タナトス エロス。 エロスとタナトス (1970年) (AL選書)

タナトス

タナトス エロス

戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。 仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。 きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。 もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。 思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。 その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。 感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。 経営もしだいに逼迫していくだろう。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。 人間一人ずつに対処して治療する。 これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。 いわば人類が相手なのである。 人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。 これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。 ゼツヒツの1冊だ。 進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。 ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。 免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。 だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。 ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。 「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 いずれも大いに考えさせられた。 イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。 イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。 COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。 本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。 リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。 さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。 「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。 まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。 スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。 かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。 だからテレワークをしたわけではない。 ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。 当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。 最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。 プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。 テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。 はたしてうまくいったかどうか。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。 安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。 書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。 けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。 76歳には過剰だったのかもしれない。 まあ、それはともかく、やってのけたのだ。 すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。 たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。 ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。 とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。 このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。 そのことに苦言を呈した。 もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。 つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。 ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。 そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。 RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。 新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。 そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。 せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。 千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。 「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。 それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。 そのうち放逐されるだろう。 学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。 下戸でもある。 だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。 たいへん申し訳ない。 レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。 これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。 かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。 格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。 ごめんなさい。 子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。 それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。 実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。 感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。 これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。 ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。 パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。 デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。 出版文化産業振興財団の発行である。 いろいろ参考になるのではないかと思う。 中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。 次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。 これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。 日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。 