源 義経 チンギス ハン。 源義経はチンギスハン説3つの証拠が岩手にある!

Y染色体から紐解く チンギスハン=源義経説

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場所が残ってるならこの話の信憑性は高そう…… 畠山の同情もあり、からくも逃げ延びた義経一行。 まずは蝦夷(現在の北海道)に逃げ延びます。 そこから海を渡り、モンゴルに行き チンギスハンと名を変えて歴史の舞台に舞い戻ってきたという都市伝説です。 源義経とチンギスハンは同一人物!? チンギスハンは資料が少なく、謎の多い人物です。 チンギスハンが歴史に初めて登場したのは、義経の死から17年がたった頃。 若干のずれはありますが、源義経とチンギスハンは同年代になるわけですね。 チンギスハンはモンゴルで大型の弓矢を使っていという記録が残されています。 大型の弓矢を使っていたのはチンギスハンだけと言われています。 当時のモンゴルでは小型の弓矢しかなかったのに不思議ですよね。 日本では大型の弓矢を使っていたので、大きな共通点と言えそうです。 かなりの戦上手で知られる源義経だけに、モンゴルに渡り帝国を築き上げるのも可能な気もします。 そしてこの「源義経=チンギスハン説」を最初に唱えたのは、 ヨーロッパから大陸を渡ってやってきた医師「シーボルト」です。 大陸を渡ってきた彼が言う言葉なら、妙に信憑性があるように感じてしまいます。

