新たな国立公園の誕生は、昭和62年(1987年)7月に釧路湿原国立公園が指定されて以来、20年ぶりのことでした。 尾瀬の四季 高山植物の宝庫としても有名な尾瀬では、現在、生育が確認されている高等植物だけでも900種類を超えます。 植物の種類や希少種の多さだけでなく、動植物やそれらをとりまく地形的、気候的環境も含む生態系そのものが、学術的にも、自然の素晴らしさを伝えてくれる場所としても貴重です。 半年以上を3~5メートルもの積雪に閉ざされる尾瀬の自然の中で、植物の多くは5月中旬から10月中旬ごろまでの約5ヶ月間に凝縮された短い春・夏・秋の間に、芽を吹き、花を咲かせ、実をつけます。 入山者の目を楽しませてくれる色とりどりの花々は、厳しくも豊かな尾瀬の自然が見せる横顔のひとつです。 「春」よろこびのとき 雪が解け始めたばかりの白い湿原では、湿地に生える低木のヤチヤナギの黒い茂みが目立ち、前年の花の名残を残したまま新しい花芽をふくらませ始めます。 雪が解けた場所では、ザゼンソウやワタスゲが顔をのぞかせ花を咲かせます。 間もなく、あちこちのせせらぎや水辺に沿ってミズバショウやリュウキンカが咲き始めます。 湿原全体に雪解けがすすむころには枯れ草の下から、ショウジョウバカマやタテヤマリンドウといった春の花が次々に咲き、周囲の林もシラカンバ、ダケカンバ、ブナの芽吹きで淡い紅や緑に彩られ、林床にはキクザキイチゲ、シラネアオイなどが咲きます。 タテヤマリンドウ 山あいの斜面にムラサキヤシオツツジ、タムシバ、アズマシャクナゲの木々が艶やかな花を付ける頃には、湿原の雪は消え、みずみずしい緑が広がり、池塘にはミツガシワの白い花も咲き始めます。 ワタスゲの白い穂、ヤマドリゼンマイの葉の緑、カキツバタの紫、レンゲツツジの赤といった鮮やかな彩りとともに、季節は春から夏へと走り出します。 「夏」いのち輝くとき 初夏、尾瀬の自然を特徴づける湿原では、ミズゴケの間にツルコケモモやトキソウが薄桃色の花を咲かせます。 池塘は意外なほど可愛らしい小さな白い花をつけるモウセンゴケで赤く縁取られ、オゼコウホネの黄色い花が水中から顔をのぞかせます。 そしてニッコウキスゲが咲くと尾瀬の夏はピークを迎え、多くの花々が咲き競い、昆虫たちの動きも活発になります。 8月、ニッコウキスゲと入れ替わるようにキンコウカが咲き広がると、湿原はそろそろ夏から秋へとうつっていきます。 現在の尾瀬ヶ原にあたる地域は、この頃までには只見川(ただみがわ)の源流となる沼尻川(ぬしりがわ)や猫又川(ねこまたがわ)などによって景鶴山熔岩は流し去られ、やや平坦な半盆地状の土地になっていたと思われます。 燧ヶ岳から西に流れ出した熔岩は、温泉小屋付近や三条ノ滝(さんじょうのたき)付近で只見川を堰き止めます。 以前には、現在の尾瀬ヶ原をすっぽりと埋めるような「古尾瀬ヶ原湖」という水深200メートル以上もある巨大な湖が形成されたと考えられていましたが、その後の調査からは直接そのような証拠は発見されておりません。 今のところはっきりしていることは、尾瀬ヶ原の東半分程度が水没する浅い湖が16,000年前頃まであったということだけです。 泥炭が厚く堆積した尾瀬ヶ原 現在の尾瀬ヶ原の泥炭層の厚さは、ボーリング調査などから見て4. 5メートル以上ありますが、おそらく5メートルを超えるところは稀でしょう。 尾瀬の泥炭の堆積速度は、堆積した時代の気候、泥炭をつくる植物、分解度などによって異なるのが普通ですが、およそ1年間に0. 7~0. 8ミリメートルと考えられています(従って湿原への踏み込みにより1センチ陥没した場合、その回復には10年以上の歳月が必要となります)。 尾瀬は「国立公園」です 平成19年(2007年)8月30日、本州最大の湿原を持つ尾瀬は、オオシラビソ林や山地湿原など優れた自然環境を有する会津駒ヶ岳と田代山・帝釈山の周辺地域を新たな国立公園区域として編入し、新たな一つの国立公園、「尾瀬国立公園」として指定されました。 新たな国立公園の誕生は、昭和62年(1987年)7月に釧路湿原国立公園が指定されて以来、20年ぶりのことでした。 