吉田兼好。 徒然草の原文内容と現代語訳|兼好法師の生涯

吉田兼好とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

吉田兼好

「つれづれなるままに~」の冒頭で知られる『徒然草』は、『つれづれ種(ぐさ)』と名付けられた鎌倉時代末期の随筆集で、『枕草子』『方丈記』と並ぶ日本三大随筆のひとつです。 作者は吉田兼好(よしだけんこう)や兼好法師(けんこうほうし)の名で知られる卜部兼好(うらべかねよし)で、彼が48歳頃に、それまで書きためていた244もの散文をひとつにまとめたものと考えられています。 『吉田神社』の神職の家に生まれた吉田兼好は、幼い頃から非常に賢い子供でした。 20歳前後から朝廷に勤め始めると、25歳頃には『大覚寺統』(だいかくじとう・鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて皇位に即いた皇室の系統)の後二条天皇(ごにじょうてんのう)の外祖父(母方の祖父)の堀川家に側近として仕えることになります。 ところが、後二条天皇が24歳の若さで亡くなると、大覚寺統と対立していた『持明院統』(じみょういんとう)の花園天皇(はなぞのてんのう)が即位し、吉田兼好は出世の道を絶たれたと言われています。 諸説ありますが、1308年頃の後二条天皇の死をきっかけに知識人としての道を選んだ説、1324年頃の後宇多上皇(ごうだじょうこう)の死がきっかけとなった説があります。 吉田兼好には、出世以上に自由に知識人として生きたいという思いがありました。 そして努力や能力だけではどうにもならないことがあることを知り、出世や名誉を得ることに疑問を感じ、30歳頃に出家して世捨て人となります。 この時代、鎌倉幕府は、崩壊の時を迎えつつありました。 天皇家では皇位継承をめぐる争いが続いており、先が見えない不安の中で、出家して僧になる道を選ぶ人が多かったようです。 その多くは、特定の宗派に属して寺院で生活しながら修行しますが、吉田兼好はどこの宗派にも属さず、都のはずれに建てた庵で生活していました。 時には旅に出てみたり、違う地域で暮らしてみたりと、自由気ままに生きながらも、自分の心と静かに向き合う中で生まれたのが『徒然草』でした。 余談ですが、吉田兼好は和歌の才にも秀でた人でした。 『花は盛りに』から始まる『徒然草』第137段には、「花は満開の時のみを、月は雲がない状態の時のみを見るものではない。 降っている雨を見て思いを馳せる月や、今にも咲きそうな梢(こずえ・樹木の先の部分)、花が散ってしまったあとの庭などにこそ、しみじみとした趣深さがある」という内容が記されており、吉田兼好の風流さがうかがえます。 また、達筆であったことでも知られ、当時から文化人として名高い人でした。 しかしながら吉田兼好は、そのような自分の才を誇ることはしませんでした。 世捨て人としての暮らしの中で、名誉などよりも自分の心が豊かであることの方がずっと大切であると、気づいていたからです。 そのためか、吉田兼好が残した随筆集は死後しばらく埋もれていましたが、それから250年以上もの時を経た江戸時代に大流行し、世に広まることとなります。 江戸時代からさらに時を経た現代にいたってもなお、その生き方は多くの人の共感を呼び、吉田兼好が著した『徒然草』は、人生訓として人々に親しまれています。 幕府の権威が地に落ち、朝廷も皇位をめぐって争いを続けていた鎌倉時代末期には、明日の自分がどうなるかも分からないという戦乱の世において、鎌倉仏教と結びついた『無常』という思想が生まれます。 そして、『徒然草』の根底にもこの無常観があります。 無常観は、 1. すべてのものは絶えず変化していくものである 2. この世のすべては幻で、仮の姿に過ぎない というふたつの考え方のもとに成り立っている思想です。 そのため、無常観と言うと「人はいずれ死ぬものである」という、どこか投げやりで、消極的な印象が思い浮かびます。 しかし、『徒然草』の無常観には、人生や生きることに対する、前向きな意味が込められているのです。 そのことがよく分かるのが、『徒然草』第92段にある、次の一節です。 原文:道を学する人、夕べには朝あらんことを思ひ、朝には夕べあらんことを思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。 いはんや一刹那のうちにおいて、懈怠(けたい)の心あることを知らんや。 