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義経=ジンギスカン説

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壇ノ浦の合戦では源氏の勝利に大きく貢献しましたが、独断的な行動が目にあまり、頼朝から反感を買いました。 頼朝と義経は対立は戦に発展するものの、武家の棟梁である頼朝の勢力は大きく、義経は追われる身となります。 最期は現在の岩手県にあたる奥州国・衣川館で自決し、31歳でその生涯を終える、というのが歴史書に載っている事実とされています。 一方その頃、海を渡った内陸のモンゴル周辺で活躍したのがチンギスハンです。 各地に散らばっていた遊牧民族をまとめ、モンゴル高原を統一。 その後、モンゴル帝国を築き上げた人物ですが、実は出生については諸説あり、明確にはわかっていません。 この義経が実は自害しておらず、現在の北海道である蝦夷へ脱出し、その後大陸を渡ってモンゴルで活躍した姿がチンギスハンである、という伝説が源義経=チンギスハン説のベースとなっています。 義経とチンギスハンが同一人物である根拠は? モンゴルにあるチンギスハン騎馬像 歴史上で登場する年代の矛盾点が少ない 義経の出生は1159年、チンギスハンの出生は明確ではありませんが、1155年から1162年の間とされているので、二人の生きた年代は近いものがあります。 さらに、義経が奥州国衣川で自決したとされるのは1189年なのに対して、チンギスハンが歴史上に登場するのは1206年にモンゴル帝国を成立させる直前からとなり、義経が歴史の舞台から消えたタイミングで入れ替わるようにチンギスハンが登場します。 使用している紋章が同じ 清和源氏の家紋「笹竜胆」(左)とチンギスハンが使用していたとされる紋章(右) 義経の家系である清和源氏では「笹竜胆(ささりんどう)」が代表的な家紋として使用されていました。 これと似たような紋章をチンギスハン軍は利用していたと考えられています。 大英博物館に所蔵されているチンギスハンの像の台座にもこの紋が描かれており、この紋章を義経がモンゴルで広めたという説があります。 軍事戦略が似ている 義経は兵法を学び、特に奇襲作戦を効果的に利用することで功績を残しました。 実はチンギスハンも奇襲戦法を得意とし、重要な局面で用いてきました。 モンゴル高原中部を支配していたケレイト王国を打倒した際にも、居場所を明らかにしていなかったケレイトの君主を急襲することで打倒に成功し、モンゴル高原統一のきっかけを作っています。 義経=チンギスハンという説が広がった流れ 人形浄瑠璃『義経千本桜』の一幕 義経生存説が民俗学者の間で話題に 江戸時代前期の儒学者・林羅山は歴史書『本朝通鑑』の中で、「義経は衣川で死なず、蝦夷へ逃げ、子孫を残した」と記しています。 幕府公式の書物で義経生存説に触れたことで、今後の歴史研究にも大きなインパクトを与えることになります。 また水戸黄門で知られる水戸光圀も、自身が編纂した『大日本史』の中で「義経の死は偽装されたもの」と書き、義経が生きていたことは一つの可能性として考察されるようになりました。 江戸町民の間で義経人気が爆発 室町時代以降の義経は、頼朝にいじめられ不遇の死を遂げた言わば「悲劇のヒーロー」。 江戸時代に民衆文化が広がると、能、歌舞伎、人形浄瑠璃などの演目の一つとして、義経の波乱に満ちた人生を描いたストーリーは人気を集めました。 『義経千本桜』や『勧進帳』は現代でも歌舞伎の演目として知名度の高い作品ですが、内容は史実とは異なる点が多く、あくまで一人のキャラクターとして義経が親しまれていたことがわかります。 シーボルトが義経=チンギスハン説を唱える 幕末のドイツ人医学者シーボルトは著書『日本』で、噂で聞いた話として「義経が蝦夷に脱出し、その後大陸に渡った」「その時期は、モンゴル帝国建国の時期にあたる」と述べ、義経とチンギスハンが同一人物である可能性を研究者はもっと調査すべきだと唱えています。 その後、シーボルトが幕府の顧問に就任した際には、義経=チンギスハン説を日本の正史にすべきだと何度も提案するほどでした。 歴史ミステリーがベストセラーに 小谷部全一郎とモンゴルのラマ僧 あくまで伝説の域を出ないまま、時は大正時代へと移ります。 北海道でアイヌ民族問題に取り組んでいた小谷部全一郎は、陸軍の通訳として満州やシベリアに赴き、そこで調査した内容を元に『成吉思汗ハ源義經也』を出版します。 義経とチンギスハンが同一人物であることをまとめたこの本は、民衆の義経好きも高じて大ベストセラーとなります。 これまでの通説とは異なる内容に、各界の研究者が黙っているはずもなく、全一郎のもとには多くの反論意見が寄せられることとなります。 その代わりに、多くの一般市民が義経=チンギスハン説を知る初めての機会となり、現在に至るまで様々な文学・映像・芸術作品にオマージュされることに繋がりました。 近年の説に対する見解は?結局「義経=チンギスハン」なの? 中尊寺金色堂覆堂 学術調査では証拠なし 義経を自決する間際まで保護していた奥州藤原氏は、実はアイヌ民族の血を引いており、義経を蝦夷に逃がすコネクションを持っていたのではないかという推測がありました。 これが義経=チンギスハン説を裏付ける一つの根拠にもなっていたのですが、近年行われた奥州藤原氏の墓所・中尊寺金色堂の調査では、収容されている遺体にはアイヌ民族の特徴が見られなかったと結論付けられました。 このように義経やチンギスハンに関する学術調査が多数行われていますが、現在のところ義経=チンギスハンを完全に証明する史料は発見されておらず、あくまで伝説という位置づけとなっています。 エンターテイメントとして作品化 史実かどうかは別としても、ストーリー性の高さと歴史ロマンの観点から、現代でも文芸や演劇作品の題材になることが多くあります。 宝塚歌劇団の『この恋は雲の涯まで』は再演される程の人気を博し、瀬下猛による漫画『ハーン -草と鉄と羊-』は、義経やチンギスハンに関心の薄かった若年層にも受け入れられる作品となっています。 多くの作品は義経=チンギスハン説を「事実」としては捉えず、あくまで歴史上の「if」として創作され、エンターテイメントの一つとして提供されています。 源義経=チンギスハン説に関するまとめ 今回は源義経=チンギスハン説についてまとめました。 義経が実は自決しておらず、蝦夷に逃亡して、その後大陸に渡ってチンギスハンとなる一連の物語は、想像を掻き立てられるストーリーで歴史好きにはたまらないエピソードですね。 明確な証拠がない未だ発見されていないというのは、今後の発掘調査や文献調査次第で新しい事実がわかる可能性もあるので、それも一つの楽しみです。 とはいえ、義経=チンギスハン説はあくまで「伝説」として理解して、歴史のロマンに思いを馳せるのがよいかもしれませんね。