地種区分別 単位:ha 特別地域 普通地域 合計 特別保護地区 第1種 第2種 第3種 小計 9,386 6,208 15,923 5,683 37,200 0 37,200 25. 尾瀬は湿原生態系としての価値が評価され、2005年11月にラムサール条約湿地として登録されました。 尾瀬は「特別天然記念物」です 尾瀬は、国の「特別天然記念物」に指定されています。 学術的価値が高く、その保存が厳しく義務づけられています。 わずかな変化でも、その影響は尾瀬全体に及んでしまいます。 尾瀬の環境そのものを保護するため、現状を変更してはいけないこととなっています。 尾瀬国立公園各種データ•
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静岡藩の成立 1867年(慶応3年)10月、第15代将軍徳川慶喜が将軍職を返上して、家康以来約260年間にわたって続いてきた江戸幕府が消滅しました。 あくまで徳川家を滅ぼそうとする薩摩・長州と旧幕府軍との間で戊辰戦争が始まりましたが、慶喜はいちはやく朝廷へ「恭順」する態度を決め謹慎生活に入ったため、徳川家へ下された処分は駿河・遠江70万石への移封という軽いものであり、同家は取りつぶしをまぬがれました。 こうして1868年(慶応4年)5月、駿河府中藩(1869年 明治2年)、静岡藩と改称)が成立しました。 駿府藩がまず着手した事業は、人材の育成でした。 幸い、同藩には幕末期に幕府が莫大な予算を使って貪欲に吸収した洋学の知識がそのまま残されていましたし、また開成所など幕府の教育機関に所属していた当代一級の学者たちも残らず駿府に移住してきていました。 このような学問・文化の力を利用して旧幕臣たちは徳川家の再興を図ろうとしました。 駿府学問所(静岡学問所)が開校されたのは新藩主徳川家達が入府してわずか2ヶ月後のことでしたし、また沼津に兵学校が開校したのも翌年1月でした。 学問所には、勝海舟により、エドワード・ワーレン・クラークという新進気鋭のアメリカ人研究者が招かれました。 彼はまだ大学を出たばかりの22歳でしたが、知識欲にあふれた学生たちに体当たりで教育をほどこし、彼らに多大な影響を与えました。 また、たくさんの書物が学問所・兵学校で編集・刊行され、静岡ならびに沼津は当時の日本の文化の中心地となりました。 静岡県の成立 1871(明治4)年7月の廃藩置県により静岡藩、堀江藩は廃止され、新たに静岡県、堀江県が置かれました。 さらに、同年11月、静岡県は駿河国域の静岡県と遠江国域の浜松県に分割され、また明治維新直後に伊豆に置かれた韮山県は足柄県に編入されることになり、こうして静岡・浜松・足柄の三県時代に入りました。 一方、明治維新の混乱の中で、遠江国堀江に陣屋を持つ大沢基寿は、石高を1万6石と虚偽の申告をして新たに大名に取り立てられ、堀江藩が誕生しました。 ところが御家騒動の中でこの不正が発覚し、同年末、堀江県は廃止され、浜松県に編入されました。 廃藩置県により全国には3府302県が置かれましたが、新政府はこの統合に取り掛かり、この動きの中で、1876(明治9)年4月には足柄県は廃県となり静岡県に編入、また8月21日には浜松県も廃止され、静岡県と合併した結果、現在の県域の静岡県が誕生しました。
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アケメネス朝の後、226~651年にわたって栄えたササン朝ペルシャ時代には、シルクロードを経由して、遠く日本とのつながりも生まれました。 奈良・正倉院に収蔵されているガラス器「白瑠璃碗」は、往時のペルシャ帝国の繁栄をしのぶ品として有名です。 現在のイランは、日本の4. 4倍(約165万平方km)の広大な国土に、7,000万人以上の人々が暮らす地域大国です。 