Contents• 高杉晋作とは? 高杉晋作という人は、長州だけでなく、 日本のヒーローとでもいうくらいの人物です。 「彼がいなかったら、討幕も、明治維新ももっと遅れただろう」なんて言う人もいます。 では、まずはそんな彼の生い立ちから見ていくことにしましょう。 生まれはお坊ちゃま 高杉晋作は1839年(天保10年)、今の山口県萩市に生まれました。 父親は長州藩士で、家禄が200石の高杉小忠太といいました。 家禄200石というのは、当時としては裕福な家庭です。 小忠太の子どもは、晋作を入れて4人いましたが、晋作以外はみんな女の子でした。 そこで晋作は大事な大事な嫡男として、悪く言えばわがまま、よく言えばのびのびと育てられました。 その影響なのか、彼はこうと決めたら、 おとな相手でも一歩も引かないやんちゃな子どもだったといいます。 でもこの性質が、のちの彼の活躍に生きてくるんですけどね。 また、彼は10歳の頃、疱瘡(ほうそう)にかかり失明の危機に陥ったことがあります。 疱瘡といえば、当時では死亡率の高い病気でした。 しかし、奇跡的に彼の視力は回復して治癒に至りました。 この時は、運命が手助けしたのかもしれませんね。 その後、武士の子の彼は、僕塾に通うようになりますが、 これが落第ばかり。 利発な彼にとって、 型にはまった塾の教えはつまらないものだったのです。 そんな型破りな気質をその頃から持っていたのでしょう。 しかしやがて彼は、彼の心が満足できる塾に出会うことになります。 吉田松陰の影響 その塾こそ、 吉田松陰を塾長とする「松下村塾(しょうかそんじゅく)」でした。 彼は、松陰の思想や教えをどんどん吸収していきました。 松陰の教えは、 実行を重んじること。 それから、 良い仲間を持つことでした。 松下村塾では、向上心のあるものは、身分に関係なく学ぶことができました。 そこで、高杉は自分より身分の低い者たちとも、親交を深めることができたのです。 たとえば彼はここで、 久坂玄瑞や 伊藤博文、 山縣有朋といった人物と出会っているのです。 これらの人物は、身分の低い武士だったのですね。 高杉がお坊ちゃまのまま、 言われた通りの塾で学んでいたら、この出会いはなかったでしょう。 でも、やはり一番影響を受けたのは松陰からです。 また、松陰の方も高杉の才能に注目していました。 松陰は、 高杉の前でわざと久坂玄瑞を褒めるなどして、高杉と久坂を競い合わせることもありました。 こうして高杉と久坂はお互いを磨き合い、二人は 「松下村塾の双璧」と言われるほどにもなったのでした。 やがて松陰は、幕府に反抗したかどで、安政の大獄の犠牲者となりました。 高杉はこの時、江戸での牢獄の松陰の世話を買って出ています。 きっと許されて出獄できる時が来ると信じていたのでしょう。 しかし、彼が父親に呼び戻されて長州に帰っている間に、松陰は処刑されてしまいました。 彼の父親は、松陰の近くにいると息子に危険が及ぶと考えたのかもしれません。 でも、高杉の悲しみと憤りは大変なものでした。 攘夷を決定づけた旅 その後、彼は藩の命を受けて海軍の学校に入ります。 しかし、向学心はあったものの、自分の思うものと違うと感じた彼は無断でその学校をやめてしまいました。 その後高杉は、一人旅にプイっと出てしまったのです。 しかし、彼はこの旅 で佐久間象山(さくましょうざん)などの名士たちと出逢い、自分を磨いたのでした。 さらに高杉は1862年(文久2年)に藩の命令を受けて、夢であった海外視察に出かけています。 その行き先は上海。 ここで彼は、 西欧の強国から奴隷のような扱いを受けている上海の実情を目の当たりにしました。 「中国がこれでは、日本もいずれ西欧の植民地になってしまうに違いない」 「今の幕府の政治では、海外からの脅威に立ち向かうことはできないだろう」 そう思った高杉は、 日本の将来に強い危機感を抱きました。 こうして、彼は松陰の意思を継ぎ、尊王攘夷運動を大きく展開していく事になります。 攘夷運動開始 当時の日本では 「外国とは交易で日本の力を示そう、そのために朝廷と幕府は力を合わせるべき」という公武合体派と 「外国は武力で徹底排除。 そのためには天皇を頂点にした政治をおこなうべき」という尊王攘夷派 このふたつの大きな意見がぶつかっていました。 そんな中、尊王攘夷派の薩摩では、外国人を斬り殺すという 「生麦事件」も発生。 攘夷派の高杉も、薩摩に遅れるなとばかりに、藩には内緒で仲間たちと外国人暗殺を企てました。 しかし、この計画は話が漏れてしまい、断念。 それでも、収まりがつかない高杉たちは、イギリス公使館に放火するという暴挙に出ました。 これはどう見てもテロ行為ですよね。 実はこの仲間には、初代総理大臣となった伊藤博文も加わっていたのです。 みんな若く、エネルギーが有り余っていたのでしょう。 しかし、高杉のふるさとである長州でも、攘夷の風は吹いていました。 海の近い長州です。 イギリス船が通るたびに、岸から攻撃を仕掛けていたのです。 こんなことが続けば、イギリスも黙ってはいません。 手加減なく、 報復の攻撃が始まりました。 軍事力は圧倒的な差があります。 長州はイギリス軍の猛攻に惨敗する事になりました。 この事が結局、 長州が幕府に目をつけられるようになったきっかけになったのでしょう。 奇兵隊創設への道 そこで、長州藩は沿岸防衛のための相談を、海外視察経験のある高杉にしました。 実は彼は、当てにならない長州藩の軍隊とは別の軍隊を組織しようと考えていました。 それが 「奇兵隊」です。 奇兵隊は、 武士だけではなく、自国を守りたいと思うものなら、農夫でも商人でも職業に拘らず参加できる施設軍隊でした。 これは、松下村塾と同じ考え方ですね。 そうして作られたこの奇兵隊を、 長州沿岸を守るために投入。 彼らは戦果をあげることができ、藩からの信用も得ることができました。 しかし、奇兵隊でも問題がおこります。 「農民が武器を持つなんておもしろくない」 そういった武士と農民が衝突して、殺傷事件が起きてしまったのです。 そこで、責任を取らされた高杉は、ここで 奇兵隊の任を解かれることになってしまいました。 