、内村鑑三には優れた弟子がたくさんいたわけですよね。 例えば、古い話をすれば、有島武郎 ありしまたけお 、小山内薫 おさないかおる 、正宗白鳥 まさむねはくちょう 、そして志賀直哉 しがなおや。 みな青年時代に内村鑑三の門に入って強い影響を受けた。 しかしやっぱりどこか厳しい内村鑑三の生き方に躓いてその門を出て行った。 言ってみれば、裏切って出ていった、と言えないこともない。 私は、非常に関心を持っているのは、内村鑑三がやがて「弟子を持つの不幸」というエッセイを書いているということなんですよ。 弟子なんか自分は持たない、という。 自分のところに弟子にしてくれ、といってくる青年たちはたくさんいるけれども、そのほとんどは自分を裏切って出ていった。 だから弟子なんか持たない。 持ちたくない。 ところが、そういう弟子たちの中にあって、最後の最後まで裏切ることなく忠実に、無教会派のキリスト者として伝道の仕事に従事して、最後の最後まで内村鑑三の指示に従って生き抜いたのは斎藤宗次郎でした。 斎藤一人とは申しませんけれども、これは非常に珍しい例だったと思いますね。 そういう点では最後の最晩年において、内村鑑三は「弟子を持つの至福」を味わったといえるかもしれません。 斎藤宗次郎によってそのころを味わうことができた、と私は思っているんですよ。 その斎藤宗次郎の生き方というのは、優秀な他の弟子たちとは違って愚直なまでの誠実さ。 言ってみれば、敢えて宮沢賢治の言葉に寄せていえば、「デクノボーのように愚直な、そういうキリスト者としての奉仕の生き方」だったのではないか。 そういう生き方を私はつい思い出してしまう。 花巻における斎藤宗次郎も、言ってみれば、必ずしも地元の人々に理解されるような生き方をしたわけではなかったわけですね。 キリスト者として誠実に生きるために迫害も受け、誤解もされ、衝突もいろいろな場面で生じていたわけでありますが、それもやっぱり愚直な生き方、デクノボーのような生き方のように私には見えるわけであります。 今日はそれ以上のことは申しませんけれど。 ところがそれに対して宮沢賢治の場合はどうだったんだろうか、ということですね。 よく知られておりますように、賢治の生まれたお家は、浄土真宗の篤信家の家ですよ。 賢治のお父さんの政次郎 まさじろう という人は非常に熱心な浄土真宗のご信者だった。 おもしろいことにこの宗次郎と宮沢賢治のお父さんの政次郎、この二人が肝胆相照らすというか、お互いに尊敬しあっていたという関係が、この「日記」を通してわかるんですね。 これが非常に大事な、しかも誰も今まで知らなかった、そういう事実だと思いますけれども、そういう家に育っているわけです。 ところがやがて法華経に触れたり、キリスト教に触れたりして、いろいろな宗教的な世界に心を開いていく。 ある意味では宗教的な遍歴を重ねていった賢治というのがそこにいるわけですけれども、その生き方というのは、内村鑑三の門に入って一神教の世界を突き進んでいった斎藤宗次郎の生き方とは非常に対照的だったと思うんですね。 むしろ日本人的といってもいいのかな、多神教的というか、重層信仰的な生き方を疑うことなく受け入れていたというところが賢治にはあるわけですね。 ところがやがて宮沢賢治はそういうさまざまな宗教的な世界に心を開いて、さまざまな体験をしていきながら、もう一つ別の宗教的な世界に目をひらかれていったんではないか、或いはもう一つ別のもっともベーシックな宗教的な感覚というものに目覚めていったのではないか、という気がするわけですね。 それは一体どういう世界か、ということでありますが、それを掴むための一つの手掛かりが彼の詩とか童話の作品の中に潜んでいると、私は思っています。 そのためのキーワードになるものが「風」という問題だろうと思っているのです。 例えば、『風の又三郎』、あの物語りが始まるのは、風が吹いて、あの又三郎がひょいと花巻の山間部の村の小学校に舞い降りて、ドラマが始まる。 気が付くと、風が吹いて、その主人公・又三郎の姿が消えている。 同じことは『銀河鉄道の夜』でも言えることであって、ジョバンニがあのお祭りの日に丘から丘へ上っていって、草の上に寝っ転がって天上を振り仰いだ時に、冷たい風がサッと吹いてくる。 途端に宇宙の彼方から列車の走る軌道の音が聞こえてくる。 風とともに軌道を走る音が聞こえてくるんですよ。 それで不思議な銀河鉄道の旅が始まるわけでありまして、カムパネルラがあの世に去って、ジョバンニが再びこの世に戻って来る。 気が付くと草の上に再び転がっていて、このときまた風がサッと吹く。 賢治の作品というのは、みんな風が吹いて物語りが始まる、風が吹いて物語りが終わる。 そういう工合になっている。 考えてみますと、宮沢賢治のイマジネーションというのは、宇宙の彼方に遠く駆け上っていくような、そういう独特なイマジネーションの性格を持っている、と私は思っているんですね。 例えば、『よだかの星』というよく知られた作品がありますけれども、あれは空を飛んでいる間、いろんな虫を食べずには生きていられない自分の運命というか、生き方に絶望して、最後は自分の身体を燃やして、昇天して星になった、という話ですよね。 どうも賢治には、この宇宙にはさまざまな生きものが存在している。 