お 渡し いたし ます。 【プログラミング】 値渡し・参照渡しの違い

如意の渡し

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概要 [ ] 近代以前より橋が架けられていなかった射水川(小矢部川)河口の地域において両岸を結ぶ渡船として運航されていたが、伏木万葉大橋の開通に伴い(21年)8月2日を以て廃止された。 時代と共に事業主体は変遷したが、(26年)4月以降実際の運航は伏木港湾交通が行っていた。 (昭和32年)7月以降は左岸の伏木新島と右岸の中伏木()を結ぶ航路(約300メートル)をとった。 午前7時から午后7時まで15分間隔で運航され、所要時間は約3分であった。 但し、乗客がいれば随時運航を行っていたともいう。 片道の運賃は小学生以下が100円、中学生以上は200円であった。 旅客のほか自転車等の積載も可能であった。 沿革 [ ] 義経伝説と近世までの射水川河口における渡船 [ ] 渡船の待合所附近に建立された義経・弁慶像 『義経記』に奥州に落ちのびる源義経が如意の渡しに乗船しようとしたとき、渡守の平権守に義経一行であることを見破られるが、の扇で義経を打ちすえるという機転で無事に乗船できたという話があり 、加賀藩士森田柿園の『越中志徴』においてはこれを射水川河口部の対岸を結ぶ渡船のことであるとした。 この説によってこの渡船は義経と弁慶ゆかりの地とされ 、(2年)9月26日には待合所近辺に源義経と武蔵坊弁慶の像が建てられるなど 、義経伝説を利用した観光需要の掘り起こしが行われていたが 、『義経記』は後世に創作された小説であってこの伝説も史実ではないとされる。 また、『義経記』にいう如意の渡はその表現から学術上はの蓮沼附近より六渡寺へ至る射水川を上下する船運をいうのであって、伏木より六渡寺へ射水川を横断する渡船ではないとされている。 明治時代の伏木港の光景 射水川河口部を横断する渡船の史料への初出は、年間から年間にかけてのものであって、少なくとも近古からは渡船が存在していたといわれる。 (12年)にはによって古国府のに参詣する坊主衆や寺内者の渡船賃が免除された。 その後、近世に入りがの治下となってからも渡船は存在しており、(2年)時点においては六渡寺に船1艘が常備されていたという。 (6年)からは船は2艘となり、渡守は8人が置かれたが 、(7年)に再び船1艘、渡守4人の体制となった。 (4年)には渡守が2名増員され、計6名体制となった。 近世における射水川河口の渡船には、2本の航路があった。 ひとつは伏木から六渡寺の浜往来を結ぶ河口の「下渡」であり、もうひとつは下渡より上流の古国府の勝興寺門前より三ヶ新方面を結ぶ「上渡」である。 一般の旅客は下渡を利用しており、上渡は「御用渡し」と呼ばれ藩の公用に用いられた。 渡守には給金と屋敷が与えられた。 古国府の渡場附近には茶屋と船渡小屋が建てられていたといわれる。 六渡寺渡船組合の発足による渡船の近代化 [ ] 1936年(昭和11年)当時の伏木一帯を撮影した航空写真。 伏木橋の架橋後も河口附近に橋梁は建設されていなかった に入ってからも渡船の運航は地元住民によって継続されており、(明治7年)当時において船は5艘、船人足は合計9人であった。 当時の渡船の利用者は一ヶ月に平均9,060人であったという。 しかし、渡船によってではなく架橋によって直接陸路で射水川両岸を連絡すべきであるという声が高まり、矢田村の寺畑善五郎は(明治15年)にへ賃取橋の架設を願い出で、翌(明治16年)1月にこれを竣成し実現させた。 この橋は寺畑橋と呼ばれ、附近住民に喜ばれたが、出水毎に損傷して橋賃を以てその維持費をまかなうことが難しかった。 