クララ バートン。 Clara Barton National Historic Site : America's National Parks ~アメリカの国立公園を訪ねて~

クララ・バートン:南北戦争看護師、赤十字創設者

クララ バートン

人生 [編集 ] 生い立ち [編集 ] クララ・バートンは1821年12月25日、マサチューセッツ州ノース・オックスフォードで5人兄弟の末っ子として生まれた。 父は地元のの一員であり、も務め、愛国心と幅広い人道的関心を娘に与えた、Captain Stephen Bartonである。 母は Sarah Stone Bartonである。 3歳になったとき、クララは兄スティーブンと一緒に学校に行くこととなった。 読書とスペルが優れた成績であった。 学校では、ナンシー・フィッツと親友となった。 クララは極度に臆病であったため、彼女が子供の頃で唯一の知られている友人である。 10歳のとき、クララは納屋の屋根から落ちて重傷を負った兄弟のデイビッドを看護する仕事を自らに課し完治させた。 クララは処方された薬を与え、当時の標準的な治療であるに血を吸わせるの方法を習得した。 クララは医者があきらめてからも、デイビッドの世話をずっと続けて完治させた。 両親は内気な性格が治るようColston Stones High Schoolにクララを送ったが、その試みは仇となった。 クララは更に臆病で的で食べるのもままならなくなった。 クララは健康を取り戻すために家に戻ることとなった。 クララが帰ったとき、クララの父方のいとこが4人の子供と妻と農場を残して亡くなったため、元々住んでいた家も修理が必要だったのもあり、彼らを助けるためにバートン家は移住した。 仕事が終わった後、クララは家族に負担を感じさせないために仕事をしたいが、手伝わせてくれないから手持無沙汰で当惑していた。 クララはいとこの男の子と遊ぶようになり、驚いたことに乗馬のような活動も上手にこなすようになった。 クララの母親が男の子と遊ぶことに疑問を持ち始めたのは、クララが負傷した後ではなかった。 母親は、クララがより女性的なスキルに焦点を当てるべきだと決断した。 そして、クララのいとこの女の子一人を招いて、クララの女性性を育てた。 クララのいとこからは、適切な社会的スキルを得た。 また、内気を克服するために、両親はクララに学校の先生になるよう説得した。 クララは、1839年に17歳で始めて教師免許を取得した。 この職業はクララに大いに興味をもたせ、やる気をもたらした。 クララは労働者の子供たちに教育を受けさせる効果的な広報活動を終わらせた。 このような成功したプロジェクトは、正当な授業料を要求する時に必要な信頼をもたらした。 社会人生活 [編集 ] クララ・バートンは、1838年から12年間カナダと西ジョージアの学校で教育者を務めた。 バートンはこの仕事を上手くこなした。 クラスの暴れん坊も、子供のころから男兄弟らと過ごしていたため、扱いはお手のものであった。 バートンは彼らの尊敬を得た事から、クラスの制御は容易となった。 1850年、バートンはニューヨークのクリントン・リベラル・インスティテュート(Clinton Liberal Institute)で読み書きを研究し、教育をさらに進めることにした。 1852年、ニュージャージー州で初めてのをBordentownで開くことになった。 バートンは成功し、1年後に600人以上の生徒を教えるために別の女性を雇いいれ、その試みも成功した。 この成果により、学校は新しい学校ビル建設のための約4,000ドルを調達することができた。 しかし、これが完成した後、バートンは教育委員会が選出した男性に校長を譲ることとなった。 教育委員会は、大きな組織の長に女性は相応しくないという姿勢をとっていた。 バートンは神経衰弱と健康疾患で辞めるまで過酷な環境で働くことになった。 1855年、ワシントンD. に移り、の書記官として仕事を始めた。 この仕事は、男性の給与と同じ給与をもらえ、連邦政府で重要な書記として女性を雇い入れた初めての仕事であった。 しかしその3年間も、バートンは男性職員から多くの虐待と中傷を受けた。 その後、官庁で働く女性に対する政治的反対がおき、1856年にの運営方針で、バートンの立場は写字生の立場に縮小され、「Black Republicanism(黒人共和主義者)」として解雇された。 マサチューセッツ州にある親戚や友人と3年間住んでいたバートンは、選出後、1861年秋に一時的に写字生として米国特許庁に戻り、政府機関で働く女性の数が増えることを期待していた。 