1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。 この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。 「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。 新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。 パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。 何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。 けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。 まさに隙間だけで動く。 ところがウィルスはこれらをもってない。 自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。 生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。 だから他の生物に寄生する。 宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。 ところがこれらは自立していない。 他の環境だけで躍如する。 べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。 もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。 鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。 たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。 さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。 まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。 千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。 木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。 開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。 なかなか壮観だ。 壮観なだけでなく、おもしろい。 やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。 ツイッターでは及びもつかない。 参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。 ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。 赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。 イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。 これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。 カトめぐ、よくやっている。 穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。 このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。 ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。 もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。 こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。 満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。 現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。 かなり気にいっている。 なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。 鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。 「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。 最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。 この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。 あしからず。 編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。 『編集力』は本気本格をめざしたのだ。 ぜひ手にとっていただきたい。 あしからず。 ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。 やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。 それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。 来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。 それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。 最近読んだいくつかを紹介する。 ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。 「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。 同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。 2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。 コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。 現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。 ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。 注文が多い日々がくることを祈る。 ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。 知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。 リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。 ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。 インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。 原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。 最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。 今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。 さらにきわどい芸談に向かってほしい。 佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。 ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。 「都市の身体」を掲げた。 仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。 ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。 いろいろ呆れた。 とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。 人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。 教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。 ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。 ラグビージャパンはよくやった。 予選リーグは実に愉快だった。 何度も観たが、そのたびにキュンキュンした。 堀江、松島、福岡には泣かされた。 これまでは力不足だった田村もよかった。 リーチ・マイケルのサムライぶりがやっと全国に伝わったのも嬉しかったが、こういうサムライは世界のラグビーチームには、必ず2~3人ずついるものだ。 リーチも田村もルークも姫野もイマイチだった。 CTBの中村のタックルとフルバックの山中の成長を評価したい。 5年ほど前は体が辛そうだった。 平尾とは対談『イメージとマネージ』(集英社文庫)が残せてよかったと、つくづく憶う。 