松平 広 忠。 松平忠倶:概要

久世氏(関宿藩) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~

松平 広 忠

愛知の城 佐々木城 三河 佐々木城 Sasaki castle 上宮寺【愛知県岡崎市上佐々木町梅ノ木36】 浄慶寺【愛知県岡崎市上佐々木町梅ノ木33】 【立地】平城 【別称】佐崎城 【市指定史跡】上宮寺 【歴史】築城年は不明。 長沢松平家の庶流松平三左衛門忠倫の居城とされ、弟に梅森の松平三蔵忠就〔 信次とも直勝とも〕がいる。 1540年「安城合戦」で安城城が織田信秀の手に帰すると、松平一族は 織田方と今川方に分裂したが、忠倫は織田方に属して渡・筒針に砦を構えて松平宗家8代広忠に敵対し た。 1542年頃より、上和田の砦に移って岡崎城を伺っていたが、1547年10月に至り、松平広 忠の刺客筧重忠に暗殺された。 1551年弟三蔵忠就は、今川義元より兄の旧領佐々木郷を得たと云う。 1563〜1564年「三河一向一揆」の際、三蔵は荒川頼持・松平七郎昌久・酒井将監忠賀・松平 監物家次らと一揆方に属し、上宮寺の守将矢田作十郎の討死で一揆は鎮圧、家康方の勝利となる。 この 時、廃城になったとされる。 上宮寺・勝鬘寺・本證寺は真宗本願寺派「三河三ヶ寺」と呼ばれ、三河・ 美濃・尾張・伊勢の中本山として勢力を誇っていた。 本證寺〔安城市野寺町〕と同じ城郭寺院であった ようで、南北を池に挟まれた帯状の平地の東は堀と土塁が在ったと云う。 【所感】県道48号線上佐々木信号を南へ曲がり150m程進むと、左手に浄慶寺、右手に上宮寺が在 ります。 一向一揆の舞台となった勝鬘寺や本證寺の本堂は現在も木造で建っていますが、上宮寺はアー チ型の屋根を持つ本堂、その他も近代的な建造物に変わっています。 本堂の前に石川家成の母妙春尼の 墓が有ります。 石川安藝守清兼之室・松月院妙春尼の墓・石川家成の母・上宮寺.

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松平康忠

松平 広 忠

生涯 [ ] 出生 [ ] 20年()1月4日、の六男(庶子)としてで誕生した。 幼名は辰千代(たつちよ)という。 生年が辰年だったのがその由来と思われる。 生母・の身分が低かったため、家康は誕生したばかりの辰千代を素直に喜ばず、捨て子のしきたり(当時は捨て子の方が強く丈夫に育つとされ、安育祈願として一度寺の門前に子供を捨て、通りがかった家臣に拾わせて自分に届けさせて育てるという風習があった)の際に家康の側近・に拾わせ、養育先を探させて、栃木(皆川)城主で3万5,000石の大名であるに預けられて養育されることとなった。 家康が忠輝と面会したのは、3年()のことであるが、そのときも家康は忠輝を嫌ったといわれている(後述)。 長沢松平氏 [ ] 越後高田城三重櫓(新潟県上越市) 慶長4年()1月、家康の七男で同母弟のが早世したため、弟の名跡を継ぐ形での家督を相続し、1万石を与えられた。 慶長7年()に5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る。 慶長8年()2月、12万石に加増移封され、主となる(佐倉移封が前年12月であったため、わずか40日で2度の転封となる)。 家康の腹心で幕閣の大物であるがとして補佐することとなった。 慶長10年()、家康の命で大坂のの就任の際に面会している。 慶長11年()11月24日、大久保長安の仲介により、の長女・と結婚した。 慶長13年()、同母姉(異父姉)の婿のがとされた(花井の娘と長安の息子は夫婦)。 慶長14年()9月、幼き日の忠輝を養育し、この頃は幕府からのであったや、・ら古くからの家臣が、忠輝の素行の改まらないことを駿府の家康に訴えたが、家康側からは逆に家老に不適格であるとされて皆川・松平清直は、山田は切腹となった。 慶長15年()閏2月、(福島城主・後述)30万石を加封され、このとき川中島14万石と併合して合計45万石を領した(『恩栄録』)。 旧領の川中島領は花井吉成が待城代となって支配した。 この際、幕命により松平清直を5千石で再度附属させられている。 築城 [ ] 越後領有当初の忠輝は、が築いたを居城としたが、を築城し、慶長19年()2月にこれに移った。 高田城は幕命()により、忠輝の義父である伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造された。 ただし豊臣家との争乱を控えていたため 、急造突貫で造られたため、他の天下普請の徳川城郭と比較した場合に石垣の比率が低く、天守閣や各郭も未完であるなど完全な完成には至っていない。 加賀藩を牽制する目的であったと推測される新城建設であるが、その他の移転理由として、海と二本の川に囲まれた福島城はゆえに交通利便はあるが、河川や海による城への被害が激しかったため、とされる。 またこれとは別に忠輝が絶えず聞こえる日本海の波の音を怖がったために内陸部に移転した、とする話が伝わる。 改易・配流 [ ] の貞松院にある忠輝の墓所 しかし父・家康との距離は縮められずじまいのまま、慶長19年()のでは江戸の留守居役を命じられる。 剛毅な忠輝には不満が残る命令であり、なかなか高田城を出発しなかったが、岳父の伊達政宗の促しもあり、結局これに従った。 慶長20年()ので大坂に出陣した。 伊達政宗の後援の下に大和口の総督を命じられたが、遅参により軍功を挙げることはできなかった。 同年8月、家康は忠輝に対し今後の対面を禁じる旨を伝える使者を送った。 2年(1616年)4月、家康が死去した。 家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを呼びながら、忠輝だけは呼ばなかった。 拝謁を望む忠輝はまで自ら参じたが、家康は最後まで面会を許さなかった。 『』は「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。 家康は以の外の御いかりにて。 城中へも入るべからざる旨仰下され。 御対面も叶はざれば。 少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。 御気のひまを伺ひて。 謝し奉られんとする内に薨去……」と伝えている。 元和2年(1616年)7月6日、忠輝は兄・秀忠から改易を命じられてに流罪とされ、に入った。 生母・茶阿局は、家康の側室のやなどにも取り成しを依頼したが、聞き入れられなかった。 元和4年()3月5日に正式にのに預けられた。 この際、使者の・に対して「吾罪あらんには。 この儘に死をたまはるべし」(『徳川実紀』)と、潔い死罪を主張して動こうとしなかったが、幕府の重臣らがとにかく将軍に陳謝することを勧めたため、ようやく飛騨に赴くことにした。 金森家では忠輝を持て余したらしく、3年()4月24日にはのに預け替えとなった。 息子の(母は竹の局)は同行が許されず、別に主・ の預かりとなったもののそこで冷遇され、寛永9年()に住居に火をつけて自殺している。 享年18、墓所は岩槻の浄安寺。 諏訪の配流屋敷で長年を過ごした。 監禁生活ではなかったらしく、地元の文人と交流したり、で泳いだ等の話が残る。 3年()7月3日、幽閉先である諏訪(南の丸)にて死去した。 享年92歳。 当時としても長命であり、徳川将軍は五代目のになっていた。 の逸話をもって、家康との仲は実はそう悪くはなかったとする説もある。 現在、のに保存されている。 