同じころ、攘夷運動をしていた長州の志士たちが、京都で幕府軍と衝突。 1864年(元治元年)に 「禁門の変」がおき、長州藩は幕府からさらに敵視されることになりました。 その上、長州沿岸にはさらに、 イギリス、フランス、オランダ、アメリカの四国連合艦隊が攻めてきたのです。 幕府からも敵視され、奇兵隊も内部分裂で、長州軍はとても応戦ができません。 そこで、長州藩はまた、高杉に相談することにしたのです。 藩も、 本当は彼の能力をちゃんと知っていたのですね。 藩の信用の通り、ここで 高杉は外国勢との交渉で、日本を有利に運ぶことに成功しています。 ただ、この交渉で日本は領土を取られることは避けられましたが、 幕府は外国に賠償金を払わなければなりませんでした。 しかし、こうした発端は長州にあるものと、幕府はますます長州を敵視。 ついに長州を殲滅しようと考えたのです。 倒幕への道 その頃、幕府から敵視された長州藩は「幕府に謝るべきだ」という保守派に傾いていました。 そこでこの保守派は、長州藩は幹部3人を切腹させることで幕府に詫びを入れたのです。 しかし高杉は、このままではいずれ長州は幕府に潰されると思います。 そこで、まず長州藩内の保守派を撃つことを決意。 有志を募り、保守派打倒に向かったのです。 でも、もうその頃は奇兵隊もすでに保守派寄りのトップの手に渡っていました。 それでも、高杉は奇兵隊の挙兵を呼びかけたのです。 しかし、トップの反対を押し切り高杉に加勢する兵は出てきません。 そこで彼は、 国を回り攘夷派の志士たちを集めようとしました。 けれど、高杉の挙兵の呼びかけに答えて集まったのは 100人にも満たない数。 それに対して長州藩の保守派は2000。 さらにその後には150万もの幕府軍も控えています。 それでも彼はそのまま挙兵を進めました。 高杉は、 憂国の想いの強さは自分たちの方が勝っていると思っていました。 その思いがあれば、打ち勝つことができると信じていたのです。 その彼の強い意思が、奇兵隊や志士に伝播したのでしょう。 初めは動かなかった奇兵隊の兵士が、高杉の行軍に加わるようになりました。 いつの間にか高杉軍は、奇兵隊を始め3000もの人数に増えていました。 その数は、藩の中心まで進軍する間にもどんどん増していったのです。 さらに、保守派の長州軍は奇兵隊に防衛を任せていたため、武器も技術も奇兵隊には敵いません。 そんなことから、長州藩の正規軍は高杉軍にかなわなかったのです。 こうして、高杉軍は保守派の抵抗をうち破り、長州藩の保守派を倒しました。 ここから 長州藩は攘夷派が政権を握り、今度は打倒幕府をめざしていくのでした。 しかし、今度はこの事を知った幕府が危機感を強めます。 そこで、いよいよ幕府が本気になって長州を殲滅しようと軍を立ててきました。 この時は海から軍艦で攻めて来た幕府でしたが、ここでも の奇襲作戦で打ち破られてしまいます。 彼は闇夜に紛れて、海にいる大きな幕府軍の軍艦に小舟で近づき、接近戦で攻撃したのです。 この奇襲が大成功。 幕府軍の姿勢は乱れ、大敗するということになりました。 これは、幕府軍の力もすでに衰えていたことの現れだったのかもしれません。 しかし、 高杉の活躍はこれが最後でした。 彼の体は病魔に侵されつつあったのです。 そして1868年(慶応4年)明治維新を目の前に、高杉晋作は27歳の若さでこの世を去りました。 なんだか、疾風のように幕末を駆け抜けて行ったような生き様ですね。 まるで生き急いだような、彼の純粋な憂国の気持ちは、彼の名言からも見て取れます。 次は、そんな彼の心がにじみ出ている名言をご紹介していきましょう。 おすすめ記事• 高杉晋作の名言20選 【1】「聞いて恐ろし見ていやらしい、添うてうれしい奇兵隊」 「奇兵隊」は正規の部隊でないために、さまざまな身分人がいました。 それで、初めは奇兵隊のことを怪しく見る人もいたのです。 そんな時に高杉は 「奇兵隊は見た目は怪しいかもしれないが、実際には頼もしい存在なのだ」 と言ったのですね。 【2】「真があるなら今月今宵、あけて正月、誰も来る」 これは、彼が長州征伐に立ち向かう時に 「本当に長州のことを想うなら、みんなで集まってくれ」 と、民衆に呼び掛けるために作った句です。 この高杉の働きかけがなかったら、長州は滅亡していたかもしれません。 【3】「これよりは、長州男児の肝っ玉をお見せする」 こちらも長州征伐に立ち向かう時に、彼が叫んだ言葉と言われています。 多勢に無勢でも、こうして立ち上がった高杉に多くの人が心を動かされたのですね。 【4】「真の楽しみは苦しみの中にこそある」 この言葉からは、前向きな高杉の姿勢がよくわかりますよね。 苦労して準備をしたものは、たとえ評価が低くても満足できるものです。 また、彼は素晴らしい日本の未来を想って、そこにある苦難を乗り越えていたのでしょう。 【5】「過ちを改めれば、それは過ちではないのだ」 人間なら誰でも失敗があるものです。 それを改めることができる人が、成長できるのでしょう。 失敗から学んで成長することができれば、それはもう過ちは過ちでなくなるということですね。 【6】「おもしろきこともなき世をおもしろく」 もし、この世が退屈と思っているなら、自分から面白くしてみようじゃないか! 高杉が、僕たちに投げかけている言葉なのかもしれませんね。 今のあなたは退屈ですか? 【7】「苦しいという言葉だけはどんなことがあっても言わないでおこうじゃないか」 そうなんです。 「苦しい」とか「悲しい」というマイナスな言葉は、 人の力を奪うんですよね。 彼は経験から、そのことをよく知っていたのだと思います。 【8】「後れても 後れてもまた 後れても 誓ひしことを豈(われ)忘れめや」 仲間が、次々とこの世を去ってしまった時の彼の胸の内を現しています。 「仲間に後れをとっているけれど、誓った志は忘れてはいないからな」 そんな気持ちが伝わってくる句です。 【9】「苦労する身は厭わねど、苦労し甲斐のあるように」 「苦労は買ってでもせよ」なんて言葉もあります。 でも、買っただけのメリットがなければいけませんよね。 