あのときの出版記念パーティには松尾たちも来てくれて、大いに沸いた。 美輪明宏さんが「いい男ねえ」と感心していたのが懐かしい。 まさにミスター・ラグビーだったが、繊細で緻密でもあった。 「スペースをつくるラグビー」に徹した。 トップリーグよりも、冬の花園の高校生たちの奮闘を観てもらうのが、おそらくいいのではないかと思う。 ただし、カメラワークをもっとよくしなければいけない。 孫犁冰さんが渾身の翻訳をしてくれた。 『歴史与現実』という訳になっている。 孫さんは新潟と上海を行き来して、日中の民間外交に貢献している気鋭の研究者で、すばらしいコミュニケーターだ。 イシス編集学校の師範代でもある。 韓国語になった本が7冊になっているので、少々は東アジアと日本のつながりの一助を担ってくれていると信じるが、日中韓をまたぐこういう「言葉のラグビー」や「思想文化のまぜまぜアスリート」は、いまはまだからっきしなのである。 中国文化サロン、日本僑報社、日中翻訳学院、中国研究書店、日韓大衆文化セミナー、日中韓交流フォーラムなどの充実に期待する。 東方書店の「知日」という月刊雑誌ががんばってくれている。 ぼくが知るかぎり、「エロスとタナトス」という言葉が大好きで、これをやたらに連発するのはアラーキーこと荒木経惟()である。 「ぼくの写真はエロスとタナトスを撮ってるからね」「ほら、この花がさ、エロスとタナトスの裏返しなんだよ」「やっぱりエロスを追求するとタナトスになるんだよな」というふうに。 アラーキーの写真が「エロスとタナトス」の写像的二重性によって成り立っていることは、まさに本人が言う通りで、これほど一貫した主題が撮りつづけられているのは他の写真家には見られぬほどである。 それについては1105夜にあれこれ書いたことなので、ここではこれ以上の応援演説をするのは省くことにするが、では、アラーキーが言うような「エロスはタナトスで、タナトスはエロスだ」というような見方は、いったいどのように認知されてきたのかというと、これはやっぱりフロイト()にまでさかのぼる。 フロイトが『快感原則の彼岸』において、させ、生の欲動と死の欲動を二重化し対置性をもって解釈しようとしたのが、そもそもの「エロスとタナトス」流行の淵源だった。 ただ、そのようなフロイトの指摘はその後、歪んだり、誤解されたり、忘れられたりもした。 それを人間文化史上の中軸におきなおして復活させたのがノーマン・ブラウンの本書『エロスとタナトス』だったのである。 もう少し先のことまでいえば、ブラウンの「エロスとタナトス」論の復活はさらに延展されて、その後はたとえばヘルベルト・マルクーゼの『エロス的文明』()へと発展していった。 というわけで、本書ほど有名な書名をもつ本はないと思うけれど、実は『エロスとタナトス』はもともとの原題ではない。 それなら誰がこれを『エロスとタナトス』にしたかというと、フランス語訳がそうした。 以来、60年代をへて本書はむしろ『エロスとタナトス』として、とくに日本の知識人のあいだを流浪した。 翻訳は秋山さと子さん。 1970年の刊行で、ぼくが「遊」の準備にとりかかろうとしていたころだ。 ドイツから帰ったばかりの筋金入りユング派の秋山さんが骨太のフロイト論を翻訳したのは勇気のある行為だと、当時、話題になった。 ぼくはその秋山さんからフロイトについてもユング()についてもいろいろ教わったけれど、残念ながら亡くなるのがやや早すぎた。 ノーマン・ブラウンが本書で言いたかったことは、一見すると、明快だ。 フロイト主義には多くの危険な言説がまじっているが、それを注意深く取り払っていきさえすれば、フロイトの仮説にはいくつかのたいそう重要な指摘があって、それらは人間の宿命、社会の本質、文明の特色などの隠れた真相を暴く力をもっていたということである。 とくに、われわれの真の欲求には無意識的なところがあって、そこには「生」(エロス)の本能とともに「死」(タナトス)の本能が付着しているということについては、もっと知られるべきであろうということだ。 心理学というものは、人間の心のしくみやはたらきを解明しようとする学問である。 しかしフロイトの精神分析学はその他の心理学とかなりちがっている。 どこがちがっているかというと、その根底に「無意識」を前提においた。 われわれは、自分は自分だと思っているが、それは自分らしきものを構成しているもののごくごく一部にすぎない。 フロイトによれば、そういう自分や自己の正体は、「それ」(Es エス)と呼ぶしかないどろっとした海のようなものの中に「自我」(Ich イッヒ)という島のようなものが浮かびながら混在している状態にある。 すでに「千夜千冊」でも案内したように、「エス」はゲオルグ・グロデック()の用語を借りたもので、英語圏ではラテン語の「イド」(Id)になる。 このエスやイドが「無意識」に押し込められ、埋められたままになっている。 そこにはエロスとタナトスの本能が互いに表裏一体のような関係で織りこまれていて、そのことと、社会の本質、文明の特色などとは切っても切れないものとなっている。 そうだとしたら、人間はここに「第三の審級」としての「超自我」のようなものを現出しようとするだろう。 文明とは、この無意識・自我・超自我の互いに絡んだ歴史だったのではあるまいか。 ごくおおざっぱにいうなら、こういうフロイト精神分析学の仮説にブラウンは注目したわけである。 全部に注目したのではない。 問題は、エロスとタナトスが「無意識」の奥に埋めこまれているのかどうかだった。 きっとそこにはもっとさまざまな様態をとっていたり、出入りしているのではないかというところなのだが、少なくともフロイトの仮説では、そこには無意識のみが関与する。 そこでブラウンは本書において、エロスとタナトスを心の奥の無意識によってしか説明できないものかを問うた。 ぼくが見るに、その問い方がすぐれていた。 だからブラウンは、本書でこのフロイト論ばかりを弁護したのではなかった。 実はもっと興味深い、哲学的で、かつ経済社会論上の指摘もしていた。 ぼくがかつて感応したところでいえば、さまざまに編集的示唆に富むことを指摘していた。 編集的世界観の素材のヒントもふんだん詰まっていた。 そこがいまふりかえってもなかなかなのである。 が、そのことについてはのちにのべることにして、まずはブラウンが選リ分けたフロイト論の骨子を、もう少しだけ紹介する。 フロイトの思想を解く鍵は「抑圧」にある。 フロイトの生涯にわたる研究はほとんど「抑圧の研究」だったといっていいほどだ。 抑圧を解明するにあたって、フロイトが対象にしたは、よく知られているだろうが、主として3つあった。 これらはすべて抑圧的無意識が絡んでおこったこととみなされる。 そこでフロイトは、人間のなかにはふだんの意識的な生活とともに無意識的な日々が同時にはたらいているとみて、これらの抑圧された心理は「無意識的思考」になっているのではないかと考えた。 ただ、この心理現象は、その心理をもつ本人の意識的な自己否認や自己抵抗があるために、フツーの方法では意識化できない。 取り出せない。 そのため人間は目的に向かおうとすればするほど、非意図的目的に自分が律せられているというふうになりかねない。 人間はそういうとみなしたのだ。 これがフロイトふう無意識的思考というものなのだが、この逆説がいささかクセモノだった。 実際にも、人間には無意識があるという仮説は、その後の多くの心理学派を迷わせた。 それはともかく、フロイトのいう「無意識」はわれわれの心の奥にある花園でも神秘でもなく、抑圧そのものの捩れたアーカイブになっているということなのである。 フロイトの研究真意は無意識の解明ではなく、抑圧の説明にあったということだ。 ここまでがフロイト論の骨格の前提になる。 意識と無意識の関係図 意識と無意識の間には、記憶の「複合化」や 夢による「検閲」(抑圧)という二つの捩じれた編集工程が置かれる。 さらには「置き換え」、「圧縮」、などの加工が施される。 そもそもフロイトは、人間の精神活動がほとんど快感原則に従っているとみなしていた。 快感原則とは苦痛を回避して、少しでも快楽を求めようとすることをいう。 しかし、この快感原則は日常的に保証されるとはかぎらない。 つねに社会的な制約のなかで歪んでいく。 おいしいものを食べたいという欲望やきれいなものを着たいという欲望は、ある程度の収入がなければ満足させられないし、リビドー(性欲)のようなものはよほどの状態が準備されないかぎり、ふだんは制約されざるをえない。 そこで知らず知らずのうちに意識の快感原則と社会の現実原則のあいだに矛盾や亀裂が生じ、それが抑圧となってわれわれの意識の奥にその矛盾や亀裂のしこりのような残像を残していく。 こうして日々抑圧されて無意識の捩れたアーカイブとなったものは、容易には取り出せないものとなる。 ストレートに取り出せば窃盗や覗きやストーカーや殺害になりかねない。 そのため多くの人間はしばしばこれを回避するあまり、不可解な行動をとる。 それは自己防衛でもあるのだが、また複雑なエスと自我との絡みのあらわれでもあった。 たとえば「反動形成」だ。 ある欲望を抑圧したことが、その反動として正反対に近い表現や行動になる。 嫌いな相手なのについつい丁寧になってしまうような例である。 これは社会習慣のなかではマナーやエチケットになっていった。 たとえば「投影」もおこる。 これは自分がもっている感情や欲望を、自分がそれをもっているのだと思わずに相手がもっているものだと思いこんでしまうことをいう。 その逆に「同一視」も生じてしまう。 他人の態度や行動を自分にとりいれているうちに、そのことを自分のオリジナルだと思いこむ。 たとえばまたムキになって「否認」することも、しばしばおこる。 みんなに周知の事実をさえ認めない。 相手が美しいとか強いと思ってしまうと自分がダメになると思って否認する。 またたとえば「分離」をおこす。 