なんぞ、ただ今の一念において、ただちにすることのはなはだ難き。 訳:道を究めようと修行する人は、夕方には翌朝があると思い、朝になればまた夕方があると思って、あとから念を入れて修行に励もうと心積りをする。 まして、一瞬のうちに怠け心があることを知るだろうか、いや知るはずがない。 どうして、今一瞬において、実行することがひどく難しいのだろうか。 吉田兼好は、世の無常を感じて出家しました。 確かに人はいずれ死ぬものであり、明日も、その先も、どうなるか分からないものです。 しかし、「どうせ未来のことは考えても分からないのだから、先のことを嘆くのではなく、今を大切にするべきだ」と吉田兼好は『徒然草』の中で説いています。 もし、人生の中で何かに迷うことがあったら、吉田兼好の『徒然草』を思い出し、「今しかない」という気持ちで挑んでみましょう。 今、この一瞬を大切に思う気持ちを持つことが、自分の心を豊かにする生き方へとつながっていくのではないでしょうか。

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吉田兼好関係歴史年表

吉田兼好

徒然草とは 徒然草は、作者である兼好法師が自身の経験から得た考えや逸話などを書き綴った、244段から成る随筆です。 随筆とは自分の考えなどをありのままにかく文章のこと。 清少納言の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」と並び、 日本三大随筆の一つにもなっています。 兼好法師 兼好法師 けんこうほうし の姓名は、卜部兼好 うらべかねよし といいます。 兼好 けんこう というのは出家後の法名です。 吉田兼好といわれることもありますが、これは兼好の死後に同族が改姓したもので正式な名字とはいえません。 兼好は和歌の才能もあり、和歌四天王の一人にも数えられて家集も残す程でした。 その足跡については研究が続けられていますが、兼好が生まれたのは1283年 弘安6年 、死没は1352年 正平7年・文和元年 、享年は70余歳と推定されています。 兼好の家系、卜部氏は神道界の名門でした。 吉田神社を預かる家の支流に生まれ、兼好は幼少期から恵まれた環境で育ちます。 【兼好の生涯】 10代後半 内大臣堀川具守に諸大夫 事務管理職 として仕える 19歳 後二条天皇に仕え、六位の蔵人 秘書官 になる 25歳 左兵衛佐に昇進 26歳 後二条天皇が崩御 数年後 出家 30代 修学院や小野、横川で遁世生活 40代 徒然草の執筆 50代以降 古典研究や作歌活動に励む 兼好の出家の理由としては、「政権交代によって出世に影がさした」「兼好本来の性格によるもの」などの説がありますが、ハッキリとした理由はわかっていません。 妻子もおらず、出家後は一人静かに遁世生活を送りました。 兼好が生きたのは、鎌倉幕府から室町幕府に変わるまでの動乱期。 まさに激動の時代でした。 そんな時代から距離を置き、兼好は徒然草の執筆に励んだのです。 徒然草の内容 それではここで、徒然草の内容を全244段から抜粋して現代語訳と共にご紹介したいと思います。 原文 よろづにいみじくとも、色好まざらん男は、いとさうざうしく、玉の巵(さかづき)の底なき心地ぞすべき。 露霜にしほたれて、所さだめずまどひ歩(あり)き、親のいさめ、世のそしりをつつむに心のいとまなく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるはひとり寢がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。 さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれんこそ、あらまほしかるべき業(わざ)なれ。 現代語訳 どんなにすばらしくても、恋を知らない男は非常に物足りない。 みごとな玉製の盃の底が抜けたように、見かけだけで男としての魅力が欠けている。 早朝から深夜まで露・霜に濡れながら恋人たちを渡り歩き、親の説教や世間の避難をかわすために神経をすり減らし、あれこれ気をもんでいる。 そのくせ実際にはひとり寝が多く、恋人と共寝する夜の少ないのはなんともおもしろい。 とはいえ、恋に夢中だからといってがつがつすることなく、女性にいつも好感を持たれるように節度をもって行動するのが理想的である。 