イスタンブールのホテル アクギュン(AKGUN ISTANBUL HOTEL)にチェックインしてから、オスマン宮廷料理レストラン アシターネ(asitane)を書いた。 15日間のエジプト・トルコ大周遊モニターツアーの3日目、6月22日。 この日は金曜日で、イスラムの世界では午後から集団礼拝がある。 エディルネのモスク見学が13時からの予定やったけど、観光客は午後からは入れなくなるので、出発時間が8時半から7時45分に早まった。 4時半には目が覚めて、6時ごろホテルのレストランへ行った。 生ものは避けるようと言われてるけど、それやと食べるもんがなくなる。 ヨーグルトとパン、チーズ、キュウリ、トマト、スイカ、干しいちじくなどをちょこちょこつまむ。 出発まで時間があったので、まわりをお散歩することに。 ホテルの前のアドナン・メンデレス大通り(Adnan Menderes Boulevard)を左のほうに1、2分歩くと、テオドシウス2世の城壁がある。 ロマノス門 現トプカプ門 とカリシウス門 現エディルネ門 のちょっとロマノス門寄りの場所。 大通りのところで、城壁は分断されてる。 城壁沿いのスルクレ通り(Sulukule Cad)を歩いていくと、城壁に登る小道があった。 城壁の上は遊歩道になってた。 アザミの花が咲き、イチジクの木も茂ってた。 今は高速道路が走ってる側を、1453年メフメット2世が率いるオスマン帝国軍が埋めていた。 イスタンブールの前身であるコンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世がローマからビザンティウムに遷都して改名した都市。 395年に東ローマ帝国(ビザンティン帝国)となってからも首都であり続け、発展してきた。 皇帝テオドシウス2世によって413年に現在のイスタンブール旧市街の西側をすっぽり覆うように城壁が造られた。 のテオドシウスの城壁紹介によると、 「内城壁は厚さ5m、高さ8-12mで、内城壁と外城壁の間に幅15-20mの通路がある。 外壁は厚さ10m、高さ8. 5mで、その外側に高さ2mの胸壁、外城壁の外には幅20mの濠がつくられた。 96の高さ18m-20mの物見塔は内壁と外壁に交互に55mおきに配置されており、そのほかに、小さな秘密扉、一般用と軍事用の門が各5で計10の門が設けられた。 コンスタンティノープルは616年と626年にペルシア、717-718年にアラブ、813年にブルガリア、864年と904年にロシア、959年にハンガリー、1043年に再びロシア、1391年と1422年にオスマン帝国から攻撃を受けたが、いずれもこの城壁を破ることはできなかった。 」 北は金角湾、南はマルマラ海、西は城壁と三角形の地形の周囲を守られ、1000年もの間落ちることがなかった難攻不落の都に1453年攻め入ったのが、21歳になって間もないオスマン帝国第7代皇帝メフメット2世。 このあたりは、激戦区だったらしい。 爆破痕の残った塔に、プレートがはめこまれてた。 塔の左側にトルコの国旗がはためいてた。 たぶんファーティフ区役所のあるとこやと思う。 歴史の運命を感じながら、城壁をあとにした。 15日間のエジプト・トルコ大周遊モニターツアーの旅、続く。 旅行当時のレート、1トルコリラ(TL)47.2円。
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ぜひ見たくなり色々と巡った。 我ながらかなりマニアックだと思う。 ルメリ・ヒサリ トラムで終点のカバタスへでて、バスターミナルからバスでボスポラス海峡の要所(海峡が一番狭い場所)にあるルメリ・ヒサリに向かう。 しかし、バスターミナルなのに路線図がなくて、どの乗り場のどのバスにのればよいのか分からない。 なんとかそれっぽい行き先のバス停があったのでバスを待ち、やって来たバスに乗ってみる。 時間はたっぷりあるから間違えてもいいや、と段々とアバウトな自分になる。 しかし途中から海沿いを離れていくので若干は心配になる。 GoogleMapでバスの位置を確認してみると、大回りして目的地に向かいそう。 ファーティフ・スルタン・メフメット大橋(第二ボスポラス大橋)が見えてきた丘の上でバスは終点。 