さまざまな生命が自分に向かって、例えば風に乗って呼び掛けてくれる、そういうことを、いわば生きる支えにしていたようなところが彼にはあるように思うんですね。 それは裏から言えば、現実の生活に絶望し始めていたということが言えないこともない。 病身だった。 いろいろなことに手を出しても必ずしも社会的にそれを認めては貰えなかった。 さまざまな条件が現実には作用していたと思いますけれども、どうも賢治という人は、花巻という土地の農耕民的な世界に満足することのできなかった人間のような気がしますね。 花巻は盆地ですよ。 自然は美しいんです。 しかし、社会のあり方は非常に閉鎖的ですね。 東京にも何度か出て、脱出して行って、自分の詩人としての才能を開かせようとするんですが、それにも挫折して、また花巻に引き戻されてしまう。 すると彼のイマジネーションというのは、後は宇宙に向かって垂直にほとばしりでていく以外になかった。 そこから、そういう閉鎖的な現実の社会に堪えられないような自分というものが、次第次第に強く意識されるようになっていった。 その一つの証のような作品が先ほど申しました『よだかの星』であるわけですけれども、もう一つ私は『なめとこ山の熊』という童話に注目したいんですね。 あれは熊捕の名人が山に入って、熊とのさまざまな交流を通して、最後は熊よ赦せよ、と。 俺がお前を射殺して生活の糧にするのは、そうしなければ生きていけないからなんだ、と。 自分はやがてはお前たちのために殺されて犠牲になるよ。 身体を差し上げるよ、というようなことを、熊たちに向かって呼び掛けるところが出てきますよね。 人間の世界と動物の世界は対等なんだ、という感覚がここにはある。 もしかすると、これは喰うか喰われるかの世界というものを受容することによって、人間のエゴイズムと言いますか、人間であることの不安から何とか脱出したい、と思っていた。 そういう賢治の気持ちが、この物語りの背後には流れているかも知れない。 この動物と人間との平等の関係が、いわば生き生きと生きていた時代が、私は狩猟社会だった、と思いますね。 狩猟社会の掟というのは、人間は動物を殺して食べてもいい。 しかし、同時に動物の方も人間を襲って人間の肉を食らう。 そのことを受け入れていた。 人間の側もそれを受け容れている。 それが狩猟社会というものだった、と思いますね。 その感覚というのは、私は農耕民的な感覚ではない。 狩猟民的な感覚だ、と思いますね。 何故そういう狩猟民的な感覚に賢治が拘ったか、というと、人間であることの根元的な不安感に彼が取り憑かれていたからではないか、とも思うんですよね。 宇宙への呼びかけ、宇宙から吹いてくる風へのこだわり、それから熊の世界、よだかの世界、そういう動物や鳥たちに対する格別の関心の持ち方、そういうものを総合していきますと、どうも宮沢賢治というのは、最後は人間であることをやめて、非人間的な、言ってみればデクノボー的な生き方を、次第次第に求めるようになっていたのではないか。 ここのところは自信はないんですけれども、どうもそんな気がしてならない。 冒頭に宮沢賢治は果たして人間が好きだったんだろうか。 いや、嫌いだったのではないか。 或いは最初は好きだったけれども、だんだんに人間が嫌いになっていったのではないか、ということを申し上げたのは、そういうことなんです。 或いは農耕民的な世界から脱出して狩猟民的な世界への関心をかき立てるようになっていた、と。 それがもしかすると、「デクノボー」という、そういう言葉に結晶したのかも知れない。 山折: そのように言われますと、宮沢賢治が「雨にも負けず」の中で、最後に「デクノボー」と出した、そのデクノボーの意味が、やはり非常に難しいなぁとあらためて思うんですがね。 ですから、そこに先程来話をしてまいりましたけれども、斎藤宗次郎というもう一人の愚直なまでに誠実な人間の生き方の影が落ちているかも知れない、ということにもなるわけです。 それは、いわゆる、言うところのモデル問題とは違うような気がするんですよね。 もしもそうだとすると、非常に薄っぺらなものになってしまいますね。 もしもあの賢治のデクノボーのモデルが斎藤宗次郎だ、とこう言ってしまうと、ほんとに薄っぺらな話になってしまうんですよ。 私は最初からそんなことをいうつもりはないんですね。 賢治がデクノボーという言葉をいわば溜息のように、あそこに書き付けた、そのことの意味というのは、やっぱり賢治の全人生というものの中から絞り出された言葉だ、と思いますね。 そのことの意味については、先程来あれこれ申し上げてきた。 人間であることの根元的な不安感みたいなものをズーッと私は感じ続けてきましたからね、賢治の場合。 そのこととおそらく無関係ではない。 人間であることに堪えられなくなった時の呟きかも知れない。 或いは人間であることの苦しみから脱出するために、ふと口から飛び出した言葉かも知れない、そういうことですね。 そういうことを一方で考えた場合に、さて斎藤宗次郎の場合はどうだろうか、ということになりますね。 よくぞこれまで、あの地方において、自分の信念を貫き通すことができたなぁと思うくらい、私はとてもできそうに思いませんね。 