南北戦争 [編集 ] 1861年4月19日の ボルチモア暴動 ()は、南北戦争初の流血事件となった。 マサチューセッツ連隊内の犠牲者は、当時のバートンの家があった場所での暴動の後、ワシントンD. に移送された。 バートンは国に貢献したいと考えていたため、怪我をした40人が到着する駅に行った。 多くの人が負傷し、空腹で、何の手持ちの荷物もない制服を着た男たちに必要な個人的な援助を行った。 バートンは、メリーランド州ボルティモアで攻撃された第六マサチューセッツ州立歩兵隊の若者たちが収容されていた未完成のワシントン庁舎に個人的に物資を支援し、彼らを助け始めた。 当時、看護教育はあまり制度が整っておらず、バートンは看護学校に通っていなかったため、独学による看護を行った。 バートンは、一緒に働いている女性たちに、自分の人生で培った医療技術を教えることが出来ることに早くから気が付いた。 他の女性らと共に病気や負傷した兵士のために衣服、食糧、物資を個人的に提供した。 バートンは医療品の保管と配布方法を学び、気分を盛り上げるため、本を読んだり、彼らの家族への手紙を書いたり、話したりする等の精神的なフォローを行った。 そしてある日、軍から身分証明証を貰い、兵士の為の医療品を集め始めた。 陸軍省と従軍外科医の反対にもめげず、さらなる支援を得る前に自らの家の居間を倉庫にし、1862年初めに数人の友人の助けを借りて戦場へ直接物資を配給し始めた。 1862年8月、バートンは 需品係将校 ()ダニエル・ラッカー(Daniel Rucker)から、ようやく最前線で働く許可を得た。 そして、バートンはマサチューセッツ州上院議員をはじめとした、多くの後援者の信任を得た。 後、バートンはマサチューセッツ州の新聞に広告文を掲載した。 それは心からの物資が殺到する反響を呼んだ。 バートンは、、、など、いくつもの戦場で怪我をした兵士に付き添い、到着した物資の分配、野戦病院の清掃、包帯を巻く、食糧の提供などの作業をこなした。 バートンは南軍も北軍も関係なく助けた。 消耗品は必ずしも容易に入手できるわけでは無かった。 例えば、では、包帯の代わりにトウモロコシの皮を使用した。 1863年に、John J. Elwell大佐と恋愛関係になった。 1864年、将軍によって、の前線の病院の「女性責任者」に任命された。 死と隣り合わせの環境の中、バートンは外科医や後援者の支援を受けて、「アメリカン ナイチンゲール」、「Angel of the Battlefield(戦場の天使)」として有名になった。 南北戦争後 [編集 ] 南北戦争後、戦争省あてに行方不明の兵士の親類から問い合わせの手紙が届いており、その多くが無名兵士の墓に埋葬されてしまって答えられない事を知った。 この状況を打開しようと、バートンはリンカーン大統領に連絡を取り、「行方不明の兵士」の調査を行う許可を取得した。 バートンはワシントンD. に、「作戦行動中行方不明」か殺されて行方不明になった兵士たちの調査事務所を開設した。 バートンとアシスタントは、41,855件の質問に対する回答を書いて、22,000人以上の行方不明の人々を探し出した。 バートンは1865年の夏、アンダーソンビル刑務所収容所、ジョージア州南部の捕虜収容所で死亡した13,000人を見つけ、特定し、適切に埋葬できるようにした。 そして4年間にわたって仕事を続け、2万人以上の兵士を適切に名前を付けて墓地に埋葬した。 議会は最終的にバートンのプロジェクトに15,000ドルを割当てた。 アメリカ赤十字社 [編集 ] バートンは、1865—1868年の体験を元に全米で講演を開き、広く知られる存在となった。 そして、家のなど、色々な人たちと会い影響を受けた。 しかし、そういった活動の中で精神的にも肉体的にも疲労し、医者から現在の仕事を離れ休むように言われた。 バートンは1868年にMissing Soldiers Officeを閉鎖し、ヨーロッパに渡った。 1869年にスイスのジュネーブを訪れていた時、と、後にアメリカ赤十字設立の支援者となる Dr. アッピアを紹介された。 また、中立的な立場で自発的な救援を提供する国家団体の設立(各国家における赤十字設立)を呼びかけたの「」という本も勧められた。 1870年に、が始まり、バートンは従軍看護師として参加した。 バートンは軍事病院の準備を行うを補佐し、戦時中の赤十字社に多くの援助を行った。 ドイツ当局などの支援要請を受けて多くの活動を行った。 戦争後、バートンは金十字とプロイセン勲章を授与された。 