第7段|あだし野の露 [要約] 死があるから生が輝く 原文 あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに物の哀れもなからん。 世は定めなきこそいみじけれ。 命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。 かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。 つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。 飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。 住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせん。 命長ければ辱(はじ)多し。 長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。 そのほど過ぎぬれば、かたちを恥づる心もなく、人に出(い)でまじらはん事を思ひ、夕(ゆふべ)の日に子孫を愛して、榮行(さかゆ)く末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。 現代語訳 露や煙ははかなく消える命なのに、この世に死者はなくならないので、あだし野霊園の草露や鳥部山火葬場の煙はいつまでも消えることはない。 だが、その草露や煙のように人間がこの世に永住して死ぬことがないならば、人生の深い感動は生まれてくるはずもない。 やはり、人の命ははかないほうが断然良い。 命あるもので、人間ほど長生きなものはない。 かげろうのように朝生まれて夕べには死に、夏の蟬のように春秋の季節美を知らない短命な生物もいる。 それに比べたら、人間の場合は心安らかに一年間を送れるというだけでもなんとものどかな話ではないか。 もしも命に執着するとたとえ千年の長い年月を過ごしても、それはたった一夜の夢のようにはかなく感じるだろう。 どうせ永遠には住めないこの世に醜い姿になるまで生きていて何になろうか。 長生きすると恥をかくことも多くなる。 長くとも四十そこそこで死ぬのが無難というものだ。 その年齢を過ぎると容姿の衰えを恥じる気持ちがなくなり、平気で人前に出て社交的にふるまおうとする。 更に日没の太陽のような老齢の身で子孫を溺愛し、子孫の繁栄を見届けようと長生きを望んで世俗の欲望ばかり強くなり、深い感動の味わいもわからなくなっていくのはなんとも救いがたい気がする。 第8段|世の人の心 [要約] 人間は色欲に惑わされる 原文 世の人の心を惑はすこと、色欲には如かず。 人の心は愚かなるものかな。 匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。 久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに手足・膚(はだえ)などのきよらに、肥えあぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。 現代語訳 色欲ほど人間を迷わせるものはない。 なんて人間は愚かなんだろう。 香りなんか一時的なものなのに、着物にたき染めた香りとは知りながら、素晴らしい芳香をかぐと心をときまけせてしまう。 その昔に久米の仙人が、川で洗濯している女の、裾をたくし上げてあらわになった脛 すね を見て神通力を失い、空中から落下したという伝説がある。 女の手足や肌がきめこまかくて、むっちりと脂ののっているのは他の色と違い女の色香だから、そこそこ人間臭さを残していた仙人が心惑わされたのも当然といえば当然であった。 第19段|折節の移り変はるこそ [要約] 季節の移り変わりは美しい 原文 折節の移り変わるこそ、物ごとに哀れなれ。 ものの哀れは秋こそまされと、人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今ひときは心も浮きたつものは、春の景色にこそあめれ。 鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日かげに、垣根の草萌え出づる頃より、やや春ふかく霞みわたりて、花もやうやう気色(けしき)だつほどこそあれ、折しも雨風うちつゞきて、心あわただしく散りすぎぬ。 青葉になり行くまで、よろづにただ心をのみぞ悩ます。 