斎藤宗次郎自身は、自分のことをそうは思っていなかったかも知れませんけれども、私なんかにはもう一つのデクノボー的な生き方、普通の平均的な人間の生き方を脱出して、いわば自分を無にするというか、そういう生き方を追い求めた人のように見えてくる。 その点で、敢えて斎藤宗次郎の生き方をデクノボー的な、もう一つの生き方と捉えることができるのではないかと思うんですね。 もしそう解して良いとすれば、一方の多神教的な生き方をした賢治と他方の一神教的な生き方をした宗次郎は、その宗教観人生観の根本を異にしながら、なおかつ互いに尊敬しあい、手を結ぶことができたということになります。 その重要な原因の一つが、このデクノボー的な生き方を二人が共有したからではないか。 意識するとしないとにかかわらず、おそらく無意識のうちに、だったと思いますけれども、そのデクノボー的な生き方を二人が共有していたからではないか、という気がするわけであります。 こういう二人の生き方というのは、もしかすると、現代の日本からはもう失われてしまったものかも知れない。 しかし、そのように言われると、そのように思い返してみると、これは大変貴重な人間の生き方の遺産の一つではないか、という気もするんですね。 敢えてこの二人の人生を比較し取り上げたのもそのためであって、そのような二人の生き方の中からデクノボー的な生き方というものを取り出すことが、私自身のこれからの賢治研究に一つの新しい道を指し示してくれる道標になるかも知れない。 そんな気もしているんですね。

次の

桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った服部小平太と毛利新介…その後の人生どうなった?【二】

斎藤 道 三 は 誰 に 殺さ れる

スポンサーリンク 出生の謎 大永7(1527)年、義龍は斎藤道三の長男として誕生しました。 当時の道三はまだ名を利政(としまさ)と言い、美濃(岐阜県)の守護である土岐頼芸(ときよりなり)に仕え、虎視眈々と国盗り(くにとり)を狙っていた頃ですね。 そして、頼芸の愛妾だった深芳野(みよしの)を頼芸から下賜された直後だったんです。 義龍の出生について憶測が飛んだのはこのためです。 道三に下げ渡された時、深芳野はすでに頼芸の子を懐妊しており、ほどなくして生まれた義龍は頼芸の子ではないかという疑惑が生まれたんですよ。 このせいで、後に義龍が道三を討ったのは、実父を追放したことを恨んでのことだったとか、道三もまた義龍が自分の子でないとして憎んでいたとか…そんな話もあるんですね。 とは言っても、これはほぼ眉唾な話なので信憑性に乏しいというのがホントのところです。 でも、ちょっと憶測を巡らせたくなりますね。 父・道三の国盗り物語 斎藤道三:Wikipediaより引用 義龍の父・斎藤道三は、下剋上で美濃を奪取したと言われていますが、最近では道三とその父の2代にわたっての国盗り物語だったのではないかという説が有力になっています。 小坊主から油売りへ、そして商売の腕を見込まれて出世した義龍の祖父は、その地盤を道三に受け継ぎ、そこから道三は主の主である美濃の守護・土岐家へと徐々に食い込んで行き、ついには主をも蹴落として美濃一国を手に入れたのでした。 そんな道三でしたが、息子の義龍を見る目はどうも違っていたようです。 美濃のマムシと恐れられた男が、なぜそこまで息子を毛嫌いしたのか…それこそ、出生の謎が関係しているのかとまで疑ってしまいますが、やがて父子の確執はどんどん大きくなっていったのでした。 父との確執 天文23(1554)年、道三の隠居により義龍は家督を継ぎます。 義龍は身長6尺5寸(約197㎝)の堂々たる大男で、威風堂々とした姿だっただろうと推測します。 彼こそ、美濃のマムシの跡を継いでやがては美濃から勢力を拡大していくにふさわしい武将だと誰もが思ったはず。 しかし、そんな息子に対して、道三はどこまでも冷たい態度を取りました。 なぜか道三は義龍の弟たちを溺愛し、義龍を「おいぼれ」呼ばわりしたんです。 そして、可愛がっている息子の孫四郎(まごしろう)を「利口者」と呼び、やがては家督を譲ろうとまで考えるようになったとか。 孫四郎の弟・喜平次(きへいじ)のことも可愛がり、名門の一色(いっしき)氏の姓を名乗らせるようになりました。 そんな風に父に偏愛されれば、弟たちが「次は自分に家督が回ってくるのでは」と思うのは当然のこと。 彼らはだんだんと大きな態度を取るようになり、兄の義龍を侮るようになったと言われています。 加えて、道三は美濃を奪取したものの内政にあまり力を入れていなかったとも言われており、家中の不満が溜まり始めているところでした。 このままでは自分が排除されるかもしれない、そして美濃自体もまた混乱に陥ってしまうかもしれない…。 そう思った義龍は、ついに決断を下したのでした。 弟たちの暗殺、そして父との戦いへ 弘治元(1555)年、義龍は重臣たちと謀り、弟たちを居城の稲葉山(いなばやま)城に呼び出します。 「自分は病気で死を待つのみなので、会って一言申し上げたい」 と口実を設けてのことでした。 そしてやって来た弟らに酒を飲ませ、彼らが存分に酔ったところを家臣たちが殺害したんです。 この報せを聞いた道三は逃亡し、別の城へと移りました。 