ルメリ・ヒサリ方面に向かうバスの中 GoogleMapでナビゲーション ルメリ・ヒサリは、遥か下のほうに見える。 GoogleMapを頼りに急な細い坂道を降りていく。 ヒサリの裏側に辿り着いたが、入口が分からない。 通りかかったおばさんに訪ねたら、英語が分からないとのジェスチャー。 近所の英語が分かるおじさんを紹介してくれた。 おじさんの英語とジェスチャーで何とか理解。 思っていた方向と違う方だったので聞いて良かった。 バス終点近くの公園から見えた大橋 地元の人しか通らない道を下る ヒサリはミュージアムになっていて、入口でセキュリティチェックがある。 X線装置ほど大袈裟なものはなく、バッグの中をチェックするというもの。 バッグ内のGPSロガーを見つけられ、これは何だ?と問われたが、無事に通過。 ルメリ・ヒサリ・ミュージアム入口 その昔、海峡を狙っていた大砲 中央、一番下にある塔 塔の中 高いところまで登れるが、手すりなどの安全柵は無く落ちたら怪我では済まない。 石畳が濡れているところもあって滑りそうで怖い。 ここから海峡を監視 2日前、船からみたヒサリ(左上の塔の真下まで登った) この日、観光客は殆どいなかった(いつもいないのかもしれない)が、小学校3、4年生位の一団が来ていて賑やかだった。 挨拶してきたので、英語で話しかけると英語が話せる生徒が何人かいた。 どこから来たのか?何の勉強しているのか?などお喋りをして別れた。 日本の小学生はなかなかここまで喋れないぞ。 帰りはボスポラス海峡沿いを走るバスで帰ろうと、バス停を目指して歩いているとかなり手前でバスが来てしまった。 しかし、手を振って乗りたい旨をアピールしたら止まってくれ、無事に乗ることができた。 ありがとう。 テオドシウスの城壁(エディルネカプ近く) カーリエ博物館を訪ねたあと、コンスタンティノープル北側を守っていたテオドシウスの城壁跡を見に行った。 5世紀の皇帝テオドシウス2世が作った 三重の城壁だ。 近づくと城壁に登っている人が見えたので、登ってみることに。 岩登りに近い、手足を使わないと登れないほぼ垂直の階段を登る。 城壁の上には手すりもなく、自己責任の世界。 ここでは三重の城壁の痕跡は見えなかった。 しかし、イスタンブルの街が360度見渡せる素晴らしい場所でした。 ほぼ垂直の階段は降りるときの方が怖かった。 城壁跡(城壁の内側) ほぼ垂直の石段を登る 垂直の石段を登ったところから見える塔 城壁の右側が昔のコンスタンティノープル市街 向こうに見えるのはミフリマー・スルタン・ジャーミィ 道を渡り、振り返る テオドシウスの城壁(トプカプ駅近く) 別の日、アジアサイドからメトロブスで旧市街側に戻った際、乗換のトプカプ駅近くにテオドシウスの城壁が見えたので近づいてみた。 このあたり、公園として整備されていて良い感じ。 天気も素晴らしい。 復元工事が行われていない感じの、石やレンガが崩れている場所から城壁の内側に入ってみると三重の城壁の痕跡らしきものが見えた。 トプカピ駅(城壁の外側)から城壁を眺める 左奥は復元されていて右手前は当時のまま? 復元修理されていない城壁 これが三重の城壁跡か? マルマラ海側の城壁跡 ブルーモスク裏手にあるアラスタバザールから坂道を下っていくとマルマラ海にでた。 海沿いの遊歩道をボスポラス海峡の入口に向かって歩く。 途中、海からの侵入を防ぐための城壁跡が見えてきた。 城壁跡に沿って歩くとその規模が感じられる。 修復されているところもあるが、崩れかけているところも多い。 大きいので今日では維持するのが大変だろう。 しかし、重機もない時代にはキチンと整備され、多数の兵が行き来していたのだ。 都市を守るために必死だった時代を感じると共に、桁外れにでかい中国の万里の長城はどれだけ大変なことだったのか。 ボスポラス海峡入口の灯台、右側はマルマラ海 マルマラ海からの侵入を防ぐ城壁跡 後ろに見えるのはトプカプ宮殿 マルマラ海とボスポラス海峡入口 色々廻ったが、地味なせいかいずれも観光客は殆どおらず、日本人にも全く会わなかった。 普段、歴史にはあまり興味はないが、コンスタンティノープルの陥落を読んだおかげで、戦乱の時代に思いを馳せることができて楽しむことができた。