花橘は名にこそおへれ、なほ、梅の匂ひにぞ、いにしへの事も立ちかへり戀しう思ひ出でらるる。 山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて思ひすて難きこと多し。 現代語訳 四季の移り変わる様子は、何につけても心にしみるものがある。 心にしみる味わいは秋が一番深い、と誰もが認めているらしい。 それはそれで一理あるが、よりいっそう心が目覚めるように感じるのは春の風物だと思う。 まず、鳥の声などもいかにも春らしく聞こえてきて、のどかな春の光を浴びて、垣根の草が眼を出し始める。 しだいに春が深くなると、霞が一面にたなびくようになり、桜の花が今にも開こうとする、ちょうどそんな時に雨や風の日が続いて、慌ただしく散りすぎてしまう。 こうして青葉の時期になるまで、あれこれ気をもむ日々が続くのだ。 橘の花は、昔をしのばせる花として有名だが、私にはやはり梅の花の香りによって過去のこともその当時に戻って、懐かしく思い出されてくる。 黄色の山吹の清らかな美しさ、藤の彩りや縁取りがぼうっと霞んだような、淡い紫の花房の垂れ下がった様子など、春はどれもこれも見落とせないものばかりだ。 第29段|静かに思へば [要約] つい昔を思い出してしまう 原文 静かに思へば、よろづ過ぎにしかたの恋しさのみぞ、せむかたなき。 人静まりて後、永き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、殘し置かじと思ふ反古など破りすつる中に、亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる見出でたるこそ、ただその折の心地すれ。 このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折り、いつの年なりけむと思ふは、あはれなるぞかし。 手なれし具足なども、心もなくてかはらず久しき、いと悲し。 現代語訳 心静かに思い出にふけると、何事につけて、過ぎた昔の恋しさだけがどうしようもなくつのってくる。 人の寝静まった後、秋の夜長の暇つぶしに、雑多な身の回りの品々を整理して、残しておく必要のない書き損じの紙などを破り捨てる中に、今は亡き人の文字や絵を見つけると一瞬にして心はその人が生きていた当時に戻ってしまう。 今生きている人の手紙でさえ月日がたって、これを貰ったのはいつどんな時だっただろうと思いをめぐらすうちに、しみじみとした気分に引き込まれる。 故人の使い慣れた道具類が人情とは無関係にずっと当時のまま残っているのを見るのはとてもせつないものだ。 第32段|九月二十日のころ [要約] 月見る女の心配り 原文 九月二十日のころ、ある人に誘はれ奉りて、明くるまで月見歩く事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて入り給ひぬ。 荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬにほひ、しめやかにうちかおりて、忍びたる気配、いとものあはれなり。 よきほどにて出で給ひぬれど、なほことざまの優に覚えて、もののかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見る気色なり。 やがてかけこもらましかば、口惜しからまし。 あとまで見る人ありとは、いかでか知らん。 かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。 その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし。 現代語訳 九月二十日の頃、ある人に誘われ申しあげて、明けるまで月見をして歩き回ったことがございましたが、思い出しなさる所があって、取り次ぎをさせて、お入りになりました。 荒れている庭で露がたくさんおりている所に、ことさらに薫いたとも思われない香の匂いが、しっとりと香って人目を避けて住んでいる様子は、とても趣深い。 第35段|手のわろき人の [要約] 字が下手でも手紙は書くべし 原文 亀山殿の御池に、大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車を造らせられけり。 多くの銭を賜ひて、数日に営み出だして、掛けたりけるに、おほかた廻らざりければ、とかく直しけれども、つひに回らで、いたづらに立てりけり。 さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るること、めでたかりけり。 よろづにその道を知れる者は、やんごとなきものなり。 現代語訳 亀山殿の御池に、大井川の水をお引き入れになろうとして、大井の土地の住民にお命じになって、水車をお造らせになった。 たくさんの金銭をお与えになって、数日かかって造りあげて、かけたところが、全く回らなかったので、あれこれと直したけれども、とうとう回らないでなんの役にも立たずに立っていた。 そこで、宇治の里の住民をお呼びになって、お造らせになったところ、容易に組み立てて差し上げたが、思い通りに回って、水を汲み入れることが実にみごとであった。 何事につけてもその道を心得ている者は尊いものである。 第52段|仁和寺にある法師 [要約] 人に聞いた方が良い事もある 原文 仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心憂くおぼえて、 あるとき思ひ立ちて、ただ一人徒歩よりまうでけり。 極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て、帰りにけり。 さて、かたへの人に会ひて、「年ごろ思ひつること、果たしはべりぬ。 聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。 そも、参りたる人ごとに、山へ登りしは、何事かありけむ。 ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。 」とぞ言ひける。 少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。 現代語訳 仁和寺にいたある僧は、老年になるまで、石清水八幡宮を参拝した事が無かった。 そこで、我ながら情けないと思って、ある時一大決心してたった一人、徒歩で参拝に出掛けた。 ところが、この僧は極楽寺・高良神社を拝むと、八幡宮はこれで全部だと思いこんで[目的である山上の八幡宮を拝まずに]帰ってしまった。 そして同僚に向かって「長年心にかけていた参拝を果たしました。 八幡宮は噂で聞いた以上に荘厳な境内でした。 それにしても、参詣者が皆、山へ登ったのは何があったのでしょうか。 知りたかったのですが、八幡宮の参拝が目的でしたから、山上には登りませんでした」と、きまじめな顔で話したという。 ちょっとしたことでも、案内者のいたほうが大失敗を避けることが出来るものだ。 第59段|大事を思ひ立たむ人 [要約] やりたい事を決めたら、それに全力を注ぐべし 原文 大事を思ひ立たむ人は、さり難き心にかからむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。 「しばしこの事果てて」、「同じくは彼の事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらむ、行末難なくしたためまうけて」、「年ごろもあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。 物さわがしからぬやうに」など思はんには、えさらぬ事のみいとど重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひたつ日もあるべからず。 おほやう、人を見るに、少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。 近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とやいふ。 身を助けむとすれば、恥をも顧みず、財(たから)をも捨てて遁れ去るぞかし。 命は人を待つものかは。 無常の來ることは、水火の攻むるよりも速かに、逃れがたきものを、その時老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。 現代語訳 道を求め悟りを開くという一大事を決意している人間は、放っておけず、心にかかる事があっても、その解決を望まずに、そっくりそのまま捨ててしまうべきだ。 「もうしばらく。 これが終わってから」とか、「同じことなら、あれを片付けてから」「これこれのことは、人に笑われるかもしれない。 