book02-10. html 覚和歌子『ゼロになるからだ』 2002. 30発行) 『ゼロになるからだ』というフレーズ、どこかで耳にしたことはないだろうか。 そう、「千と千尋の神隠し」の主題歌「いつも何度でも」のなかで印象的に歌われるフレーズ。 「ゼロになるからだが耳をすませる」「ゼロになるからだ 充たされてゆけ」 本書は、その詩の作者によるはじめての作品集。 まるでバラッドのような物語詩が束ねられた魔法の玉手箱のような一冊。 最後に谷川俊太郎さんのこんな言葉が添えられているが、日本では珍しいバラッドの試みでもあり、それがほんとうに不思議な世界を紡ぎだしている。 覚さんは物語につかまえられながら、同時に詩もつかまえようという 野心家だ。 詩と物語は相いれないものだと私は考えていたが、覚さんが つかまえようとする詩は、むしろ物語の中にしか現われないものかもし れない。 だからその物語は、たとえごく身近な日々の現実から出発して いても、普通の意味での散文とは少々異なっている。 行分けをやめ、句読点をつけてみても、覚さんの物語は多分いわゆる 短編小説とは似て非なるものになるだろう。 叙事詩、バードの不得意な 日本の現代詩の世界では珍しい試みを覚さんは続けているが、それを声 に出すことを詠と呼ぶところにも、その出自が見てとれる。 詩の世界か らというよりも、日本の語りものの伝統から覚さんは書き始めている。 「生きているのは当たり前」「死んでいくのは恐ろしい」という日常 から離れて、そのとき私たちは「生きている不思議」「死んでいく不思 議」を感じることができる。 そこでは物語と詩が言葉と声の深みで共生 している。 まじないや祈りや伝説が生きていた古代そのままに。 さりげなく語り始められた言葉についつい引き込まれユーモアとペーソスの入り交じるなか不思議な展開をみせてゆくお話がまるでそれを読んでいるぼくの内から語り出されているかのようにさえ思われてくる。 昔話の魅力と同時にきわめて現代的な感性、言語感覚がそこには息づいている。 こうして作品になってしまえば、日本にだってほら、こんな素敵なバラッドがちゃんとあるじゃないか、とまるで以前からこういう物語詩があったように錯覚してしまいそうになるのだけれど、これは覚和歌子による最新の物語集であって、おそらくこの芽は今ここから広がっていくであろう可能性の出発点なのだ。 そのことにあらためて驚かされてしまう。
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book02-10. html 覚和歌子『ゼロになるからだ』 2002. 30発行) 『ゼロになるからだ』というフレーズ、どこかで耳にしたことはないだろうか。 そう、「千と千尋の神隠し」の主題歌「いつも何度でも」のなかで印象的に歌われるフレーズ。 「ゼロになるからだが耳をすませる」「ゼロになるからだ 充たされてゆけ」 本書は、その詩の作者によるはじめての作品集。 まるでバラッドのような物語詩が束ねられた魔法の玉手箱のような一冊。 最後に谷川俊太郎さんのこんな言葉が添えられているが、日本では珍しいバラッドの試みでもあり、それがほんとうに不思議な世界を紡ぎだしている。 覚さんは物語につかまえられながら、同時に詩もつかまえようという 野心家だ。 詩と物語は相いれないものだと私は考えていたが、覚さんが つかまえようとする詩は、むしろ物語の中にしか現われないものかもし れない。 だからその物語は、たとえごく身近な日々の現実から出発して いても、普通の意味での散文とは少々異なっている。 行分けをやめ、句読点をつけてみても、覚さんの物語は多分いわゆる 短編小説とは似て非なるものになるだろう。 叙事詩、バードの不得意な 日本の現代詩の世界では珍しい試みを覚さんは続けているが、それを声 に出すことを詠と呼ぶところにも、その出自が見てとれる。 詩の世界か らというよりも、日本の語りものの伝統から覚さんは書き始めている。 「生きているのは当たり前」「死んでいくのは恐ろしい」という日常 から離れて、そのとき私たちは「生きている不思議」「死んでいく不思 議」を感じることができる。 そこでは物語と詩が言葉と声の深みで共生 している。 まじないや祈りや伝説が生きていた古代そのままに。 さりげなく語り始められた言葉についつい引き込まれユーモアとペーソスの入り交じるなか不思議な展開をみせてゆくお話がまるでそれを読んでいるぼくの内から語り出されているかのようにさえ思われてくる。 昔話の魅力と同時にきわめて現代的な感性、言語感覚がそこには息づいている。 こうして作品になってしまえば、日本にだってほら、こんな素敵なバラッドがちゃんとあるじゃないか、とまるで以前からこういう物語詩があったように錯覚してしまいそうになるのだけれど、これは覚和歌子による最新の物語集であって、おそらくこの芽は今ここから広がっていくであろう可能性の出発点なのだ。 そのことにあらためて驚かされてしまう。