赦免 [ ] 徳川宗家より赦免されたのは、死去から300年後の59年()になってからであった。 忠輝の菩提寺である貞松院の住職・が300回忌での赦免を思い立ち、徳川宗家18代目当主のに願い出て実現した。 、恒孝によって赦免され、仏前への奉告は貞松院の檀信徒の都合などで3年後の昭和62年()に行われた。 10月24日の法要には、仙台伊達家当主の妹や諏訪家当主、当時の家臣の子孫など約400名が参列し、恒孝が赦免状を読み上げた。 なお、恒孝はその後、に「歴史を後から変えるべきではない」旨の批判を受けている。 父に嫌われた理由 [ ] 忠輝は次兄のと同じように、父親から生涯を通じて嫌われた。 その理由は、忠輝同様に母親の身分が低かった秀康とほぼ重なるが、とりわけ忠輝については、その容貌を嫌ったという記録が多い。 「」は「世に伝ふるは介殿(忠輝)生れ給ひし時、徳川殿(家康)御覧じけるに色きわめて黒く、まなじりさかさまに裂けて恐しげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰せあり」、と伝える。 つまり、家康は生まれたばかりの新生児である忠輝の顔が醜いという理由だけで、捨て子扱いしたのである。 藩翰譜は慶長3年、忠輝が7歳の時、忠輝と面会した家康が、「恐ろしき面魂かな、三郎()が幼かりし時に違ふところなかりけり」と語ったとも伝える。 さらに「」の同年の記事には、家康が忠輝を見て「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」と言ったという記述がある。 家康は、長男・信康の面影を忠輝に見いだしていたようである。 甥で同じく改易されたなどと同様、忠輝は粗暴な一面があったとも伝えられている。 越後高田城三重櫓(新潟県上越市) 忠輝は順調に出世して最終的に75万石の太守となったことから、家康は忠輝に報いたとされることが多い。 しかし慶長11年(1606年)の川中島12万石の太守であった時点で、弟の義直(7歳)は25万石、頼宣(5歳)は25万石、頼房(4歳)には常陸10万石を与えている。 しかも家康が忠輝に所領を与えたのは、政宗や茶阿局らの運動があったためともいわれている。 また、同母弟の松千代も幼くして長沢松平氏を継ぐ形でを与えられていたのに対し、同時期の忠輝には特に何も与えられていなかった。 弟の松千代の夭折によって兄の忠輝がその跡を継ぐという、逆の形になっている。 改易の理由 [ ] 家康没後の元和2年(1616年)7月6日、兄の秀忠は忠輝に改易を命じた。 大坂夏の陣のとき、から大坂に攻め入る総大将を命じられていたが、遅参したため。 道明寺の戦いにも遅参し、伊達政宗の意見に従ったとはいえ追撃を行わず、天王寺・岡山の最終戦でも戦功を挙げなかった。 忠輝軍が大坂に向けて進軍中、守山で軍列を追い越したとして、秀忠直属の、らを斬り殺したため(ただし、当時の軍法では戦中の追い越し、つまり乗り打ちは切り捨て御免となっているので、忠輝の処置は合法である)。 大坂夏の陣の戦勝を朝廷に奏上するため、家康は忠輝に対して共に参内するように命じた。 しかし、忠輝は病気を理由に参内せず、しかもそのとき、嵯峨野に出向いて桂川で舟遊びをしていたため。 以上が、秀忠が改易を命じた表向きの理由である。 しかし実際は、以下の理由もあったのではないかとされている。 ときわめて親しい関係にあったためという説。 妻の五郎八姫はキリシタンだったとされる。 また、大坂の陣での不甲斐ないともとれる行動は、大坂方にキリシタンが多かったために同情心があったと推測する説がある。 忠輝の岳父が伊達政宗であったため、また幕府内で奉行職を兼任し莫大な財力を背景に隠然と権力を振るっていたと近い間柄であったことから、幕府から警戒されたという説()。 忠輝の重臣で縁者の花井吉政は、娘を大久保の息子の室とし、さらに息子の室に大久保の娘を迎えている。 大久保自身も幕閣の諸職と兼任の上で、慶長8年(1603年)2月12日に忠輝の附家老に任じられている。 人物 [ ]• 忠輝は従四位下左近衛権少将に叙任されたが、生涯を上総介で通したという。 そのため、史書の一部では、忠輝が少将になった後も、上総介と記しているものも少なくない。 「此人平生、行跡実に相協力、騎射万人に勝れ、両脇自然に三鱗あり、水練の妙、神に通ず。 故に淵川に入って蛇龍を捜し、山に入って鬼魅を索め、剣術絶倫、性化現の人」(『』および『』)。 海外との交易に興味を示し、武術を好むと同時に、絵画、薬学に通じた文化人でもある。 家臣 [ ] 長沢松平家を相続した形になるため、同一族の関係者が多い。 皆川・山田・松平清直は「上総介殿の三臣」と称された。 領地拡大に伴い新参家臣を多く登用したため、新旧の派閥対立が起こった。 皆川広照 - 養父であり、附家老。 忠輝の改易後は浪人したのち幕府に取り立てられ、大名。 山田重辰 - 長沢松平家家臣。 松平清直の姉婿。 松平清直 - 長沢松平家。 改易後は幕臣として長沢松平家旧領近隣を与えられ、交代寄合。 幕閣の重鎮のとも義兄弟であるため登用されたと考えられる。 - 長沢松平家。 清直弟。 忠輝改易後に川中島・次いで越後高田を領したに仕え、忠昌の福井藩相続に伴い士。 子孫は福井藩家老職。 花井吉成 - 忠輝の異父姉の婿。 娘に幕閣の重鎮六男の室や忠輝与力大名の室がいる。 城代として川中島の開発に貢献し、現在、花井神社に祀られている。 花井義雄 - 主水正。 吉成の死後、跡を継ぐ。 大久保長安の娘婿。 大坂夏の陣では先鋒を勤めた。 改易時に連座し、1616年にに預けられ斬首。 花井神社に祀られている。 長谷川正之 - 小姓頭。 忠輝改易時に伊勢に同行するが、のち信濃川中島に帰り、当時の同藩主のに仕える。 酒井家家臣としてに従い、のち同家家老職。 大久保長安 - 幕閣の重鎮であり、幕府の諸職と兼任で附家老。 忠輝と伊達家との縁を取り持った。 脚注 [ ]• 小林弌「松平忠輝の入封と支配」『新潟県史通史編3 近世一』1987年。 黒田基樹「松平忠輝文書の基礎的研究」『駒沢大学史学論集』25号、1995年。 西の越前国に封じられた同じく家康の子である67万石のと高田城の忠輝63万石の合計130万石で、加賀国の前田家120万石を挟んで封じ込める形になる。 須田茂『徳川大名改易録』崙書房出版、1998年、36頁。 須田 1998 , 37頁. 須田 1998 , 38頁. 1623年以降• 朝日新聞 2009年9月24日号「お殿様はいま。 徳川家 300年後の赦免状」• 作の小説『』のヒットを赦免理由にあげる説があるが、『』などで本作の連載が開始されたのは昭和62年(1987年)からであり、赦免状が徳川恒孝によって出されたのはそれより前である。 忠輝の登場する作品 [ ] 小説• 『捨て童子・松平忠輝』 作:• 『忍びの卍』 作:• 『面貌』 作: 漫画• 『捨て童子 松平忠輝』原作:隆慶一郎 画: テレビドラマ• 『』(1971年、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(1983年、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(1987年、日本テレビ、演:)• 『』(1992年、テレビ東京、演:)• 『』(1998年、テレビ朝日、演:)• 『』(2006年、テレビ東京、演:) 演劇• 2003年、が隆慶一郎『捨て童子・松平忠輝』を「」のタイトルで舞台化。 ゲーム• 『』(2015年、セガ・インタラクティブ).

