スポンサーリンク 徒然草が執筆された後の約一世紀は注目されませんでしたが、江戸時代になってからは親しみやすい古典として愛読されるようになり、その後の文化に大きな影響を与えるほどの作品となりました。 徒然草のなかには、同時代に起きた事件や人物について知る史料となる記述が多いため、歴史史料としてとても価値があります。 徒然草の成立時期については多くの説があり、主流となっているのは鎌倉時代末の 1330年8月~1331年9月頃にまとめられたとする説です。 しかし、確証となるものは見つかっていません。 さらには、兼好が書いたことを疑う説さえもあるのです。 徒然草の内容 徒然草は序段を含めて244段からなり、その内容は様々なことに及んでいます。 これは、作者が歌人、能書家、古典学者などであったことによります。 また、仁和寺 にんなじ に関した説話が多く含まれています。 そして、文学上では 隠者文学の一つとして位置付けられています。 それでは、徒然草の中からいくつかを選んで、内容を見てみましょう。 雪のおもしろう降りたりし朝 雪のおもしろう降りたりし朝、 人のがり言ふべきことありて 文をやるとて、 雪の事なにとも言はざりし返事に、 「この雪いかが見ると一筆のたまはせぬほどの、ひがひがしからん人の 仰せらるる事、聞き入るべきかは、 かえすがえす口惜しき御心なり」 と言ひたりしこそ、をかしかりしか。 今はなき人なれば、かばかりのことも忘れがたし。 第31段 【現代語訳】 雪が見事に降った朝、 ある人へ言うべき事があって手紙を送ると、雪のことを何とも言わなった返事として、 「この雪をいかが見ると 一筆もおっしゃらないくらいの、 ひねくれた人のおっしゃる事を 聞き入られるでしょうか。 返す返すも残念なお心です」 と言ってきたのは、感慨深いことだった。 今では故人となったので、これだけのことでも忘れられない。 花のさかりは 花のさかりは、 冬至より百五十日とも、 時正の後、七日ともいへど、 立春より七十五日、 おほやう違はず。 第161段 【現代語訳】 花のさかりは、冬至から150日とも、 春分の後、7日ともいうけれど、 立春から75日とすると、 ほぼ違うことはない。 秋の月は 秋の月は、かぎりなくめでたきものなり。 いつとても月はかくこそあれとて、 思ひ分かざらん人は、 無下に心憂かるべきことなり。 第212段 【現代語訳】 秋の月は、限りなく素晴らしいものである。 いつでも月はこのようなものだと思い、 違いが分からない人は、 とても残念なのである。 スポンサーリンク 徒然草の作者はどんな人? 徒然草の作者名 吉田兼好 よしだけんこう は、次のように称されることもあります。 卜部兼好 うらべ かねよし [本名]• 兼好法師 けんこうほうし [通称]• 兼好 [法名] 最初の「卜部兼好」が本名で、出家したことから「兼好法師」とも呼ばれます。 徒然草の作者については… 吉田兼好は、 鎌倉時代の末から南北朝時代にかけての官人で、歌人、随筆家でもありました。 一般的には、1283年 弘安6年 頃に生まれて30歳前後で出家したとされています。 1301年に後二条天皇 ごにじょうてんのう が即位すると六位蔵人 ろくいのくろうど:役職名 に任じられ、従五位下左兵衛佐 じゅごいげ さひょうえのすけ:役職名 にまで昇進したことは明らかになっています。 しかし、その後の出家以降については明らかでない部分が多いのです。 また、没年についても確定されてはいません。 作者の和歌 吉田兼好の生涯については不明な部分が多いのですが、和歌を二条為世 にじょう ためよ に学び、「 為世門の四天王」と呼ばれるほどの歌人でした。 その歌は『続千載集 しょくせんざいわかしゅう 』続後拾遺和歌集 しょくごしゅういわかしゅう 』『風雅和歌集 ふうがわかしゅう 』に合計18首が入集しています。 そこで、少しでも兼好の人となりを知る手がかりとして、私家集である『 兼好法師集 けんこうほうししゅう 』から和歌を選びました。 これらと徒然草をあわせて読めば、作者の心持ちに触れることができるのではないでしょうか。 