ペルシャといえば、「砂漠」に「ラクダ」のイメージが強いかもしれませんが、首都テヘラン(Tehran)などイラン北西部はとても緑豊かな高原が広がっており、中東最高峰のダマーヴァンド山(標高5,604m)をはじめとする4,000m級の山々も連なっています。 冬には国内外からスキーヤーが集まるスキー場もあります。 カスピ海沿岸地方では、水田による稲作も行われています。 すべて手織りのため同じものは二つとない上、品質の高さと文様の華麗さは、今も変わらず世界中を魅了しています。 意外と知られていないペルシャ発祥のものに「古典音楽の楽器」があり、ペルシャの打弦楽器「サントゥール」は、ヨーロッパに伝わって「ピアノ」のルーツになったと言われています。 また、も世界各地に伝わり、例えば、英語のレモン(lemon)とライム(lime)はペルシャ語のリームー(limu)から、パラダイス(paradise)、シャーベット(sherbet)、キャラバン(caravan)、市場(bazar)などもペルシャ語からきた言葉です。 世紀を超えて世界に影響を与えてきたペルシャの面影は、「ペルセポリス」「イスファハンのイマーム広場」などの歴史的遺跡に凝縮されています。 イスラム化が進んだのは、ササン朝滅亡後、モンゴル帝国の侵攻などを経て、1501年にイスラム教シーア派を国教とするサファヴィー朝が成立して以来のことです。 しかし、1925年、クーデターによってパフラヴィ朝を開いたレザー・ハーンは、政治の非宗教化などによってイランの近代化を進める政策を急速に進めました。 それは、イランを「脱イスラム化」路線に転換させるもので、1936年にはイスラム女性が全身を覆うために着る黒い布「チャードル」の着用禁止令を出し、代わりに洋服着用令を発令、さらには、後継の国王が1962年から農地改革、婦人参政権、識字運動を進めていきました(白色革命)。 しかし、この急激な改革は、秘密警察などを伴った強権的なものでもあったため、結果として国民の強い反発を招くこととなりました。 そして、それが後にイスラム革命を引き起こす要因となりました。 国民はこれを宗教弾圧だとして不満を募らせていき、1978年、ついにこの不満が表面化しました。 ホメイニ師を中傷する記事を巡る暴動を皮切りに、国内各地で暴動が相次ぎ、次第に民主化を求める勢力や左翼勢力も巻き込んで、大規模な王制打倒運動へと発展していきました。 軍とデモ隊が衝突し死傷者が出る事件も起こり、事態収拾に行き詰まった国王は翌1979年、国外に退去。 国王と入れ替わる形で、ホメイニ師が15年ぶりに母国イランへ帰国し、パフラヴィ朝に代わる「イスラム共和国」の設立を宣言しました(イラン・イスラム革命)。 革命後、新政権はパフラヴィ朝をバックアップしていた米国との対決姿勢を強め、両国の関係は急速に悪化していきます(1980年、国交断絶)。 一方、周辺のイスラム諸国(主にスンニ派)は、厳格なシーア派国家となったイランからの「革命の輸出」に対する警戒感を強めました。 この結果、イランは欧米諸国だけでなく、イスラム諸国の中でも次第に孤立を深めていくことになりました。 高学歴化する現代ムスリム女性たち イラン・イスラム革命後に表れた変化のひとつに、「女性の活躍」があります。 一般的に、イスラム社会では女子教育に消極的なケースが多いとされていますが、イランではイスラム教の教義に基づき、「男女隔離政策」を徹底した上で、女子校の増設や女性教諭の育成・派遣など女子教育にも力を入れてきました。 こうした取組が、「男性の目に触れるのではないか」という両親の懸念を払拭し、都市部だけでなく、保守的な地方農村などでも女子教育が浸透したと言われています。 また、イラン・イスラム革命から約30年が経過した現在、イランでは大都市を中心に女性の高学歴化が進み、教育や医療をはじめ多くの分野で女性が活躍するようになりました。 企業の管理職や閣僚、国会議員にも、少数ながら女性の姿が見られるようになり、女性専用タクシー会社の設立や女性のバス運転手採用なども話題となっています。 それが、「イラン・イラク戦争」です。 