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松平康忠

松平 広 忠

出自など [ ] 生年 [ ] 「武徳大成記」が大永6年4月(1巻72頁)とし「三家考」および「御九族記」(3・成立)は同年4月29日としている。 「」(上巻151頁)「」(1巻22頁)がこれを踏襲している。 「朝野旧聞裒藁」(1巻407頁)「徳川幕府家譜」(18頁)は大永6年と記すにとどめている。 また、「松平記」(107頁)や「三河記大全」は天文18年に24歳で死去としており、没年と享年から計算すると生年は等しくなる。 このほか25歳とするもの(「創業記考異」ただし一説にとして24歳と記す)また27歳で死去とするもの(「三州八代記古伝集」)もあり、同書の記述から逆算できる広忠の生年は大永3年()である。 「」は23歳とするが年次の記述がない(69頁)。 生母 [ ] の娘とされているが(「徳川幕府家譜」18頁「徳川実紀」1巻21頁)、清康の室であったの娘とする異説もある(広忠を「弾正左衛門」信貞の実孫とする『新編岡崎市史6』851および852頁所収の「大林寺由緒」また「朝野旧聞裒藁」1巻737頁「大樹寺御由緒書」も同旨)。 兄弟 [ ]• (源次郎):天文9年()6月6日、において討死(「御九族記」)、生年未詳。 :室(「寛政譜」2巻217頁)。 の娘「瀬戸の大房」の養女となる(同前。 また院号は「御九族記」による。 碓井姫:の妻(「寛政譜」1巻「」211頁)。 のちに再嫁(「同」2巻「酒井」47頁)。 「碓井姫」の名は「御九族記」および「寛政譜」2巻「酒井」による。 また「御九族記」によれば2年()生まれ、10年(1605年)10月17日卒、77歳、法名は光樹院窓月香心または大樹寺光誉窓月(ママ)とする。 蔵「法蔵寺由緒書」では慶長17年10月17日卒、光樹院殿九心窓月大姉となっており「寛政譜」は「法蔵寺の記録に従う」としながら同年 11月27日としている。 上人:大樹寺14世住持。 3年()4月25日卒(「御九族記」)。 幼名 [ ] 竹千代、千松丸、仙千代など諸書により異なる。 汲古書院刊『朝野旧聞裒藁』によれば以下のとおり(1巻511から512頁)。 『新編岡崎市史6』689頁所収「信光明寺文書16」天文6年10月23日付け判物写しには「千松丸」とある。 通称は次郎三郎であったといい(「三河物語」「武徳大成記」1巻72頁)また「岡崎三郎」と称したことが発給文書より確認されている(『新編岡崎市史6』757頁所収「大樹寺文書44」天文16年12月5日付け大樹寺宛寺領寄進状) 経歴(一説に) [ ] 「徳川幕府家譜」の記述を一例として示す(18から19頁) 4年()、広忠が10歳の頃に父・清康が死去し、大叔父のは「虚に乗りて」岡崎を断行。 信定を諌めぬどころか黙認という隠居の曾祖父・道閲()の姿勢もあり、それゆえ「国中の制法信定次第」で「権威つよくなり、日増しに増長」し、同6年には所領を悉く押領しての衆をひきつけ、また広忠を殺害しようと企てるようになった。 ここからの働きに救われる。 まず天文8年()、大蔵によっての庇護を得て・神戸まで逃れ、この地に匿(かくま)われる。 しかし同年9月の持広の死去後、養嗣子・の加担で庇護者を失うと、大蔵に伴われてへ再逃亡。 ただ岡崎帰参は叶わぬため、領民を頼んで暫く雌伏。 そこから、岡崎帰参をに執り成してもらうべくへ赴いた大蔵を追うように、「掛塚」に止宿。 さらに駿河へ渡って翌年秋まで滞在する。 天文9年()義元の計らいで三河「牟呂城」に移される。 広忠の帰城を望む譜代衆の働きで、同11年5月31日、・の協力を得て岡崎へ帰城。 同年6月8日に信定は降参した。 (信定は天文7年に死去している。 ) 天文14年()による傷害事件が起こるも、同年「畷」において織田氏と合戦、勝利を得る。 同16年9月「渡理川原」では信孝と戦い、の功績によりこれを破る。 同年、による三河進攻ではへ加勢を乞うも、見返りにを人質として送ることとなった。 天文17年()3月19日「駿州」(ママ)小豆坂において織田勢と対陣したが、今川家からの援軍2万余を加えて大勝し、4月1日には「」兄弟のをおとした。 同月「三州冑山」にて信孝と対陣。 「菅生川原」で信孝が流矢で戦死すると残兵は敗北した。 翌18年2月20日再び織田勢と対陣、勝利を得てを捕虜とし、これと和して竹千代と交換、26日に今川家との約命どおり人質として駿府へ移送。 天文18年(1549年)3月6日、24歳で死去。 参考附記:「寛政譜」2巻217頁は吉良持広の養子としてと記す。 森山崩れと井田野合戦 [ ] 「三河物語」は清康の死に関して「」と呼び、諸書はこの後にによる三河への進攻があったと記す。 「松平記」:大樹寺付近に布陣した織田勢に対し、松平方は「松平十郎三郎」を大将として700余人で井田郷に陣をとった。 味方は兵を二手に分けて合戦し、「随分の侍衆 悉討死」したが、信秀も「譜代衆骨をりて なかなか欺く事ならず」これと和睦し帰陣した。 清康の死を天文4年12月5日とするが井田野合戦の年次は記されていない。 「三河物語」:「森山崩れ」の「10日も過ぎざるに」として井田野合戦を記す。 「三河にて伊田合戦と申しけるは是なり」と述べる。 いずれも年次を欠く。 味方800の雑兵にたいし信秀の兵8,000とし、双方が二手にわかれて戦ったと説く。 「誰見たると云人はなけれ共 申伝えには」との文言がみえる。 「家忠日記増補」:信秀が率いた兵は8,000余りと記し、これを二手にわけたとする。 同じく年次なし。 「岡崎領主古記」:天文4年12月27日「織田家より多勢にて三州に働き」と記す。 「寛永所家系図伝」6巻77頁「高力」:天文4年10月清康死去の後、織田備後守三河に出張、伊田郷にてが討死したとする。 