アメリカに帰国後、1873年にアメリカに赤十字を設立する活動を開始した。 大統領との会談は失敗したものの、その後の大統領政権に、戦争だけでなく自然災害でも救助する組織の必要を訴えかけ、その説得に成功した。 1881年5月21日、ワシントンD. のI Streetアパートでアメリカ赤十字社の最初の公式会合が開催され、会長に就任した。 1882年8月22日に、ニューヨーク州リビングストン郡ダンスビルに最初の支部が設立された。 その後、アメリカでおこった災害や戦争に多くの貢献を行い、またトルコなどにも支部を開設し、1896年の春にアルメニア人虐殺への人道支援にバートン自身も同行した。 1898年にバートンはキューバの病院で働いていたが、すでに78歳であった。 1900年の災害後の救援活動が、アメリカ赤十字社会長としての最後の仕事であった。 1904年、公私混同の批判によって、83歳で米国赤十字社の会長辞任を強いられた。 バートンは理想主義的な人道主義ではなく、進歩的な時代の現実的な効率性を反映した全世代の科学的専門家の新世代によって辞任を余儀なくされた。 辞任後、バートンはNational First Aid Societyを設立した。 晩年 [編集 ] 1897年からメリーランド州グレン・エコーに住んでいた。 1907年に「The Story of My Childhood」を出版した。 1912年4月12日、自宅で死亡した。 死因は結核であった。 John J. Elwell大佐と恋愛関係になるなど、生涯を通して3度の告白を受けたが、結婚することは無かった。 史跡 [編集 ] Clara Barton National Historic Site 1975年、15年住んでいたメリーランド州グレン・エコーの家は、が管理している。 (アメリカ国立史跡)となっている。 内部は、アメリカ赤十字社の歴史等の展示が行われている。 Missing Soldiers Office バートンがヨーロッパに渡るときに閉鎖され、長らく所在が忘れ去られていたが、1997年に関連資料等がビルの屋根裏部屋から発見されたことで、所在が明らかになった。 このビルは取り壊しから救われ、2015年にNational Museum of Civil War Medicine(国立南北戦争医療博物館)となった。 クララ・バートンの名前が付いた物 [編集 ] アメリカでは、バートンの名前が付いた学校や道等が数多い。 少なくとも学校が21校、通りが9本存在している。 Clara Barton Award:アメリカ赤十字社の各部署のリーダーへ贈られる最高功労賞 著作物 [編集 ]• Barton, Clara H. The Red Cross-In Peace and War. Washington, D. : American Historical Press, 1898. Barton, Clara H. Story of the Red Cross-Glimpses of Field Work. New York: D. Appleton and Company, 1904. Barton, Clara H. The Story of My Childhood. Reprinted by Arno Press in 1980. 関連項目 [編集 ]• - 同時代・同世代の著名な看護師• - 赤十字社の創設者 出典 [編集 ]• Boyer, Paul 1971. Notable American Women 1607—1950: A Biographical Dictionary, Vol. Cambridge, MA: Belknap Pr.. 103—107. The Story of My Childhood New York: Arno Press Inc, 1980• Clara Barton: Professional Angel Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1987• Pryor, Elizabeth Brown 1988. Clara Barton: professional angel 1st pbk. print. Philadelphia: University of Pennsylvania. 978-0-8122-1273-0. Spiegel, Allen D. "The Role of Gender, Phrenology, Discrimination and Nervous Prostration in Clara Barton's Career". Journal of Community Health 20. 