それをめざしてがんばろう、と高杉は言っています。 【10】「心すでに感ずれば、すなわち、口に発して声となる」 「本当に感動したことは、自然に自分の言葉として表されるものだ」 と、彼は言いました。 しかし、この「自分の言葉」とは、行動と言い換えることができそうです。 感化を受けたなら、行動しよう! とも受け取れる、ということですね。 【11】「人間というのは困難は共にできる。 しかし富貴は共にできない」 人は困難の中にあっては助け合うことができます。 しかし、富や権力の話になると、助け合いができなくなってしまいます。 それは現代で問題になっている「格差」を考えたら理解しやすいのではないでしょうか。 また、権力の座に就いたら人が変わってしまう…なんてこともめずらしくありませんよね。 彼はそれをよくわかっていたようです。 【12】「天地も人も皆気のみである。 気を養えば、人間あとは行動に移すのみだ」 「思いがあるなら、行動するべきだ」と言っているように感じます。 人の行動を決めるのは、強い思いです。 「どうしよう。 どうしよう」と考えがちな時は思い出したい言葉ですね。 【13】「天賦のかんによって、その場その場で絵をかいてゆけばよい」 「時代の変化をよく読んで、臨機応変に生きていけ」。 ということですね。 のんびりとした表現にみえますが、目まぐるしく変わる現代にぴったりの言葉に思えます。 【14】「負けて退く人をよわしと思うなよ。 知恵の力の強きゆえなり」 負けた人=弱い人、というわけではない。 彼はそう言っています。 知恵のある人だからこそ、退く時進む時を知っているのですね。 「負けるが勝ち」とも言います。 その通り、彼も人生の中で何度も逃げたりしています。 【15】「翼あらば 千里の外も飛めぐり よろづの国を 見んとしぞおもふ」 外国の脅威を感じつつも、そんな外国に興味がいっぱいあった高杉の言葉です。 松陰から、 情報収集の大切さを学んでいた彼は、特にその目で外国を見分したかったのでしょう。 【16】「攘夷の策をなさずんば、ついに支那の覆轍(ふくてつ、失敗の前例という意味)を踏むも計りがたし」 攘夷をしなければ、日本も中国のように他国の植民地になる。 高杉は、上海での様子を見て、こう記しました。 とても危機感を募らせていますね。 【17】「人間窮地に陥るのは良い、意外な方角に活路が見いだせるからだ」 まさに「背水の陣」のことを言っていますね。 また 「ピンチはチャンス」ともいいます。 【18】「生きるか死ぬかは時機に任せよう。 世の人が何と言おうと、そんなことは問題ではないのだ」 高杉はかつて、松陰に 「人はいつ死んだらいいのか」と聞いています。 その時、松陰は 「自分が生きていたいと思ったら生きていればいい、死んでもいいと思った時に死ねばいい」と言ったといいます。 それが、この言葉になって 「自分の生死は周りにとやかく言われるものではない」 となったのですね。 【19】「三千世界の鴉を殺し ぬしと朝寝をしてみたい」 これは、朝からうるさく鳴くカラスをやっつけて、君といつまでも眠っていたい。 そういう甘い歌ですね。 でも、憂国の志士であった高杉にとって、このカラスは攘夷を邪魔する勢力や攻撃を仕掛けてくる外国の力のことだったかもしれません。 そういうもののことを忘れて、ぐっすり休みたいという気持ちもわかる気がします。 【20】「ここまでやったのだから、後はしっかりやってくれろ」 高杉の遺言とも言える言葉です。 まさに、 「できる限りのことはしたのだ」…という気持ちがにじみ出ているようです。 そして、後に続くものに託す。 死ぬには若すぎる高杉でしたが、達観していたようすが涙を誘います。 高杉の生い立ちと名言からは、いかにも憂国の志士という感じを受けますね。 しかし、彼はそれだけの人ではありませんでした。 浮気もすれば、歌も愛する一人の青年だったのです。 ここからは、そんな人間味あふれる高杉晋作の一面を、逸話でご紹介します。 おすすめ記事• 高杉晋作のエピソード これを知ったらきっと、彼のことが身近に感じられるようになるでしょう。 妻と愛人の間で 高杉晋作は、松陰がなくなった後に、父に言われて結婚をしています。 それは父親の、松陰の死で、彼がやけっぱちにならないようにとの配慮からでした。 妻は雅子という、たいそうなべっぴんさんだったといいます。 ところがそんな美しい妻、しかも子どももいながら高杉は、愛人を作ってしまったのです。 それは、おうのという芸妓さんでした。 彼は、妻と子どもを置いて、九州でおうのとふたりの生活を始めます。 攘夷運動中も療養中も、彼はおうのとの生活を軸にしていたそうです。 結婚は、父親からの命令だからとは言え、今だったら、女性から総スカンされそうなことをしていたのです。 それでも、ヒーローになるのですから、これも時代なんですね。 しかし、高杉の亡きあと、 おうのさんと雅子さんには交流もあったとのこと。 女性は強いものです。 勝手に公金 これはお坊ちゃま気質が残っていた彼ならではの行為だったのかもしれません。 高杉は、ある時船に興味を持ち、軍艦を買いました。 実はこの時彼は、長州藩に相談することもなく、 藩のツケで買ったのです。 藩のお金は公金ですよね。 でも 藩は、高杉を咎めることなく支払ったといますから、 彼は藩の信頼がよほど厚かったのでしょう。 また、この時の軍艦はのちに幕府との戦で活躍することになります。 いわゆる結果オーライだったわけですね。 しかし、彼の勝手な公金使いはこれだけに留まりませんでした。 高杉の上海行きは、藩からの命令でしたので視察費用は公金でした。 ところが彼は、 上海に行く前にこの公金を豪遊で散財してしまったのです。 今なら、公金横領でただでは済みません。 その交渉で、連合軍は日本の領土を求めました。 そんなことはできない高杉は、いきなり古事記を暗唱しはじめたのです。 日本の国がどうやってできてきたのかを朗々と謳いあげました。 それは長い長い話だったので、とうとう連合軍は領土を諦めたといいます。 この時、通訳したのはあの伊藤博文だったといいます。 