ネットでの予想では次の女優の名前が多く挙がっています。 山本千尋さん• 広瀬すずさん• 清野菜名さん• 羌瘣役のキャスト予想については、こちらの記事で詳しくご紹介しています。 渡辺謙さん• 吉田鋼太郎さん• 香川照之さん などの名前が挙がっています。 渡辺謙 その中でも最も多いのが、 渡辺謙さんです。 渡辺謙さんは 世界的に認められた超ビッグ俳優。 呂不韋の配役にぴったりですね。 吉田鋼太郎 ドラマ「 おっさんずラブ」で人気の 吉田鋼太郎さん。 渡辺謙さんを希望する声には負けますが「 吉田鋼太郎さんの悪役感が好き」という意見も。 吉田さんの悪役大好きです。 ヒーローも好きだけど・・・結局、吉田さんが大好きだー!!! — そらたま 3nlqjqzkqyni4yN 香川照之 悪役が多い 香川照之さんでもアリですね。 「 ちょっと小物感が出てしまう」という声も。 役所広司さん• 北大路欣也さん 役所広司 中でも 役所広司さんだと予想する声が最も多いです。 目を大きく見開き威嚇するシーンなど、迫力たっぷりに演じてくれそうですね。 将軍を実写化するってなると、かなり大御所な役者さんじゃないと。 かなり強烈なキャラだし。。 さん辺りがいいなぁ。 ディーン・フジオカさん• 藤木直人さん• 松田翔太さん• Gacktさん などの俳優が挙がっていました。 ディーン・フジオカ ネット上では ディーンフジオカさんを推す熱烈な声がたくさん挙がっていました。 昌平君のイケメンっぷりはもちろん、雰囲気もどことなく参謀感があふれています。 知だけかと思っていたら、武も持ち合わせた闘志。 ビジュアル面は 松田翔太さんの雰囲気にぴったりですね。 Gackt そして意外と多かったのが Gackt様の名前です。 映画「 翔んで埼玉」で演じたキャラクターがぴったりだったため、 漫画の実写化が合うのでは?という声も。 実写のキャスト予想楽しいな〜〜俳優さん詳しくないけど色々聞いてて面白い。 個人的に、さっきふと、Gackt昌平君が見たいなって思いました。 ムロツヨシさん• 柄本時生さん• 安田顕さん など、 ユーモア溢れる俳優の抜擢が予想されています。 ムロツヨシ 個人的に理想の尾平は、 ムロツヨシさん。 どの作品でも 陽気なキャラクターを演じている印象があるので、ムロツヨシさんの尾平は愛されること間違いなしですね。 尾平の 特徴的な口元を再現するのも、柄本さんならぴったりかも。 過去には、俳優の新井浩文さんも「 尾平は時生しか認めません」とコメントしています 笑 尾平は時生しか認めません。 小栗旬• 玉木宏• 藤木直人 など、 大人びたイケメン俳優が予想されています。 小栗旬 ネット上で特に声が多かったのが 小栗旬さんです。 どこか 余裕のある飄々とした演技が多いため、李牧の性格と一致します。 小栗旬の李牧みすごいんだよなーーーーーー — kazumi xiahticmirotic 持ち前の話術で各国との 巧みな交渉をくぐり抜ける 李牧の冷静さも兼ね備えており、まさにぴったりなキャスティングだと言えます。 玉木宏 優しさ・冷静さ・見た目、すべて李牧のイメージと合うのが 玉木宏さん。 敬語キャラも板についていますよね。 個人的には 一番理想なキャスティングだと思うのですが、どうでしょうか? 藤木直人 小栗旬さん、玉木宏さんと比べると声は少ないですが、 藤木直人さんがいいという意見も。 上述した2人と変わらないのは、 醸し出される優しい雰囲気。 誰が選ばれても納得いくキャスティングになりそうです。 鈴木亮平さん• 藤岡弘さん などが予想されています! 鈴木亮平 味方からも他国からも「 猪突猛進」だと言われる蒙武。 武力がありながらもどこか将軍らしいカリスマ性があるところなど、 鈴木亮平さんの役柄に合っていますね。 藤岡弘 仮面ライダーのアクション俳優として有名な 藤岡弘さんを予想する声もありました。 太くて強そうな眉毛もイメージぴったりです。 ただ 年齢が70代ということで、もう少し若い俳優さんが良い気もしますね。 五城健児さん• 阿部寛さん• 山田孝之さん など、 謎の強さを秘めていそうな3人の名前が予想されています! 五城健児 その圧倒的な存在感を演じられるのは、10周年企画の際に龐煖役を演じていた 五城健児さんではないでしょうか。 ただ、龐煖は人並外れた能力と体格をもった武人です。 身長189cmの 阿部寛さんは、龐煖の体格、そして武人らしい風格も備えていますね。 山田孝之 意外と龐煖役として予想されていたのが 山田孝之さん。 龐煖は山田孝之さんがいいなー — えいちょ sho7914 たしかに存在感はありますが…身長は 169cmと小柄な方です。 「 体格は演技力でカバーしてほしい」という声も(笑).