6 1995 : 501—526. Willard, Frances; A. Livermore, Mary 2005. Great American Women of the 19th Century: A Biographical Encyclopedia. Amherst, NY: Humanity Books. 81—82. Truth About Nursing. 2017年5月5日閲覧。 American Red Cross. 2016年12月9日閲覧。 Tsui, Bonnie 2006. She Went to the Field: Women Soldiers of the Civil War. Guilford: Two Dot. 110. 978-0-7627-4384-1. Oates, Stephen B. 1994. A Woman of Valor. Macmillan. 58—64, 67—77, 83—91, 106—120. 0-02-923405-0. Hall, Richard H. 2006. Women on the Civil War Battlefront. Lawrence: University Press of Kansas. 978-0-7006-1437-0. Oates, Stephen B. 1994. A Woman of Valor. Macmillan. 145—146, 148—157. 0-02-923405-0. "The Life and Work of Clara Barton". The North American Review 195. 678 1912 : 701—712. National Park Service. 2016年1月30日閲覧。 Peck, Garrett 2015. Walt Whitman in Washington, D. : The Civil War and America's Great Poet. Charleston, SC: The History Press. 76—79. 978-1-62619-973-6. 1つ以上の先述文章にはである次の文書本文が含まれている: Wilson, James Grant; Fiske, John, eds. 1900. New York: D. Appleton. Marks, Mary Jo. American Red Cross. 2014年5月21日閲覧。 239. 978-0-671-39530-8. David Henry Burton, Clara Barton: In the Service of Humanity Greenwood, 1995• National Museum of Civil War Medicine. 2015年9月23日閲覧。 Peck, Garrett 2015. Walt Whitman in Washington, D. : The Civil War and America's Great Poet. Charleston, SC: The History Press. 76—80. 978-1-62619-973-6. 参考文献• Ardalan, Christine. "Clara Barton's 1898 battles in Cuba: a reexamination of her nursing contributions. " Florida Atlantic Comparative Studies Journal 12. 1 2010. Barton, William E. The Life of Clara Barton Founder of the American Red Cross. 1922. Burton, David Henry. Clara Barton: in the service of humanity Greenwood, 1995 ; Major scholarly study• Crompton, Samuel Etinde. Clara Barton: Humanitarian. New York: Chelsea House, 2009. 978-1-60413-492-6. Deady, Kathleen W. Clara Barton. Mankato: Capstone Press, 2003. 