古事記を英訳するのは骨が折れたことでしょうね。 坂本龍馬を救ったピストル 幕末と言えば 坂本龍馬を連想する人も多いと思います。 同じ頃を生きた高杉と坂本もまた、接点がありました。 薩摩と長州を飛び回る坂本を見て、高杉は心配になったのかもしれません。 ある時、上海で買い付けたピストルを坂本龍馬にプレゼントしました。 でも、これを携帯していたおかげで、彼は「寺田屋」で襲撃された時命拾いをしたのです。 ただ、その時にピストルはそこで紛失したので、次の「近江屋」では暗殺されてしまったのですね。 処刑場でお弁当 高杉の幼い頃は、武士の子の肝試しとして「子どもに罪人の処刑を見せる」ということが行われていたそうです。 他の子は、この現場に恐れをなしていました。 それはそうですよね。 おとなでも実際の処刑現場なんて正視できないでしょう。 ところが、高杉少年は恐れるどころか、 平気で処刑場を見ながらお弁当を食べていたといいます。 肝が据わっているのは、生まれつきだったようですね。 高杉晋作は三味線が好き 才能あふれる人は、音楽の素養もあることが多いものです。 高杉もその一人でした。 彼は三味線が好きで、歌もたくさん作っています。 名言でもご紹介しましたね。 彼は芸者遊びも好きでしたので、「彼女らに教わったのではないか」ともいわれています。 また、「戦場でも三味線を持って行った」などの話もありますが、真偽のほどはわかりません。 でも、 音楽を愛する心もあった高杉は、幕末でなければ文化人として名をあげたかもしれませんね。 そんな人間味のある彼も若くして逝ってしまったのです。 でも彼の死は、暗殺でも自害でもありませんでした。 先にも触れたように、彼の命を奪ったのは病気でした。 それはどんな病気だったのか、その時彼はどのような最期だったのか。 次はそれをご紹介しておきますね。 おすすめ記事• 高杉晋作の死因 高杉が侵された病。 それは 肺結核でした。 当時の日本では結核は不治の病。 罹ったらまず命はありませんでした。 そんな病気が彼を標的にしたのです。 病気の気配は、保守派との闘いの頃からありました。 しかし、高杉は精神力でその場をしのいでいたのでしょう。 戦いの勝利を知ってホッとしたのも束の間、彼は喀血します。 病魔は気が緩んだその時を狙っていたのですね。 彼の体はみるみる弱っていきました。 この時、実は彼は 高杉家から絶縁されていました。 父親は長州藩の役人です。 その嫡男が長州に刃を向けていたのですから、そのままでいれば高杉家はお取りつぶしになってしまいます。 そこで父親は、涙を飲んで息子を高杉家から追放したのです。 しかし、それは書類上だけのこと、可愛い息子には変わりありません。 高杉の臨終の際には、床の傍についていました。 そうして、長州の勝利から半年余りで高杉晋作は、父親をはじめ家族に看取られて息を引き取りました。 享年27歳。 時は1867年(慶応3年)、明治維新はすぐそこでした。 さいごに さて、高杉晋作の生涯がよくお判りいただけたでしょうか。 お坊ちゃまではありましたが、 攘夷と長州のために命を燃やした人生でした。 彼がここまで攘夷に突き進んだのは、いうまでもなく、 吉田松陰の影響です。 松陰が志士らに教えたのは 情報収集の大切さと行動をおこすことの大切さといわれています。 高杉には、その思想が体に染み渡るように感じたことでしょう。 しかし、その松陰の無念の死で、高杉のその攘夷思想は沸騰したのですね。 また、上海視察で彼は、 日本の未来を見たような気がしました。 それを払しょくするべくおこした 攘夷運動。 さらに長州を守るべく作り上げた 奇兵隊。 こうして高杉は松陰の教え通り、 行動する志士になっていったのです。 また、数の少ない兵力で戦おうとしたのも、単なるやけくそな考えではありません。 日頃から情報を入手して、民衆の意思を知っていたからこその挙兵だったともいえるのです。 まさに、肝心なのは情報と行動。 これを操ってこその成功だったのですね。 高杉晋作のこの策略、僕たちの毎日に応用していきたいものですね。
次の高杉晋作(たかすぎしんさく)天保10年(1839年9月27日)-慶応3年(1867年5月17日)は、江戸末期の激動の時代を生きた、現在の山口県にあたる長州藩出身の志士です。 尊王攘夷の志士として活躍しましたが、のちに長州藩を討幕に傾けたキーマンとなります。 通称は「晋作」と言われていますが、本名は「春風(はるかぜ)」と言います。 高杉家は、戦国時代から代々毛利家に仕えてきた名門で、晋作は武家に生まれた誇りを持って育ちます。 高杉晋作 生涯の師とあおぐ吉田松陰が主宰する「松下村塾」では、「松下村塾四天王」の一人として将来を有望視されますが、過激な尊王攘夷運動を藩から注意され、自ら僧侶となり寺にこもってしまいます。 しかし、下関戦争で藩が危機に陥り、晋作は藩から下関の防衛を任ぜられ、「奇兵隊」を結成するのです。 しかし、長州藩正規部隊との衝突をきっかけに奇兵隊を離れ、脱藩。 謹慎処分を受けますが、幕府と長州の対立が激化すると奇兵隊を率いて参戦し、藩を討幕へと統一します。 そして討幕から大政奉還へと時代は動いていきますが、新しい時代を見ることなく、肺結核で倒れ、生涯を閉じます。 本名「春風」のごとく、時代の変わり目を告げる風のように過ぎ去った短い人生でしたが、250年以上続く幕府の権威を落とし、新しい時代の扉を開くきっかけを作った一人だと言えるでしょう。 高杉晋作とはどんな人物か? 名前 高杉晋作 本名 春風 誕生日 1839年9月27日 生地 長州藩(山口県) 没日 1867年5月17日(27歳) 没地 下関市桜山 配偶者 高杉雅 埋葬場所 山口県下関市吉田 東行庵 高杉晋作の生まれ は? 出身地萩市に佇む高杉晋作の立像 高杉晋作は、1839年9月27日に長州藩士である高杉家の長男として生まれました。 高杉家の男子は晋作だけで、下に3人の妹がいます。 名門武家の高杉家の跡取りとして大事に育てられた晋作は、自分の家柄に高い誇りを持って育ち、8歳になると、萩でも評判の寺子屋へ入塾し、ここで、将来同士となる久坂玄端と出会います。 