「三州八代記古伝集」:清康の死を天文2年12月5日とし、ここから「100ヶ日も過ぎずに」織田方の進攻があったとする。 「朝野旧聞裒藁」は年次について特定を避けている(1巻515頁)。 「徳川実紀」は天文5年2月としている(1巻22頁)。 参考附記:「松平記」の松平十郎三郎は清康、信孝の兄弟・松平康孝か(「寛政譜」1巻22頁)。 「朝野旧聞裒藁」は「三河国古墳考」ほかを引いて天文11年3月18日卒としている(1巻616頁以下)。 伊勢への放浪と岡崎還住 [ ] 広忠の岡崎帰還までの経緯を「阿部家夢物語」は次のように記す(157から159頁)。 4年「極月5日」に清康が「御腹を召され」た。 伊勢へ船をしたて「大蔵殿」に申しあわせて遠州への下向を決めた。 「かけつか」で3月17日に「御若子」に会い、天文5年の夏のあいだ中「懸つか かぢか所」にいた。 同8月5日から「今橋」「世喜」「形原」を経て、9月10日に「むろつか」についたが、閏10月7日にむろつかを「ぢやき」して「今橋」へ退いた。 「大蔵殿」は再び駿河へ赴き、翌年6月1日に岡崎において本意をとげ、駿河へ迎えをおくって25日に「御若子」が入城した。 「三河物語」はこうである(45から56頁)。 「伊田合戦」の後「内前」は広忠を「立出し」、そのため「阿部之大蔵」は13歳の広忠に供して伊勢へ逃れた。 14歳まで滞在した後に駿河へ渡り、15歳の秋に義元の援軍を得て「茂呂の城」へ入った。 「内前」は大久保新八郎に7枚の起請文を書かせ、茂呂を攻撃する。 大久保は「有間」へ湯治に行くとの信孝の申し出を受け、この間に広忠を岡崎城へ入れた。 その後「内膳殿も御詫事成されて」出仕した。 「松平記」は次のように記す(102から103頁)• 信秀と縁者であった「内膳」は「御隠居をだまし岡崎知行悉押領」し広忠を「内々にて」追出した。 13歳の広忠は「伊勢国へ浪人」の身となり、阿部大蔵がこれに従った。 越年後に元服し、吉良持広の「御肝煎」で今川義元へ助力の申し入れがなされた。 広忠は駿河に赴き、義元の加勢を得て三河の「もろの城」に移る。 譜代の家臣は内密に広忠の帰還をうながすが、これを聞いた信定は「大久保新八」を呼び「伊賀八幡」で7枚の起請文をかかせる。 大久保らはこれを破って「松平蔵人」らに相談、「本城」(岡崎城)の留守居であった信孝を「」へ湯治にやり、この間に広忠を城にいれた。 広忠の三河帰国は天文6年6月1日で、岡崎入城は同25日、この時17歳。 譜代衆「皆々来たり加勢申 中々手を出事ならず」6月8日「内膳」は和睦し、岡崎に出仕した。 「武徳大成記」は年次を附して次のように記す(1巻73から79頁)。 天文4年12月5日清康が「尾州守山」で死去、10歳の広忠は阿部大蔵らを従えて伊勢・神戸にいた。 内膳正信定は「嫡家を奪う志ありて 長親君をたぶらかし」織田家へ内通した。 広忠はらの要請をうけ、翌年3月17日に伊勢神戸を出て遠州「懸塚」に上陸、「150日ばかり逗留」したのち「今橋」に居住、密かに「世喜」「形原」「室塚」などへ「通じて」信孝・「松平伝十郎」と連絡をとる。 閏10月10日阿部は駿河で義元に会い、同年冬に広忠は「参州牟呂」に入る。 信定は攻撃を加え、また大久保忠俊に7枚の起請文を書かせる。 大久保ら譜代の衆と信孝は談合し、信孝は湯治と称して「有馬」へ行き、12歳の広忠は天文6年5月1日岡崎に帰還した。 「松平記」は森山崩れを天文4年と明記した上で(101頁)この時の広忠の年齢を10歳とし(同)、また伊勢行きを13歳としている(102頁また103頁)。 天文6年と記す岡崎への帰還には2年しかなく、それゆえ年次と年齢の記述が矛盾する。 「武徳大成記」は「松平記」と年次が同じであるが、同年の岡崎帰城を12歳として生年との齟齬を避けている(1巻79頁)。 「朝野旧聞裒藁」は天文6年()6月に広忠の岡崎還住が実現したとしている(1巻573頁)。 また上記「千松丸」の名がある『新編岡崎市史6』689頁「信光明寺文書16」の天文6年10月23日付け判物写しは、、大窪新八郎(ママ)、、、に対して「今度入国之儀 忠節無比類候」として15貫文の加増を約しており、『新編 岡崎市史2』はこれを岡崎帰還の功績によるものと考えている(687頁)。 大久保ら5名への加増については「三河物語」(57頁)「武徳大成記」(1巻86頁)に記述がある。 異説として「御年譜附尾」(3・成立)は岡崎押領を松平信孝によるものとし、これを天文7年()と記す。 また義元への岡崎還住の要請を同8年暮とし、駿府行きを同9年春、「茂呂」入城は同年秋、岡崎還住を天文10年()と記述する。 これについて「朝野旧聞裒藁」は、信定の岡崎押領を天文7年とするのは「松平記」がその年齢を13歳と記したために生じた誤りではないかと推測している(1巻531頁)。 織田氏の三河進攻と小豆坂の戦い [ ] 広忠の後半生は三河へ進攻するとの戦いに費やされていたようである。 安祥城をめぐる攻防 [ ] 「岡崎領主古記」は次のように記す。 天文9年()「尾州勢 安祥城へ取掛」け、6月6日に合戦となった。 「安祥方討負城陥」して城代「」が切腹した。 他に松平甚六、同・源次郎、、、、、が討死、「是より安祥 織田家に渡る」こととなった。 翌10年8月10日、駿河勢が安祥に寄せ来て「安祥畷」において戦いとなった。 同書はこの後、天文12年(「討死」)と同14年の計4回の安祥合戦を記している。 「寛永諸家系図伝」にも織田家による安祥攻めの記述があるが(1巻169から170頁。 年次は天文9年6月6日)らが防戦して敵が退いたと記している(「寛政譜」1巻「藤井」42頁同じ)。 また同1巻127頁はが参戦したとするだけで(年次なし)その結果についての記述がない。 