あはれ 意味。 あわれとは

エモいの意味は?古いとされる理由もわかりやすく簡単に解説!

あはれ 意味

刻々と終わりゆくもの、移りゆくものの哀れに感じ入る、これは仏教的な世界観である「無常観」が下敷きにあることは疑いがないが、一体なぜこの宗教的な思想である無常観が、芸術、もっと言うと彩り豊かな「美」と結びつくのだろうか。 そこにはやはり、四季折々で様々な風景を見せる、日本という国の風土が深く関係しているように思う。 海外にももちろん四季はある。 ただ、日本の場合、四つの季節がある、というだけにとどまらず、和歌に描かれるような、春夏秋冬、また花鳥風月が、絶妙な調和を保ちながら寂しげに移りゆく、その風景に囲まれながら育まれた美的彩りが、内心の悲しみと波長を合わせ、「ああ」というため息がこぼれるとともに歌になる。 もののあはれ、というときの「あはれ」は、「ああ」というため息が由来だという話を聞いたことがある。 日本人が仏教から受けた影響でもっとも大きなものの 一つに無常観がある。 無常観とは、この世のものはすべて変化し消滅していくものだという教えである。 元来、仏教ではそうした無常観こそが人間に苦しみをもたらすと説いていた。 しかし日本人は、この世は無常であるからこそ、一瞬一瞬が貴重であり、味わい深いのだと肯定的に理解した。 こうした考え方は、変化するもののうちに美を見いだそうとする発想となって日本のさまざまな芸術や芸能の底を流れる美意識を形成した。 その代表的なものが「あはれ」という美意識である。 「あはれ」とは、自然や人間の無常を知り、思わずでるため息に由来するといわれているが、そこにこそまた深い慰めがあるのだとされた。 この「無常観がなぜ美的に表現されるのか」という疑問について、思想家の唐木順三も『詩と死』という随筆集のなかで触れている。 それは鎌倉時代の僧侶、一遍に関して論じた文章で、一遍は一切捨棄、一切放下を言い、実行してきたにもかかわらず、修辞だけは捨てきれないのはなぜか、と語る。 一遍が無常をいうとき、そこにはなにか浮々としたもの、嬉々としたものがあり、無常をいうことにおいて、格別に美文調に、雄弁になる傾向があるのはなぜか。 そういう問題が私の頭の中にある。 「苦」とか「無常」とかをいう場合に、格別に美文調になるということは、変なことである。 奇妙といってもよい。 その変で奇妙なことが、ふりかえってみれば、日本ではむしろ当たり前のこととなっている。 「はかなし」「はかなき」「はかなびたる」という王朝女流文芸に頻々と出てくる言葉も、横か裏から見れば、「はかなきものは美しきかな」というような、美的理念とさえ思われる場合が多い。 それは「あはれ」の場合と同様に、日本人の心情の深いところに関連していることである。 無常の場合も、古くから「無常美感」などといわれるように、無常をいうとき、日本人の心の琴線は、かなしくあやしき音をたてる。 我々のセンチメントは無常において、最もふさわしくみずからの在り所に在るという観を呈している。 『平家物語』や『方丈記』がいわば国民文学として愛誦される所以も、その祇園精舎の鐘であったり、かつ消えかつ結ぶ水の泡だったりする。 そういうことは既に常識にさえなっているのだが、これは随分奇妙なことといわねばならぬ。 出典 : 唐木順三『詩と死』 一遍は、無常を言いながら、その語り口が嬉々とし、雄弁で、美文調である。 これは「奇妙」だと唐木順三は繰り返す。 しかし、無常観が美と結びつくことを日本人は当たり前だと思っているので、さして奇妙だとは感じない。 「はかなきものは美しきかな」が根付いている。 そのこと自体が実は奇妙だと指摘する。 しかも、一遍の場合は、文芸や物語の作者でもなく、一切を捨棄すべきという僧侶にもかかわらず、美文調を捨てられないことが、いっそう奇妙だ、と唐木順三は書く。 私自身は「はかなきものは美しきかな」と感じる所以として、日本の風物の特性というものの影響は切り離せないと思っている。 が、唐木順三は、これは日本人の特殊な性格というよりも、無を徹底すれば、案外そこには詩的な世界が広がっているのではないか、と言う。 それは単に一遍また日本人という特殊な存在の特殊な性格によるのではなく、一切捨棄、意識捨棄、捨棄の捨棄というところまで徹底すれば、即ち、無我、無心というところへ超出すれば、その世界は案外に、リズムをもった、美的な、調和ある、いわばポエジイの世界ではないかと、実はそういうことを思い思いしているのである。 出典 : 唐木順三『詩と死』 こう言われると確かにその通りのような気もするし、無常観と自然のリズムとが一致しなければ無常観の先に美的で調和のある詩的な世界が広がっている、とはならないような気もする。 少なくとも仏陀の言葉に「美」はなかったように思う。 いずれにせよ、日本で一般的な感受性として(意識無意識問わず)浸透している「もののあはれ」は文化的に重要な源泉となっているが、その一方で戦争(「潰えること」)を儚く美しいものとして捉えるような感性とも分かち難く、根深い不治の病の側面もある。 戦争を青春時代に経験し、戦後の詩人として長年活躍した茨木のり子は、こうした和歌のような古典的感性を軟弱なものとして嫌い、あの『自分の感受性くらい』や『倚りかからず』といった「儚く散ることのない」逞しい詩を書くに至った。 逆に戦前の詩人である中原中也は、「物のあはれがなかったら、この世はどうにも仕方のない焦慮と、他にあればほくそえむことだけくらいだ」と綴っている。