うちなびく 草葉すずしく夏の日の かげろふままに風たちぬなり 雲の色に わかれもゆくか逢坂の 関路の花のあけぼのの空 こよろぎの 磯より遠く引く潮に うかべる月は沖に出でにけり しるべせよ 田上河のあじろもり ひをへてわが身よる方もなし そむきては いかなる方にながめまし 秋の夕べもうき世にぞうき ちぎりおく 花とならびの岡のべに あはれいくよの春をすぐさむ 月宿る 露の手枕夢さめて 奥手の山田秋風ぞふく はかなくて 降るにつけても淡雪の 消えにしあとをさぞ忍ぶらむ はかなしや 命もひとの言の葉も たのまれぬ世をたのむ別れは 花ならぬ 霞も波もかかるなり 淵江のうらの春のあけぼの 春近き 鐘の響きのさゆるかな 今宵ばかりと霜やおくらむ 春の日の 長き別れにつくつくと なぐさめかねて花を見るかな 春も暮れ 夏も過ぎぬるいつわりの 浮葉身にしむ秋の初風 降る雪に 道こそなけれ吉野山 誰踏み分けて思いいりけむ 最上川 はやくぞまさる天雲の 上れば下る五月雨のこと まとめ 徒然草は古典とはいえ、とても読みやすい随筆=エッセイです。 全編を一気に読もうとすると構えてしまうかもしれませんが、各段の題名で気になるものを拾い読みするという接し方でもよいのではないでしょうか。 気軽に手にしてみると、思いのほかすんなりと読めるのが徒然草だと私は感じています。
次の
吉田兼好 出典:Wikipedia 『徒然草』は、鎌倉時代末期に成立した吉田兼好の随筆です。 清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と並ぶ 日本三大随筆の一つ。 序段を含めて244段から成っています。 有名な冒頭文に つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば (とりとめもなく手持ちぶさたなままに硯に向かい、心に浮かぶたわいないことを赴くままに一日中書いていたもの) と述べていますが、「たわいもないこと」は謙遜の言葉なので、兼好が本当にそう思っているのではなく、生きて行く上での気づきや伝えたいメッセージが綴られています。 ここに取り上げた名言は、随筆のなかのほんの一部分です。 一文だけでは本意がわかりにくい部分は、解説の中で補いながら味わってみたいと思います。 名言1. 「命は人を待つものかは」 音に聞くと、見る時とは何事も変るものなり (評判を聞くのと実際に見るのとでは、かなり違うものである) 『徒然草』第73段 これは「百聞は一見にしかず」に似て、少しニュアンスは違います。 「百聞は~」のほうは、「何度も聞くより、ちょっとでも見るほうが本当のことがよくわかる」から、自分の目で確かめなさい、という意味。 兼好がここで言っているのは、虚言や 流言飛語 りゅうげんひご(デマ)が多い世の中にあって、下世話な人の語る話は、刺激的だが信用ならない、ということ。 まともな人は怪し気なことを触れ歩いたりしないのだから、やたら人の興味をそそるようなデマは、 話し半分に聞いておきなさいというのです。 昔も今も変わらないな、と思いませんか。 名言3. 「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。 」 初心の人、二つの矢を持つことなかれ。 後の矢を頼みて、始めの矢に 等閑 とうかんの心あり (弓の初心者は、矢を射るとき二本の矢を持ってはならない。 ) 『徒然草』第92段 後の矢を頼りにして、最初の矢をいい加減にしてしまう。 ある弓の師匠が言ったことを兼好が紹介した言葉です。 甘えは、その時自分自身は気付かなくても、生まれることがあります。 次があると思うと微かに油断してしまいがちです。 「次はない」のだと思って、 その一瞬に全てを集中するべきだと説いています。 名言4. 「花は盛りに月は隈なきをのみ」 花は盛りに月は 隈 くまなきをのみ見るものかは (桜の花は満開の時だけ、月は満月の時だけに見るものだろうか? いやそうではない) 『徒然草』第137段 桜は満開の時、月は満月の時が一番だという思い込み。 