秀才だった玄端とは違い、晋作は勉強があまり好きではなく、剣術ばかりに打ち込んでいたようです。 高杉晋作が影響を受けた人物は? 吉田松陰 高杉晋作が19歳の時、久坂玄端に誘われて、吉田松陰が主宰する「松下村塾」に入塾します。 入塾した際に提出した自信作の詩を、松陰から「久坂玄端よりは劣る」と評価されたことが負けず嫌いの晋作にとってはひどく悔しかったようで、その後は一心不乱に勉学に励みます。 この塾では、学んだことを実行に移すことと、将来の日本にどう生かすか…といった吉田松陰の熱い思いを学びます。 この吉田松陰との出会いが大きな影響を与え、のちに長州藩を代表する志士として幕府と戦うまでに成長していくのです。 高杉晋作の性格は? 激しい性格だった様子 高杉晋作は、名門の武家に生まれました。 今で言うなれば、良家のエリートのようなものです。 家柄を誇りに思う晋作は、子供の頃から正義感とプライドが高かったようです。 また、同じ松下丸塾の塾生だった伊藤博文が晋作のことを次のように語っています。 「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。 衆目駭然(がいぜん)、あえて正視するなし」 動けば雷電のようで、風雨のように言葉を発し、まわりは驚くばかりで、誰も正視すらしない…。 晋作のことを、破天荒な異端児とよく表現されますが、身近な人をも驚かせるほど突拍子もない行動力があったのかもしれませんね。 高杉晋作の名言・辞世の句は? 高杉晋作の名言 「苦しいという言葉だけは どんなことがあっても 言わないでおこうじゃないか」 「先が短いなら短いなりに 僕は面白う生きたい。 派手な打ち上げ花火を打ち上げて、 消えていく… それが高杉晋作の生き方ですき」 「同志と共に国を作ろうとしている。 曲がった国が 真っ直ぐになるのはいつか分からない。 その苦労は死んでからじっくりと味わおう」 「シャクトリムシのように身を屈するのも、 いずれは龍のように伸びるためだ。 そのためには、 奴隷になっても、 下僕になっても構わない。 」 高杉晋作の辞世の句 おもしろきこともなき世をおもしろく 高杉晋作にまつわる都市伝説・武勇伝 都市伝説・武勇伝1「14億円もの船を独断で買ってしまう」 軍艦を許可なく購入 第二次長州征伐の時、晋作は長州藩の海軍総督として軍艦「丙寅丸(へいいんまる)」で藩を率いていました。 この船で、夜中に奇襲攻撃をしかけ、東洋一と名高い幕府艦隊を見事打ち破ります。 このときの軍艦「丙寅丸」は、3万6千両だったそうで、今の金額で換算すると、なんと14億円にもなるのです。 この船を、晋作は藩に相談もせず、藩の後払いにして独断で買ったと言われています。 あとからきた請求書を見て、長州藩は絶句したでしょうね…。 ちなみに、この「丙寅丸」は、明治に入ったあとは「ヲテント丸」と名前を変えて、定期客船として活躍したそうです。 都市伝説・武勇伝2「子供の頃、大人の武士を土下座させた」 子供の時から気高い一面が 高杉晋作は、名門の武家に生まれた、いわば良家のボンボンでした。 家柄を誇りに思っており、また負けず嫌いな性格だったようです。 晋作が子供の頃、遊んでいた凧が地面に落ち、それを偶然通った大人の武士が踏みつけ、そのまま立ち去ろうとしました。 晋作はそれを見てひどく腹を立てて、武士を呼び止めます。 「謝りもせず立ち去るとは何事か!」といった感じでしょうか。 晋作は、その武士に土下座をさせて謝らせたそうです。 当時は武士の中でも上流武士と下流武士との差がはっきりとしており、子供といえども名門の武家の生まれとしてのプライドと正義感があったのかもしれません。 なかなか勝気な子供だったようですね。 高杉晋作の略歴年表 高杉晋作の具体年表 1839年 — 0歳「長州にて命を授かる」 出身地萩市に佇む高杉晋作の立像 1839年、長州にて生まれる 高杉晋作は、天保10年(1839年)に、長州藩士である高杉家の長男として誕生しました。 4人兄弟で、晋作の下には3人の妹がいます。 家族構成は以下の通りです。 父:子忠太• 母:みち• 妹:武• 妹:栄• 妹:光 高杉家は、戦国武将毛利元就の家臣であり、代々毛利家に仕えてきた名門の武家でした。 祖父や父は、藩の重要な役職に就いており、男子は晋作だけだったこともあって、高杉家の大事な跡取りとして育てられました。 8歳なると、学問を習得すべく寺子屋に入りますが、ここで、生涯のライバルでもあり親友でもある久坂玄端と出会います。 1857年 — 19歳「松下村塾に入門する」 生涯の師とあおぐ吉田松陰と出会う 松下村塾の講義室 久坂玄端とともに、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門。 この吉田松陰との出会いが、晋作に大きな影響を与えることになります。 吉田松陰は、武士・町民といった身分にこだわらず松下村塾に受け入れていたので、武士の誇り高かった晋作も、自分より身分の低い家の者と机を並べて学問に励んでいたことになります。 これが、のちに身分にこだわらない有志を集めた奇兵隊結成した高杉晋作という人物の基盤になったのかもしれませんね。 晋作は、物事をどう実践していくかを教える吉田松陰の教育と熱い思いに引き込まれ、一心不乱に勉学に励み、松下村塾の四天王の一人として将来を有望視されるようになっていったのです。 1858年 — 20歳「晋作江戸へ遊学、そして安政の大獄で…」 より高い学問を求めて江戸へ 吉田松陰 吉田松陰の勧めで、松下村塾の塾生たちは、全国へ遊学に出るようになります。 遊学にでた塾生から入る各地の情報を、塾ではまとめて資料にし、残った塾生たちもそれをもとに全国でなにが起きているかを知ることができたのです。 晋作も、遊学に出たいと松陰に頼み込みます。 松陰は藩の重職を通して、晋作の遊学を推薦し、藩命として晋作の遊学が認められました。 藩命を受け、当時の最高学府である幕府直轄の昌平坂学問所や、大橋塾などで学問に励みます。 