これが冬のことで、翌年になり雪解けが進むと、父子はついに戦火を交えることとなります。 義龍と道三、それぞれが率いる軍は、長良川(ながらがわ)を挟んで対峙します。 これが「長良川の戦い」です。 マムシと呼ばれる道三の手腕なら、義龍を圧倒するんじゃないかと思う方もいらっしゃるかと思います。 しかし、両者の率いる兵の数は、圧倒的な差がありました。 義龍軍17,500に対して、道三軍はたったの2,700余り。 どうしてこれほどの差がついたのかと言うと、それは道三の行った国盗りの経緯が理由だったんですよ。 スポンサーリンク やむなく父を討つも…「我が身の不徳」と 道三は最初に仕えた主を謀殺したとも言われていましたし、そして土岐頼芸を追放して国を乗っ取った男。 実は、美濃にはまだまだ土岐家へ心を寄せる勢力が多かったんですね。 そのため、道三に味方するくらいなら義龍の方がいいという者が大勢いたんです。 また、道三が美濃を奪ってからというもの、反攻する勢力に手を焼き、平定にかなり苛烈な手を使っていたということがありました。 そのためやはり反発が大きかったんですよ。 こうして起こった長良川の戦いは、最初は道三方が押し気味でした。 しかし、先手がやられたと見るや、義龍は自ら果敢に川を渡り味方をまとめます。 こうした戦いぶりに、道三はかつて息子を「無能」と評したことを後悔したといいます。 兵力差はいかんともしがたく、やがて戦いは義龍側の大勝利に終わりました。 道三の娘婿である織田信長は援軍を差し向けていましたが、間に合いませんでした。 そして、道三は討ち取られ、その首が義龍の前に運ばれてきました。 その首を前にした義龍は、 「我が身の不徳から出た罪だ(どんな理由にせよ親を殺してしまった)」 と言い、出家を宣言します。 そして父の首を手厚く葬りました。 この頃から、彼が「范可(はんか)」と名乗ったとされています。 范可とは、中国においてやむなく父を殺してしまった者の名前とされていますが、この故事に関しての詳細は不明です。 そして、義龍がこの名を名乗るようになったのは道三の死の前からという説もあるので、実際の「范可」の由来は不明のままです。 勢力拡大へと乗り出す途上での死 斎藤義龍:Wikipediaより引用 父を討ち、美濃の主となった義龍は、父がこれまであまり顧みることのなかった内政に本腰を入れました。 不安定な国内情勢を収拾するため、所領問題を解決し、合議制を導入して風通しの良い政治ができるようにしたのです。 その力は将軍・足利義輝(あしかがよしてる)にも認められ、相伴衆(しょうばんしゅう)の地位も得ます。 相伴衆とは、本来管領やクラスの高い守護大名しかなれない役割で、将軍の行幸などの際にお供をするものでした。 この一方で勢力拡大を図り、南近江(滋賀県南部)の六角氏と同盟して北近江(滋賀県北部)の浅井氏と戦っています。 また、織田信長と仲の悪い織田の別家と手を組み、信長を牽制しました。 しかし、突然の死が訪れます。 永禄4(1561)年、義龍は35歳の若さで急死してしまったのです。 詳細は不明ですが、誰も予想しなかった出来事と考えていいでしょう。 その後、義龍の跡を継いだ息子の龍興(たつおき)は、あまり有能と言える将ではなく、織田信長の侵攻を許して国を追われ、保護された朝倉家と信長との間で起きた戦で命を落としています。 もし、義龍が生きていたら、斎藤家の行く末は多少なりとも違ったものになったのではないでしょうか。 まとめ• 出生について憶測がある• 父・斎藤道三は下剋上を果たした人物だった• 父とはなぜか確執があり、嫌われた• 自分の身を守るため、弟たちを殺害し、父と戦う決断をした• 父を討ち取ると「自分の不徳」だと出家を宣言した• 勢力拡大への途中、急死した どうして道三がそこまで義龍を嫌ったのかがわかりませんよね。 父や弟を殺すことになってしまいましたが、それもまた戦国時代にはやむを得ないことだったのだと思います。

次の

斎藤道三は織田信長に美濃をやると遺言に書きましたが何か裏があったん...

斎藤 道 三 は 誰 に 殺さ れる

2020年 「」の美濃編で 一際異彩を放っていた人物といえば もちろん。 さんが 『蝮の道三』を 見事に演じてくれましたが 2020年5月10日に放送された第17話で 息子・斎藤高政の家臣によって 討ち取られてしまいました。 道三さまを背後から槍で突き刺した家臣を 私は絶対に許しません 笑 さん演じるは とにかく魅力の塊で 従来私が持っていたのイメージを 良い意味で覆してくれました。 つまり、私は 本木道三ファンなのです。 その本木道三さまが残してきた数々のセリフを 今回振り返ってみようというわけです。 というわけでお品書きはこちら。 道三さまの名言を振り返りながら 道三ロスの穴を埋めるのです! 1.名言集 第1話「光秀、西へ」 遠くの敵兵はこのように見える 【数珠の珠の数を当てずっぽうに答えた高政に対して】 遠くの敵兵はこのように見える。 お前は必ず敵の数を見誤り戦は苦戦する。 困った若殿じゃの。 数珠の珠を敵兵に見立て高政にダメ出しをするシーン。 同じく問うた十兵衛(光秀)は 理論的に正解を導き出したために なおさら高政のが悪くなるっていう。 