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古典で、「おかし」 と「あはれ」とありますが、 これらは、ど...

あはれ 意味

刻々と終わりゆくもの、移りゆくものの哀れに感じ入る、これは仏教的な世界観である「無常観」が下敷きにあることは疑いがないが、一体なぜこの宗教的な思想である無常観が、芸術、もっと言うと彩り豊かな「美」と結びつくのだろうか。 そこにはやはり、四季折々で様々な風景を見せる、日本という国の風土が深く関係しているように思う。 海外にももちろん四季はある。 ただ、日本の場合、四つの季節がある、というだけにとどまらず、和歌に描かれるような、春夏秋冬、また花鳥風月が、絶妙な調和を保ちながら寂しげに移りゆく、その風景に囲まれながら育まれた美的彩りが、内心の悲しみと波長を合わせ、「ああ」というため息がこぼれるとともに歌になる。 もののあはれ、というときの「あはれ」は、「ああ」というため息が由来だという話を聞いたことがある。 日本人が仏教から受けた影響でもっとも大きなものの 一つに無常観がある。 無常観とは、この世のものはすべて変化し消滅していくものだという教えである。 元来、仏教ではそうした無常観こそが人間に苦しみをもたらすと説いていた。 しかし日本人は、この世は無常であるからこそ、一瞬一瞬が貴重であり、味わい深いのだと肯定的に理解した。 こうした考え方は、変化するもののうちに美を見いだそうとする発想となって日本のさまざまな芸術や芸能の底を流れる美意識を形成した。 その代表的なものが「あはれ」という美意識である。 「あはれ」とは、自然や人間の無常を知り、思わずでるため息に由来するといわれているが、そこにこそまた深い慰めがあるのだとされた。 この「無常観がなぜ美的に表現されるのか」という疑問について、思想家の唐木順三も『詩と死』という随筆集のなかで触れている。 それは鎌倉時代の僧侶、一遍に関して論じた文章で、一遍は一切捨棄、一切放下を言い、実行してきたにもかかわらず、修辞だけは捨てきれないのはなぜか、と語る。 一遍が無常をいうとき、そこにはなにか浮々としたもの、嬉々としたものがあり、無常をいうことにおいて、格別に美文調に、雄弁になる傾向があるのはなぜか。 そういう問題が私の頭の中にある。 「苦」とか「無常」とかをいう場合に、格別に美文調になるということは、変なことである。 奇妙といってもよい。 その変で奇妙なことが、ふりかえってみれば、日本ではむしろ当たり前のこととなっている。 「はかなし」「はかなき」「はかなびたる」という王朝女流文芸に頻々と出てくる言葉も、横か裏から見れば、「はかなきものは美しきかな」というような、美的理念とさえ思われる場合が多い。 それは「あはれ」の場合と同様に、日本人の心情の深いところに関連していることである。 無常の場合も、古くから「無常美感」などといわれるように、無常をいうとき、日本人の心の琴線は、かなしくあやしき音をたてる。 我々のセンチメントは無常において、最もふさわしくみずからの在り所に在るという観を呈している。 『平家物語』や『方丈記』がいわば国民文学として愛誦される所以も、その祇園精舎の鐘であったり、かつ消えかつ結ぶ水の泡だったりする。 そういうことは既に常識にさえなっているのだが、これは随分奇妙なことといわねばならぬ。 出典 : 唐木順三『詩と死』 一遍は、無常を言いながら、その語り口が嬉々とし、雄弁で、美文調である。 これは「奇妙」だと唐木順三は繰り返す。 しかし、無常観が美と結びつくことを日本人は当たり前だと思っているので、さして奇妙だとは感じない。 「はかなきものは美しきかな」が根付いている。 そのこと自体が実は奇妙だと指摘する。 しかも、一遍の場合は、文芸や物語の作者でもなく、一切を捨棄すべきという僧侶にもかかわらず、美文調を捨てられないことが、いっそう奇妙だ、と唐木順三は書く。 私自身は「はかなきものは美しきかな」と感じる所以として、日本の風物の特性というものの影響は切り離せないと思っている。 が、唐木順三は、これは日本人の特殊な性格というよりも、無を徹底すれば、案外そこには詩的な世界が広がっているのではないか、と言う。 それは単に一遍また日本人という特殊な存在の特殊な性格によるのではなく、一切捨棄、意識捨棄、捨棄の捨棄というところまで徹底すれば、即ち、無我、無心というところへ超出すれば、その世界は案外に、リズムをもった、美的な、調和ある、いわばポエジイの世界ではないかと、実はそういうことを思い思いしているのである。 出典 : 唐木順三『詩と死』 こう言われると確かにその通りのような気もするし、無常観と自然のリズムとが一致しなければ無常観の先に美的で調和のある詩的な世界が広がっている、とはならないような気もする。 少なくとも仏陀の言葉に「美」はなかったように思う。 いずれにせよ、日本で一般的な感受性として(意識無意識問わず)浸透している「もののあはれ」は文化的に重要な源泉となっているが、その一方で戦争(「潰えること」)を儚く美しいものとして捉えるような感性とも分かち難く、根深い不治の病の側面もある。 戦争を青春時代に経験し、戦後の詩人として長年活躍した茨木のり子は、こうした和歌のような古典的感性を軟弱なものとして嫌い、あの『自分の感受性くらい』や『倚りかからず』といった「儚く散ることのない」逞しい詩を書くに至った。 逆に戦前の詩人である中原中也は、「物のあはれがなかったら、この世はどうにも仕方のない焦慮と、他にあればほくそえむことだけくらいだ」と綴っている。