次の
戦国七雄の時代。 正義のための侵略戦争 秦 ( しん )の 始皇帝 ( しこうてい )は、紀元前259年。 趙 ( ちょう )の 邯鄲 ( かんたん )に生まれたとされる。 50年の生涯のうち、25年は秦の王として、12年は統一帝国の皇帝として生きた。 彼が生まれた時代は、七つの強国が、群雄割拠の様を見せていた戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前221)の末期。 争っていた七国は、秦、 斉 ( さい )、 楚 ( そ )、 魏 ( ぎ )、 趙 ( ちょう )、 韓 ( かん )、 燕 ( えん )の『戦国七雄』。 始皇帝は、秦の王として、他の六国を支配して、広大な中国大陸において、史上初の天下統一を成し遂げたとされている。 始皇帝は天下統一の後、自らを称える文を刻んだ石を、各地に置いた。 そこには、「六国の王たちは、民を虐殺したり、道に反する行いをしていた。 それをやめさせるためには、正義を持って、全てを制圧する必要があった」 少なくとも秦側の理屈としては、統一のためとかでもなく、正義のための侵略戦争だったわけである。 喜の記録。 睡虎地秦簡 千以上の竹簡文書 1975年に、 湖北省 ( こほくしょう )の 雲夢県睡虎地 ( うんぼうけんすいこち )にて、『 睡虎地秦簡 ( すいこちしんかん )』は発見された。 これは秦の官吏を務めていた 喜 ( き )という人物が個人的な所有していたもので、彼の墓に、彼と共に収められていたのだ。 それは、秦代における、貴重な一次資料となっている。 睡虎地秦簡は、千以上にもなる、 竹簡 ( ちくかん )の文書群である。 内容はお上からのお触れなどから、喜という人物の経歴まで、多岐にわたる。 また、竹簡とは、紙の普及以前に主流であった、文字書きの為の竹の札である。 地方官史が見た秦の始皇帝 睡虎地秦簡によると、喜は、始皇帝の曾祖父、 昭王 ( しょうおう )45年(紀元前262)に生を受けた。 後に始皇帝となる 嬴趙政 ( えいちょうせい )は、 紀元前256年の生まれだから、少し年上だが、ほぼ同年代である。 喜は、 中央から派遣されたわけではなく、地方に生まれ、地方で採用された、史とか 掾史 ( えんし )とか呼ばれた、地方官だった。 17歳で成年男子として登録され、19歳で県の史、28歳での『 獄史 ( ごくし )』となった。 史は、文字の読み書きができることが求められるが、獄史は、さらに法律や判例に通じ、長所や裁判文章をまとめる能力も求められた。 喜は、紀元前234年、29歳の時に従軍した。 統一戦争が終結すると、始皇帝は地方を巡行し、地方官である喜にも、皇帝を見る機会があったという。 紀元前219年。 始皇帝の一行を迎えた喜は、竹簡に「今、目の前を皇帝が通過した」と記録した。 最初の皇帝の前世代の人たち 昭王の治世。 最初に帝を名乗った秦王 昭王は、 周 ( しゅう )(紀元前1046年頃〜紀元前256年)の第四代、昭王と区別する意味でも、よく 昭襄王 ( しょうじょうおう )と呼ばれる。 彼は19歳で秦の王となった。 56年もの治世をかけて、昭王は、秦の領土を東方へと拡大させた。 始皇帝に先駆け、天下には帝と名乗ったとされる。 彼の代の秦は、殺戮と戦争を繰り返した。 六国というより、国境を接する楚、魏、韓の領土を次々奪っていった。 また、紀元前255年に、周を滅ぼした。 その過程で殺した、東方諸国の人間は、100万くらいに及ぶとも言われる。 呂不韋。 