高政との関係の悪さを伺わせるシーンなわけですが 道三自身は高政を嫌っているというよりも 父として厳しく育てようと思っていたのではないか というのが17話まで見ての私なりの結論です。 わしに何の得があるというのだ 【外の世界を見聞したいと願い出る十兵衛に対して】 そなたは旅をして学ぶことがあろう。 しかしわしには、この珊瑚ほどの値打ちもない! 何かあるか?得になることは。 「」のといえば 自身が公言してる通りドケチ。 の基本的理念の一つが この損得勘定ってやつでしょうか。 十兵衛がを『どちらかといえば嫌い』な理由がこれだし 息子の高政も、なんでも金勘定を基本とする父・道三のことを 相当嫌っています。 まぁちょっと高政の嫌い方は異常といえば異常だけど・・。 第2話「道三の罠(わな)」 のことは何でも知っている 【下へ迫る織田軍勢との戦の策を巡らせながら】 信秀は金はあるが、さほどの人望はない。 が大軍を率いて下へ攻め込もうとしていた時、 はどう立ち向かうべきか、策を練っていたようです。 そこへやってきた十兵衛と十兵衛の叔父・に についていろいろ語っていたうちの一つがこれ。 『さほどの人望はない』って言うけど、 え?自分はどうなの? ってちょっとツッコミたくなる所ですよね 笑 策も一人で練ってたりするし 家以外の国衆だ~れも味方じゃないような気がして 大丈夫なのかなとこの頃から心配していました。 その気持ちを忘れるな 【京・堺より戻った十兵衛に対して】 その気持ちを忘れるな。 豊かであれば無用な戦もせずに済む。 十兵衛が堺を見てきて『美濃もあのような豊かな国にしたい』 といったのを聞いての言葉。 この時のの表情と口調が 穏やかであり十兵衛の父のようであり とても印象に残っています。 すぐにとは言わぬが半分返せよ 【旅費は半分返せ、当てがないなら戦で返せ 笑 】 皆やったわけではないぞ。 金が無いと申すゆえ貸したのだ。 十兵衛もびっくりしてたけど私もびっくりしました 笑 まぁ全部返せって言わないだけマシなのかどうか・・・ 笑 でもこれは、十兵衛を戦で奮起させるためでもあったんじゃないか。 を大好きな私としては、 どうしてもそういう贔屓目で見てしまいます 笑 芝居はここまでじゃ 【織田の兵士たちが気の緩んだ頃合いで逆襲をかけようとする道三】 籠城はここまでじゃ!全軍を集めよ!門を開け! 織田軍を追い討ちにするのじゃ! 音もなく風のように追うのじゃ! 道三さまの戦上手を見せつけてくれた場面。 城下に紛れ込んでる織田の乱波をたぶらかさねばならない と言ってた時の表情も面白くて好きなんですが このセリフのカッコよさは一二を争います。 欣喜雀躍いたしておりまする 【戦勝を聞いて祝賀に訪れた守護・土岐頼純を迎えて】 本日このよき日に守護様じきじきの御来駕を頂き 城中の者一同、欣喜雀躍いたしておりまする。 このセリフ、特段変わったところはないっちゃないんですけど なんとなく『欣喜雀躍』っていう 四文字熟語の響きが好きで気に入ってます。 ただそれだけです 笑 どれほど尽くしてまいったか 【守護・土岐頼純から美濃を喰らわんとする蝮呼ばわりされて】 蝮・・・?誰が? 『蝮』といった後に舌なめずりする演技は さんならではのアドリブなのかな。 おそらくこのシーンで更に本木道三ファンが増えたことでしょう。 この城の主は身共でございます 【怒り狂って退席しようとする土岐頼純に対して】 頼純!・・・様。 呼び捨てにしたかと思いきや、 間をおいてちゃんと「様」をつけた。 この時の表情がめちゃくちゃカッコイイんです 笑 第3話「美濃の国」 殺すなど滅相もない 【に土岐頼純毒殺の犯人はお前だろうと言われて】 私が(わたくし)?頼純さまを? 誰がそのような世迷言を申しました? これに限らずなんですが、 本木道三さまは表情がとにかく豊か。 おどけた表情からキリっとした威厳のある表情まで 表情の移り変わり激しすぎじゃない?っていうぐらい 一つの場面内でも様々見せてくれました。 このセリフの時はすっとぼけた面白い表情ですね 笑 操り人形に 【に守護になったらお前に殺される、みたいな言い方されて】 操り人形に毒は盛りませぬ。 衝撃を覚えた名言の一つですね、これは。 の空恐ろしさを視聴者も感じたはず。 もしかしたらあなたの飲んでるその茶にも・・・ 笑 第4話「潜入指令」 この利政にうそは通りませぬぞ 【小見の方を診てくれた望月東庵先生、へいくことを隠しているが・・】 てやっ! ハッハッアハハッハッハッハハッ この『てやっ!』って好きなんですよ 笑 そもそもこれ説明無しにどのシーンがわかる人は 生粋の本木道三ファンかもしれません 笑 これは望月東庵先生がの下へいくことも 信秀に借金があることも全て見抜かれて 笑い出したのに続いて、道三も笑いだすシーンです。 伝わるんだろうか、これ 笑 『てやっ!』って普通言わないようなぁ 笑 京で面白い魚を釣ってまいったな 【望月東庵先生の件について十兵衛と何やら密談】 釣った魚は釣った者が始末をするものじゃ。 望月東庵先生を魚に喩えて 十兵衛が京で釣ってきた魚なんだから 後始末もお前がちゃんとしろ、場合によっては斬れと。 確かに十兵衛、素性をきちんと調べて連れてきたわけではないですしね。 