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複数の意味を持つ『いとをかし』と『いとあはれ』の意味一覧《原文/訳付き》

あはれ 意味

「エモい」の意味をわかりやすく簡単に解説! 「エモい」の意味をわかりやすく簡単に一言にすると、現代における「もののあはれ」を意味します。 「エモい」を意味する「もののあはれ」について、学生時代などに古文に馴染みのなる方であればイメージしやすいかと思いますが、しみじみした「情緒」や「趣き」など、言葉ではハッキリ表現することが難しい「感情に訴えてくるもの」を意味します。 「もののあはれって、どんな意味?」とピンと来ない方はご安心下さい! これから、わかりやすく簡単に説明していきますので! では、「エモい」が意味する「もののあはれ」について見ていきましょう! 「エモい」は現代版「もののあはれ」を意味する言葉 では、「エモい」が意味する「もののあはれ」について見ていきましょう! 「もののあはれ」とは、無常な物事(変化がある物事)に対する「しみじみした趣き」を表現する言葉。 昔の日本(特に平安時代)における美学や価値観に関する理念の一つです。 古来日本人の趣きを表現するものとして、「をかし」という言葉を聞いたことありませんか? そう、枕草子(まくらのそうし)で有名な「いとをかし」です。 つまり「いとをかし」は「とても趣がある」という意味になります) 「もののあはれ」と「をかし」は、どちらも「趣がある」と訳される言葉ですが、少し意味のニュアンスが異なります。 「をかし」は明るい美しさを表現する言葉であるのに対し、「もののあはれ」はしみじみした情緒的な美しさを表現する言葉なんです。 わかりやすい簡単な例として、「満開に咲く桜」と「散っていく桜」をイメージしてもらえればと思います。 春に満開に咲く桜を見た我々は、その目に映る景観の「明るい美しさ」=「をかし」を感じるかと思います。 一方、風に煽られて散っていく桜吹雪を見ると、満開に元気よく咲いていた桜を知っているからこそ、どこか切なくも儚い美しさを感じて、「しみじみした情緒」=「もののあはれ」を感じるかと思います。 そう、その言葉では表現しきれない「儚さ」「哀愁」「懐かしさ」といった趣きを意味する言葉が、現代で言う「エモい」という言葉なんです。 「エモい」の由来 「エモい」の語源となる「emotional」(エモーショナル)の意味は、「感情的」や「情緒的」といった意味。 「エモい」が広く使われるようになった由来としては、「emo」(エモ)という音楽ジャンルにあります。 1990年代後半~2000年代初頭にかけて確立されたジャンルであり、「エモーショナル・ハードコア」を筆頭に、主に当時人気であったロックやパンクを中心として、「emo」は音楽だけではなく、ファッションやライフスタイルなどにも影響を与えていきます。 音楽ジャンルの定義が曖昧ですが、「emo」はパンクやハードコアで見られる特徴的なギターサウンドと、キーボードやシンセサイザーを用いたメロディカルで哀愁さを表現する音楽ジャンルとされています。 ただ、音楽シーンでも使われる「エモい」について、サウンドジャンル的な「emo」を指すばかりではありません。 青春パンクのような、淡くも懐かしさのある、人情的で感情的な歌詞(リリック)。 叶わない長年の片思いを前向きに終わらせることを描いたメロディや歌詞。 などなど、簡単な言葉では言い表すことが出来ないものを表現しようとするメロディや歌詞に、我々は心を動かされて「エモい」と感じる訳です。 