しかし、晋作にとっては役に立つとは思えないようなものばかりだったようで、当時久坂玄端に送った手紙には、「江戸の学問はつまらない」と書いてます。 安政の大獄、そして師を失う 1859年、幕府の大老・による安政の大獄がはじまります。 吉田松陰も、幕府を批判したとして投獄されていた、梅田雲浜と関わりがあったとの疑いがかけられ、投獄されてしまいます。 晋作は、獄中の松陰の世話をしながら、師とあおぐ 松陰のもとで対話をしながら関わりを持ち続けますが、藩命により帰郷が決まり長州へ帰ることになります。 晋作が江戸を出発して10日後、吉田松陰は死罪となってしまうのです。 1860年 — 22歳「晋作、長州で伴侶を得る」 井上まさと結婚 伴侶を得る 師である吉田松陰を亡くし、悲しみと怒りにこぶしをにぎりしめ身を震わせている頃、父は晋作の縁談を進めます。 高杉家の跡取りとして、早く身を固めて欲しかったのでしょうね。 晋作は乗り気ではなかったものの、父に対する忠誠心も強かったため結婚することを決めます。 相手は、長州藩士である井上平右衛門の次女雅(まさ)で、防長一の美人だと言われる女性でした。 このとき晋作22歳、まさ16歳。 晋作は伴侶を得て、身を固めることとなったのですが、実際は結婚生活は6年と短く、共に過ごしたのは1年ほどだったそうです。 激動の時代をかけぬけた晋作らしいのですが、まささんにとっては寂しい結婚生活だったでしょうね。 1862年 — 24歳「晋作、使節団として上海へ渡る」 上海で、欧米に負けた悲惨な姿を見る 上海へ視察に 晋作は、幕府の使節団に加わることになり、長崎から上海へと渡ります。 そこでは、イギリスと中国との間で勃発したアヘン戦争後、降伏した中国の悲惨な姿を目の当たりにします。 このとき晋作は、このままでは日本も同じ目にあう…と思いました。 この使節団に加わったことがきっかけで、晋作の中には攘夷への強い意思が固まったのかもしれません。 1862年 — 24歳「尊王攘夷運動が過激化、そして出家」 英国公使館焼き討ちを決行 過激な手段に打って出る 上海から戻った晋作は、尊王攘夷運動に加わります。 上海で欧米の残忍さ、そして恐ろしさを知った晋作にとって、攘夷論はもっぱら同感だったのでしょう。 行動は次第に過激化し、英国公使館焼き討ちを決行します。 驚いたのは長州藩でした。 このままでは欧米と戦争になる…しかし、まだ長州藩には欧米と戦う武力が備わっていませんでした。 晋作、出家する 藩は晋作に、時期尚早となだめますなだめますが、それなら時期が来るまで身を引くとでも言わんばかりに、晋作は頭を剃り、勝手に出家してしまいます。 しかし、晋作が寺にこもっている間に、長州藩は攘夷へと一気に進んでいきます。 関門海峡を通る欧米船を次々に攻撃し、ついに欧米との戦争へと発展していったのです。 1863年 — 24歳「晋作、奇兵隊を結成する」 下関戦争で、欧米の報復を受ける 下関戦争で連合国によって占拠された長府の前田砲台 長州藩は、攘夷をかかげ、関門海峡を通る欧米の軍艦に攻撃をしかけますが、結局報復にあい圧倒的な武力を見せつけられることになります。 長州藩は、関門海峡の防衛を強化する対策を考えます。 この防衛を任せる責任者として、出家していた晋作に白羽の矢がたったのです。 晋作は出家して2ケ月で、俗世に戻ることになり、藩の危機を救うべく立ち上がります。 奇兵隊を結成する 奇兵隊所属兵の写真 晋作は、吉田松陰の教えである、「身分の隔たりをなくし全ての人が世の中のために立ち上がる」という思想のもとに、武士や町民など身分にこだわらす、有志を募集し「奇兵隊」を結成します。 厳格な身分制がまだまだ根付いていた当時にしては革新的なことでした。 晋作は、この奇兵隊の初代総督に就任したのですが、藩の正規軍との度重なる衝突を起こし、晋作は結成3ケ月で総督を解任されてしまいます。 1864年 — 25歳「日本からも欧米からも攻められる長州藩、そのとき晋作は…」 晋作、脱藩し投獄される 脱藩し投獄される 長州では、武力派と慎重派の2つの勢力が対立しており、慎重派だった晋作は、京都にいる武力派を説得するべく、藩に無許可で京都へ。 これが脱藩の罪に問われ、投獄されてしまいます。 しかし、この頃の長州藩は、禁門の変で朝敵となり、第一次長州征伐として幕府は長州に軍を送ります。 また下関では、イギリス・アメリカ・オランダ・フランスの四国連合艦隊による攻撃が仕掛けられていました。 このとき松下村塾の四天王として、たった一人生き残っていたのは高杉晋作。 長州藩はこの藩滅亡の危機を救うため、晋作を呼び戻したのです。 このころの長州藩は、欧米からの報復のダメージがあり、幕府に従おうという保守派が、家老3人に責任を追わせ幕府に謝りをいれることで、実際は幕府との争いにはなりませんでした。 1864年 — 25歳「晋作、連合国と交渉する」 連合国との講和談判をまとめあげる 高杉晋作(中央)、伊藤博文(右) 連合国艦隊との戦いに敗戦の色が濃くなり、長州藩は戦いをやめるよう講和することを決め、そのすべてを晋作に任せます。 このとき通訳として同席したのは、伊藤博文でした。 晋作は、交渉の場で延々と古事記を読みあげるという突拍子もない態度をとって、欧米人を驚かせたといいます。 そして、何度か話し合い、講和談判をまとめあげるのです。 連合艦隊の要求である長州藩の領土を渡すことをかたく拒否しながら、攘夷はきっぱりやめると約束したのです。 晋作は、この交渉をまとめあげたことで、藩をのちに攘夷から討幕へと固めさせたキーマンといえる人物なのです。 1866年 — 26歳「第二次長州征伐、その時晋作は…」 晋作、クーデターを起こす 攻山寺挙兵の銅像 連合国との争いがなんとかおさまると、長州藩の中では、幕府に従おうとする恭順派が実権を握っていました。 倒幕への強い信念を持っていた晋作は、藩に対してクーデターを起こします。 藩兵2,000人に対して、同じく藩に不満をもつ有志をつのり、晋作のもとに集まった兵は80人ほど。 それでも晋作は、功山寺で挙兵し、なんとこの戦いに勝利しクーデター成功となり、長州藩を倒幕に統一させたのです。 