よって富山県は私設の橋を廃して、(明治31年)2月に延長190間、幅員14尺の木橋を建設し、これを伏木橋と命名した。 その後、射水川の改修工事のためにこの橋は撤去され、(明治44年)4月に再び小矢部川に伏木橋が架橋された。 鹿子浦丸の建造を担った佐賀造船所 架橋の影響によって渡船の利用者は減少し、(明治19年)における一ヶ月の平均利用者数は4,050人と架橋以前に比して半減した。 また、渡守には失業者や窮民が雇い入れられていたが、容姿や服装によって旅客に不快の念を与える者がおり、これを口実に悪評を吹聴して、営利を目的とする渡船事業を出願する者も現れるようになった。 このような状況に鑑み、六渡寺の住民は笹谷彦八、紅谷長一郎及び三埜彦四郎を発起人として(明治44年)5月に六渡寺渡船組合を組織し、両岸に洋式建築の待合所を建設し、発動機船の「鹿子浦丸」を同年9月1日に就航させるなど、渡船の近代化に努めることとなった。 この「鹿子浦丸」の老朽化により、同組合は(3年)3月に佐賀造船所へ約4千数百円を以て造船を依頼し、同年8月より新たな鹿子浦丸を就航させた。 渡船は営利を主たる目的とせず、官公吏、学生、貧民等には無料乗船を許可し、伏木港に出入する汽船に配慮して運航された。 架橋がなされても渡船の利用者が多かった理由は、伏木橋や城光寺橋が河口よりやや上流にあるに拘らず、小矢部川両端における人口密集地域は河口近辺であって、橋まで行くと非常な遠回りになるからであった。 渡船の経営に重大な影響を与えた伏木橋は、(昭和13年)に大規模な修繕が行われたが、戦時中に老朽化のため撤去され、陸路によって両岸を連絡するにはより上流の城光寺橋を利用せねばならないようになり、渡船の重要性は増大することとなった。 事故による渡船組合の解散から高岡市営の渡船へ [ ] 転覆事故を報道する新聞記事 (昭和19年)12月25日午前7時20分頃、鹿子浦丸が伏木より六渡寺へ向う途上にあって機関の故障により流され、六渡寺側の防波堤に衝突して転覆するという事故が発生した。 この事故によって33名の旅客が救出されたものの、約40名の男女が水死した。 六渡寺渡船組合は事故の責任によって同年12月27日に解散することとなった。 伏木と六渡寺とを結ぶ渡船の運営は、串岡と吉久を結ぶ渡船を運営していた真木興三に継承された。 しかし、戦後の経済混乱によって渡船の運営を一個人が継続していくことが難しくなったので、(昭和22年)4月より伏木と六渡寺とを結ぶ渡船は、串岡と吉久を結ぶ渡船と共に高岡市が運営することとなり、実際の業務は高岡市からへ委託された。 伏木海陸運送は設備の老朽化を口実として、(昭和24年)より度々高岡市に契約の解除を申し入れたが、(昭和25年)に高岡市が設備更新費用として210万円を無利子で貸与したので、鋼船と木造船を1隻ずつ発註した上で、渡船の運航者として伏木港湾交通を1951年(昭和26年)2月19日に設立し、同年4月より同社が渡船事業の下請け先となった。 (昭和28年)9月からは免許制度の発足に伴い、伏木港湾交通が直接高岡市と契約し、その代行を担う業者となっている。 1957年(昭和32年)7月からは渡船場が移転され、以降は伏木新島と中伏木を結ぶ航路に変更された。 この移転は伏木港に出入する船舶の増加と大型化によってその航路を横断する渡船の存在が危険であるとされたことによるものであった。 経営悪化に伴う事業主体の変遷 [ ] 高岡市と新湊市の伏木港渡船事業組合設立計画を報道する新聞 昭和40年代初頭において、渡船は1年に約75万人の旅客と2万2900個の手荷物を運ぶ重要な交通機関であったものの、収益は上がらず、赤字が募るばかりであった。 