AとBの因果関係が自分に起因していることがうすうすわかっていても、それを分離して他人事のように自分がそれを語れるようにしてしまうわけである。 こういう例をフロイト学派はゴマンとあげて縷々説明しているのだが、これでは人間は何をしたってビョーキなのである。 そこでブラウンはこれらの症例的行為には目も向けず、フロイトやフロイト学派が最後にあげた「昇華」にのみ注目した。 昇華とは、社会的な現実原則からするとなかなか受け入れられないような抑圧的欲望を、著作や小説や芸術や歌や修行やスポーツなどにして、いわば社会的なコミュニケーションの可能性にしだいに転換していくことをいう。 本書は第1部「問題」、第2部「エロス」、第3部「タナトス」ときて、第4部に「昇華」をおいているのだが、ブラウンはこの昇華を「転移」とも呼び替えつつ、取り出せなくなっている抑圧の絡みも、これを少しずつ世界観をもったコミュニケーション能力の表出に向けていけば、無意識的思考ではなくなる可能性があると言いたかったのである。 念のため言っておくけれど、フロイトを「無意識の発見者」とか「心の正体の解明者」とよぶのは当たらない。 フロイト自身、「私が発見したのは無意識が研究されうる方法である」と言っている。 ノーマン・ブラウンが本書の記述において採ったのも、「方法としてのフロイト」に注目することだった。 しかし、方法に注目することは(ぼくもつねにそうしているのだが)、ひとりフロイトの方法に注目することにはならない。 その方法の可能性に類似する多くの方法をそこへ組み合わせながら呼びこんでくることになる。 本書がかつてぼくに影響を与えたのは、そこである。 フロイトは幼児期に性欲が抑圧されていることをもって、エロスはすでに幼児の成長の遅延として発芽しているにもかかわらず、それが大人社会の制約で思いもかけない禁止を受けるため、そのエロスは当初からタナトスの香りをもってきたとみなした。 「禁じられた遊び」とはそのことだ。 ブラウンは、仮に幼児にそうした傾向があったとしても、それは抑圧的なエロスとタナトスの関係のまま停止していくものになるとはかぎらないというふうに見る。 ヒステリー患者の自由連想 ヒステリー患者の発症と幼少体験の間には、 分散し、集合する「連想の編目」が広がっている。 こうしてブラウンは、アッシジの聖フランシスコ、ヤコブ・ベーメ、ウィリアム・ブレイク()、ライナー・マリア・リルケ()らを持ち出して、エロスとタナトスはそれを同時に感じられているときは、「永遠の生成の遊び」を秘めているのだろうと考えた。 またシャルル・フーリエ()やジョン・メイナード・ケインズを持ち出して、実は初期の経済活動やその組織化の試みには、生産と分有に関するエロスとタナトスの遊びが反映しているのではないかとも見た。 とくにサンドラ・フェレッティの『遊戯と経済的行動の理論』に耳を傾けた。 こういうフロイト主義者はあまりいなかった。 一言でいうのなら、エロスの本質が自己以外の他者との融合にあるのなら、そのエロスは心理的葛藤だけではなく、さまざまな社会活動や経済活動にあらわれているはずだというのが、ノーマン・ブラウンの見方なのである。 ぼくはドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』()やそれに続く著作群が、すぐれたフロイト主義と資本主義の重層構造を暴いた大きな思想の試みではあるとは思っているのだが、そこにはブラウンのような見方は欠けていた。 むろんフロイトも、エロスとタナトスが個人の無意識に閉じ込められたままになるとは言ってはいない。 しかし、それは精神分析にとっては「代償」なのである。 「贖い」なのだ。 『モーセと一神教』()において、ヨーロッパ的宗教の成立そのものに「原父の殺害」という隠された動機を読みとったフロイトにとって、宗教そのものが精神の解放の全プログラムをもちうるとは、どうしても考えられなかったからである。 ブラウンは宗教にはこだわらない。 もっといろいろな方法がフロイトの方法と共鳴しあっていることを指摘した。 スピノザ()が神との愛の相克をめぐる哲学をしたことも、ノヴァーリス()らのドイツ・ロマン派が「夜の側」をもって地下に眠る鉱物的意識を蘇生しようとしたことも、エロスとタナトスの昇華の試みだったろうと見た。 まさにその通りだ。 さらには、ショーペンハウアー()とニーチェ()こそは、エロスとタナトスを世界観や世界意志に近づけた最も大きな思索の成果をもたらしたのであろうことを指摘する。 このことは(ニーチェとフロイトの近似性は)ぼくもいくら強調しても強調したりないとは思うけれど、今夜はここはスキップしておこう。 ぼくが今夜ぜひとも紹介しておきたいのは、第5部「肛門性の研究」の第15章「汚れた金銭」にのべられていることである。 ここでブラウンが最初に持ち出すのはアルフレッド・ホワイトヘッド()なのである。 ブラウンは経済活動の本来は有機体のなかでとらえられなければならなかったと言うのだ。 これは20世紀の経済が金銭と数量にシフトしすぎていることを告発するとともに、「価値」は有機的な関係性のなかからしか掴み出せないということを示唆するためだった。 そのうえでマルクス()の労働論、デュルケムやジンメルやケインズの貨幣論を縫いあわせつつ、ブラウンが案内するのはなんとジョン・ラスキン()の経済哲学とカール・ポランニー()の経済人類学なのである。 詳しいことは省くけれど、ラスキンが「すべて本質的な生産物は口のためであり、最後もまた口によって評価されてきた」「一般に金銭とよばれてきたものはすべて負債の承認である」というくだりの解読など、なるほどフロイトの方法はこのようにラスキンの方法によって編集できるのかという手際であった。 とくにポランニーの「経済は計算には支配されていない本質をもつ」「人間の経済は社会の環境の中に埋められている」「経済は非経済的動機によって動いている」を、フロイトの方法と重ねて読み明かし、そこからマルセル・モースの贈与論やレヴィ・ストロース()の構造主義に注釈をつけていく手際は、あっと声をあげたものだった。 贈与に母性的なるものがひそみ、獲収にはそれを打ち破って平板化しようとする父性原理があるという指摘もある。 これまた示唆深いことではあるが、今夜はそのことは暗示しておくにとどめよう。 とにもかくにも、ノーマン・ブラウンの編集的世界観、もちろんフロイトに片寄りすぎてはいるものの、実にたいしたものだった。 もしも世の中に、異常と正常があるというのなら、世の中は異常のうちの一部の価値観を多数決をもって平板化してみせて、それを正常と名付けたのである。 いまはこれをグローバル・スタンダードとか標準的価値観と呼んでいる。 精神分析学は、この異常のほうに神経症などの精神病をあて、正常のほうに健康と思われる精神状態をあてたのであるが、この二つの状態で何が異なっているかといえば、正常(健康)とは、異常(症状)のうちのごくごく流布された社会的な症状であるということだけなのだ。 エロスとタナトスにおいては、何が異常で何が正常であるかさえ、さっぱりわからない。 そこを分別できないことが、エロスでありタナトスの本質であるからだ。 そのくせ、われわれは自分のなかの突発的な衝動を抑え、それを価格が貼りつけられた商品として購買できるときにだけ、ニーズやウォンツが消費された(獲保された)と思うようになってしまった。 そう、飼いならされた。 そして、そのような標準的価値観が公正に並んでいるのが市場というものだと信じるようになった。 しかし、人間の情動や欲望がそんなもので収まらないことは、誰でも知っている。 ジグムント・フロイトはそこに鋭いメスを入れ、どんな欲望と消費の活動にも必ずや抑圧された無意識がかかわっていることを暴いた。 この暴露、おそらく80パーセントは当たっているだろう。 しかし、この抑圧をどうすればいいのか。 それはビョーキなのだから治癒してあげましょうというのが精神分析医たちで、それでも、それをみんなでガマンする社会にしましょうねというのが民主主義というものである。 けれども精神分析が症状の指摘については得意であってもその介抱については限界があり、民主主義も多数決の妖刀をふるってかなり怪しい成立をしてきたことについては、ジャック・ラカンの『テレヴィジオン』()や森政稔の『変貌する民主主義』()にも書いておいたことである。 一方、ノーマン・ブラウンは、抑圧された無意識を昇華するにはむしろ世界観が必要で、その世界観を表現する方法が採出され、それぞれが照らし合わされなければならないと見た。 すでにフロイトにもひそんでいた方法ではあったけれど、ブラウンはその狭い入口に大きな出口をくっつけた。 これがぼくからすれば、まさに編集的世界観の作り方に似ていたわけである。 本書は初読・再読このかた、ずいぶんほったらかしにしておいた一冊だった。 だいたいほったらかしにしておいた本というのは、クセモノだ(笑)。 なぜなら、それらは往々にしてぼくのタネ本であることが多いからである。 なんだか暗示的なことばかり綴ったのも、そのせいだ。 本書の詳細については、ぜひともホンモノに当たられたい。

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エロスタナトス

タナトス エロス

ヘシオドス『神統記』211-214• ヒュギーヌス『神話集』序文• キケロー『神々の本性について』3巻17• ホメーロス『イリアス』第十六歌 666-683• ヘシオドス『神統記』758-766• エウリピデス『アルケースティス』260• エウリピデス悲劇『アルケースティス』訳 登場人物• フェリックス・ギラン『ギリシア神話』ハーデースの補助神たち• ヘシオドス『神統記』755-767• 『』六巻268-280• フェリックス・ギラン『ギリシア神話』英雄たち編 ベレロポーンとコリントスの英雄たち.