「寛政譜」の忠次の記事は「信秀ついに利を失いて敗走」したというものである(1巻「五井」146頁)。 同じく「武徳大成記」は天文9年の戦いを「織田信秀いくさをやめて引き退く」とし(1巻89頁)、天文13年には城兵の防戦により織田勢が敗軍したと記す。 翌14年のこととして「広忠卿安城の敗れを憂て」とあること(同94頁)、また広忠の死後、今川からの援兵を得て安祥城を陥落させたとの記述があることから(109頁)、城が織田方の手に渡ったことは認めている。 しかしその時期や経緯についての記述がない。 「岡崎領主古記」が「親忠主御息」と記すほか「寛政譜」1巻21頁はの子・安城左馬助「長家」とし、天文9年6月6日安城において死去と記す。 小豆坂の戦い [ ] 「信長公記」は「 8月上旬」のこととしてをつぎのように記す(下記刊行本22頁)。 年次の記載はない• 駿河勢は三河「正田原」に七段に陣を構え「駿河の由原先懸けにて あずき坂へ人数をだし」安祥から矢作へ出た織田勢と戦いになった。 織田備後守、舎弟「」「孫三郎」「」また「」が奮戦し、槍傷を負った。 「三度四度かかり合い 各手柄と云う事」限りなく、今川勢は兵を「打ち納れ」た。 これを「信長記」は 天文11年()のこととして記す(下記刊行本上巻34頁)。 8月10日、今川義元は4万余騎を率いて「正田原」に出陣し、兵を二手に分けて小豆坂に押し寄せた。 対する織田勢の兵力は4,000余騎で安城へ出向、織田「孫三郎」を大将として敵陣へ向かった。 織田勢は坂の途中で防戦し、が今川勢の足軽大将「由原」の首を取った。 日暮れになって織田勢は坂の下へと追い詰められたが、織田造酒丞、、、、同・、らの活躍で今川勢を追い返し、勝どきをあげた。 同書はこの戦いについて、世間では「尾張勢の勝軍」といわれているが「誠にかかる手痛き合戦は前代未聞」であったとし、造酒丞らを「」と呼んで語り継いだと記している。 「由原」戦死について「信長公記」はこれを記さず、逆に「由原」が「」の首を討ち取ったとしている。 年次はない。 今川勢の進出を聞いた信秀は、安祥を経て上和田に着き「馬頭の原」へ陣をとるため進発した。 今川勢は藤川から上和田をめざして進軍し、小豆坂を上ったところで両者が遭遇し、戦いとなった。 織田勢は上和田から安祥へ退陣し、今川勢も藤川へ戻ったが、「対々とは申せ共 弾正之中之方は二度追帰され申 人も多打れたれば 駿河衆之勝」であったという。 また「三河にて小豆坂之合戦と申つたえしは此の事」である。 「松平記」は年次を附してこのように記す(106頁)。 天文17年() 3月19日、織田勢は岡崎をとらんとして安祥を進発、これをきいた駿河勢は「」を大将として上和田に陣をとり、小豆坂をのぼった。 織田勢は「織田三郎五郎大将分にて」坂の途中でせりあいとなった。 「朝比奈藤三郎」が岡崎衆に下知して「三郎五郎」を追い崩し、また織田勢も盛り返したため「」「」ら「よき者あまた討死」した。 「岡部五郎兵衛横槍を入」てもりかえし、「やり三位」を「」が組み討ち、織田勢は「悉く敗軍」した。 諸書の記述は次のとおり• 「岡崎領主古記」:天文17年3月19日、小豆坂において合戦があり「軍勢多数討死」、今川勢は「千種野」に、織田勢は安祥に退いた。 「寛永諸家系図伝」:1巻「松平・庶流」149頁。 天文11年 8月11日、小豆坂合戦において伝十郎「某」が戦死したとする。 「同」:9巻「大久保」45頁。 天文11年、臨済寺の長老雪斎が「今川義元にかわりて」安祥をせめたとし、が「清縄手の合戦」において槍を合したと記す。 「同」:3巻「高木」131頁。 天文17年小豆坂においてが首級を挙げ、それを知った織田信秀が自らの旗下においたという。 「同」:14巻「山口」254頁。 おなじく天文17年(の実父)が首級を挙げ、これを織田信秀に献上したとする。 「家忠日記増補」:天文17年3月19日「広忠君軍を岡崎の城より発し駿州の兵と合す」として戦いへの関与を示し、岡崎の兵が今川勢と「是と同く競い進て奮戦」、が「鳴海大学助」を討ち取ったとする。 内容は前半が「松平記」と同じであるが、後半に至って「織田造酒丞」、下方、佐々、中野らが織田信広と共に奮戦し「駿州の兵利を失て敗亡す」とする。 また「七人をして三州小豆坂の七本槍と称す」とした上で、後に「 岡崎勢五郎兵衛尉横槍を入れ」織田勢を追い崩したこと、「小倉千之助」が「鑓三位」を討ったことも併記している。 「織田軍記」(総見記):天文17年3月、織田信秀は4,000の兵を率い安祥に入城、「正田原」に陣を構えた今川勢と 3月12日に小豆坂で戦いとなった。 織田勢は大将「孫三郎」信光を「織田造酒丞」が補佐し、河尻が今川勢の先陣「」を討ち取った。 夕暮れになって「無勢故戦い疲れ」劣勢となったが、下方、岡田、佐々、中野らが取って返し、敵陣を切り崩した。 今川勢は「庵原」をはじめ「三州」の「林」「小林」らが討ち取られ敗軍し「岡部五郎兵衛」が「横槍を入れ」後殿となって駿河へ退却したとする(下記刊行本11頁)。 「三河記大全」:天文16年8月、織田勢の大将を孫三郎信光、今川勢を「林際寺雪斎長老」として小豆坂の戦いを記す。 「家忠日記増補」とおなじく、織田造酒丞らが引き返したところを岡部が横槍を入れて突き返したとする。 また「松平記」において「岡崎衆」とされた林・小林が岡部の横槍によって討ち取られたとするなど、内容に混乱がみられる。 「武徳大成記」:天文11年(1巻89から90頁)、同17年(104頁)と2回にたって小豆坂の戦いを記す。 『新編 岡崎市史2』は 17年3月が 11年8月に誤伝される可能性を低くみて2回説を支持し(691頁)、「駿河 今川一族」は今川義元の東三河進出は天文12年からであるとして、11年の戦いはなかったとする説をとっている(200より201頁)。 