そこは十兵衛の落ち度ではあったかも? 笑 まぁでも東庵先生のことを道三さまは気に入ったようですけどね。 第5話「伊平次を探せ」 よし、引けばいいのだな 【十兵衛に手ほどきをうけて撃った鉄砲の弾が見事瓶に命中して】 見よ!当たった!ハハハハハっ!! このシーンでの道三さまのはしゃぎっぷりが大好きです。 あと笑い方ね。 本木道三さまは独特な笑い方をする時がよくあります。 ちょっとメロディついてる感じのときとか 笑 十兵衛に対しては厳しい面もあるけど 子供みたいにはしゃぐ姿も見せるし 優しい表情になる時もあるし 師弟というよりは親子みたいな接し方をしている気がします。 それだけ十兵衛がお気に入りってことなんでしょうけど 高政に対しても、もうちょっと優しく接していればなぁ・・・。 第6話「襲撃計画」 大柿城攻めで登場はしたんですが 残念ながら道三さまの セリフは無しの回でした。 第7話「の願い」 正しいと思うているか? 【の婚姻の件で十兵衛とが訪れて】 人を説き伏せるには まず自らが それが正しいと思うことが大事ぞ。 めちゃくちゃ正論です。 これっぽいことを目上の人とかに言われた事がある人、 結構いるのでは? よく肝に銘じておきます、道三さま 笑 では和議は諦めろと申すのか! 【を説得することは無理と十兵衛に断られて】 説得できぬのならそうであろう! では用は無い!帰れ! このシーン、何回見ても吹いてしまいます。 怒りにまかせて帰れと言ってしまうものの やっぱり十兵衛が頼りだから 叔父・に呼び戻させるっていう。 『十兵衛を連れ呼び戻せ』と言われた時の 光安の 『はぁ?』っていうセリフも頷けます 笑 この美濃には海が無い 【呼び戻した十兵衛に和議の重要性を説く】 そのが手を出しだしてきた。 和議を結べば海が近(ちこ)うなる。 わしの仕事は戦をすることではない。 国を豊かにすることじゃ。 豊かであれば国は一つになる。 一滴の血も流さず豊かになる。 それがこたびの和議じゃ。 という人が何を考えて美濃を治めているのか その一端を知ることのできるシーンなんですよね、ここ。 決して私利私欲のためにやってるわけではないのです(たぶん 第8話「同盟のゆくえ」 でかした十兵衛! 【説得の知らせを十兵衛とから聞いて】 でかした十兵衛! そうかが行くと申したか! あのが!おお十兵衛上出来じゃ!ようやった! ハーハッハーハハハッハハハハハハッ もうこのシーンのことはいろいろ言うまでもないかもしれません。 小躍りしているわけではないんだけど 道三さまが小躍りするように喜んでいる様が とても印象的でした。 ちょっとセリフ言ってる時の雰囲気が ラッパーっぽいとか思ったのは私だけ? 笑 第9話「信長の失敗」 なんと道三さま、初の未登場回!! 第10話「ひとりぼっちの若君」 この美濃にも波が及ぼうはず 【今川と織田の人質交換の件で十兵衛とを呼び寄せて】 松平竹千代はまだ幼いがのを継ぐ者。 これを今川に渡せばは全土を今川に支配されたも同然。 そうなればの隣国、は 虎のそばで暮らす猫のようなものじゃ。 、のみならずもにおさめれば 今川氏はだけでなく美濃も脅かす存在になりうる。 それを表現するための上手い喩え と、道三さま贔屓の私はただ褒めるだけです 笑 第11話「将軍の涙」 織田がこれほどまで無力とはのう 【織田への援軍是非の評定後、と】 平手がその返答で不満なら・・・。 盟約は破棄して今川に乗り換えるまでじゃ。 国衆の意見をまとめられず 平手政秀から頼まれている援軍は出せそうもない。 それで納得しないなら今川に、って なんかちょっとっぽい? 笑 金がかかるぞ 【織田と今川の和睦のため十兵衛が将軍家にとりなす事をお願いにきて】 やりたければ勝手にやれ! わしは金は一文たりとも出さぬからそう思え! 十兵衛が小声で『ケチっ!』と言っていたのは 耳に届かなかったのであろうか 笑 でもこれ十兵衛の言うとおり、 様にお願いすればいいのにって思ったけど 借りを作るわけにはいかなかったのかなぁ。 ていうかお金出してくれればいいのに・・・ 笑 第12話「十兵衛の嫁」 この若者の血を凍らせてしもうた! 【による利政暗殺未遂事件で国衆一同を城下に集めて】 鷹はあの鷺山から贈られてきた。 この国の守護であり わしが神仏のごとく敬(うやも)うてきた 様から贈られてきたのじゃ。 まことに恐ろしき話じゃ! 何故わしが殺されなければならぬのだ? わしはこの美濃のために命を懸けて働いてきたのじゃ。 土岐の内輪もめを収め そなたたち国衆の領地が他国に荒らされぬよう戦い 年貢は低く抑え 鳥羽川の水を引いて 八代(やしろ)や土居(つちい)の荒れ地を 豊かな土地に変えた。 そのわしが 何故殺されなければならぬのだ? びっくりです。 さま、気づいていません。 命を狙われる理由を 笑 いやまぁわかってはいつつ、 演技しているんだと思いますけどね。 国衆に活を入れるための脅しみたいなもんだって言ってたし。 でも、ここでしれっとのおこなってきた国造りの一端が見えて へぇそうなんだ~って思った場面でもありました。 ただの鷹好きのたわけじゃ 【との決別を告げて、皆への同意を求めた後】 皆心は一つじゃな。 今日から鷺山に近づく者は 裏切り者として成敗いたす。 