幕府軍を撃破する 第二次長州征伐のころには、薩長同盟のおかげもあり、長州藩の武力もじゅうぶんに備わっていました。 晋作は長州藩の海軍司令官として、次々に幕府軍を撃破し勝利します。 これで一気に幕府の権威はおち、のちに大政奉還へとつながるきっかけになりました。 1867年 — 27歳「晋作、大政奉還を見ずにこの世を去る」 晋作、肺結核で死去 高杉晋作の墓 長州藩を倒幕へと統一し、前線で幕府軍と戦い勝利した晋作ですが、このころには晋作の体は肺結核におかされていました。 1867年5月17日、療養先の下関で両親・妻・息子に見守られながら、27年という短い生涯を閉じました。 大政奉還の7ヶ月前でした。 高杉晋作の関連作品 おすすめ書籍・本・漫画 高杉晋作 リンク 幕末、明治維新と激動の時代を生き生きと描いた大河ドラマです。 吉田松陰グループの活躍や、高杉晋作が連合艦隊と講和したシーンも深く描かれており、晋作ファンにとってはたまらない作品です。 関連外部リンク• 高杉晋作についてのまとめ 幕末の風雲児と呼ばれる、高杉晋作の27年の生涯をたどってきましたが、いかがだったでしょうか。 幕末と言えば、や西郷隆盛などが脚光をあびることが多いですが、高杉晋作の強い志と行動力で幕府を撃墜したからこそ、維新へと進むことが出来たのではないでしょうか。 新時代の幕開けを目前にして亡くなってしまった高杉晋作。 もっと取り上げて欲しいですよね。 この記事を読んで、高杉晋作ファンが増えれば嬉しいです。
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維新三傑の一人・ 木戸孝允 きどたかよし。 木戸孝允の名前は維新後に改名して名乗った名前です。 幕末は長州藩で活動し 桂小五郎 かつらこごろう と名乗っていました。 剣術の達人で新撰組隊長・ 近藤勇 こんどういさみ ですら勝てなかったようです。 またかなりのイケメンで、当時の木戸孝允の写真を見るとかなりカッコいいです。 そして長州藩の天才戦術家で奇兵隊を作った 高杉晋作 たかすぎしんさく。 晋作は 吉田松陰 よしだしょういん の元で学び、一緒に学んでいた生徒から天才と言われるほど優秀でした。 二人は互いの長所を生かしかなりいいコンビだったようです。 今回はこの二人のコンビについてご紹介しましょう。 西郷どん: 関連記事: 関連記事: この記事の目次• 「狂」の高杉、「理」の桂対照的だった二人の生い立ち 高杉晋作は戦術家としては天才的な才能を発揮します。 また桂は政治家としてその名を知られます。 対照的な二人ですが、彼らの生い立ちも対照的でした。 高杉晋作の実家は 毛利元就 もうりもとなり の時代から続く毛利家の家臣の家です。 長州藩の時代には上士と呼ばれる侍の家に晋作は長男として誕生。 晋作の幼いころは皆からもてはやされた為、わがままな少年でした。 でも病弱でガリガリ君でかなりコンプレックスを抱えていました。 そこで晋作は病弱なガリガリ君のコンプレックスを無くすため、 剣術を習って体を鍛えていたそうです。 こうしてガリガリ君から脱出した晋作は吉田松陰と出会った事で、 学問に打ち込んでいくことになります。 桂小五郎は桂家に養子として迎えられた人です。 実家は毛利家の家臣の和田家の生まれです。 しかし小五郎は幼いころ病弱だったため、桂家へ養子として出されてしまいます。 小五郎は桂家に移っても病弱でしたが、悪さばかりするとんでもない子供でした。 彼がどのような悪さをしていたのか逸話が残っています。 小五郎は川を運行している船に船頭が乗っているにも関わらず、 船を沈没させてその沈没する様子をみてケラケラ笑いながら楽しんでいたそうです。 とんでもない悪ガキですよね。 そんな桂小五郎も高杉晋作と同じく、吉田松陰に出会い 学問に深く打ち込んでいくようになります。 桂も幼少期にコンプレックスを持っていましたが、 改善しようとしないで、他人を困らせていた悪ガキでした。 このように生まれも対照的、幼少期の過ごし方も 対照的な二人だったのがお分かりいただけたと思います。 吉田松陰を介して出会ったふたり 高杉晋作と桂小五郎は幕末長州藩で活躍した二人ですが、 一体どこで出会ったのでしょうか。 二人がお互いの事を知ったのは幕末の超有名人・吉田松陰のおかげです。 吉田松陰は 松下村塾 しょうかそんじゅく を開いた事で有名な人です。 この松陰は松下村塾を開き、多くの優れた人材を育てます。 彼の門下生で有名な 伊藤博文 いとうひろぶみ や 久坂玄瑞 くさかげんずい 、 日本のナポレオン・ 山田顕義 やまだあきよし などが有名で、 高杉晋作もこの松下村塾の生徒として学んでいました。 しかし桂小五郎はこの松下村塾で学んでいませんでした。 桂小五郎は松下村塾が出来る前に 山鹿流兵法術 やまがりゅうへいほうじゅつ を学び、 この山鹿流兵法術を吉田松陰から教えてもらっていました。 松陰は小五郎をベタ褒めしており、松下村塾を開いた時も生徒達へ 「桂君はすごく優秀な人ですから、何かあったら桂さんに聞きなさいと」と教えたとか。 高杉晋作は松陰先生から桂の評判を聞いており、 先生が信頼を寄せている桂へ色々なアドバイスを伺っていたとされています。 そして桂も晋作に信頼を寄せることになり、 二人は固い信頼関係で結ばれることになるのです。 桂が逃亡している時、長州藩は大混乱 桂が指名手配犯になっている頃長州藩は大混乱していました。 長州藩は攘夷を実行しますが、外国の連合艦隊に敗北。 外国艦隊に敗北した長州藩は外国と和議を結ぶため、高杉晋作を起用します。 晋作は外国の連合艦隊の代表者と和議の交渉に入り、 なんとか連合艦隊と和議を結ぶことに成功。 その後幕府から目を付けられた長州藩は第一次長州征伐が始まる前に 俗論派が長州藩で政権を握ります。 晋作はこの時、すぐに長州藩から出奔し、俗論派を打倒するため、挙兵します。 晋作は俗論派を討伐する挙兵の時自らが作った奇兵隊を説得して、兵力を得ることに成功。 その後晋作の 疾風迅雷 しっぷうじんらい の作戦によって俗論派を藩内から追い出します。 