考文王。 華陽夫人。 子楚 昭王の次代の 考文王 ( こうぶんおう )は、即位から三日ほどで急死したとされている。 普通、太子は、最も寵愛を受けた正夫人の子がなるものだが、 子楚 ( しそ )は、そうではなかった。 呂不韋 ( りょふい )と呼ばれる商人がいた。 彼は韓の都であった 陽翟 ( ようてき )(河南省禹)と、趙の都である 邯鄲 ( かんたん )(河北省邯鄲)をよく行き来していた行商人であり、商人としては大きく成功していた 昭王の治世の終盤。 後継者と目されていたのは、太子、 安国君 ( あんこくくん )であった。 しかし問題は、さらにその次代。 安国君の正夫人、 華陽夫人 ( かようふじん )は、子に恵まれなかったのだ。 ある時、呂不韋は、邯鄲に人質として滞在していた、安国君の二十数人の子供の一人である、子楚を見た。 彼の母、 夏姫 ( かき )は、特に安国君から寵愛されてはおらず、不遇の子であった。 だが彼を見た呂不韋は、言ったという。 「この 奇貨 ( きか )おくべし」(価値あり、置いておこう) 呂不韋は、昭王の年齢や、華陽夫人の状況、子楚の立場から、ある計画を思いつく。 彼は商人として貯めた金を惜しみなく使い、華陽夫人に取り入り、子楚を彼女の養子として引き取らせた。 そして昭王の死後に、安国君が考文王になると、かれは呂不韋の思惑通り、子楚を太子とした。 荘襄王の丞相として 考文王も急死し、子楚が 荘襄王 ( そうじょうおう )とり、呂不韋は狙い通りに、 丞相 ( じょうしょう )となった。 丞相は、君主を補佐する最高位の官吏である。 そしてこの荘襄王も、3年で亡くなり、その息子である政が13歳で後を継いだ。 少年王は母である太后と、呂不韋は、よく支えた。 政は、実は呂不韋の息子であったという説がある。 子楚はある時、呂不韋と同居していた踊り子を見初めた。 呂不韋は、彼女を譲ったが、彼女はすでに子を身ごもっていた。 そこで呂不韋は、その事実を子楚には隠し、生まれてきた子を、子楚の子という事にしたのである。 呂不韋の失脚。 李斯の登場 呂不韋は、「天下は一人のものにあらず」という思想を持っていたようである。 だから、彼が失脚しなければ、歴史は変わっていたかもしれない。 呂不韋は、かつて踊り子であった太后との密通を続けていたともされる。 そして彼は発覚を恐れるあまり、さらにひとりの男を太后と引き合わせ、密かに子を産ませた。 だが、これが裏目にでてしまう。 太后の不義が告発され、そこから、呂不韋の事も、明るみとなってしまったのだ。 こうして、裏にいた者たちが自滅した為に、政は、存分に権力を我が物としたのだった。 また、新たに政のもとに登場した 李斯 ( りし )は、彼に天下統一の重要性を説いたとされている。 始皇帝はどんな人か。 秦とはどんな国だったか 天下統一。 斉、楚、魏、趙、韓、燕との戦い 秦は、紀元前230年に韓、 紀元前228年に趙を滅ぼした。 紀元前227年には、秦王の暗殺未遂事件が起きたが、これはむしろ、秦側としては、他国を攻める、よき大義名分となり、統一への流れを加速させたという。 さらに紀元前225年には魏、紀元前223年には楚、紀元前222年には燕を滅ぼした。 そして、 紀元前221年に斉を滅ぼし、天下統一を成し遂げたのだった。 実は、斉、楚、燕は、秦からは遠方すぎるので、治める為には王を復活させるべきという意見もあったという。 だが、李斯は、断固として反対し、始皇帝は彼に従ったとされる。 なぜ王でなく皇帝なのか。 