0-7368-1604-6. Dulles Foster R. The American Red Cross: A History 1950• Henle, Ellen Langenheim. "Clara Barton, Soldier or Pacifist?. " Civil War History 24. 2 1978 : 152—160. Hutchinson, John F. Champions of Charity: War and the Rise of the Red Cross. Boulder: Westview Press, Inc. , 1996. 0-8133-2526-9. Jones, Marian Moser. The American Red Cross from Clara Barton to the New Deal. Baltimore: Johns Hopkins University Press, 2013. 978-1-4214-0738-8• Joyce, James Avery. Red Cross International and the Strategy of Peace. New York: Oceana Publications, Inc. , 1959. Oates, Stephen B. 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古代 最も初期の看護師と考えられているのは、シャーマンです。 古代社会において、病気は悪霊により引き起こされると広く信じられており、恐れられていました。 そのような病気に対し、呪術医としてシャーマンは頼られていました。 また、看護の発展には キリスト教の影響を抜きには語れません。 古代ローマ帝国において、 「自己犠牲により他社のために尽くす」というキリスト教の考え方は病人の看護が徳行になりました。 但し、この時代の資料において、「看護」という主題はまだ表れていません。 中世 宗教界において、看護師が現れます。 ヨーロッパ各地の大修道院では、聖職者が世間から隔絶した生活を営んでいました。 この営みの中で聖職を志す女性は、修道女になる過程で看護を学び、病院が作られるようになります。 生命を賭して危険を承知で戦場のの渦中に入り、負傷者や疫病の患者い寄り添う姿は、英雄視され、聖人と深いつながりがありました。 特に十字軍の戦い(11世紀〜13世紀)における 騎士修道会は最も英雄視されており、 当時は看護は男性が中心で、女性は男性の従属的存在でした。 近世 16世紀のヨーロッパの「宗教改革」以降、カトリック教国では新しい看護修道会が現れ、看護の気運が急速に拡大しました。 中でも17世紀のフランスで起こった 愛徳修道会は最も重要であり、看護に献身しました。 また、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルなどの海洋国家は世界各地に植民を広げ、カナダやアメリカなど各地に教化の一環として病院を建てました。 但し、この頃の看護の施術は師から弟子へ実体験として伝えられ、口伝えによる場当たり的な発達にならざるをえませんでした。 看護職の誕生(19世紀〜)とナイチンゲールの功績 改革と組織的拠点の誕生 19世紀初頭になるとプロテスタント諸国では病人の看護が見過ごされているとの認識が生まれ、改革の必要を訴える声が出てきます。 これらの声を裕福な博愛主義者や政治家たちがくみ取り、キリスト教の信仰と貧者を救済したいとの気持ちが大きく働き、改革が進みます。 プロテスタント諸国における初期の組織的な看護拠点は、ドイツと北欧諸国の修道女会が立ち上げました。 後、イギリスやアメリカでも同様の動きが加速します。 ナイチンゲールの活躍と功績 19世紀に入ると革命やナポレオン戦争が起こり、武器の改良も著しく、戦争は強力な破壊力を持つ武器により、多くの負傷者が出るようになります。 これらの負傷者を手当をしたのは、看護兵であり、軍隊に従う女性たちでした。 しかしながら、その実態としては、組織的な従軍看護からは程遠かったのです。 そのような状況の中、19世紀半ばのクリミア戦争におけるフローレンス・ナイチンゲール(1820年〜1910年)の活躍は、看護の進歩に画期的な影響力をもたらしました。 この戦争において、ナイチンゲール一行が派遣され、初めて 「看護教育を受けた看護師による看護」が行われることになったのです。 