そこへ兼好は、あえて彼独自の美意識で不完全なものへの気づきを訴えています。 これを後世、本居宣長が「人の心に逆らった、利口ぶった心の偽物の風流だ。 」と厳しく批評。 しかし、ここでは素直に兼好の言葉に注目します。 花の盛りや満月ばかりが美なのではなく、雨のために見えない月を思うこと、散った花びらがしおれて散らばった庭にも別種の美があると訴える兼好。 男女の恋もそれに似て、恋の終わったつらさや、守られない約束を嘆くこと、長い夜に遠くにいる恋人を思うことこそ恋の情緒とだと言うのです。 逢ってべったり二人で過ごすだけが恋ではないと。 それは求めるか求めないかに関わらず、私たちにも理解はできますね。 兼好の凄さは、皆がどこかで ぼんやりと感じていたことをあえて 文字に明確に記したところではないでしょうか。 名言5. 「第一の事を案じ定めて、」 第一の事を案じ定めて、その外は思ひ捨てて、一事を励むべし (第一のことを心に決めて、そのほかは気持ちを捨てて、その一つのことだけを励むべきだ) 『徒然草』第188段 この段では、兼好は法師になろうとする人の例で戒めます。 説教をしに出掛けられるように、まず馬にのることを習い、仏事のあとの酒を飲む機会に披露する芸事を習っているうちに肝心の説教を習うヒマがなくなって年老いた、という本末転倒の話しです。 余計なことに囚われていると、結局一芸に優れた者になれず、思ったように立身出世もできず、後悔しても取り返しの付かない年齢になってしまうのです。 目標を定めたらそれ 一つに集中して、他は捨てる勇気が必要です。 せめて一つを成し遂げよ、という兼好の言葉に耳が痛い思いをするのは一人や二人ではないはずです。 特別枠「よき友三つあり。 」 よき友三つあり。 一つには物くるる友。 二つには 医師 くすし。 三つには智恵ある友 『徒然草』第117段 この言葉には、現代訳は必要ないでしょう。 なんだか笑ってしまいませんか。 確かに、個々に挙げられた3つのタイプの友人は、とっても役に立ってくれそうな実用的なタイプばかり。 この文章の前には、悪い友の7つのタイプの例が挙げられており、それの反対の例として続く文です。 間違いとは言いませんが、いずれも直接的・即物的なかんじです。 この兼好の正直さに親しみさえ感じてしまいます。 「あなたはとてもいい友達よ。 だって色んな物をくれるもの」 これを公言して、あなたの交友関係に問題が生じないという保証は致しかねますが。 おわりに 兼好の名言は、大上段に構えた大袈裟なものではありませんが、 ふと気付いたことが丁寧に綴られ、キラリと光るセンスが見えます。 そこに共感するも反発するも人それぞれ。 でもそれが人の生き方について考えるきっかけになれば兼好も本望なのではないでしょうか。 吉田兼好の年表を含む【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。 関連記事 >>>> その他の人物はこちら 鎌倉時代に活躍した歴史上の人物 関連記事 >>>> 時代別 歴史上の人物 関連記事 >>>>.
次の
鎌倉幕府滅亡。 後醍醐天皇による建武の新政開始 1336年(54歳)南北朝分裂。 この頃までに『徒然草』完成 1338年(56歳)足利尊氏征夷大将軍に就任。 大飢饉 1352年(70歳)兼好死没 吉田兼好の多彩な才能と交流 吉田兼好は、鎌倉時代末期から南北朝、室町時代に生きた歌人、随筆家、古典学者、能書家です。 本名は 卜部兼好 うらべかねよしといい、出家後には 兼好法師と呼ばれました。 京の吉田神社の 神職・占部氏出身というのが通説です。 近年では、 「滝口の武士」(従六位程度の官位を持つ朝廷の警護の兵のこと。 )出身だったのではないかと言われています。 鎌倉幕府の執権となった 金沢貞顕 かねさわさだあき(北条貞顕)や九州探題の 今川了俊 いまがわりょうしゅんといった身分の高い武士たちと兼好の交流は、職務がきっかけであったとすれば納得できます。 また、『徒然草』の中には武術を学ぶことの重要さも書かれているのは、元武士ならでは。 『徒然草』の作成時期については、鎌倉時代末期ごろという説が主流です。 