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2004. 11 今日はこの旅行の本命、「テオドシウスの大城壁」観光の日だ。 その前に東ローマ帝国=ビザンチン帝国が1453年オスマン帝国により滅ぼされた歴史についてひとくさり・・。 塩野七生「コンスタンチノープルの陥落」筋書き 東ローマ帝国の首都として一千年余も栄えたコンスタンティノープル。 地中海に君臨した首都をめぐる、キリスト教世界とイスラム世界との激しい覇権闘争を、豊富な資料を駆使して描く、甘美でスリリングな歴史絵巻。 タクシーで10:00城壁に到着。 観光地ではないので人影はまばら。 私以外に遺跡を見て歩いている人はいない。 ロマヌス門 現トプカプ門 からカリシウス門 現エディルネ門 まで攻防の資料を携えて約1時間かけて歩いた。 凄まじい破壊の跡だ。 大部分は現在もこのように放置してある。 ハンガリー技術者ウルバンはビザンツ側に巨砲の売込みを断られ敵のオスマン側に申し出た。 「そのとき歴史は動いた」のである。 彼は次々に大型の大砲を試作し遂に超弩級の大砲を完成した。 砲身8メートルあまり600キロ近い石の巨丸を1,6キロメートルも飛ばすことが出来たのである。 エディルネ門にかかったときばらばらっと3人の少年たちが現われた。 子犬のようにじゃれ付いて離れない。 こういう子供の言葉ほど厄介なものは無い。 こちらが聞き取れるかどうかはてんで問題にしないのだ。 早口にめいめいがわめきたて何を言ってるのかさっぱり分からない。 「中級の」会話力とひそかに自負していたがその誇りは木っ端微塵に砕かれた。 エディルネ門。 エディルネ街道への門口であったのでこう呼ばれている。 ここからアヤソフィア方面へ戻っていく予定。 ヴァレンス水道橋。 ベオグラードの森から地下宮殿 後述 へ水をひいていた。 スレイマニエ・ジャミー。 イスタンブール大学構内で女子大生たちの背景として撮った。 オスマン最盛期の君主であり名君の誉れが高い。 エジプシャンバザール。 ガラタ橋のたもとにあって便利でもあり雰囲気もグランドバザールより好きで何度も通った。 香辛料、チーズなど生活必需品が多い。 夕方になってきたのでガラタ橋、ガラタ塔を通って新市街にあるホテルに向かう。 ガラタ塔から見下ろした旧市街夜景 アタチュルク橋の向こう側。 中世ジェネバ人が造った塔からはこのように旧市街の全貌が見渡せる。 このとき、旧市街からいっせいに「エザーン」が流れてきた。 多くのジャミーが同時に礼拝を呼びかけるのでこだましあい朗々と響き渡り感動的な音色だった。 しばらくジッと耳を澄まして聞き入った。 イステクラル通りをぶらついてからホテルに着いた。 今日も無事に終わった。 次のカテゴリは、 3、三日目、どしゃ降り をクリックしてお進みください。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。 この地は古来よりアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝であり、また天然の良港である金角湾を擁していた。 当時の都市名の「コンスタンティノポリス」は「コンスタンティヌスの町」を意味する。 395年のローマ帝国東西分割後は、東ローマ帝国の首都となり、「新ローマ」「第2のローマ」という意識が定着した。 東ローマ帝国の隆盛と共に、30万~40万の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として繁栄し、「都市の女王」「世界の富の3分の2が集まる所」とも呼ばれた。 また古代の建造物が残る大都市としてその偉容を誇った。 正教会の首長であるコンスタンディヌーポリ総主教座が置かれ、正教会の中心ともなり、ビザンティン文化の中心でもあった。 都市の守護聖人は聖母マリアである。 コンスタンティノープルは強固な城壁の守りでも知られ、東ローマ帝国の長い歴史を通じて外敵からの攻撃をたびたび跳ね返した。 しかし1204年に第4回十字軍の攻撃を受けると衰退が加速した。 1453年にオスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落し、東ローマ帝国が滅亡すると、この街はオスマン帝国の首都となった。 