高岡市においては「かくの如き公共性を有する交通機関を一市営を以て運営するのは適当にあらず」との声が高まり、(昭和41年)4月に高岡市と事実上渡船の運営に協力していたが、渡船を県営に移管するよう申し入れを行った。 しかし、富山県がその要求を受け容れぬ姿勢を崩さないので、両市は共同してとして伏木渡船事業組合を結成し、同組合に事業を運営させることとした。 この旨の議案は同年9月に両市の市議会に提出され、(昭和42年)より伏木渡船事業組合がその運営に当ることとなった。 なお、実際の運航は引き続き伏木港湾交通に委託された。 しかし、渡船の経営状況は好転せず、伏木渡船事業組合は再三にわたって富山県へ渡船の移管を陳情している。 赤字をまかなうために運賃の値上げも連続し 、の一部廃止や高伏工業地帯の衰退、(昭和49年)8月の伏木港大橋の開通等の情勢に伴い、旅客数も減少した。 このような情勢を背景として伏木渡船事業組合は(昭和50年)3月に解散し、その渡船事業は伏木港湾交通に譲渡された。 事業譲渡にあたり、伏木港湾交通には新造船の建造費の半額である500万円と赤字補填のために1700万円の補助金が交付された。 これにより新造船「ニュー二上丸」が建造され 、渡船は伏木港湾交通の経営によって運航されることとなった。 しかし、累積赤字が1300万円にまで膨れ上がったことにより、(昭和52年)10月に同社は渡船廃止の意向を表明した。 翌(昭和53年)1月10日には経営状況の悪化により、「如意丸」の検査費用が捻出できず、引退する事態にまでなっている。 しかし、存続を求める地元住民の声に後押しされ、高岡市及び新湊市が伏木港湾交通と交渉を行った結果、1978年(昭和53年)3月28日に渡船の存続が決定した。 この際に渡船に係る赤字は伏木港湾交通が5分の1、高岡市及び新湊市が5分の4を負担する旨が合意された。 観光需要の模索と伏木万葉大橋開通に伴う廃止 [ ] 如意の渡し丸 (元年)11月に待合所が改築され、老朽化した「ニュー二上丸」とほぼ同じ大きさの「如意の渡し丸」が、伏木造船によって建造された。 高岡市や新湊市ではこの設備更新にあたって、「如意の渡し以来の歴史的風景を観光資源に活用したい」との意向を表明している。 これによって、(平成2年)9月26日には伏木側の待合所近辺に義経と弁慶の像が設置された。 渡船の生き残りをかけて観光需要の掘り起こしを図るべく、周辺観光地と絡めた宣伝がなされ、氷見線や万葉線と共通のフリー乗車券の販売も行われた。 一連の設備更新や観光需要の掘り起こしによって(昭和63年)に年に4万1500人であった旅客は、(平成5年)には6万1423人にまで増加したが、以降は再び減少に転じ、高岡市は毎年欠損金の補助を行うこととなった。 その後も旅客の減少に歯止めはかからず、(平成17年)頃には1日の旅客が100人前後と最盛期の20分の1にまで落ち込んだ。 「如意の渡し丸」も老朽化し、高岡市やもこれ以上の補助を行うことは難しくなっていった。 (平成15年)度に着工した伏木万葉大橋が開通する見込みとなった(平成20年)11月8日、高岡市は市議会決算特別委員会において、伏木万葉大橋の完成に伴い渡船の運航を終了する旨を表明した。 そして、2009年(平成21年)8月2日、渡船は開通した伏木万葉大橋にその使命を譲り、運航を終了した。 運航最終日の8月2日は無料で運航され、地元住民等が写真撮影を行い、名残を惜しんだ。 渡船の廃止に伴い、待合所近辺に設置されていた義経と弁慶の像は、2017年(平成29年)7月21日に伏木駅前に移設された。 年表 [ ]• (天正12年) - 神保氏張が勝興寺に参詣する坊主衆や寺内者の渡船賃を免除する。 (寛文6年) - 渡船を2艘とし、渡守を8人置く。 (享保7年) - 渡船を1艘とし、渡守を4人とする。 (元文4年) - 渡守を2名増員する。 (宝暦3年) - 木町間嶋屋兵右エ門と越前屋宗兵衛が渡船の新造を請負う。 (明治44年)• 5月 - 六渡寺渡船組合が設立される。 9月1日 - 発動機船の鹿子浦丸が就航する。 (昭和3年)• 3月 - 鹿子浦丸の老朽化により、第二鹿子浦丸を建造する。 8月 - 新たな鹿子浦丸が就航する。 (昭和19年)• 12月25日 - 渡船が顚覆し、約40名の旅客が死亡する事故が発生する。 12月27日 - 六渡寺渡船組合が渡船業務を真木興三に引継ぎ解散する。 (昭和22年)4月 - 渡船が高岡市営となり、高岡市は渡船業務を伏木海陸運送に委託する。 (昭和25年) - 高岡市が伏木海陸運送に設備更新費用として210万円を無利子で貸与する。 (昭和26年)• 2月19日 - 伏木港湾交通が設立される。 4月 - 伏木海陸運送が渡船業務を伏木港湾交通に委託する。 12月 - 「二上山丸」が完成する。 (昭和28年)9月 - 渡船免許制度が発足し、伏木港湾交通が高岡市と契約して渡船業務を開始する。 (昭和32年)7月 - 渡船場を移転する。 (昭和35年)12月 - 「如意丸」が完成する。 (昭和41年)• 4月 - 高岡市、新湊市および伏木港海運振興会が富山県に対し渡船を県営にするよう陳情する。 9月 - 高岡市および新湊市議会に渡船事業を両市で結成する伏木渡船事業組合が運営する旨の議案が提出される。 11月1日 - 運賃の値上げを行う。 (昭和42年) - 渡船事業を高岡市及び新湊市で結成した一部事務組合である伏木渡船事業組合が管理下に置くことになる。 運行は引続き伏木港湾交通に委託する。 (昭和44年) - 伏木渡船事業組合が富山県に対して渡船を県営にするよう陳情する。 (昭和45年)7月30日 - 伏木渡船事業組合が富山県に対して渡船を県営にするよう陳情する。 (昭和46年)7月6日 - 伏木港湾交通が東海海運局伏木支局に運賃値上げの申請を行う。 (昭和48年)9月13日 - 伏木港渡船事業組合が定例議会において運賃の値上げを決定する。 (昭和50年)3月 - 伏木渡船事業組合が解散し、伏木港湾交通に渡船事業を譲渡する。 (昭和52年)10月 - 伏木港湾交通が渡船事業を廃止する旨を表明する。 (昭和53年)• 1月10日 - 如意丸が引退する。 3月28日 - 渡船の存続が決定する。 (平成元年)• 7月3日 - 高岡市が待合所と船舶の新造に係る費用の半分を負担する旨を決定する。 11月4日 - 待合所および新造船「如意の渡し丸」が竣工し、その完工式を挙行する。 (平成2年)9月26日 - 伏木側の待合所近辺に義経と弁慶の像を設置し、除幕式を挙行する。 (平成20年)11月8日 - 高岡市議会決算特別委員会において高岡市が如意の渡しを来年度を以て廃止する旨を表明する。 (平成21年)• 6月12日 - 高岡市議会において橘慶一郎高岡市長が、同年8月2日を以て如意の渡しを廃止する旨を報告する。 8月2日 - 伏木万葉大橋の開通に伴い、同日を以て如意の渡しを廃止する。 交通アクセス [ ]• 伏木側 -• 六渡寺側 - 脚註 [ ] []• この話を書いたものとして、たとえば、• 高瀬重雄編、『日本歴史地名大系第16巻 富山県の地名』(709頁)、2001年(平成13年)7月、平凡社• 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編、『角川日本地名大辞典 16 富山県』(654頁)。 