彼女は、高い教養と衛生についての知識、病気から健康回復に至るための方法、看護組織の管理の方法、誠実さと意志の強さ、決断力などの彼女の人格、それらすべてをかけて、敵味方の区別なく献身的な看護活動を行ったのです。 イギリスに帰国後は、クリミアでの活動が人々にみとめられ、ナイチンゲール基金が集まりました。 この基金をもとに、1860年には宗教と関係のない初めての看護学校として ナイチンゲール看護学校が設立されています。 ナイチンゲールは 「看護師は道徳的に優れているべき」と考え、 「教養ある淑女向きの職業である」と訴え、現在の看護師の礎を築いています。 ちなみに、アメリカの南北戦争(1861〜1865年)においても、数百名の看護修道女が重要な役割を果たし、さらに有志の看護団が設立されています。 ヨーロッパ諸国で「赤十字」の看護師は身近な存在となり、「赤十字」は看護教育を行うようになりました。 ちなみに、現在、赤十字の本部はスイスのジュネーブにあり、約90カ国で13,000人以上の職員が活動しています。 協会では、多数の国の看護師が協力することを決め、職業としての看護の発展に大きな影響を与えることになりました。 当時、まだ新しかった看護という職業は世界共通であると主張し、 資格認定制度の確立と高水準の看護教育を維持することを目的としています。 ちなみに資格認定制度は1901年に法制化したニュージーランドが初めての国であると言われています。 現在は、130か国以上が加盟するまでの組織となっています。 看護の発展に貢献して来た偉大なる先輩の方々です。 聖ファビオラ(〜399年) 信仰心の厚いファビオラは自分の財産で世界で初めてのキリスト教病院を設立し、病院や貧者を助け、看護活動の発展に貢献しました。 また、ベツヘレムのキリスト教の旅人宿泊所で看護し、イタリアに巡礼者向け宿泊所を作っています。 聖エリザベート(1207年〜1231年) ハンガリーの女王。 貴族という身分であるにもかかわらず、いくつも病院を建て、自らも病人の手当をして看護に従事しました。 夫の死去後、聖フランシスコ会に入会し修道女に。 マールブルクにフランシスコ会の病院を設立。 体が丈夫ではありませんでしたが、看護活動に貢献。 24歳の若さで没しました。 聖女として知られています。 聖カテリーナ(1347年〜1380年) イタリア・シエナの染物屋の25人兄妹の末っ子として生まれたカテリーナは、6歳の時に夢を見て一生を神にささげる決心をします。 10代の時にドミニコ会に入り、病人や貧者の看護に献身。 彼らの世話のため、家々や監獄へと出向きました。 カテリーナの看護で回復した人も大勢おり、多くの重病人を看護しても無事だったことから、超人的な力が有名になりました。 カルミス・デ・レリス(1550年〜1614年) ルネッサンス期の男性看護師として代表的な人物。 イタリア南部ブッキアーニコ生まれ。 若くしてベニス軍に入隊。 戦闘で負傷した傷の治療を受けたことが、看護の初めての出会いでした。 後に病院の職員となり院長までになります。 治癒の見込みのない負傷者や伝染病患者の看護を使命とし、「カミリアンズ」と呼ばれるように。 数多くの患者を死の淵から救う奇跡を行ったとして有名になり、死後の1746年に、サンピエトロ大聖堂の聖人の列に加えられています。 ルイーズ・ド・マリヤック(1591年〜1660年) フランスのカトリック教会の修道女。 聖ビンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会の共同創始者。 ルイーズは夫の死後、未亡人となり、病人の看護に身を投じることに。 1625年に司祭のヴァンサン・ド・ポールに出会い、1633年に2人は「愛徳婦人会」から与えられた基金を使い、「愛徳修道会」と名付けた看護師団体を設立。 ルイーズは貧しい田舎の女性達を自宅に集め、看護の仕方を指導。 教育の内容が向上し、この運動は急速に拡大しました。 1660年にルイーズが没した時は、フランスに40か所の看護所が出来ており、この看護活動はフランス各地に拡大し、病院、刑務所、孤児院などでも看護をしました。 エリザベス・フライ(1780年〜1845年) 看護の改革者の中で最も有名な1人。 1840年にイギリス初の看護学校を創立しました。 イングランドのノリッジの裕福な銀行家に家に生まれたフライは18歳の頃から近隣の貧しい人達の健康や福祉に強い関心を持つようになり、病人の世話や食料、衣服を持って行ったりするように。 結婚後、ロンドンに移った後、ニューゲート刑務所の女囚達の悲惨な状況を目の当たりにし、改革に奔走。 