2018年11月9日 本日は川島さんが担当でした。 正岡子規さんの話 10月13日に「サツマイモの日」という日があるんですけど、 その日を調べていると 俳人であり歌人である「正岡子規」さんに繋がりましたので、 そのことについて話したいと思います。 正岡子規は1867年に生まれて、 お友達に夏目漱石などがいたようです。 有名なのが、 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という句で、 江戸時代ぐらいにあった句かと思ったんですけど、 結構最近の句でしたね。 生前、2万ほど詩をつくったといわれていますが、 私自身は「柿くへば・・・」しか知らないなあ。 実家が松山で、病気になって帰ってきたときに、 ちょうどその時、夏目漱石は松山で学校やっていて、 そのころに夏目漱石と一緒に過ごしていたとのことでした。 そこから療養のために京都に移る途中で、 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」が生まれたそうです。 正岡子規は34歳ぐらいで若くしてお亡くなりになったんですけど、 かなりの野球好きで、 無くなる直前まで野球をしていたぐらいだと言われています。 そういったことから、プロ野球選手ではなく、 野球の普及に貢献したということで、 「野球殿堂」に文化人でありながら入っている偉大な人でした。 そういった面白いことがわかったのでお話しいたしました。 とのことでした。 ショートを遊撃手と和訳したのが、 すごく気になりますね。 なんで「遊撃」としたのか、 どんな意味があるのかを 今度川島さんに確認したいと思います。 以上、本日の社員ブログでした。 投稿ナビゲーション.
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あす 10 月 26 日は「柿の日」。 全国果樹研究連合会カキ部会が、有名な正岡子規の俳句「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」にちなんでこの日に制定したそうです。 しかし、この句を詠んだのは法隆寺ではなくて本当は東大寺である、という説があります。 パレスサイドビルが建っている所のすぐ近く、外神田錦町にかつてあった第一高等中学校寄宿舎に一時住んでいたことのある正岡子規についての書物や研究は数えきれないほどあり、多くは記しませんが、病気療養のため郷里の松山市に戻っていた正岡子規は、友人であった夏目漱石に借金をして東京の自宅に戻る途中、病気を押してかねてから熱望していた奈良地方の旅行をしたのです。 奈良に着いたのが 1895 (明治 28 )年の 10 月 26 日だったのです。 この日は、東大寺近くの宿に泊まり、御所柿を食べながら鐘の音を聞いたのです。 子規が雑誌「ホトヽギス」に載せた「くだもの」(明治 34 年 3 ~ 4 月)の中の「御所柿を食ひし事」では次のように記されています。 「夕飯を過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかといふと、もうありますといふ。 余は國(くに)を出てから、十年程の間御所柿を食った事がないので非常に戀(こい)しかったから、早速澤山持て来いと命じた。 やがて下女は直徑一尺五寸(約45㎝)もありそうな錦手の大丼鉢に山の如く柿を盛てきた。 流石柿好きの余も驚いた。 それから下女は余の為に庖刀を取て柿をむいてくれる様子である。 (中略)やがて柿はむけた。 余はそれを食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。 柿も旨い。 場所もいい。 余はうつとりとしているとボーンといふ釣鐘の音が一つ聞こえた。 彼女は、オヤ初夜(そや)が鳴るといふて尚柿をむきつゞけてゐる。 (中略)あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。... また、奈良の旅行で法隆寺を訪れたのは 10月 28日で、この日は雨が降っていたということなどから「東大寺」という説が出てきたのでしょう。 全国果樹研究連合会も、この説を有力だとして26日を柿の日にしたのかもしれません。 ただ、子規の自筆俳句全集「寒山落木」巻四では、「法隆寺の茶店に憩ひて」とあってこの句と「垣ごしに 渋柿垂るる 隣かな」の2句が書かれています。 すでに慣れてしまったからかもしれませんが、この句の柿を食うイメージとしては東大寺より、もっと古い法隆寺の方がふさわしい気もします。