1979年(昭和54年)10月、角川書店• 「伏木・如意の渡 乗船券に義経・弁慶 大河ドラマに合わせ発売」、『北日本新聞』(24面)、2005年(平成17年)1月14日、北日本新聞社• 「義経は伏木の誇り 渡船「如意の渡」でPR」、『北日本新聞』夕刊(1面)、2005年(平成17年)4月18日、北日本新聞社• 新湊市史編さん委員会編、『新湊市史 近現代』(693頁)、1992年(平成4年)3月、新湊市• 伏木港史編さん委員会編、『伏木港史』(271頁)、1973年(昭和48年)4月、伏木港海運振興会• 高岡市史編纂委員会編、『高岡市史 下巻』(780及び781頁)、1969年(昭和44年)12月、高岡市• なお、串岡 - 吉久間の渡船は1958年(昭和33年)3月に廃止された(伏木港史編さん委員会編、『伏木港史』(276頁)、1973年(昭和48年)4月、伏木港海運振興会)• 新湊市史編さん委員会編、『新湊市史 近現代』(695頁)、1992年(平成4年)3月、新湊市• 「渡船エレジー」、『富山新聞』(10面)、1981年(昭和56年)12月29日、富山新聞社• 高岡市議会事務局議事調査課編、『高岡市市政概要 1976』(222頁)、1976年(昭和51年)9月20日、高岡市• 伏木海陸運送株式会社50年史編集委員会編、『伏木海陸運送株式会社50年史』(200頁)、1994年(平成6年)10月、伏木海陸運送株式会社• 「地域住民の足確保へ 伏木・如意の渡し 名所再生も目指す」、『北日本新聞』(21面)、1994年(平成6年)3月9日、北日本新聞社• 「細々ながら航路守る、高岡市・伏木港の「如意の渡し」」、『富山新聞』(21面)、1996年(平成8年)12月31日、富山新聞社• 「乗船客減で712万円計上 高岡市3月補正予算」、『富山新聞』(19面)、1996年(平成8年)3月3日、富山新聞社• 「伏木港渡船に補助 高岡市補正予算案 812万円計上」、『富山新聞』(18面)、1998年(平成10年)3月4日、富山新聞社• 「伏木港の渡し船を補助、高岡市 住民の交通確保へ682万円」、『富山新聞』(18面)、1999年(平成11年)4月8日、富山新聞社• 「赤字の「如意の渡し」支援 高岡市、補正予算案に849万円」、『富山新聞』(26面)、2000年(平成12年)3月11日、富山新聞社• 「如意の渡 かけがえのない「足」」、『北日本新聞』(36面)、2005年(平成17年)4月29日、北日本新聞社• 「ルックルック 如意の渡」、『北日本新聞』(6面)、2007年(平成19年)6月30日、北日本新聞社• - 2009年(平成21年)6月16日、北日本新聞社• - 2010年(平成22年)10月1日、北日本新聞社• 「58年間ありがとう 如意の渡しに住民感謝」、『北日本新聞』夕刊(1面)、2009年(平成21年)8月7日、北日本新聞社• - 2017年(平成29年)5月14日、北日本新聞社• - 2017年(平成29年)7月21日、北日本新聞社• 伏木港史編さん委員会編、『伏木港史』(66頁)、1973年(昭和48年)4月、伏木港海運振興会• 伏木海陸運送株式会社50年史編集委員会編、『伏木海陸運送株式会社50年史』(201頁)、1994年(平成6年)10月、伏木海陸運送株式会社• 「赤字の伏木港渡船 存続へ新船建造 高岡市が半額負担」、『北日本新聞』(5面)、1989年(平成元年)7月4日、北日本新聞社• 「8月2日 万葉大橋開通 「如意の渡し」廃止」、『北日本新聞』(3面)、2009年(平成21年)6月13日、北日本新聞社 参考文献 [ ]• 『参考源平盛衰記 今古実録 