1823年にロバート・ビール内務大臣に司法制度改革を訴え、1840年には看護学校を設立し、看護教育に乗り出します。 これらの仕事はナイチンゲールに大きな影響を与え、1845年にナイチンゲールはフライが育てた看護師達と共にクリミアに赴くことにつながっていきます。 ドロシー・パティソン(1832年〜1878年) イングランド・ヨークシャー生まれの慈善家、看護婦。 シスター・ドラの愛称で知られています。 1864年にコーザムの「クライストチャーチ英国教会修道会」に入会。 1865年1月にウォールソールの医院に派遣されます。 独学で看護を学び、医院の看護師長になり、外科看護師としての優れた手腕と知識で有名になりました。 フローレンス・ナイチンゲール(1820年〜1910年) 「近代看護教育生みの親」といわれ、近代の最も有名な女性の一人でもあります。 ナイチンゲールは「看護師になりたい」と決意してから、現場に立つまでに15年かかったそうです。 そして、この15年間の間にナイチンゲールは多くの施設を見学し、統計学などを起用して学習し、独自の「看護観」を確立していきます。 クリミア戦争でのナイチンゲールの看護はその学習の結実であり、「クリミアの天使」とも呼ばれることになりました。 また、病院の改革、助産婦学校の創設をはじめ、公衆衛生看護事業にも影響を与えています。 著書 には、 「看護がなすべきこと、それは自然が患者に働きかけるに、最も良い状態に患者をおくことである」という記述があります。 メアリ・シーコール(1805年〜1881年) ジャマイカ・キングストン出身の看護師。 1854年末に第2次クリミア派遣イギリス看護団に応募したが不採用になり、「肌の色のため」だと考えたメアリは、個人で看護師兼女医としてクリミアに赴きます。 そこで、病舎を開設し、カリブ海地方の薬草で赤痢を治療しました。 ドロシア・ディックス(1802年〜1887年) アメリカ・メイン州ハンプデン生まれの社会活動家。 30代で精神病院の改革という重要な仕事に携わる。 今までしっかりとした精神病院の整備が行われていなかったアメリカにおいて、州議会やアメリカ合衆国議会への精力的なロビー活動により、本格的な精神病院を多数設立しました。 また、南北戦争の時には、陸軍看護師の監督官に就任。 負傷者には北軍も南軍も関係なく、等しい看護をするように一貫して主張し、名を揚げることとなりました。 ウォルト・ホイットマン(1819年〜1892年) アメリカ・ニューヨーク州ロングアイランドに生まれの詩人、随筆家、ジャーナリスト、ヒューマニスト。 「自由詩の父」とも呼ばれています。 南北戦争の時に、ワシントンの北軍の病院で看護志願者として勤務。 弟のジョージが負傷し、無事な姿を見て、看護師を志願し、陸軍主計管室の臨時職員の仕事で生計を立てます。 後に『戦争の思い出』を執筆。 恐ろしい戦争の傷跡と病気を目撃した体験を語りました。 クララ・バートン(1821年〜1912年) アメリカ合衆国 マサチューセッツ州 オックスフォード生まれの看護師。 アメリカ赤十字社の創立者として知られています。 教師だったバートンは南北戦争が始まると、看護師に志願。 看護師長となり、激戦地に従軍し、負傷者の手当を行います。 1862年8月、ブルランの戦いの直後は、手桶しかない状況でもう一人の看護師2名で、3,000人の負傷兵を手当て。 さらに同年9月にはアンティータイムの戦いに赴き、外科手術を手伝います。 これらの活躍により、バートンは「戦場の天使」として知られるようになりました。 1870年にバートンは普仏戦争の戦場に赴き、ヨーロッパ滞在中に「国際赤十字委員会」の役割を知ることに。 帰国後、1881年に赤十字アメリカ支部を創設して、初代総裁を務めました。 ジェーン・ディラーノ(1862年〜1919年) アメリカ合衆国 ニューヨーク州 モンツアー・フォールズ生まれの看護師。 アメリカ看護界の大物であり、アメリカの看護の発展に尽くした人物です。 1886年に看護資格を取り、ペンシルバニア大学病院の病院管理長を務めた後、アメリカ赤十字協会の会長、アメリカ看護師連盟の会長を歴任。 第1次世界大戦中に陸軍看護団とアメリカ赤十字看護社が緊密に連携して活動出来たのは、ディラーノの功績とされています。 ご利用者満足度96. 3%を記録 ・ 全国にオフィス展開し、エリア毎にほぼ全ての求人を網羅 ・地方在住や多忙な方に、 電話やメールでの求人紹介も対応 ・数量限定の 「看護師転職無料サポートブック」を贈呈.