将来非難されないように、ちゃんと整理しておいて」「長年こうしてきたのだから、片付くのを持ったとしても時間はかからないだろう。 そうせっかちになる事もない」などと考えていたら、放ったらかしに出来ないような用事ばかり積み重なってくる。 しかも用事が消えてなくなるはずもなく、ついには一大事を決行する日も失われてしまうのだ。 だいたい世間の人々を観察すると、少々しっかりした程度の人物は皆、こうした計画倒れで人生を終えてしまうそうだ。 近所に火事があって逃げるとき、火に向かって「ちょっと待って」と言うだろうか。 言うはずがない。 助かりたければ、恥も外聞も構わず、財産さえ捨てて逃げるものだ。 いったい寿命というものは人間の都合を待ってくれるだろうか。 そんなことはない。 死の迫り来るさまは洪水や猛火が襲いかかるよりも早く、逃れがたい。 人生がこんな緊迫した状況に置かれているにもかかわらず、老いた親、幼い子、主君の恩、人の情けを、捨てにくいといって、捨てないだろうか。 捨てないでいられるはずはない。 求道者は、いっさいを捨てて、速やかに一大事を決行しなければならない。

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兼好(けんこう)とは

吉田兼好

吉田神社 参道 バス停京大正門前でバスを降りると、「吉田神社参道」の文字が見え、はるか先に朱塗りの鳥居が小さく見えます。 京都大学のすぐそばで賢そうな学生さんが多く歩いています。 吉田神社参道入口 吉田神社参道 京都大学の正門には「公安の学内立ち入り反対!」といった文字が気合入ってます。 最近、京都大学はいろいろ事件がありましたからね。 京都大学 東大にせよ早稲田にせよ、部外者がふらっと立ち寄って散策しててもまったく怒られませんが、京都大学はつまみ出されそうな感じなので、足早に立ち去ります。 元京都大学教員の方からメールをいただきました。 京都大学は自由な校風で一般の立ち入りも自由ということです。 次回は必ず、立ち入って、ラウンジでワインでも飲んでみます すぐに吉田神社一の鳥居です。 吉田神社一の鳥居 白石をしきつめた参道を進み二の鳥居をくぐり、 吉田神社二の鳥居 石段を登ると 吉田神社石段 広い境内です。 吉田神社境内 向かって左手の注連縄を巻いた鳥居をくぐると、そこが吉田神社本宮です。 吉田神社本宮 吉田神社 縁起 吉田神社は 健御賀豆知命(たけみかづちのみこと) 伊波比主命(いわいぬしのみこと) 天之子八根命(あめのこやねのみこと) 比売神(ひめのかみ) の四神を祀ります。 比売神とは天之子八根命の妻・天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)のことです。 すべて奈良の春日社(春日大社)に関係した神様です。 清和天皇の貞観(じょうがん)元年(859年)、中納言藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)が古くからの霊域であった吉田山にこれら春日の四神を勧請したのが始まりです。 室町時代の中期、神官の吉田(卜部)兼倶(かねとも)が、吉田神道を大成してから、明治まで神道の権威として吉田神社は影響力を持ち続けました。 吉田兼好 つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。 特にやることもないままに、一日中硯にむかって、心に浮かんでは消えていく何ということも無いことを、なんとなく書き付けると、あやしくも狂おしい感じだ。 『徒然草』の書き出しは強い印象を残しますが、作者吉田兼好についてはほとんどエピソードが伝わっていません。 同じく「日本三代随筆」の一つされる『方丈記』の鴨長明が人間くさいエピソードを多く残しているのとは対照的です。 吉田兼好についてわずかに伝わっていることは… 吉田神社の神職・卜部兼顕(うらべかねあき)の子であること。 鎌倉時代末期から南北朝時代を生きたこと。 後二条天皇にお仕えして蔵人・左兵衛佐となったこと。 30代で突如、原因不明の出家をしたこと。 和歌を二条為世に習い、和歌四天王の一人に数えられたことぐらいです。 吉田兼好の人柄にふれるには、その伝記を紐解くよりも、その人間性を考えるよりも、『徒然草』を読むのが一番です。 ひとり灯(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。 一人ともしびの下に書物を広げて、会うことのできない昔の人を友とすることは、とても慰められることである。 