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小説「タナトスの誘惑」自殺願望を描いた衝撃の結末。「夜に駆ける」との関係性は?

タナトス エロス

戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。 仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。 きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。 もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。 思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。 その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。 感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。 経営もしだいに逼迫していくだろう。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。 人間一人ずつに対処して治療する。 これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。 いわば人類が相手なのである。 人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。 これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。 ゼツヒツの1冊だ。 進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。 ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。 免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。 だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。 ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。 「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 いずれも大いに考えさせられた。 イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。 イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。 COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。 本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。 リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。 さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。 「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。 まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。 スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。 かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。 だからテレワークをしたわけではない。 ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。 当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。 最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。 プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。 テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。 はたしてうまくいったかどうか。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。 安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。 書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。 けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。 76歳には過剰だったのかもしれない。 まあ、それはともかく、やってのけたのだ。 すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。 たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。 ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。 とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。 このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。 そのことに苦言を呈した。 もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。 つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。 ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。 そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。 RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。 新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。 そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。 せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。 千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。 「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。 それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。 そのうち放逐されるだろう。 学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。 下戸でもある。 だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。 たいへん申し訳ない。 レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。 これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。 かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。 格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。 ごめんなさい。 子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。 それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。 実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。 感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。 これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。 ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。 パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。 デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。 出版文化産業振興財団の発行である。 いろいろ参考になるのではないかと思う。 中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。 次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。 これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。 日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。 1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。 この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。 「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。 新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。 パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。 何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。 けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。 まさに隙間だけで動く。 ところがウィルスはこれらをもってない。 自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。 生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。 だから他の生物に寄生する。 宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。 ところがこれらは自立していない。 他の環境だけで躍如する。 べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。 もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。 鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。 たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。 さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。 まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。 千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。 木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。 開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。 なかなか壮観だ。 壮観なだけでなく、おもしろい。 やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。 ツイッターでは及びもつかない。 参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。 ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。 赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。 イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。 これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。 カトめぐ、よくやっている。 穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。 このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。 ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。 もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。 こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。 満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。 現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。 かなり気にいっている。 なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。 鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。 「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。 最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。 この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。 あしからず。 編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。 『編集力』は本気本格をめざしたのだ。 ぜひ手にとっていただきたい。 あしからず。 ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。 やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。 それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。 来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。 それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。 最近読んだいくつかを紹介する。 ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。 「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。 同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。 2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。 コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。 現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。 ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。 注文が多い日々がくることを祈る。 ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。 知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。 リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。 ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。 インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。 原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。 最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。 今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。 さらにきわどい芸談に向かってほしい。 佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。 ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。 「都市の身体」を掲げた。 仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。 ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。 いろいろ呆れた。 とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。 人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。 教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。 ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。 ラグビージャパンはよくやった。 予選リーグは実に愉快だった。 何度も観たが、そのたびにキュンキュンした。 堀江、松島、福岡には泣かされた。 これまでは力不足だった田村もよかった。 