巻之16』(栄泉堂,明治16)• 藤谷虎三『武蔵坊弁慶一代記』(偉業館,明治21)• 好華堂野亭『源義経全伝』349頁(米山堂,大正6)• 正宗敦夫編『義經記』(日本古典全集刊行會,昭和4)• 『現代語訳国文学全集 第18巻 下』(非凡閣,昭13)• 高岡市史編纂委員会編、『高岡市史 下巻』、1969年(昭和44年)12月、高岡市• 伏木港史編さん委員会編、『伏木港史』、1973年(昭和48年)4月、伏木港海運振興会• 富山新聞社大百科事典編集部編、『富山県大百科事典』、1976年(昭和51年)7月、富山新聞社• 「角川日本地名大辞典」編纂委員会編、『角川日本地名大辞典 16 富山県』、1979年(昭和54年)10月、角川書店• 新湊市史編さん委員会編、『新湊市史 近現代』、1992年(平成4年)3月、新湊市• 富山大百科事典編集事務局編、『富山大百科事典 下巻』、1994年(平成6年)8月、北日本新聞社• 伏木海陸運送株式会社50年史編集委員会編、『伏木海陸運送株式会社50年史』、1994年(平成6年)10月、伏木海陸運送株式会社• 高瀬重雄編、『日本歴史地名大系第16巻 富山県の地名』、2001年(平成13年)7月、平凡社 外部リンク [ ]• - 富山県映像センター :.

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「値渡し」と「参照渡し」の話 ポインタ渡しとは?

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矢切の畑作地帯 千葉県松戸市の南南西に位置する。 西部は矢切斜面林を境に江戸川堤沿いに農地が広がり、江戸川がとの境界を形成している。 矢切斜面林より東側は主に住宅地となっている。 地域を南北に貫くは交通量も多く、沿道はを形成している。 北は小山、南は栗山に隣接している。 また山側の土地はからので、が安定している。 一方でによる海中部は一般的に地盤が良くない地区とほぼ一致している。 周辺に、市川病院(旧:化研病院)、式場病院等の大病院が存在している。 略史 [ ]• 戦国時代にはと里見氏によるの戦場となった場所であり 、この付近から付近にかけては同合戦にちなむ伝説や史跡が多く伝わっている。 4月1日 - の上矢切村、中矢切村、下矢切村、小山村、栗山村、松戸駅()が合併し松戸町(後の松戸市)となる。 旧村単位はとなる。 縄文時代のが国府台から点在している。 これは縄文時代の海進によるの水際であったことを示している。 矢切の渡し [ ] 江戸川堤のの碑(2007年撮影) 矢切の地名は、江戸川の渡し舟として有名な 矢切の渡しの由来でもある。 江戸川を挟んで矢切とを結んでおり、現在も渡し舟が運航されている。 片道の料金は大人200、子供・自転車各100(2018年12月時点)。 「」に選定されている ほか、界隈とともにの「」に選定されている。 この渡しは江戸時代初期にが地元民のために設けた水系河川15ヶ所の渡し場のうちの一つであり、観光用途に設けられたものではない。 かつては官営だったが、その後は民営となり、初期から杉浦家がを務めて運営している。 この渡しが日本全国に有名になったのは、明治時代のの小説『』(1906年)によるところが大きい。 現在、矢切にはこの小説のが建立されている。 また、歌謡曲「」の大ヒットや、矢切の対岸の柴又を舞台とする映画『』でも脚光を浴びた。 『男はつらいよ』シリーズでは、1969年公開の第一作で演じる主人公車寅次郎が帰郷のため乗船する場面以降しばしば登場する。 現在は観光用途の意味合いが強いが、元々渡し舟という交通手段であるため、渡し場に多少の土産物屋がある程度で、特に観光地化されているわけではない。 