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覚和歌子作詞、木村弓作曲・歌の「いつも何度でも」は辞世(のこと)をとてもとてもうるおい豊かに歌ったものだ。 これが辞世の歌でないのが残念なぐらいだが、それは当然違うものなのだろう。 というのも、その詩は、「この手は」道を先へ進んでゆく必要なく、ここで、この場所でとどまって、「光を抱(いだ)ける」ということを歌い、そして「輝くものは いつもここに/わたしのなかに 見つけられた」と言うが、自分の見つけた最良の輝くものが何であったかは語らない。 歌わない。 言わない。 辞世の時は、ありがとうと言って自分のからだに「充たされて行け」と言うことはできても、その充たされてゆく姿そのものは歌わない。 それはもちろん、それはもちろん、充たしそのものは、去りゆく人そのひとだけが知るほかないことだからだ。 ---およそ、このような境位に、この詩は位置していると言ってよいだろう。 それはこの上なく健やかな世の去り方を語り、歌っていると言ってよいものだろう。 わたしはそれに、ここにはこの時代の最高の詩歌の姿あると言って賞讃したい。 しかしわたしはそれと同時に、ここにこの時代(あるいはほんの少し前の時代)の、ひとつの、まことの辞世の歌を示しておきたい。 次の歌だ。 > もう死にたい まだ死なない 山茱萸の緑の青葉朝の日に揺れているなり 鶴見和子『山姥』 鶴見和子のこの歌は、この一首を詠んだ後、文芸による創作を行う体力や、作品に向けた創作的な意識の集中を、持てずに死に行くひとの歌い遺したものなのだ。 朝のひかりの中に揺れている山茱萸の葉のゆらぎ、それがもう死にたいと、まだ死なないの間の振れ動きとぴったりと応じているとうのである。 充たされてゆく朝であるとともに、まだ去ることのできない朝でもあるのだ。 ---このリアルな死への道ゆき。 余力がないという点では、鶴見の歌は残されている生の声のかぎりを搾り取っている。 ゼロになるわがからだの、ゼロの近傍のゆらぎそのものの歌なのである。 これは、わが命によって汲み取った生と死への讃歌だといってよいのではないだろうか。 まだいくつか言いたいことはあるのだが、自分の生にみずから花環を載せる行為は、とりわけ貴重な行為であると、いずれわたしはニーチェとともに語りたい。 映画「千と千尋の神隠し」の主題曲「いつも何度でも」という歌詞が今回の震災に余りに重なることを知り、作詞者への興味が沸き、本作を読むきっかけとなった。 本作は詩集なのだろうか、短編小説集なのだろうか。 まずこの問いかけから始めざるを得ない。 詩というには圧倒的な物語があり、物語というには圧倒的な詩のイメージがある。 そもそも詩と物語を分けること自体、僕には分からないのだ。 「分ける」と「分かる」という言葉の意味がそこにある。 人は物事を分けて分類し、区別することで物事を「分かる」ようにしている。 その分別が出来ないものが目の前に現れたとしたらどうなるのか。 僕にとって それが本作を読むという体験であった。 「ゼロになるからだ」、これが本作の題名だ。 「いつも何度でも」という詩では「ゼロになるからだ」とは「耳をすませる」ものであり、「充たされていけ」と言われるものだ。 「ゼロになるからだ」とは「死を迎えた体」だと考えるにしては、余りに活き活きしたイメージではないか。 「生きている不思議」と「死んでいく不思議」とを並べる作者にとっては、「死」が「活き活き」しても何の不思議でもないのかもしれない。 いや、何の不思議であっても良いのだろう。 活き活きとした動きを固定化した静謐な画とでも呼べば良いのだろうか。 本作を読み終えて、何か言葉にして表さなくてはならないとしたら、そんな陳腐な言い方しかできない。 但し、そんな言葉に出来ない何かを表現すること自体が不可能なのだろうと諦めるしかない。 そういう地点に本書は立っているからだ。 著者のCD「青空1号」に宮崎駿氏が一文を寄せ、その中で『"風に投げた麦藁に君は叫んだ 未来で待っててと"である。 この詩が好きで、何度もかみしめようとしたのだが、判るようで判らない。 この世とあの世の際を、はつらつと闊歩している覚さんの詩の本領で、つかまえようとするとスルリと逃げる・・・・』 これによっても、この詩人がこの世とあの世が隔絶していないと思って(あるいは感じて)いることが察しらレます。 これと質量不滅の法則と合わせますと、体は心とは同じ時空間の中で遊離出来ることになります。 それをこの詩人は「ゼロになるからだ」と感じたのではないでしょうか。 つまり、ここでの「ゼロになるからだ」とは「体」から抜け出た「心」が自分を客観的に見ている状態でしょうか。 あるいは心が抜けた体を「ゼロのからだ」と感じたのでしょうか。 アインシュタインは相対性理論で人間が見ている実時間に超越する時空間があると言っています。 それによりますと「千の風になって吹き渡る」こともある、つまりこの世とあの世は同じ時空の中だというのです。 時空という観念をご存じでない方でしたら「ゼロになるからだ」という表現を「あの世のような、この世のような」と不可解に思われることでしょうが、いずれにしてもこの詩人はアインシュタインの時空を感性的に知覚しているのでしょうか。
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