リーチ・マイケルのサムライぶりがやっと全国に伝わったのも嬉しかったが、こういうサムライは世界のラグビーチームには、必ず2~3人ずついるものだ。 リーチも田村もルークも姫野もイマイチだった。 CTBの中村のタックルとフルバックの山中の成長を評価したい。 5年ほど前は体が辛そうだった。 平尾とは対談『イメージとマネージ』(集英社文庫)が残せてよかったと、つくづく憶う。 あのときの出版記念パーティには松尾たちも来てくれて、大いに沸いた。 美輪明宏さんが「いい男ねえ」と感心していたのが懐かしい。 まさにミスター・ラグビーだったが、繊細で緻密でもあった。 「スペースをつくるラグビー」に徹した。 トップリーグよりも、冬の花園の高校生たちの奮闘を観てもらうのが、おそらくいいのではないかと思う。 ただし、カメラワークをもっとよくしなければいけない。 孫犁冰さんが渾身の翻訳をしてくれた。 『歴史与現実』という訳になっている。 孫さんは新潟と上海を行き来して、日中の民間外交に貢献している気鋭の研究者で、すばらしいコミュニケーターだ。 イシス編集学校の師範代でもある。 韓国語になった本が7冊になっているので、少々は東アジアと日本のつながりの一助を担ってくれていると信じるが、日中韓をまたぐこういう「言葉のラグビー」や「思想文化のまぜまぜアスリート」は、いまはまだからっきしなのである。 中国文化サロン、日本僑報社、日中翻訳学院、中国研究書店、日韓大衆文化セミナー、日中韓交流フォーラムなどの充実に期待する。 東方書店の「知日」という月刊雑誌ががんばってくれている。 ぼくが知るかぎり、「エロスとタナトス」という言葉が大好きで、これをやたらに連発するのはアラーキーこと荒木経惟()である。 「ぼくの写真はエロスとタナトスを撮ってるからね」「ほら、この花がさ、エロスとタナトスの裏返しなんだよ」「やっぱりエロスを追求するとタナトスになるんだよな」というふうに。 アラーキーの写真が「エロスとタナトス」の写像的二重性によって成り立っていることは、まさに本人が言う通りで、これほど一貫した主題が撮りつづけられているのは他の写真家には見られぬほどである。 それについては1105夜にあれこれ書いたことなので、ここではこれ以上の応援演説をするのは省くことにするが、では、アラーキーが言うような「エロスはタナトスで、タナトスはエロスだ」というような見方は、いったいどのように認知されてきたのかというと、これはやっぱりフロイト()にまでさかのぼる。 フロイトが『快感原則の彼岸』において、させ、生の欲動と死の欲動を二重化し対置性をもって解釈しようとしたのが、そもそもの「エロスとタナトス」流行の淵源だった。 ただ、そのようなフロイトの指摘はその後、歪んだり、誤解されたり、忘れられたりもした。 それを人間文化史上の中軸におきなおして復活させたのがノーマン・ブラウンの本書『エロスとタナトス』だったのである。 もう少し先のことまでいえば、ブラウンの「エロスとタナトス」論の復活はさらに延展されて、その後はたとえばヘルベルト・マルクーゼの『エロス的文明』()へと発展していった。 というわけで、本書ほど有名な書名をもつ本はないと思うけれど、実は『エロスとタナトス』はもともとの原題ではない。 それなら誰がこれを『エロスとタナトス』にしたかというと、フランス語訳がそうした。 以来、60年代をへて本書はむしろ『エロスとタナトス』として、とくに日本の知識人のあいだを流浪した。 翻訳は秋山さと子さん。 1970年の刊行で、ぼくが「遊」の準備にとりかかろうとしていたころだ。 ドイツから帰ったばかりの筋金入りユング派の秋山さんが骨太のフロイト論を翻訳したのは勇気のある行為だと、当時、話題になった。 ぼくはその秋山さんからフロイトについてもユング()についてもいろいろ教わったけれど、残念ながら亡くなるのがやや早すぎた。 ノーマン・ブラウンが本書で言いたかったことは、一見すると、明快だ。 フロイト主義には多くの危険な言説がまじっているが、それを注意深く取り払っていきさえすれば、フロイトの仮説にはいくつかのたいそう重要な指摘があって、それらは人間の宿命、社会の本質、文明の特色などの隠れた真相を暴く力をもっていたということである。 とくに、われわれの真の欲求には無意識的なところがあって、そこには「生」(エロス)の本能とともに「死」(タナトス)の本能が付着しているということについては、もっと知られるべきであろうということだ。 心理学というものは、人間の心のしくみやはたらきを解明しようとする学問である。 しかしフロイトの精神分析学はその他の心理学とかなりちがっている。 どこがちがっているかというと、その根底に「無意識」を前提においた。 われわれは、自分は自分だと思っているが、それは自分らしきものを構成しているもののごくごく一部にすぎない。 フロイトによれば、そういう自分や自己の正体は、「それ」(Es エス)と呼ぶしかないどろっとした海のようなものの中に「自我」(Ich イッヒ)という島のようなものが浮かびながら混在している状態にある。 すでに「千夜千冊」でも案内したように、「エス」はゲオルグ・グロデック()の用語を借りたもので、英語圏ではラテン語の「イド」(Id)になる。 このエスやイドが「無意識」に押し込められ、埋められたままになっている。 そこにはエロスとタナトスの本能が互いに表裏一体のような関係で織りこまれていて、そのことと、社会の本質、文明の特色などとは切っても切れないものとなっている。 そうだとしたら、人間はここに「第三の審級」としての「超自我」のようなものを現出しようとするだろう。 文明とは、この無意識・自我・超自我の互いに絡んだ歴史だったのではあるまいか。 ごくおおざっぱにいうなら、こういうフロイト精神分析学の仮説にブラウンは注目したわけである。 全部に注目したのではない。 問題は、エロスとタナトスが「無意識」の奥に埋めこまれているのかどうかだった。 きっとそこにはもっとさまざまな様態をとっていたり、出入りしているのではないかというところなのだが、少なくともフロイトの仮説では、そこには無意識のみが関与する。 そこでブラウンは本書において、エロスとタナトスを心の奥の無意識によってしか説明できないものかを問うた。 ぼくが見るに、その問い方がすぐれていた。 だからブラウンは、本書でこのフロイト論ばかりを弁護したのではなかった。 実はもっと興味深い、哲学的で、かつ経済社会論上の指摘もしていた。 ぼくがかつて感応したところでいえば、さまざまに編集的示唆に富むことを指摘していた。 編集的世界観の素材のヒントもふんだん詰まっていた。 そこがいまふりかえってもなかなかなのである。 が、そのことについてはのちにのべることにして、まずはブラウンが選リ分けたフロイト論の骨子を、もう少しだけ紹介する。 フロイトの思想を解く鍵は「抑圧」にある。 フロイトの生涯にわたる研究はほとんど「抑圧の研究」だったといっていいほどだ。 抑圧を解明するにあたって、フロイトが対象にしたは、よく知られているだろうが、主として3つあった。 これらはすべて抑圧的無意識が絡んでおこったこととみなされる。 そこでフロイトは、人間のなかにはふだんの意識的な生活とともに無意識的な日々が同時にはたらいているとみて、これらの抑圧された心理は「無意識的思考」になっているのではないかと考えた。 ただ、この心理現象は、その心理をもつ本人の意識的な自己否認や自己抵抗があるために、フツーの方法では意識化できない。 取り出せない。 そのため人間は目的に向かおうとすればするほど、非意図的目的に自分が律せられているというふうになりかねない。 人間はそういうとみなしたのだ。 これがフロイトふう無意識的思考というものなのだが、この逆説がいささかクセモノだった。 実際にも、人間には無意識があるという仮説は、その後の多くの心理学派を迷わせた。 それはともかく、フロイトのいう「無意識」はわれわれの心の奥にある花園でも神秘でもなく、抑圧そのものの捩れたアーカイブになっているということなのである。 フロイトの研究真意は無意識の解明ではなく、抑圧の説明にあったということだ。 ここまでがフロイト論の骨格の前提になる。 意識と無意識の関係図 意識と無意識の間には、記憶の「複合化」や 夢による「検閲」(抑圧)という二つの捩じれた編集工程が置かれる。 さらには「置き換え」、「圧縮」、などの加工が施される。 そもそもフロイトは、人間の精神活動がほとんど快感原則に従っているとみなしていた。 快感原則とは苦痛を回避して、少しでも快楽を求めようとすることをいう。 しかし、この快感原則は日常的に保証されるとはかぎらない。 つねに社会的な制約のなかで歪んでいく。 おいしいものを食べたいという欲望やきれいなものを着たいという欲望は、ある程度の収入がなければ満足させられないし、リビドー(性欲)のようなものはよほどの状態が準備されないかぎり、ふだんは制約されざるをえない。 そこで知らず知らずのうちに意識の快感原則と社会の現実原則のあいだに矛盾や亀裂が生じ、それが抑圧となってわれわれの意識の奥にその矛盾や亀裂のしこりのような残像を残していく。 こうして日々抑圧されて無意識の捩れたアーカイブとなったものは、容易には取り出せないものとなる。 ストレートに取り出せば窃盗や覗きやストーカーや殺害になりかねない。 そのため多くの人間はしばしばこれを回避するあまり、不可解な行動をとる。 それは自己防衛でもあるのだが、また複雑なエスと自我との絡みのあらわれでもあった。 たとえば「反動形成」だ。 ある欲望を抑圧したことが、その反動として正反対に近い表現や行動になる。 嫌いな相手なのについつい丁寧になってしまうような例である。 これは社会習慣のなかではマナーやエチケットになっていった。 