違いは何か ある時、秦王は、丞相らに、従来の王号を変える是非を議論せよと命じた。 審議の結果、秦王の功績は伝説的な夏王朝よりもさらに以前、いにしえの五帝を超えるものだから、それ以上として、古典の中から、 泰皇 ( たいこう )とい称号を選んだ。 泰とは泰一、天や地の支配者たちより、さらに上の天帝を指す。 五帝は、あくまでも地上の偉大な支配者であったから、それ以上は天であるのは当然である。 だが秦王は、なぜだか帝の字に拘り、泰皇を退け、皇の字だけを帝の前につけ、皇帝としたのだった。 皇は、王と同じニュアンスでもあったが、「光り輝く」という形容詞としての使われ方もあった。 だから、皇帝とは、「煌々たる上帝」の意となる。 自らは、天帝でなく、あくまでも地上の中心であると考えていたともされる。 規格の統一。 秦の規模 秦は天下統一後、天下を三十六郡に分けたとされているが、その内約については、わかっていない事も多い。 始皇帝の行った統一事業として、様々な単位や、乗り物、文字などの規格の統一が有名である。 七国時代は、それらの基準が国ごとに違っていて、かなり不便だったのだろう。 これは、秦の使用していた基準を参考にし、かなり厳しく管理されたようだ。 また、当時は、庶民が単位や文字を問題にする事はほとんどなかったであろうと考えられるので、規格統一は、工人や官史のためである。 天下統一といっても、秦が支配した七国だった領域は、現在の中国の領土の半分ぐらいだったと考えられている。 領土は 漢 ( かん )(紀元前206〜紀元220)以降の時代に、またどんどん拡大していく事になる。 張良の暗殺未遂 始皇帝への暗殺未遂は、天下統一後もたびたび起こったようである。 正義の戦争という認識は、あくまでも勝者側の見解だったということがよくわかる。 紀元前218年に、 博浪沙 ( はくろうさ )(河南省鄭州の東北)に巡行に来ていた、始皇帝暗殺を企てた 張良 ( ちょうりょう )という青年がいた。 彼は、秦側には、単なる盗賊とされたが、実は韓では丞相の家系であった。 少年時代に、母国は秦に滅ぼされ、 その時に弟を殺され、復讐を誓ったのだった。 中華の誕生。 始皇帝の死。 秦の終幕 中華とは何か。 中心と蛮夷。 万里の長城 秦が敵対する六国を滅ぼしたばかりの頃は、それでもう天下統一、戦いは終わりであった。 だが、世界はもともと七国だけだったのではない。 次第に秦は、自分たちの領域の外の者たちを意識し始める。 自分たちの領域を 中夏 ( ちゅうか )(中華)とし、外側の者たちを 蛮夷 ( ばんい )(野蛮人)とする思想は、この頃に広まったようである。 有名な長い城壁、『万里の長城』は、この時代に、北方からの蛮夷の攻撃の対策に建設されたものが土台となっている。 仙人たちと不老不死への旅。 水銀は始皇帝を死なせたか 蛮夷との戦いが一段落した頃に、始皇帝は、中止していた五度目の巡行を行ったが、その途中、紀元前210年に亡くなった。 一年ほどの長期に及んでいたともされる最後の巡行は、特別なものであったという説もある。 なんとそれは、不老不死の秘密を求めた旅だったというもの。 生前、始皇帝は、東の果てに、仙人たちが暮らす島があるのだという伝説を信じていた。 仙人、道士を自称する者たちを召し抱え、 不老不死の霊薬を 求め続けていたという。 もちろんその願いが叶うことはなかった。 一説によると始皇帝の死の直接の原因は、彼が道士たちに勧められた長寿をもたらす薬の主成分(おそらく水銀)だったのだという。 