後述の天文16年の岡崎城落城説を採る村岡幹生は「三河物語」がこの戦いにおける岡崎の松平軍についてほとんど触れていないことを指摘し、更に織田軍の撤退時に追撃を行っていない(今川氏から見たら背信行為である)ことから、天文17年当時の岡崎城は織田方で広忠は織田軍に加わっていた可能性があり、今川方に参加した松平家臣は謂わば「牢人」状態にあった可能性を指摘している。 参考附記• また「寛永諸家系図伝」には記述がないが「寛政譜」では父「」も戦死したとしている。 同6巻「水野」64頁、「改正三河後風土記」上巻226頁も同じく「長教」と記す。 「朝野旧聞裒藁」1巻697頁および2巻327頁綱文に五郎兵衛「真幸」とあるが、これは「武徳編年集成」上巻56頁の表記によったものと思われる。 『新編岡崎市史6』は「三川古文書」所収文書20・天文21年8月25日付・岡部五郎兵衛宛て「今川義元感状写」の五郎兵衛の名に「元信」と注記して採録(1035頁)し『新編東浦町誌 資料編3』は国立公文書館蔵「古今消息集」所収文書2-88・永禄3年6月8日付の岡部五郎兵衛宛て「今川氏真判物」(245頁)の五郎兵衛を「」のこととして解説(345頁)している。 この岡崎城陥落については研究者による一定の支持を得ているものの、この時の松平広忠の政治的な立場について、従来の通説通りに今川氏の傘下として織田氏の侵攻を受けたとみる村岡幹生と広忠が戸田氏らと共に今川氏からの自立を策して、それに対抗すべく今川義元と織田信秀が手を結んで三河侵攻を行ったとする平野明夫 や糟谷幸裕 の意見が対立している。 また、柴裕之は後者の立場から、松平竹千代(徳川家康)が織田氏の人質になったのはの裏切りによるものではなく岡崎城陥落によって松平広忠が降伏の条件として竹千代を人質に差し出したとする見解を述べている。 なお、織田信秀と今川義元という敵対していた両者を結びつけて広忠攻めを行わせたのは広忠と対立した松平信孝や阿部定吉との権力争いに敗れたらであったとみられ、更にもこの動きに加わったとされる。 最終的には広忠は今川方の岡崎城主として死去したとみられるが、今川方への復帰の時期として村岡は同年9月28日の渡河原の合戦以前(すなわち信秀が岡崎城から撤退した直後)と小豆坂の戦いにおける今川氏の勝利後の2つの可能性があるとした上で、小豆坂の戦いでの広忠の行動を不審視して後者の可能性が高いとしている。 一方、柴は『』に天文17年(1548年)にが織田大和守家と松平広忠に働きかけて対信秀の挙兵をさせたと記されており、道三と結んで挙兵した広忠が義元に接近した結果、小豆坂の戦いが始まったとしている。 いずれにしても、村岡論文によって江戸時代以来疑われることがなかった「天文6年に岡崎城主になってのち同18年に没するまでの間に今川義元の配下になることはあっても、この間ずっと岡崎城主としての地位は保ち続けた 」とされてきた松平広忠像が覆されることになり、その根本的な見直しを迫られることになった。 婚姻と離別 [ ] 「武徳大成記」は(伝通院)との婚姻は天文10年()としている。 家康出生の後に離縁することになるが、同書はその理由について、天文12年のの卒去により、家督を継いだが織田家に与したことにあったとみる。 同書は家康誕生を天文11年の生まれとした上で、伝通院との離縁は家康3歳の時のこととしている。 「岡崎領主古記」は於大との婚姻を「天文9年の事成と云」とし、また同13年に離別とする。 於大との関係でいえば、彼女の再婚相手である主を通じてに介入した形跡がみられることである。 「寛永諸家系図伝」1巻202では天文15年()「広忠卿しきりに御あつかいありし故」大野(北部)の佐治家との和睦が実現したとしている。 『新編岡崎市史6』1171頁所収の「久松弥九郎」宛ての広忠書状写しに「大野此方就申御同心 外聞実儀 本望至極候」としるされている。 死 [ ] 松平広忠と一族の墓( 忌日と死因 [ ] 広忠は天文18()3月6日に死去したとされている(「家忠日記増補」「創業記考異」「岡崎領主古記」ほか)。 ただし『岡崎市史別巻』上巻191頁は3月10日としている。 しかし他の史料に所見がなく、誤植と考えられている(『新編 岡崎市史2』710頁)。 死因に関しても諸説がある• 天文18年3月、鷹狩の際に「岡崎領分 渡利村の一揆生害なし奉る」と記す(下記所蔵本15丁左)。 またこれを「尾州の武略」としている。 『岡崎市史別巻』上巻206頁に採録されている。 「武徳大成記」のほか「家忠日記増補」「創業記考異」「烈祖成績」などいずれも病死説を採る。 「徳川実紀」「朝野旧聞裒藁」も同じ。 『朝野旧聞裒藁』採録記事は次のとおり(1巻737頁以下)• 「松平記」:天文18年春より「御煩あり」、同3月18日卒去。 24歳• 「官本三河記」:同じく「18年春広忠病気」、3月6日卒、24歳• 「家忠日記増補」6日卒去、24歳• 「三岡記」:「御病気」3月6日卒。 「病気連年疱証ト云々」とする。 「松平記」が記す忌日は『三河文献集成 中世編』に収められた翻刻(107頁)、および所蔵の写本2冊はいずれも3月6日となっており「朝野旧聞裒藁」の記述は誤写と思われる。 『岡崎市史別巻』上巻は岩松八弥による殺害説をとり、これが『新編 岡崎市史2』に踏襲されている(710頁)。 これに対して、村岡幹生は『松平記』も片目八弥による襲撃自体は認めているが、襲撃と広忠の死を結びつけた史料はいずれも後世の編纂物で、織田氏が仮に関わっていたとしても広忠の死の直後に当時織田方にいた筈の竹千代を利用するなどの何ら行動を起こしていないのは不自然であるとして、岩松八弥による襲撃と広忠の死は直接の因果関係はなく、「病没説に疑問を挟まねばならぬ理由がどこにあろう」と殺害説を完全に否定している。 葬地と法名、贈官位 [ ] 葬地はの(「朝野旧聞裒藁」1巻737頁所載「大樹寺御由緒書」。 