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クララ

クララ バートン

2018年 6月21日(木) から7年2ヶ月。 から2年。 から23年。 や福島沖など災害を忘れずに祈ります。 『使命に根ざした努力。 』 の時 (~1865年) に、女性が 戦場に足を踏み入れる事はタブーとされていた。 それを打ち破ったのが【クララ・バートン】 (1821年~1912年) が始まってから、クララ・バートンは 怪我をした兵士たちを心配し続けた。 なぜなら 戦闘の最中に負傷したとしても、負傷者は 戦闘が終わってから、運ばれてくる。 そして、戦線の場所から遠く離れた病院に 運び込まれていく。 この頃の交通は、荷馬車。 負傷しても生きている兵士たちが、荷馬車に 揺られていくと、まだ治療も包帯も巻かれていない 傷口がさらに大きく開き、大量の出血によって 命を落とす事が多かった。 心を痛めたクララ・バートンは、戦場に行って 兵士を助けようと動いた! 荷車を調達して、薬と救急用品を備え付け 将軍に許可を得るために、会いにいく。 将軍は 「女性のあなたには、無理です。 荒々しい戦場には、か弱い女性が 出向くものではありません。 」 「いいえ、私には出来ます! 荷車は私が運転しますし、負傷兵士の 手当は私がするのですから。 」 そう言って、彼女は負傷兵士を効率よく 救う計画を将軍に熱く語った。 この話し合いは、何度も行われた。 ついに 将軍は彼女の熱心さに根負けした。 そして、戦線を通れる【通行書】を渡した。 の期間、クララ・バートンは、 休むことなく働いた。 軍隊の兵士たちは皆、親愛の想いを込めて、 彼女に感謝した。 クララ・バートンの働きが政府の耳にも入り 荷車と荷車を運転する男性と、多くの医薬品が 提供されるようになった。 やっと、がしたが、クララ・バートンは 休むどころか、兵士となった夫や兄、またはの 安否を調べだした。 家で心配して待っている家族に情報を届ける その仕事を初め、その後も長い間続けた。 なぜなら 戦場にいたクララ・バートンは、戦争が兵士と 家族にどんな影響を与えるか知っていた。 を創設し、1901年に「第1回」を受賞。 のマークの色はスイスの国旗の色を逆にしたもの。 彼の誕生日である5月8日は「世界デー」となる。 戦争の時の兵士を救う計画を具体的に立てている事を 知ると、スイスまで足を運ぶ。 デュナンはという組織を作った。 この組織で働く人は、白地に赤い十字の印を つけて誰がみても、と分かるように。 そして、国籍や民族、宗教に関係がなく 全ての兵士たちを助ける働きが出来るようにと 戦場に入る事が許されていた。 デュナンに感銘を受けたクララ・バートンは アメリカに戻ると、政府を説得した。 「に22の国が加盟しています。 アメリカも国として、戦争時の兵士たちを 助けるために、金銭と援助の品を提供している 国際に加盟すべきです。 このとき、もう一つの案を付け加えた。 【米国修正案】と呼ばれるが 「人類に降りかかる災難は、戦争以外にも ・洪水・竜巻・山火事・疫病など沢山ある。 これらは、人々の命を奪い、家を奪い、怪我をし 飢えに苦しむ事になる。 は、災害がどこで発生したとしても 犠牲者に救いの手を差し伸べるべきだ。 現在、国際は世界中の多くの人達に援助の 手を差し伸べている。 戦争だけでなく、広い範囲で、働きがなされて いるのは、クララ・バートンが付け加えた案が 生かされた結果である。 「イジメや苦しい事に めげないで 自分の力を善き事に 最大限努力して生かす時 不思議とさらに善い道が 拓かれていく (by happy-ok3)」 クララ・バートンの時代は、仕事においては 男性優位の時代。 1852年には、で初めての を開き、成功し立派な学校を 建設した。 それなのに 建設後、が、女性は校長に 相応しくないという理由から、男性に譲る事に。 また、には米国の書記官として 仕事を始めたが、仕事中の3年間も男性職員から 多くのイジメと中傷を受けた。 その後には、官庁で働く女性に対する反対がおき、 解雇されてしまう・・・。 辛かったと思うが、めげずに今度は戦場の 兵士たちに援助を始めたのだ。 私たちも辛い事や悔しい事は、あると思う。 でも【めげないで】さらに善い・良い道が あると信じて、前に進めたら幸い! 才能と使命が生かされる道は 努力と忍耐とともに、必ず拓かれる。 お誕生日がいつの日であれ、今生かされていることが、 誕生の時間からの、私たちへの素晴らしい 贈りものだと思います。 大切なあなたが今日も 幸せで笑顔でいてほしい。 あなたは素晴らしい人なのだから! あなたは大切な人!だから。 ETM=Education Through Music 歌で楽しく遊びながら、個性や自立心、協調性や想像力、 等を育てる全人教育です。 ごめんなさい。 への励ましを感謝します。 夜中や明け方に、揺れが来ることがあり よく眠れない事があります。 早くおさまってほしいです。 皆様も、気を付けてくださいませ。 なかよし~。 なかよし~。 みんな、今日も素敵な笑顔をありがとう! いつも、皆様からの励ましを心から感謝します。 ぽちっ!と押して頂けたら嬉しいです。 アーカイブ•

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