二代目皇帝の短い天下 始皇帝の死後、李斯は始皇帝の子のひとり 湖垓 ( こがい )を、二世として立てたが、その天下はわずか三年ほど(紀元前209〜紀元前207) しかも内輪の権力争いに敗れ、李斯自身は、秦の終幕を見ずして死んだ。 秦の次は、漢の時代と言えようが、その間のわずかな期間(紀元前206〜紀元前202)は、楚が復興された時代ともされる。 始皇帝なき後の秦に反旗を翻し、滅ぼした 項羽 ( こうう )(紀元前232〜紀元前202)は、その復活した楚の王であった。 この時期(紀元前206〜紀元前202)は、また、楚漢戦争期とされる。 項羽と、彼と敵対した新たな勢力、漢の 劉邦 ( りゅうほう )の戦いの時期である。 そして戦いに勝利した劉邦の漢が、新たな中華となり、秦の時代は完全に終わったのだった。
次の
もくじ• キングダム呂不韋とは キングダムでは初めから王宮にいた呂不韋(りょふい)ですが、商人として全国を旅していた人物です。 なので交渉や駆け引きはとても得意! マンガでもその話はちょこちょこ出てきてますよね。 趙国の臣下の一人に「春平君(しゅんぺいくん)」という人物がいるのですが、それはそれは趙王に溺愛されている人物。 その春平君を呂不韋が人質にとり李牧を秦国の咸陽(かんよう)に呼び出すという過去に例を見ない大胆な行動をとったことがありました。 とても一方的な案ですが、春平君を開放する為に李牧は呂不韋と交渉する場面があります。 中華一頭のキレる李牧と呂不韋が交渉をする場面。 表には出さない腹の探り合いがハラハラする場面でした。 文官達も緊迫した空気が流れる中、 「秦と趙の同盟」を持ちかけた李牧。 それに対し呂不韋は 「城をおまけしてくれれば交渉の余地はある」と発言。 李牧の首と同盟を天秤にかけ李牧の首が遥かに上回ると判断した結果の発言です。 この交渉には李牧も驚きを隠せないようでしたが渋々承諾。 1歩間違えれば趙との全面戦争も起こりうる場面で、ギリギリ秦が有利に立つように持っていく様子はただの商人ではなかったことが伺えます。 ではなぜ商人から丞相の位まで登りつめることができたのでしょうか? なぜ商人から丞相まで出世ができたのか? 趙で商いを行っていた呂不韋は趙国に人質に出されていた子楚(しそ)と出会います。 この子楚がのちの 壮襄王(そうじょうおう)となる人物。 今まで商人として稼いできた全財産と許嫁であった太后(たいこう)までも子楚に投資し、ついに秦国の王になります。 そうして呂不韋は晴れて右丞相の位に就くことに成功します。 腹黒い人物としてキングダムでは描かれていますが、呂不韋なりに苦労してここまで来た過去もあるということですね。 呂不韋の収める秦国は一体どうなっていたのかも気になるところです。 中華統一は無理でも豊かな国になったかもしれないですね。 キングダム呂不韋が失脚? 呂不韋の運命を決めたのは元許嫁である太后であることは間違いありません。 政が王の座についていないとき秦の王宮には3大勢力がありました。 ひとつは 政率いる王血族派。 もう一つは 呂不韋率いる呂不韋派。 そして最後のひとつは 太后の束ねる後宮派。 後宮とは 政の実母・太后が支配する王宮内でも特別な場所。 1000人を超える宮女と宦官(かんがん)が住んでいた。 呂不韋でさえもコントロールすることができないほどの権力を持つ。 宮女とは簡単に言えば王である政のお嫁さん候補の人たちです。 昔から女の人は強かったんですね。 王になれば好きな女の人を選び放題という今では考えられない夢のような時代です。 でも政は宮女と寝室にいても本を読むという絵にかいたような真面目な人物。 