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126• 192• 177• 130• 171• 22 上の句は誰もが知る子規の代表句であるが、2009年12月2日NHK『歴史秘話ヒストリア』第25回『友よ 泣かずに笑へー 正岡子規 闘病を支えた絆ー』で夏目漱石との真の友情、そして 『柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺』の句が生まれたエピソードについてタイトル通りまことに秘話めいたはなしを聞いた。 12月に入るとNHKでは毎日曜日の夜、司馬遼太郎原作『坂の上の雲』第3部が放映される。 いよいよクライマックスで今から期待しているが、このドラマの第1部で正岡子規と夏目漱石の交遊が描かれていたが、子規の影響からか漱石も俳句を詠んだ。 相当な数の句を遺している。 子規の『柿喰えば・・・』の句は、子規と漱石の真の友情を物語るなかの一コマとして生まれたそうである。 はじめに「歴史秘話ヒストリア」では、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」誕生の舞台裏というエピソードが展開された。 「下女は直径二尺五寸もありそうな大丼鉢に山の如く柿を盛りて来た。 此女は年は十六七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立ちまで申分のない様にできてをる。 生れは何処かと聞くと、月ヶ瀬の者だといふので余は梅の精霊でもあるまいかと思ふた。 やがて柿はむけた。 余は其を食ふてゐると彼女は更に他の柿をむいてゐる。 柿も旨い、場所もいい。 余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。 彼女は初夜が鳴るといふて尚柿をむき続けてゐる。 余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。 あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。 そして女は障子を開けて外を見せた。 」・・・ 美味しい美味しい柿。 しかも可愛い娘が次々と剥いてくれる。 冴え渡った静けき晩秋の夜に、趣深く鐘の音が響いている。 子規が東大寺から斑鳩の法隆寺に移動したのは、到着して四日目。 時雨 しぐれ が続いて底冷えがするようで、病身には堪 こた える。 「いく秋を しぐれかけたり 法隆寺」 一方、子規から学んだ夏目漱石の俳句に、「 鐘撞 つ けば 銀杏散るなり 建長 寺」があり、この句の方が先に詠まれている。 このことより、番組はざっと次のように推測している。 旅費を援助してくれて、美味しい柿も沢山食べ、鐘の音の趣にも触れた。 念願の奈良の旅を無事に終えた。 世話になった漱石が、良い句を詠むようになったのは喜ばしい。 厚い友情に応え、返歌や連句の如くに詠もう。 「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」、記録によればこのとき10月26日天気は小雨。 東大寺の初夜の鐘の音を、法隆寺の鐘の音に置き換えたのだろう。 その方が晴天の秋色濃き法隆寺の方が絵になるからだろうか。 ------------------------------------------------- 序に云えばこの奈良の旅館「對山樓角貞」はなくなり、「天平倶楽部」に姿を替えている。 そこの看板(銅板)に、こんな説明書きがあった。 タイトルは「子規の庭」だ。 子規の庭 この地は江戸末期から明治、大正にかけ奈良を代表する老舗旅館「對山楼・角定」のあった所で、政府要人や学者、文人など明治の各界を代表する著名人が数多く宿泊しました。 中でも俳人正岡子規は、明治28年10月26日から4日間滞在、この近辺を散策し、多くの句を残した。 子規の句碑 というわけで、「秋暮るゝ 奈良の旅籠や 柿の味」という子規直筆の句碑(高さ1. 2m)が建てられたのだ。 なお「對山楼・角定」は「たいざんろう・かどさだ」と読む。 もと「角定」という旅館に、山岡鉄舟が「對山楼」と命名したそうだ。 伊藤博文、山県有朋、滝廉太郎、岡倉天心、フェノロサなど、多くの名士が泊まった名旅館だ。 有名な「柿食えば…」の句も、この旅館で食べた柿と、聞こえてきた東大寺の鐘の音がヒントになっているという。 そして子規が法隆寺の茶店で柿を食いながら詠んだことに置き換わった句「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句碑は法隆寺の池の畔に佇んでいる。 そして10月26日は奈良県では「 柿の日」となっている。 ------------------------------------------ 「柿」の話は、このあと地元和歌山は「つるし柿」日本一の郷・かつらぎ町四郷の里へ続きます。 予告) かつらぎ町「吊し柿」の里.
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