例えば、「満開の桜の下で見た君の笑顔」という歌詞であれば、出会いの春や新しい動きのある春の恋をイメージさせますし、「彼の隣にはいない自分の足元には散った桜が落ちてきた」という歌詞であれば、淡い春の恋か、深い失恋を経験したことをイメージしますよね。 「エモい」の使い方 SNSでも良く利用される「エモい」という言葉は、実は使うのには難しい言葉なんです。 その理由は、例えばある曲を聞いて「エモい!」と感じることと感じないことがあるように、言葉には出来ない「表現力」が求められる言葉であるからです。 わかりやすく簡単に言うと、「エモい」という言葉にはセンスが問われるということ。 例えば、「この新曲マジエモいんだけど!聞いてみて!」と友達にオススメしたところ、「ハッ、どこがエモいの?」と共感を得られなければ、自分の価値観を否定されたような気持ちになりますよね。 TwitterやインスタグラムなどのSNSで自分の価値観(センス)を表現することが多い現代であるからこそ、「エモい」が流行したとも考えられるでしょう。 「エモい」の基本的な使い方は以下の通りです。 「学生時代の写真見つけたら、エモくてやばい」• 「かまって欲して寄ってきたウチのネコがエモい」• 「(ドラマの俳優)がエモすぎる」• 「今日食べたラーメン、エモすぎる」 などなど、何か自分の感情を動かされたものを評価することと同時に、多くの人に共感してもらえるであろう自分のセンスを表現している言葉だったりするのです。 また、「エモい」が個人のセンスや表現力を意味する言葉でもあるので、あえてセンスが無いことをイジる意味として「エモい」が使われることもあります。 イジりとして使われる「エモい」であっても、プロの芸人さんのように、ただ人を傷つけることの無いイジりであるからこそ、またセンスが問われる言葉なのでしょうね。 「エモいは古い」と言われる理由 「もうエモいは古い!」と言われる理由は、以下2つです。 流行的なトレンドが過ぎてしまったから• 10年以上前から使われていた言葉であるから SNSなどでも「エモいは古い」とされる理由の一つとしては、単純に多くに人に知られて、一時的な流行やトレンドが過ぎ去ってしまったからです。 毎年流行語大賞が発表されますが、その来年以降に流行語を使っているかというと、流行語のほとんどが使われていなかったりしますよね。 インスタグラムを中心に流行った「チル」という言葉も、今ではもう古い言葉として扱われているかもしれませんね。 若かりし頃に、バンドライブやフェスに通っていた音楽好きの方にしてみたら、「何でいまさらエモいが流行るの?」という疑問が生じてしまうということなんです。 その時の流行に乗る、また、好きな音楽を発信するというのは、数年前も今も自分のセンスを表現することを意味する部分があります。 現代の流行と、10年以上前から「エモい」を利用している人それぞれが、自分の価値観を表現するために「エモいは古い!」とするのでしょうね。 「エモい」は表現力が求められる言葉 「エモい」はセンスが問われる言葉としましたが、つまりは、自身の美学や価値観の表現力が求められる言葉であると言えるでしょう。 SNSで投稿する画像や写真。 SNSの投稿から伝わるライフスタイル。 たくさんの「いいね!」がもらえて、多くの人に共感されるSNSの投稿。 確かに、しみじみした趣きを感じる「儚さ」「哀愁」を伝えるには、表現力が求められるものなのかもしれません。 その表現力や無常の美しさに趣きを感じるのは、今も昔も変わりなく、心が動かされる美しさを大切にする日本人ならではの美的価値観があるからなのでしょうね!.

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