とても紳士…。 どうしても政に勝ちたい呂不韋は禁断の後宮に手を出してしまいます。 後宮は男子禁止の場所なんですが、夜な夜な太后に会いに後宮に向かってしまいます。 太后は未だに呂不韋の事が忘れられないようで、異常なくらい呂不韋を求め困った呂不韋は代理として嫪毐(ろうあい)という人物を送り込みます。 太后と嫪毐は毎晩のように密会を繰り返し2人の子供まで授かってしまいました。 密会を隠すのも大変なのに子供まで隠し通すことは無理と判断した太后は自ら毐国(あいこく)という国を作り上げ秦国に対し反乱を起こしてしまいます。 その反乱も失敗に終わり嫪毐は処刑。 ここから呂不韋の運命は崩れ落ちていきます。 昌平君が政側に寝返り、嫪毐の反乱を裏で画策していたことや太后と密会していたことまでばれてしまい失脚を余儀なくされました。 事件の審議には時間がかかる為現在は監視付きで行動をしている現状。 呂不韋は出世の為なら手段を選ばない人物ではあるんですが、太后のことを無下にしすぎですよ。 太后は幸せな家庭を築きたいだけなのにそれに付け込んで反乱を起こさせるなんて・・・。 年をとっても一途な太后に少しキュンとしてしまいました。 スポンサーリンク キングダム呂不韋の史実での最後は? 呂不韋についてはキングダム内の話は史実にあった話を忠実に描かれています。 太后の乱も実際に起こっています。 史実では太后の反乱の後紀元前235年に政は呂不韋に手紙を送りつけます。 「御身は秦国にいかなる功績があった河南十万石が与えられているのか。 秦王家といかなる血のつながりがあって仲父と称しているのか。 一族の蜀への移住を申し渡す。 」 要は島流しの刑という事です。 蜀とはこの地図の左下の辺りです。 秦の中心部からかなり離れた場所まで飛ばされてしまいます。 そしてやがて政に処刑されることを悟った呂不韋は自ら毒を飲み自害します。 悲しい最期ですが、それだけの多くの人を利用してのし上がってきたので仕方ない。 王にはなれませんでしたがそれ以外の贅沢はやり尽したんではないでしょうか。 キングダム呂不韋の息子は政なの? マンガでも蔡沢と話しているときに 「さすが私の息子」 と発言し読者である私たちを驚かす場面もありました。 妊娠した時期が合わない為呂不韋は父親ではないとされていますが、真実はうやむやになったままです。 もしかしたら政の父親は呂不韋かも・・・。 史実でも真偽は定かではないが呂不韋が子楚に差し出した愛人はすでに妊娠しておりそれが後の政だという話もあります。 春秋時代の資料である史記にもこれが真実として書かれておりかなり信憑性の高い話です。 今のように医療が発達していない為誰の子供かはっきりすることは難しかったことでしょう。 もし政が呂不韋の子供だったら弟である成蟜(せいきょう)亡き今、王家の血は途絶えてしまっていることになります。 それはそれで悲しい事実ですよね。 まとめ ここまで書いてきて呂不韋についてまとめると、自分の為なら許嫁も部下も駒として使う最低な人間という事です。 しかし商人として難しい局面を打破する力はとても強く、威勢のいい信すらも尻込みしてしまう程の気迫のある人物でもあります。 マンガ内でも呂不韋がいたからこそ政が強くなれたのではないかと思いました。 あんな大物と対等に渡り合える10代なんて今の時代にはそうそういませんよね。 僕なんかも10代なんて世間知らずのはなたれ小僧でした。 呂不韋の次に倒さないといけない敵は李牧です。 李牧戦が楽しみです! スポンサーリンク.
次の