争いの発端は、両国経済を支える「石油」の輸出の要所で、国境付近を流れる「アルヴァンド川(シャットル・アラブ川)」の使用権をめぐる衝突でした。 この時、米国、欧州、ソ連などは、敵対するのサダム・フセイン政権を強力に支援。 1988年に停戦が成立するまで、攻防が続けられました。 8年間に及んだイラン・イラク戦争は、両国に多くの犠牲と経済的損失をもたらしただけでなく、中東地域、ひいては国際社会の安定にも大きな影を落としました。 なお、この戦争からわずか2年後の1990年、今度はイラクがに軍事侵攻し、米国など多国籍軍との間で「湾岸戦争」が始まったのでした。 イラン人の"ジャパニーズ・ドリーム" イラン・イラク戦争の停戦後、イラン政府は復員兵士の雇用促進を図るため、海外への「出稼ぎ労働」を奨励しました。 当時、バブル経済に沸いていた日本では円高が進んでおり、イランの人々にとって、日本はとても魅力的な出稼ぎ先でした。 さらに、日本とイランは石油貿易などで経済的結びつきが強く、査証免除協定によって「ビザなし」で入国ができたため、「日本へ行けば、将来豊かな生活が送れる」という"ジャパニーズ・ドリーム"がイラン人の間に広まっていきました。 このため、1990年頃には多くのイラン人が出稼ぎのためにやってきました。 しかし、一部のイラン人による麻薬取引や偽造テレフォンカード売買など違法行為が後を絶たず、1992年、査証免除協定は一時停止されました。 イランのアフマディネジャード大統領は、原子力発電など「平和利用目的」での核開発を主張し、ウラン濃縮活動を続けているとしています。 しかしながら、米国などは「核兵器開発の懸念が払拭できない」としてイランを非難し、国連安全保障理事会は制裁措置などを含む決議を採択しています。 これに対し、イランは査察の受け入れなどとの協力を継続していますが、今なお国際社会の理解は得られていません。 日本は、この問題が平和的・外交的に解決されるよう、あらゆる場でさまざまな働きかけを行っています。 イランでは、ゾロアスター教の文化習慣が色濃く残っているため、日常生活では、春分の日(毎年3月21日)に新しい年が始まる「ヒジュラ太陽暦」を使っています。 3月20日の「年末」には、家族でペルシャ絨毯を洗って大掃除をし、「正月」は親戚の家に集まって新年の挨拶をしたり、子どもにお年玉やプレゼントをあげたりして過ごします。 また、日本人が俳句や短歌を楽しむように、イラン人も幼い頃から詩に親しみ、普段の会話の中にも古典詩句をよく引用します。 日本の書道によく似たペルシャ文字の「書道」も盛んです。 の会話では、「お疲れさまです」「お手を煩わせます」といった日本的な表現や、「ここは私が払います」「いやいや、ここは私が・・・」といったお約束のやりとりもあります(これらは「ターロフ文化」と呼ばれています)。 「おもてなしの心」や「義理人情」「恩義」を大切にするところも、どこか日本人に通じるものがあり、日本のTVドラマ「おしん」はイラン人の琴線に触れて大ブームを巻き起こしました。 その代表的な例として挙げられるのが、「地震」と「環境汚染」です。 イランは日本と同じく火山帯に位置しており、2003年12月にはイラン南東部でが発生し、約34,000人の死者を出す大災害となりました。 地震大国の日本は、すぐに国際緊急援助隊医療チームの派遣、緊急援助物資の供与、緊急無償資金協力などを実施。 さらに、を通じて、地震対策に関する日本の知見を伝えたり、早期被害予測システム開発への協力をしたりしています。 また、首都テヘランで深刻な問題となっている大気汚染対策についても、日本の知恵と経験に基づいた技術協力を行っています。 2009-2010年は、日本とイランの外交関係が開設されてから80周年にあたりますが、シルクロードを超えた交流の歴史はすでに1000年以上にも及んでいます。 イランの発展、そして、国際社会との協調と安定を目指し、日本はイランとの友好を更に深めていきます。
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