いずれ戦になるやもしれぬ。 おのおの覚悟せよ! 道三さま、一言だけいっておくと 皆の心は一つではありませぬ 笑 第13話「のはかりごと」 皆さほどにわしが嫌いか? 【鉄砲の話と偽って土岐様との戦の件を話に来た十兵衛と】 正直に申せ。 わしを嫌いか? この辺のって案外答えわかってて 聞いている気もしたんですが、 私は見逃していません。 十兵衛が 『どちらかといえば嫌い』って答えて ちょっと動揺した表情を見せたことを 笑 お気に入りで目をかけてる十兵衛にも 嫌いって言われるのは流石にショックな気がします 笑 初めから戦をするつもりなどない! 【追放について十兵衛に明かす】 わしとて戦はしとうない。 穏やかにこの美濃を出ていって頂く。 手は打ってある。 これ『手は打ってある』って言いながら 階段をゆっくり下りていくのが なんだかいいんです 笑 置き去りにされた哀れな忠義者か 【深芳野といるところへ息子・高政が現れて】 お前? 言葉は刃物ぞ。 気を付けて使え。 とかやってると特にそう感じる時ありますよね。 言葉は刃物、用い方を間違えないように気を付けまする。 まことの父はここにおるではないか 【本当の父はだと言い放つ高政に対して】 そろそろを譲ろうかと思うておったが いまだしじゃのう・・・。 最初にこれを聞いたときは 本気じゃなくて厭味で言ってるのかと思ってました、正直。 でも高政に対する道三さまの想いがなんとなくわかる今だと この時そろそろ譲ろうとしていたのは本当なんだろうな、と。 人の心はわからぬものじゃ 【と面会する件で十兵衛とを呼び出して】 大事な娘の婿殿に・・・ 誰がさような悪さをするものか。 フフッ これまたびっくり案件です。 信長に毒など盛らぬって言ってるんですけど あなた既に大事な娘の婿殿に毒盛ってますやん! 殺してますやん! ていう全視聴者からの総ツッコミがあったことは 間違いありません 笑 第14話「聖徳寺の会見」 遠慮はいらぬ、わしの肩をたたけ 【肩を1度叩いても気づかないため思いっきり肩を十兵衛に叩かれて】 ん!? 名言ではありません 笑 十兵衛に思いっきり肩を叩かれて発した言葉なんですけど その時の表情が可愛らしかったです 笑 十兵衛が叩く時の顔も日頃の恨みを込めてるかのような表情で 面白かったですね 笑 帰って誰ぞにお聞きなされ 【聖徳寺にて信長の『我らも変わらねば』という話を聞いて】 なるほどのう・・・。 はわしを見て育った。 わしと同じと思うておるのであろうな 信長殿を・・・。 信長殿はたわけじゃが 見事なたわけじゃ。 道三さまの評価が一変した聖徳寺の会見。 信長と道三さまが同じということは つまり、さまも見事なたわけということか。 高政が信長と同じように自分にもっとよく似ていたら なんてことが頭を過ったりしたのかな。 その目で見て申しているのか? 【今川と戦うに援軍を送ることに反対の高政に対して】 わしは見た。 話した。 口惜しいが、 信長を甘く見るとそなたも稲葉も・・・ 皆、信長にひれ伏す時が来るぞ。 今はまだ若い。 しかし、信長の若さの裏に したたかで無垢で底知れぬ野心が見える。 まるで昔のわしを見るような・・・。 ああ・・・気に入った。 高政がを完全に敵と定めた瞬間は この時かもしれない。 自分ち違って父・道三によく似ている。 その信長を父・道三も大変気に入っている。 これは父としては事だったのでは?道三さま・・・。 そして 『ああ・・・気に入った』の演技は 本木道三だなって感じで素晴らしかったです。 わしを・・・見よ 【母・深芳野を大事と思うならを譲れという高政に対して】 よかろう。 をそなたに・・・。 深芳野の願いは高政がを継ぐこと。 だからこそ、高政が父・道三を否定し、 父・道三がはまだやれないと言った時に 深芳野は絶望を感じてしまったのかもしれない。 でも道三さまがこんなにあっさりを譲った時点で 高政や深芳野に対する情の深さを私は感じたけど、 高政にはもはや手遅れだったんでしょうか。 の子がいるのに側室の子に継がせる事の意味、 古くからの権威や慣習を重視しそうな高政なら わかりそうなものだけど、憎しみが強すぎたか。 第15話「道三、わが父に非(あら)ず」 国の政を万事託そうと思う 【出家と相続を国衆に伝える】 古きを脱し、新しき世を作るのは新しき血じゃ。 このことはわしの頭から いっときたりとも離れることはなかった。 ここにも道三さまが高政に対する期待が込められている と私は勝手に思っていますが、いかがでしょうか? 全権を高政に譲るって言ってますしね。 やっぱアレか、が悪いのか 笑 鉄砲組か、やってみるか 【十兵衛、道筋無き相続について物申す】 道筋をつけてから身を引くべきであった? 道筋などあるのか? わしは己が正しい道の上を歩いてきたとは思わぬ。 戦も勝ったり負けたりじゃ。 無我夢中でこの世を泳ぎ渡ってきた。 高政もそうするほかあるまい。 はい、道筋は自分で切り開くものであって 他人に示されるものではないと思います! 特に道三さまたちの生きる戦国時代では 己の力で道を切り開ける者でなければ 生き残っていうことは難しかったかもしれませんよね。 これが・・・孫四郎と喜平次か? 