たとえば「投影」もおこる。 これは自分がもっている感情や欲望を、自分がそれをもっているのだと思わずに相手がもっているものだと思いこんでしまうことをいう。 その逆に「同一視」も生じてしまう。 他人の態度や行動を自分にとりいれているうちに、そのことを自分のオリジナルだと思いこむ。 たとえばまたムキになって「否認」することも、しばしばおこる。 みんなに周知の事実をさえ認めない。 相手が美しいとか強いと思ってしまうと自分がダメになると思って否認する。 またたとえば「分離」をおこす。 AとBの因果関係が自分に起因していることがうすうすわかっていても、それを分離して他人事のように自分がそれを語れるようにしてしまうわけである。 こういう例をフロイト学派はゴマンとあげて縷々説明しているのだが、これでは人間は何をしたってビョーキなのである。 そこでブラウンはこれらの症例的行為には目も向けず、フロイトやフロイト学派が最後にあげた「昇華」にのみ注目した。 昇華とは、社会的な現実原則からするとなかなか受け入れられないような抑圧的欲望を、著作や小説や芸術や歌や修行やスポーツなどにして、いわば社会的なコミュニケーションの可能性にしだいに転換していくことをいう。 本書は第1部「問題」、第2部「エロス」、第3部「タナトス」ときて、第4部に「昇華」をおいているのだが、ブラウンはこの昇華を「転移」とも呼び替えつつ、取り出せなくなっている抑圧の絡みも、これを少しずつ世界観をもったコミュニケーション能力の表出に向けていけば、無意識的思考ではなくなる可能性があると言いたかったのである。 念のため言っておくけれど、フロイトを「無意識の発見者」とか「心の正体の解明者」とよぶのは当たらない。 フロイト自身、「私が発見したのは無意識が研究されうる方法である」と言っている。 ノーマン・ブラウンが本書の記述において採ったのも、「方法としてのフロイト」に注目することだった。 しかし、方法に注目することは(ぼくもつねにそうしているのだが)、ひとりフロイトの方法に注目することにはならない。 その方法の可能性に類似する多くの方法をそこへ組み合わせながら呼びこんでくることになる。 本書がかつてぼくに影響を与えたのは、そこである。 フロイトは幼児期に性欲が抑圧されていることをもって、エロスはすでに幼児の成長の遅延として発芽しているにもかかわらず、それが大人社会の制約で思いもかけない禁止を受けるため、そのエロスは当初からタナトスの香りをもってきたとみなした。 「禁じられた遊び」とはそのことだ。 ブラウンは、仮に幼児にそうした傾向があったとしても、それは抑圧的なエロスとタナトスの関係のまま停止していくものになるとはかぎらないというふうに見る。 ヒステリー患者の自由連想 ヒステリー患者の発症と幼少体験の間には、 分散し、集合する「連想の編目」が広がっている。 こうしてブラウンは、アッシジの聖フランシスコ、ヤコブ・ベーメ、ウィリアム・ブレイク()、ライナー・マリア・リルケ()らを持ち出して、エロスとタナトスはそれを同時に感じられているときは、「永遠の生成の遊び」を秘めているのだろうと考えた。 またシャルル・フーリエ()やジョン・メイナード・ケインズを持ち出して、実は初期の経済活動やその組織化の試みには、生産と分有に関するエロスとタナトスの遊びが反映しているのではないかとも見た。 とくにサンドラ・フェレッティの『遊戯と経済的行動の理論』に耳を傾けた。 こういうフロイト主義者はあまりいなかった。 一言でいうのなら、エロスの本質が自己以外の他者との融合にあるのなら、そのエロスは心理的葛藤だけではなく、さまざまな社会活動や経済活動にあらわれているはずだというのが、ノーマン・ブラウンの見方なのである。 ぼくはドゥルーズとガタリの『アンチ・オイディプス』()やそれに続く著作群が、すぐれたフロイト主義と資本主義の重層構造を暴いた大きな思想の試みではあるとは思っているのだが、そこにはブラウンのような見方は欠けていた。 むろんフロイトも、エロスとタナトスが個人の無意識に閉じ込められたままになるとは言ってはいない。 しかし、それは精神分析にとっては「代償」なのである。 「贖い」なのだ。 『モーセと一神教』()において、ヨーロッパ的宗教の成立そのものに「原父の殺害」という隠された動機を読みとったフロイトにとって、宗教そのものが精神の解放の全プログラムをもちうるとは、どうしても考えられなかったからである。 ブラウンは宗教にはこだわらない。 もっといろいろな方法がフロイトの方法と共鳴しあっていることを指摘した。 スピノザ()が神との愛の相克をめぐる哲学をしたことも、ノヴァーリス()らのドイツ・ロマン派が「夜の側」をもって地下に眠る鉱物的意識を蘇生しようとしたことも、エロスとタナトスの昇華の試みだったろうと見た。 まさにその通りだ。 さらには、ショーペンハウアー()とニーチェ()こそは、エロスとタナトスを世界観や世界意志に近づけた最も大きな思索の成果をもたらしたのであろうことを指摘する。 このことは(ニーチェとフロイトの近似性は)ぼくもいくら強調しても強調したりないとは思うけれど、今夜はここはスキップしておこう。 ぼくが今夜ぜひとも紹介しておきたいのは、第5部「肛門性の研究」の第15章「汚れた金銭」にのべられていることである。 ここでブラウンが最初に持ち出すのはアルフレッド・ホワイトヘッド()なのである。 ブラウンは経済活動の本来は有機体のなかでとらえられなければならなかったと言うのだ。 これは20世紀の経済が金銭と数量にシフトしすぎていることを告発するとともに、「価値」は有機的な関係性のなかからしか掴み出せないということを示唆するためだった。 そのうえでマルクス()の労働論、デュルケムやジンメルやケインズの貨幣論を縫いあわせつつ、ブラウンが案内するのはなんとジョン・ラスキン()の経済哲学とカール・ポランニー()の経済人類学なのである。 詳しいことは省くけれど、ラスキンが「すべて本質的な生産物は口のためであり、最後もまた口によって評価されてきた」「一般に金銭とよばれてきたものはすべて負債の承認である」というくだりの解読など、なるほどフロイトの方法はこのようにラスキンの方法によって編集できるのかという手際であった。 とくにポランニーの「経済は計算には支配されていない本質をもつ」「人間の経済は社会の環境の中に埋められている」「経済は非経済的動機によって動いている」を、フロイトの方法と重ねて読み明かし、そこからマルセル・モースの贈与論やレヴィ・ストロース()の構造主義に注釈をつけていく手際は、あっと声をあげたものだった。 贈与に母性的なるものがひそみ、獲収にはそれを打ち破って平板化しようとする父性原理があるという指摘もある。 これまた示唆深いことではあるが、今夜はそのことは暗示しておくにとどめよう。 とにもかくにも、ノーマン・ブラウンの編集的世界観、もちろんフロイトに片寄りすぎてはいるものの、実にたいしたものだった。 もしも世の中に、異常と正常があるというのなら、世の中は異常のうちの一部の価値観を多数決をもって平板化してみせて、それを正常と名付けたのである。 いまはこれをグローバル・スタンダードとか標準的価値観と呼んでいる。 精神分析学は、この異常のほうに神経症などの精神病をあて、正常のほうに健康と思われる精神状態をあてたのであるが、この二つの状態で何が異なっているかといえば、正常(健康)とは、異常(症状)のうちのごくごく流布された社会的な症状であるということだけなのだ。 エロスとタナトスにおいては、何が異常で何が正常であるかさえ、さっぱりわからない。 そこを分別できないことが、エロスでありタナトスの本質であるからだ。 そのくせ、われわれは自分のなかの突発的な衝動を抑え、それを価格が貼りつけられた商品として購買できるときにだけ、ニーズやウォンツが消費された(獲保された)と思うようになってしまった。 そう、飼いならされた。 そして、そのような標準的価値観が公正に並んでいるのが市場というものだと信じるようになった。 しかし、人間の情動や欲望がそんなもので収まらないことは、誰でも知っている。 ジグムント・フロイトはそこに鋭いメスを入れ、どんな欲望と消費の活動にも必ずや抑圧された無意識がかかわっていることを暴いた。 この暴露、おそらく80パーセントは当たっているだろう。 しかし、この抑圧をどうすればいいのか。 それはビョーキなのだから治癒してあげましょうというのが精神分析医たちで、それでも、それをみんなでガマンする社会にしましょうねというのが民主主義というものである。 けれども精神分析が症状の指摘については得意であってもその介抱については限界があり、民主主義も多数決の妖刀をふるってかなり怪しい成立をしてきたことについては、ジャック・ラカンの『テレヴィジオン』()や森政稔の『変貌する民主主義』()にも書いておいたことである。 一方、ノーマン・ブラウンは、抑圧された無意識を昇華するにはむしろ世界観が必要で、その世界観を表現する方法が採出され、それぞれが照らし合わされなければならないと見た。 すでにフロイトにもひそんでいた方法ではあったけれど、ブラウンはその狭い入口に大きな出口をくっつけた。 これがぼくからすれば、まさに編集的世界観の作り方に似ていたわけである。 本書は初読・再読このかた、ずいぶんほったらかしにしておいた一冊だった。 だいたいほったらかしにしておいた本というのは、クセモノだ(笑)。 なぜなら、それらは往々にしてぼくのタネ本であることが多いからである。 なんだか暗示的なことばかり綴ったのも、そのせいだ。 本書の詳細については、ぜひともホンモノに当たられたい。

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