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源 義経、チンギス・ハンになったってホント? 伝説になったイケメン武将

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史上最大のモンゴル帝国の基礎を築いたチンギスハン。 それなのに彼に関しての資料が少なすぎるのはご存知でしょうか? 生年月日さえわかっていないんです。 ただ、これは当時のモンゴルなら普通だったのかもしれませんが。 二人の共通点を見てみましょう。 義経は31歳で死亡17年後にチンギスハンが歴史に登場。 この時41歳と言われています。 大体同年代なんですね。 さらに当時のモンゴルで大型の弓を使っていたのはチンギスハンただ一人。 普通は小型の弓を使うのがモンゴル人なんです。 ちなみに大型の弓を使っていたのは日本人です。 義経がモンゴルに渡ったなら頷けますね。 大河ドラマでやりましたが、義経はこの動画のような鎧兜を着ていたと思われます。 ずいぶん前のドラマですが、石原さとみさん出演されていたんですね。 当時から綺麗。 Sponsored Links それはいいんですが、そもそもこの説、【義経はチンギスハンになった】はヨーロッパから日本に来た医者、シーボルトが言い出したものです。 「歴史を見直したほうがいいですよ〜!」って。 彼は大陸から渡ってきたわけなので、そこの事情に詳しかったのかもしれません。 でも、衣川で自害させられた義経の首は鎌倉にいる頼朝の元に送られています。 これでは言い逃れができそうにありませんが・・・ 鎌倉に義経の首が届いたのは6・13と言われています。 今でいうと真夏です。 当時でも20日でいける平泉と鎌倉の距離。 それにもかかわらず、実は義経の死から鎌倉まで43日もかかっています。 なぜでしょうか? なぜだと思いますか? 真夏なら首が腐らないように急ぎそうなものです。 それにも関わらずいつもよりも倍以上の日数がかかっています。 ここで一つの仮説が浮かんできます。 送られた首って・・義経じゃなかったんじゃないの? 義経じゃないから頼朝が首検分をした時にばれないようにわざと時間を稼いで腐らせたのでは? ではその首は誰のものだったのか? 実は義経の死を境にその記録が途絶えた男がいます。 名を杉妻太郎。 義経の世話役の男性です。 二人は見間違うほど似ていたと言われています。 つまり、 影武者ですね。 彼の首が鎌倉に送られたのです。 一応義経の位牌はあります。 平泉に。 戒名【館を捨て、山を越えた義経】 ん? 「平泉を捨て、山を越えてさらに北へ向かった。 」ということでしょうか? 実はその後北を目指す義経を目撃し、風呂を貸した人物までいるのです。 風呂を貸したことで義経に「風呂」と言う名字まで与えられています。 ただ、兄頼朝もバカではありません。 腐った首では信用できなかったのでしょう。 平泉に刺客(畠山重忠)を向けたようです。 兄弟なのにそこまでしますかね -。-; ちなみに北に逃げて行く義経の痕跡が今でも残っています。 例えば、岩手県石見氏には源義経と弁慶の名が記された木片が残されています。 岩手県普代村には、北を目指す義経一行が不行道(現在の普代村)で道を断たれて一週間ほど滞在したと記録があります。 刺客が迫っていたのです。 つまり、義経の足取りを確実に追っていたことがわかりますね。 義経が生きてることは源頼朝自身が半分証明してくれてるわけです。 なんだか義経が本当は生きていた事に信憑性が湧いてきましたね。 他にも義経は北を目指し、モンゴルにたどり着いた証拠にモンゴルで義経のものとよく似た家紋が見つかっています。 