兼好の 出家は30歳前だろうと言われますが、その理由はわかりません。 出家後は大阪の正圓寺付近に 庵を構え、仏道修行と和歌や文学的な素養を磨くことに専念しました。 公卿で歌人の 二条為世 にじょうためよに師事して和歌を学び、その腕前は二条派門下の四天王の一人とされるほどの実力。 晩年には足利尊氏の執事・ 高師直 こうのもろなおとの関わりもありましたが、権力や富には執着せず、質素な生活をしていました。 没年については、1350年とも1352年とも言われています。 人間・吉田兼好 『徒然草』での兼好の一貫した姿勢と、彼の人間味あふれる逸話をご紹介します。 『徒然草』の無常観への共感 多彩な才能を持つ兼好の一番の業績は 『徒然草』を著したことでしょう。 244段にわたって兼好の思索や雑感、逸話が漢字や仮名文字で順不同に語られます。 短編集のような作品で、各段に関連はありませんが、作品全体に一貫して流れるものは 「無常観」。 彼が生きた時代は、戦乱が絶えず、饑饉や病などに人々が苦しめられた時代でした。 命のあるものはいつか死ぬ、形のあるものはいつか壊れる、といった「無常」を受け入れるのが、兼好自身の生き方だったのです。 彼の没後に弟子の命松丸や友人の今川了俊が『徒然草』を編纂。 平易な語り口と内容が乱世を生きる人々に少しずつ共感をもたらします。 そして兼好の死後100年経った江戸時代、『徒然草』は 庶民の身近な古典となりました。 能書家兼好の使い方?高師直の場合 達筆で知られた兼好の書の実力を示すエピソードがあります。 足利尊氏の側近・ 高師直 こうのもろなおが、美人と評判の 塩谷高貞 えんやたかさだの妻を口説こうとします。 そして、達筆で文才のある 吉田兼好に恋文の代筆を依頼したのです。 ラブレターの内容が気になりますが、送られた文は高貞の妻が開きもせず、庭に捨ててしまったのだとか。 読んでもらえなければさすがの兼好もどうしようもありません。 この太平記の逸話は100%史実ではないかもしれません。 でも、きっと兼好は頼まれれば 他人の恋文を書くのをいとわないほど 親しみやすい人物だったのでしょうね。 ところで、兼好は『徒然草』35段で、 文 ふみは文字が下手な人も遠慮をせずにどんどん書き散らせ、文字下手を隠そうと人に 代筆をさせるのは見苦しいとも言っています。 あれっ? これってやってることと書いてることが矛盾してると思いませんか? 遁世者兼好とお金 兼好は遁世者として 質素な生活をしていました。 が、一説には田畑などの 資産があったからこそ 文筆に没頭出来る生活ができたのだとも言われています。 兼好の時代には既に貨幣経済が定着していました。 年貢として米などの現物の代わりに宋銭で治める代銭納が現れ、金融業も盛ん。 清貧の兼好もお金なしに生きられない時代でした。 ここに、二条派の和歌四天王である兼好と、同じ四天王のひとり 頓阿 とんあとの間にお金に関するおもしろい和歌のやりとりがあります。 兼好が頓阿に歌を送ります。 夜 よもすずし 寝 ね覚めのかりほ 手 たまくらも 真 ま 袖 そでの秋に 隔 へだてなき風 秋の寝覚めの涼しさを詠んだこの和歌。 裏のメッセージがわかりますか? 句切れごとの頭文字と最後の文字を拾っていくと、ある言葉が浮かび上がるのです。 頭文字を合わせると 「 よねたまへ 米給え」、逆から句の最後の文字を拾えば 「 ぜにもほし 銭も欲し」となるからくり。 お米とお金を無心する和歌だったのですね。 さすが和歌の達人頓阿は、その遊び心を見抜き、歌を返します。 夜も 憂 うし ねたく我が 背子 せこ 果ては来ず なほざいにだに しばし 訪 とぶらひませ 兼好に、うちにおいで、というのが表の意味です。 兼好の歌と同様に文字を拾えば 「 よねはなし 米は無し、 せにずこし 銭少し」という裏のメッセージが。 ユーモア溢れる二人のやり取りを通して、兼好の人間味や貨幣生活が根付いている様子がわかる逸話です。 きょうのまとめ 最後までお読みいただきありがとうございました。 吉田兼好について簡単にまとめておきます。
次の