【孫四郎と喜平次の無残な姿を目の当たりにして】 誰が・・・誰が・・・誰が・・・ 誰がこのような・・・。 誰がこのような仕打ちを・・・申すな!! 分かった。 申さずとも分かった。 美濃を手に入れた褒美がこれか! わしが全てを譲った我が子・・・。 全てを突き返してきたのじゃ。 このように血まみれにして! これはただ一言。 道三さまの悲しみと怒りが伝わり過ぎました。 第16話「大きな国」 人を欺き自らを飾ろうとしたのだ 【挙兵した道三を止めるために訪れた十兵衛に】 十兵衛。 人の上に立つ者は正直でなくてはならぬ。 偽りを申す者は必ず人を欺く。 そして国を欺く。 決して国は穏やかにならぬ。 わしはケチだがそれをわしは隠したことはない。 そうは思わぬか? ここはまた賛否両論ありそうな発言です 笑 でも確かにケチであることは隠していないので セーフということで 笑 そして十兵衛は正直者であることを認め、 それでよいという。 道三さまが十兵衛をお気に入りだったのは その『正直さ』だったがためかもしれませんね。 正直に『どちらかといえば嫌い』って言う所とか 笑 皆一つになればよい 【十兵衛に託す、大きな国を作る夢】 しかしあの信長という男は面白いぞ。 あの男から目を離すな。 大きな国を作るのじゃ。 誰も手出しのできぬ大きな国を。 さらばじゃ! これはもはや遺言です。 高政に本来なら言いたかった言葉の数々なのでは なんて思ってしまいますが 十兵衛と信長に自分の夢を託すということでしょう。 さらばじゃ!って言って去ってく姿が カッコイイんだけど悲しかった・・・。 その口で皆を欺き この美濃をかすめ取るのか! おぞましき我が子!醜き高政! そなたの父は、このじゃ! 成り上がり者の道三じゃ。 そもそもこの戦、勝ち目はないことはわかっているはず。 ならば何故しかけたのか、何が道三さまの目的だったのか。 間違いを正すために戦は必要? やっぱり罰を与えるため、なんですかね。 高政ーーー!!! 【死に際、最期の言葉を高政に】 我が子・・・高政・・・ 愚か者・・・ 勝ったのは道三じゃ。 勝ったのは道三。 親殺しの汚名を息子に着させた父の勝ちだ ということなのだろうと。 最後に数珠を引きちぎって 珠がバラバラになるんですが 思えば、道三さまの初登場って バラバラになった数珠から始まりました。 常在寺の和尚が家中の女たちに 数珠を作ってやってくれとサンゴの珠をよこしてくれた。 その珠の数を当ててみよ と息子の高政と十兵衛に問いかけるのが始まり。 数珠を引きちぎったことには何の意味があったのか。 あれはきっと 高政に対しての呪い。 自らを偽り人を欺こうとする息子に対する戒めとして。 高政がこの6年後、 享年35歳という若さで亡くなるのはそういうわけです。 ! 笑 2.余談 話が次回へ持ち越される時って、 終わり際と次回の冒頭の内容がちょっと被ったりしますよね。 例えば 「聖徳寺の会見」。 第13話「のはかりごと」の終わり際も 第14話「聖徳寺の会見」の冒頭も 道三さまや十兵衛が小屋みたいなところに隠れて 信長の行列をコッソリ覗き見する場面です。 ここ基本的には同じ場面のはず、なんですが セリフが若干違うんです。 まぁすっごい細かいところなんですけど 笑 、こちら。 ちなみに鉄砲隊の数を瞬時に数える特技をお持ちの十兵衛も。 全話チェックしているわけではないんですが 少なくともさま絡みのでいくと 少なくともあと1場面、 同じようにセリフが違うシーンがありました。 毎週普通に見てるだけだったら この違いは絶対気づかなかった自信があります 笑 3.まとめ 今回は「」のが残してきた 数々のセリフをピックアップしつつ 振り返りというか私の個人的な想いを吐き出してみました。 いかがでしたか? 笑 ちなみにこれ第17話まで全話対象になってて 結構大変だと感じる方も多いかもしれませんが ちっとも大変じゃないんです。 それはなぜなら! 本木道三にハマってから 毎回セリフを書き留めておいたからです! 笑 今回みたいな記事を書くかどうか てところまでは決めてなかったんですけど ブログネタにもできるようにと思って それなりの形で残してたりしたんですよね。 それから「」公式サイトには さんのロングインタビューが 前後編に渡って掲載されています。 そしての方で公開されたさんのコメント。 を演じ終えたさんより、リモートでコメントをいただきました。 この辺全部目を通すとさんによる の全貌が見えてくる気がします。 ということは抜きにしても 読み物、番組としても非常に面白いので まだご覧になっていない方は是非見て頂きたいです。 そして道三ロスを埋めるために 笑 、 またというか本木道三ネタを書くかもしれません。 では今回はこの辺で。 は 以下のランキングサイトに参加しています。 バナーをポチって頂けると今後の励みになります! また、 は 歴史人物の記事を主戦場としつつ ブログ運営関連の記事なども投稿している 雑記ブログです。 こちらの INDEXページは各記事のカテゴリの説明と共に ピックアップ記事やカテゴリの記事一覧へのリンクも 掲載しています。 この INDEXページを基点として頂くと 過去に投稿済みの記事へもアクセスしやすいです。 こちらから過去記事も読んで頂けると嬉しいです。

次の