話を日本に戻しますが、義経を追っていた刺客、名前が分かっています。 と言うか結構有名人です。 彼の名は畠山重忠。 源平合戦では義経の腹心だった侍です。 実は岩手で追いついたのです。 で、どうしたか? これは証拠が残っているんですが、畠山重忠は源義経と弁慶の追いつき・・・ 矢を放ちました。 放たれた矢は二人に当たらず、そこにあった木に突き刺さったそうです。 そして矢は岩手県久慈市にある諏訪神社に、今も御神体として祀られています。 畠山重忠は義経を殺したくなかったのでしょう。 そのまま北上した源義経・・・北海道に行き着くわけです。 さて、ここまで源義経=チンギスハン説を検証してきましたが・・ ここからですよね。 北海道、当時でいう蝦夷(えぞ)にたどり着いたはいいですが、モンゴルまでどうやっていくの? と疑問が浮かんできます。 それはないだろ。 しかしよくよく当時のことを調べてみると、なんとあったんです。 12世紀に日本からモンゴルへ行くルートが。 源義経はどうやってモンゴルに渡った? その頃の蝦夷では海洋民族が築いた文明が栄えていました。 船を使って大陸と交流していたのです。 これは仮説ではなく、ほぼ確定です。 もし源義経が北海道までたどり着けていたなら、そこから彼らの力を借りて大陸へいけます。 あとは陸路ですから、モンゴルに行けないとは言い切れないのです。 そもそもこの説を唱えたのはドイツ人医師のシーボルトでした。 義経は、チンギスハンです。 ほぼまちがい無いでしょう。 しかし、それが認められる日は、永遠にやってこないと思われます。 残念ですが。 私は小学生の頃、邪馬台国は、畿内にあると確信しておりました。 当時は九州説が優勢だったのです。 現在は、畿内説で、固まりつつあります。 私はこういった能力が、有り、世間に認められなくとも、私の推測は正解なのです。 大乗仏教は、キリスト教、中国語は、インド ヨーロッパ語族 と、専門家から、一笑に付されてしまう学説を持っております。 これは正解なんです。 わかる人にはわかるのです。 しかし、学会が認めないからという事でキチガイ扱いをされてしまいます。 しかし、つい70年前まで、野球の変化球は、錯覚であると言うのが、学会の常識だったんですよ!血液型と性格の関係は有り得ないとされていたのも、そんなに昔のことでは有りません。 学問の専門家の見解が、絶対では全然無いのか現実なんですけど、仕方ないですね。 義経イコール チンギスハンは、まちがい無いんですけれど、現段階ではとても厳しいですね。 改めて残念です。 Shinさん、時間がありましたらヒットラーとナポレオンも取り上げてみて下さい。 この二人共通点があります。 ヒットラーは生粋のドイツ人とは言えませんし、ナポレオンもまあフランス人ですが実はアイデンティティはかなり希薄、ということです。 ヒットラーは生まれはオーストリアでドイツ国籍を取ったのは10代になってからだったと思います。 ナポレオンはコルシカ島出身で、ナポレオンの誕生前にコルシカ島が当時イタリア半島にあった領主国である王国に対し反旗を翻し、フランス側に寝返ったという経緯があります。 つまりナポレオンがフランス人になったのは結構偶然だったんですね。 本人も生涯自分をコルシカ人と自覚していたそうです、フランス人ではなく。 こういう、外部者がある文化圏でトップに上り詰める事例を外部者の過剰適応というらしいです。 チンギスハンも例外ではないような気がしています。

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