あらためて益なき事は、あらためぬをよしとするなり。 改めて益の無いことは、改めないことを良しとするのである。 何章か声を出して読んでいると、枯山水のようなシブイ感じが、癖になってきます。 お菓子の神社・菓祖(かそ)神社 さて、 地図を見ると、これから山道をのぼった先に神道のすべての神を祀ったという斎場所大元宮(さいじょうしょ・だいげんぐう)があり、その途中の道にもいくつか面白い摂社があるようです。 ワクワクしながら坂道を登っていきます。 吉田神社 地図 まず見えてきた左手の鳥居が、世にもめずらしいお菓子の神社・菓祖(かそ)神社です。 吉田神社摂社 菓祖神社 田道間守命(タヂマモリノミコト)と林浄因命(はやしじょういんのみこと・りんじょういんのみこと)を祀ります。 タヂマモリノミコトは、第11代垂仁天皇に仕えた忠臣で、天皇の命により海の向こうの国に非時香菓(トキジクノカグノコノミ)を求めて行ったと『古事記』にあります。 そして持ち帰ったのが橘の実です。 橘ということから、ここではお菓子の守り神になっているようです。 もう一柱の林浄因命は、日本に初めて飴の入った饅頭を伝えたといわれます。 吉田神社摂社 菓祖神社 社殿はごく小さなものです。 狛犬がアメ玉をしゃぶってるとか、ケーキがお供えしてあるとか…特にそういう、お菓子っぽいところは見つかりませんでした。 なあんだと思って振り向くと鳥居の裏に… 「京都菓子問屋協会創立二十周年記念」 吉田神社摂社 菓祖神社 なるほど、京都タワーで売ってる八橋とかも、菓祖神社のご加護を受けてるのかと、かろうじて感じ取ることができました。 料理の神社・山蔭(やまかげ)神社 枝うつり ほがらに呼ばふ 小鳥らと 詣でに来つれ 神います丘 枝うつり ほがらに呼ばふ 小鳥らと 詣でに来つれ 神います丘 途中、道端に歌碑を見ながら進んでいくと右手見えてくるのが、これも珍しい料理の神社・山蔭(やまかげ)神社です。 山蔭神社 縁起によると、清和天皇の貞観元年(869年)中納言藤原山蔭は春日の四神を勧請し、ここ吉田山に王城鎮護の神社として吉田神社を開いた。 また藤原山蔭はわが国においてあらゆる食物を調理し、古来包丁の祖であり、料理の神であると。 周囲を見渡すと、やはり。 山蔭神社 山蔭神社 「京都府料理飲食業組合」はじめ京都の料亭や飲食店などの名がずらりと並んでいます。 京都は飲食業で持っているなあと、改めて実感させられる場所です。 神丘に啼く鶯の﨟たけて 鈴鹿野風呂 神丘に啼く鶯の﨟たけて 「﨟たし」「﨟たけし」は美しく気品があることです。 神丘というのは、古来ここ吉田山は神のやどる聖なる山とされていました。 時折、句碑がぽつんと立っているのが、嬉しいですね。 散策にアクセントを与えてくれます。 もっとも達筆すぎて所々読めません。 説明板の一つもあっていいかと思います。 斎場所大元宮 山道を上がったところにあるのが斎場所大元宮です。 斎場所大元宮 入母屋造の茅葺き屋根が目を引きます。 斎場所大元宮 ここには吉田神道で始まりの神とされる虚無大元尊神(きょむたいげんそんしん)をはじめ日本中の八百万の神々をすべて祀ってあるので、ここに参拝すれば日本中の神社に参拝した効果があるということです。 便利で経済的ですね。 次回は、京都でもっとも古い場所・神泉苑を訪ねます。 本日も左大臣光永がお話しました。 ありがとうございます。 発売中 『伊勢物語』 全125段 徹底詳細解説 s 松尾芭蕉 紀行文集 語り継ぐ日本神話~神代篇 語り継ぐ日本神話~人代篇 聴いて・わかる。 『徒然草』全243段 for Windows はじめての平家物語~平清盛篇 百人一首 全首・全歌人 徹底解説 現代語訳つき朗読「おくのほそ道」 聴いて・わかる。 日本の歴史 江戸幕府の始まり 聴いて・わかる。 日本の歴史 崩れゆく江戸幕府 聴いて・わかる。 日本の歴史 天下統一への道 信長・秀吉・家康 聴いて・わかる。 日本の歴史 下剋上と戦国時代の幕開け 現代語訳つき朗読『方丈記』 聴いて・わかる。 日本の歴史 鎌倉と北条氏の興亡 聴いて・わかる。 日本の歴史 院政と武士の時代 聴いて・わかる。 日本の歴史 平安京と藤原氏の繁栄 聴いて・わかる。 日本の歴史 飛鳥・奈良 杜甫 詩と生涯 李白 詩と生涯 中国語・現代語訳つき論語朗読.

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