「御九族記」および「徳川幕府家譜」19頁に同じ)。 法名は「慈光院殿」もしくは「瑞雲院殿」応政道幹大居士(「御九族記」「徳川幕府家譜」19頁)で、贈官の後「大樹寺殿」となったとする同寺の記録があるという(「朝野旧聞裒藁」1巻738頁所載。 「御九族記」おなじ)。 現在大樹寺に加え、・・・と5つの墓所が岡崎市にある。 また死後、慶長16年3月22日のを贈られている。 「御年譜附尾」は「因大権現宮願」として従三位大納言と記し「御九族記」は正二位権大納言としている。 なお、嘉永元年10月19日には、太政大臣正一位に追贈されている。 松平広忠 贈太政大臣正一位宣命(高麗環雑記) 天皇我詔良万止、贈従二位權大納言源廣忠朝臣尓詔倍止勅命乎聞食止宣、弓乎鞬志劔乎鞘仁志氐与利、今仁至氐二百有餘年、此世乎加久仁志毛、治免給比、遂給倍留者、汝乃子奈利止奈牟、聞食須其父仁功阿礼者、賞子仁延岐、子仁功阿礼者、貴父仁及者、古乃典奈利、然仁顯揚乃不足遠歎給比氐、重天官位乎上給比氐、太政大臣正一位仁治賜比贈給布、天皇我勅命乎遠聞食止宣、嘉永元年十月十九日奉大内記菅在光朝臣申、 (訓読文)天皇(すめら、のこと)が詔(おほみこと)らまと、贈従二位(すないふたつのくらゐ)権大納言(かりのおほいものまうすのつかさ)源広忠朝臣に詔(のら)へと勅命(おほみこと)を聞こし食(め)せと宣(の)る、弓を鞬(ゆぶくろ)にし劔を鞘にしてより今に至りて二百有余年、此の世をかくにしも、治め給ひ遂げ給へるは、汝の子なりとなむ、聞こし食す其の父に功あれば、賞子に延(つ)ぎ、子に功あれば貴父に及ぶは古(いにしへ)の典(のり)なり、然るに顕揚(けんやう)の不足遠く歎き給ひて、重ねて官位を上(のぼ)せ給ひて、太政大臣正一位に治め賜ひ贈り賜ふ、天皇が勅命を遠く聞こし食せと宣る、嘉永元年(1848年)10月19日、大内記菅(原)在光(、従四位下)朝臣奉(うけたまは)りて申す、 妻子に関する伝承 [ ] 妻に関して [ ] 「柳営婦女伝」は三人の室を記している。 正室・側室の別を明記する史料はない。 またその子に関しても一男一女(「武徳大成記」1巻72頁)二男二女(「参松伝」巻1)二男三女(「改正三河後風土記」上巻171頁および「徳川実紀」24頁)三男三女(「御九族記」巻1)と諸書により記述が異なる。 子女とその生母 [ ] 生母により分類して以下に示すが、生母について争いのあるもの、広忠の子として争いのあるものはこれを「一説に」とした。 ただし存在そのものが疑われている、忠政、恵最、家元についてはこのかぎりではなく、単に所伝のあるものとして列挙した。 伝通院との間にうまれた子• (一説に)• 大給松平二代の娘「於久の方」 との間の子• (僧)• 平原氏・娘との間の子• (の妻)• 真喜姫 との間の子(一説に)• (の妻)• その他• (一説に)• [ ]• 参考附記• 請求番号157-0205。 記事の下限は4年(1719年)であるが、これをの移封とする誤りがある。 また信成出生に関する記述は「別本 内藤家譜」の名で『』12編ノ9に引用されている(1011から1015頁)。 請求番号149-0060• 同5巻「嶋田」には「景信」の名は見当たらない。 また「徳川幕府家譜」には「信成」とだけ記されている(35頁)。 脚注 [ ]• 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。 村岡(大石)、2019年、P374-376. 村岡幹生によれば、この文書は越後長久山本成寺の第九世の日覚が隠居後に越中井田菩提心院から本成寺送ったもので、日覚自身が尾張国出身で今川氏家臣の鵜殿氏の帰依を受けていたことから尾張・三河に一定の人脈を持つ人物と評価されている(村岡(大石)、2019年、P354-359. P40-42. 村岡幹生「織田信秀岡崎攻落考証」(『中京大学文学論叢』1号、2015年。 後に大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年)に所収)• 平野明夫「家康は、いつ今川氏から完全に自立したのか」(平野 編『家康研究の最前線ーここまでわかった「東照神君」の実像』、洋泉社、2017年)• 大石泰史 編『今川史年表ー氏親・氏輝・義元・氏真』高志書院、2017年 天文15年-永禄3年節• 糟谷幸裕「国衆の本領・家中と戦国大名ー今川領国を事例に」戦国史研究会 編「戦国時代の大名と国衆 支配・従属・自立のメカニズム』(戎光祥出版、2018年) P145. 村岡(大石)、2019年、P372-377. 村岡(大石)、2019年、P360. 村岡(大石)、2019年、P377-379. 村川前掲論文。 なお、「徳川幕府家譜」19頁は「家康公 」に依るとする。 「柳営婦女伝系」では「広忠」と伝通院の間の子として「東照宮」および「女子」1人を記している(137頁)。 家康と父母を同じくする兄弟ということになるが、「女子」ということ以外に記述がない。 「改正三河後風土記」では広忠の娘として「多劫姫」を挙げる。 しかし家康の異母妹かそれとも父母を同じくするかについては言及を避けている(上巻171頁)「御九族記」は多劫姫の母を伝通院とし、広忠の子として系図にかけ、久松家のそれにかけない(巻1)。 「寛政譜」17巻・菅原氏「久松」(315頁)および1巻「桜井松平」(33頁)はとの間の子としている。 「朝野旧聞裒藁」1巻610頁。 また広忠の死後、尼となり「妙林」と称した旨の所伝が「寛政譜」にある(1巻221頁の按文)。 (雅楽頭家)家臣松平孫三郎「」所蔵の家譜、・法蔵寺および広忠寺由緒書に拠るという。 「朝野旧聞裒藁」1巻610頁。 「松平忠政遺状」によると、幼名を勘六といい、のち任官されて 右京大夫「忠政」と称したという。 