晋作は俗論派を長州藩から追い出すことに成功しますが、 自らが政治に関わる事を嫌い、藩の政治に関わりませんでした。 そのため長州藩は混乱状態から抜け出すことができず、 藩の方針を決めることができませんでした。 高杉晋作は長州藩の混乱を収めることが出来るのは、 兄貴分で吉田松陰が信頼していた桂小五郎しかいないと考えます。 晋作に救われ、長州藩のリーダになった桂小五郎 晋作は長州藩の混乱を鎮めるため、桂小五郎を必死に探し、ついに桂の居場所を発見。 すぐに晋作は桂へ手紙をだして自ら迎えに行くと示します。 しかし晋作が迎えに行くことはなく、桂の奥さん・幾松が迎えに行くことになる。 桂は晋作からの申し出を受けて長州藩へ戻ると、軍事・政治のアドバイザーになり、 実質的な長州藩のリーダーとして就任することに。 もし高杉晋作が長州藩で俗論派に敗北していた場合、 桂は長州藩に戻ることができずにそのまま但馬で引きこもり生活を続けていた事でしょう。 このように考えると晋作が桂を逃亡生活から救い出したと言えるのではないのでしょうか。 絶頂期に死んだ高杉晋作・悩み苦しんで死んだ桂小五郎。 高杉晋作は27歳という若さで亡くなりますが、彼の人生の中で、絶好調の時でした。 高杉晋作が亡くなる一年前の26歳の時は、長州藩が滅亡する寸前にまで追い込まれていた時期でした。 この年、幕府の大軍が四方面から長州藩へ攻め入ってきます。 長州藩は高杉晋作と 大村益次郎 おおむらますじろう の二人を起用して、幕府軍迎撃作戦を展開します。 大村益次郎は石州口から攻撃してきた幕府軍数万を数千の兵士で撃退することに成功します。 また芸州口からやってきた幕府軍も長州藩の精鋭部隊が迎撃し、撃退します。 こうして陸上での戦いは長州藩の勝利で幕を閉じます。 しかし幕府軍は海からも長州藩へ攻撃を仕掛ける手はずを整えていました。 海の幕府軍を撃退したのは長州藩の暴れ者・高杉晋作、この時26歳でした。 彼は第二次長州征伐が開始される前に大島で休憩していた 幕府艦隊へ夜襲攻撃を仕掛けて、撃破することに成功します。 幕府軍は大島での夜襲攻撃によって艦隊を避難させ、第二次長州征伐に参加しませんでした。 そして晋作は第二次長州征伐が始まると 下関の海峡から長州へ攻め込もうとしている幕府軍を撃退するため、 下関から海を渡って、幕府軍を急襲する作戦を展開します。 この時晋作は二万以上の幕府軍に対して数千の長州藩の兵士を率いて出陣。 晋作率いる長州藩の軍勢は幕府軍と数回戦い、勝利を幾度も収めます。 その後 坂本龍馬 さかもとりょうま 率いる 海援隊 かいえんたい の部隊が駆けつけた事で、 下関海峡にいた幕府軍は不利になり撤退。 小倉城で幕府軍の指揮をしていた小笠原さんは 将軍・ 徳川家茂 とくがわいえもち が亡くなった事を知ると小倉城を捨てて逃亡。 晋作率いる軍勢は城主のいない小倉城を陥落させて 小倉口から攻めてきた幕府軍を撤退させることに成功します。 長州藩は大村益次郎や奇兵隊の活躍により、 陸からの幕府軍の攻撃を撃退することに成功します。 そして高杉晋作の獅子奮迅の活躍で海からの幕府軍を撃退しますが、 この活躍の翌年に亡くなってしまいます。 高杉晋作の死因は結核と言われ、当時は不治の病と言われていた病気でした。 しかし高杉晋作は彼らしい最後を迎えたと言えます。 桂小五郎は悩みすぎて・・・・ 桂小五郎は高杉晋作が亡くなった後も戦いを続けていきます。 そして小五郎は明治政府が樹立されると明治政府樹立の 勲功 くんこう が讃えられ、 大久保利通 おおくぼとしみち 、 西郷隆盛 さいごうたかもり らと一緒に明治政府のトップクラスの地位をもらいます。 また桂は明治政府樹立後 木戸孝允 きどたかよし と名前を変えています。 さて桂小五郎改め木戸孝允は明治時代になると多くの悩みを抱えることになります。 木戸孝允は明治政府樹立後は明治政府のトップクラスの地位を与えられ、 大久保達と明治政府の舵取りを行っていました。 木戸孝允はこの時も悩みが多かったでしょうが、それほど辛くなかったようです。 そして木戸孝允や大久保利通は近代の政治を学ぶため、欧州の国々を歴訪します。 木戸孝允や大久保ら欧州で近代国家に触れ、色々と勉強しながら日本へ帰国します。 しかし欧州から帰国後、木戸孝允は苦痛な悩みを抱えることになるのです。 木戸孝允の悩みとは 木戸孝允は欧州から帰国後辛い悩みを抱えることになります。 木戸孝允の悩みとは一体何でしょう。 まず一つ目は重要な政府の地位から外れて行くことです。 なぜ維新三傑の一人・木戸孝允は政府の重要な地位から外れたのか。 それは薩摩の大久保が欧州から帰国後、政府の実権を握ったためです。 木戸は政府の重要な地位から外された事を悩みはじめますが、彼の悩みはまだあります。 二つ目の悩みは欧州から帰国後に起きた 西南戦争 せいなんせんそう です。 西南戦争は薩摩士族が西郷隆盛を旗頭として明治政府に反乱を起こした戦いです。 木戸は西郷が反乱を起こした時、病で寝ていましたが、 この報告を聞いて再び悩み始め 鬱々 うつうつ とした日々を過ごすことになります。 そして西南戦争が終結する前に木戸孝允は亡くなってしまいます。 彼は見舞いに駆けつけた大久保の手を握って一言 「西郷、もういいかげんにしろよ」と呟いて亡くなったそうです。 木戸孝允の死因は心労が原因で酒が強くないのに飲みまくった結果、 肝臓肥大などが原因で亡くなったそうです。 幕末ライター黒田レンの独り言 桂小五郎と高杉晋作をご紹介しました。 桂小五郎はどちらかと言えばリーダーとしてどっしりと構えて 状況が変化するまで待つ忍耐力のあった人だったように思えます。 反対に高杉晋作は状況を変えるために 色々と行動を起こす人物のようであったと思われます。 しかしこの二人がいなければ明治政府が樹立する可能性が引くことを考えると、 二人の対照的な人物のおかげで、維新回天はうまくいったように思われます。 皆様はどのように思われますか。 西郷どん: 関連記事: 関連記事:.
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