日本ではトルコ語によるイスタンブルの名で呼ばれる。 ただし、公式にイスタンブルと改称されるのはトルコ革命後の1930年である。 現在も東方正教会およびアルメニア正教会は、コンスタンディヌーポリ総主教座をイスタンブルに置いている。 東方正教会のコンスタンディヌーポリ総主教の正式称号は「新ローマ・コンスタンディヌーポリの大主教、全地の総主教」であり、この都市に付された「新ローマ」の称号は現在もなお生きている。 黄金時代(9世紀~11世紀) 東ローマ帝国が東地中海の大帝国として復活した9世紀になると、宮殿や教会・修道院が多数建設され、孤児院や病院のような慈善施設も建てられた。 古代ギリシア文化の復活とそれを受けたビザンティン文化の振興も進み(マケドニア朝ルネサンス)、コンスタンティノープルは東地中海の政治・経済・文化・宗教の拠点として、またロシア・ブルガリア・イスラム帝国・イタリア・エジプトなどの各地から多くの商人が訪れる交易都市として繁栄を遂げ、10世紀末から11世紀初頭の帝国の全盛期には人口30万~40万人を擁する大都会となった。 当時の西ヨーロッパにはこの10分の1の人口を抱える都市すら存在せず、コンスタンティノープルはキリスト教世界最大の都市であった。 11世紀後半になると、東ローマ帝国はセルジューク朝の攻撃などを受けて弱体化するようになり、コンスタンティノープルの繁栄はいったん衰えるが、11世紀末から12世紀のコムネノス王朝の時代に帝国が再び強国の地位を取り戻すと、国際交易都市としての繁栄を取り戻した。 特にヴェネツィア共和国は東ローマ帝国と徐々に対立を深め、1204年の第4回十字軍を教唆してコンスタンティノープルを海側から攻撃させた。 海側の城壁は高さも低く、コンスタンティノープルの弱点だった。 4月13日、コンスタンティノープルは陥落し、十字軍兵士による暴行・虐殺・掠奪が行われた。 十字軍はコンスタンティノープルを首都としてラテン帝国を建てたが、存立基盤が弱く、ヴェネツィアの海軍力・経済力に依存していた。 このためコンスタンティノープルにあった美術品や宝物は、食糧代などとしてほとんどヴェネツィアに持ち去られ、壮麗さを誇った宮殿・教会といった建造物も廃墟と化していった。 1261年7月に東ローマの亡命政権ニカイア帝国は、たまたま守備兵が不在だったのを突いて、コンスタンティノープルを攻撃、奪回した。 これによって東ローマ帝国は再興されたが、国力は以前に比べて格段に弱くなっており、帝都の大半は荒れるに任された。 人口も4万~7万人に減少し、貿易もヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市に握られてしまい、都に富をもたらすことはなかった。 終焉(14世紀~15世紀) コンスタンティノープルの陥落も参照 14世紀になるとコンスタンティノープルはオスマン帝国軍に度々包囲され、東ローマ帝国の命運も風前の灯火となった。 ただ、文化だけは最後まで栄え、古代ギリシア文化の研究がさらに進み、ビザンティン文化の中心としての地位を維持した。 この文化の繁栄は、当時の皇室の姓(パレオロゴス王朝)を取って「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれ、西欧のルネサンスに非常に大きな影響を与えた。 1453年4月、コンスタンティノープルの奪取に並々ならぬ意欲を燃やすメフメト2世が、10万のオスマン帝国軍を率いてコンスタンティノープルを包囲した。 オスマン側は大型の大砲を用いたり、艦隊を陸越えさせて金角湾に入れるなど、大規模な攻囲作戦を行なった。 コンスタンティノープルの堅固な防壁は健在であり、東ローマ帝国軍とイタリア人傭兵部隊はわずか7千の兵力だったにもかかわらず2か月に渡って抵抗を続けた。 しかし5月29日未明、オスマン軍は総攻撃を行い、閂を閉め忘れた城門からついに城内へと侵入した。 コンスタンティノープルは陥落し、最後の皇帝コンスタンティノス11世は乱戦の中で戦死、東ローマ帝国は滅亡した。
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