松平孫三郎「久典」の系譜では「右京大夫又は 右京進」とされている。 「寛政譜」1巻221頁にその所伝が示されており、広忠が於大を妻とした後に三河国桑谷村に250石を与えられ、のち家康に仕えて従五位下となり、4年()に没したという。 また長子の孫三郎「」は酒井家家臣孫三郎「久典」の祖、次子 右京進「」は彦太夫「」(224頁)および分家・二郎右衛門「」(225頁)らの祖とする家伝が記されている。 「朝野旧聞裒藁」1巻620から622頁所載「松平忠政遺状」「松平彦太夫家伝」「広忠寺由緒書」および「寛政譜」1巻221頁による。 「忠政」の弟 穎新(えいしん)または 恵新(けいしん)。 広忠の意向により僧となり、のち樵暗恵最と名を改めた。 ただし同書では、家康の異母兄弟である忠政がわずかな所領しか与えられなかったことや、「寛永諸家系図伝」など幕府保管の文書にその記録がみられないことから、一連の所伝を「不審なきにあらず」とする。 また長沢松平分家「」(220頁)の祖・ 孫三郎「」(219および210頁)の子・ 右京「長次」(219頁)の子孫が不明とされているのは(同頁按文)、家祖を右京進「忠政」としたために起こった誤りではないかとし、「忠政」の子とされている 右京進「長清」はこの右京「長次」のことであろうとしている(222頁按文)。 参考附記• 岡崎市史編さん史料は全て岡崎市美術博物館に移管されている。 松平上野介康忠の室をの娘とし(「柳営婦女伝系」137頁)その名を矢田姫とする(「寛政譜」1巻「長沢松平」211頁。 「御九族記」同じ)。 「寛政譜」14巻「戸田」318頁は弾正少弼「某」を「今の呈譜 康光に作る」とし、娘「真喜姫」を「広忠卿の簾中たり」と記している。 「柳営婦女伝系」ではの室を平原氏娘の子とし(137頁)、それとは別に娘の子として「一場御前」とする(「御九族記」同じ)。 一方「松平記」()「改正三河後風土記」(上巻172頁)は広忠との間に子はなかったとしている。 「寛政譜」2巻「吉良」は義広の室として「市場の御方」と記し(217頁)また「士林泝洄」巻37「荒川」は甲斐守「義弘」の子・次郎九郎「」の母を「広忠卿御女」とする(下記刊行本229頁)。 しかしその生母についての記述はない。 「市場殿」の呼称は「御九族記」巻1、「徳川幕府家譜」34頁、「徳川実紀」1巻24頁に示される。 「徳川幕府家譜」35頁。 広忠の死の前年、17年()の生まれで、その母の申し出により岡崎在城時代、家康に召抱られたという。 また多病のため生涯隠棲し、8年()に亡くなったとされている。 「朝野旧聞裒藁」1巻657頁および658頁以下。 「内藤家譜」によるとその母は広忠の寵愛を受けて懐妊するが、前室(於大)に憚り、「島田久右衛門」平 景信に預けられ、天文14年5月5日に信成を出生したという。 一説に(「秘録」曰く、として)この女性は「」の娘で、広忠の侍女であったといい(「松平系諸集参考」)、またいったん島田久右衛門に嫁したのち出生した男子を、が養子として育てたのが、後の豊前守信成であるとする「徳世系譜」の所伝があるという。 参考文献 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2015年9月)• 『三河文献集成 中世編』所収「松平記」および松平記附載「阿部家夢物語」国書刊行会、1980年• 所蔵「松平記」請求番号:特042-0012および148-0012• 『徳川諸家系譜』1巻 所収「徳川幕府家譜」「柳営婦女伝系」 続群書類従完成会、1982年• 内閣文庫所蔵史籍叢刊 特刊第1『朝野旧聞裒藁』1巻 汲古書院、1982年• 所蔵「三河東泉記」請求番号:2041. 55-11• 『新編岡崎市史6』新編岡崎市史編さん委員会、1983年• 図書館所蔵「御九族記」請求番号:こ119• 所蔵「家忠日記増補追加」請求番号:W3816• 著、3・成立• 『改正三河後風土記』上巻 秋田書店、1976年• 所蔵「御年譜附尾」請求番号:109-23• 国立公文書館所蔵「三州八代記古伝集」請求番号:148-0085• 総合図書館所蔵「参州本間氏覚書」請求番号:G27 625• 小瀬甫庵『信長記』上巻 現代思潮社、1981年• 校注『新訂 信長公記』新人物往来社、1997年• 鶴舞中央図書館所蔵「創業記考異」請求番号:河サ-2• 国史大系第38巻『徳川実紀』第1篇 吉川弘文館、1981年• 国立公文書館所蔵「内藤家譜」請求番号:157-0205• 内閣文庫所蔵史籍叢刊92『武徳大成記』1巻 汲古書院、1989年• 『武徳編年集成』上巻 名著出版、1976年• 『26 三河物語』 岩波書店、1974年• 『寛永諸家系図伝』1巻「松平」「久松」3巻「高木」6巻「高力」9巻「大久保」14巻「山口」続群書類従完成会、1985年• 『新訂寛政重修諸家譜』1巻「藤井」「桜井」「長沢」2巻「酒井」「吉良」6巻「水野」8巻「織田」10巻「阿部」11巻「大久保」13巻「内藤」14巻「戸田」17巻「久松」続群書類従完成会、1984年• 図書館の所蔵データベース検索は「士林泝洄」もしくは「名古屋叢書続編」で行うこと。 『新編 岡崎市史2』新編岡崎市史編さん委員会、1989年• 『新編東浦町誌 資料編3』愛知県知多郡、2003年• 小和田哲男『駿河 今川一族』新人物往来社、1983年• 『岡崎市史研究』11号所収、新行紀一「徳川家康の異母兄弟」岡崎市史編さん委員会、1989年• 平野明夫著『三河松平一族』、新人物往来社 2002年、 C0021• 関連項目および外部リンク [ ]• 愛知県岡崎市桑谷町。 広忠菩提寺であると共に「於久」と家康異母兄弟の所伝を残している。

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