雨天・荒天時は運休するほか、風の強い日や繁忙期などは、手漕ぎでなく船外機で進む。 矢切側の渡し場はから遠いため、多くの乗客は柴又側から乗船し、往復利用している。 には参詣のため松戸側の乗り場が混雑する。 2012年4月28日よりが矢切側の渡し場付近に「矢切の渡し」停留所を新設、土休日に限り一日8往復のバス(松31系統)が矢切の渡し - 間で運行を開始した。 2013年から「矢切観光案内所」が、上記「矢切の渡し」停留所に隣接する形で矢切風致保存会の手により開設され、矢切地区の歴史展示のほか、矢切地区産の野菜や観光物産品が販売されるようになった。 運航時間:10:00 - 16:00• 運航日:3月中旬から11月末日まで毎日、それ以外の期間は、土・日・祝日、帝釈天ののみ運航(荒天の場合は運休)。 料金:片道 中学生以上200円、子供100円• 位置情報: 歌謡曲 [ ] 「」も参照 矢切の渡しは、末期に作詞:、作曲:の歌謡曲『 』の大ヒットによって脚光を浴びた。 1976年10月にの『酒場川』のB面曲として収録された。 のち、1982年10月21日に『矢切の渡し』をA面にしたちあき盤が発売された(B面は『別れの一本杉』)。 なお、細川盤の発売にあたって細川の所属するはちあき盤(1976年当時、日本コロムビアに所属。 1983年当時はに移籍していた)を生産中止にしている。 シングルレコードとして最も売れたのは細川盤であったが、当時ののチャートではちあき盤が首位を独走していた。 その他、もLPで同曲をカバーした。 2007年には、もカバーした(アルバム『』に収録)。 行事 [ ]• 8月上旬には、下矢切商和会主催による矢切まつりが前で開催されている(1994年から)。 矢切ねぎ [ ] 詳細は「」を参照 矢切地区で作られるは出荷量こそ少ないものの、太くて甘みがあり、「矢切ねぎ」として2007年、に登録された。 アクセス [ ] 矢切地区への交通 [ ] 鉄道 最寄り駅は。 野菊の墓文学碑は徒歩10分以内。 北総線は(歌舞伎座直下)を南北に蒲田、品川、日本橋、押上を、、と相互乗り入れし、横浜までの乗換回数は1 - 2回で、同じプラットホームで乗り換えすることができ、三浦半島まで行ける。 押上から半蔵門線の始発で青山、表参道へのアクセスもよい。 また神奈川、東京西部、JR沿線に比べ、成田空港・羽田空港双方へのほぼ中間に位置し、空港へのアクセスもよい。 のアクセス特急は矢切駅には停車しない。 - 西口 - 矢切駅 - - を結ぶ市川線は本数が多く、主に中矢切 - 下矢切の住民によく利用される。 道路 (水戸街道)、、(松戸街道) 矢切地区の北側にが設置されている。 矢切の渡しへの交通 [ ] 鉄道 方法1:、松戸駅西口より矢切の渡し行き(平日は矢切の渡し入口行き)で終点下車、地帯・堤防を歩き凡そ20分。 方法2:JR常磐線、新京成線松戸駅西口より京成バスで下矢切停留所下車の場合は、野菊の墓文学碑を経由する散策が可能(約30分)。 方法3:のから徒歩30分。 「矢切の渡し」のみの場合(矢切界隈の散策をしない場合)は、矢切側は・との間が離れているため、柴又側からの往復利用が無難である。 細川たかしの「矢切の渡し」が大ヒットし、観光客がピークだった頃には、でと江戸川の渡し場までを結ぶ「矢切ふるさと馬車」が出ていた。 柴又側はまたはの停留所より徒歩で10分。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 千野原靖方『松戸の歴史散歩』たけしま出版、232頁。 松下邦夫『たのしい松戸の歴史』松下邦夫、P57、P70。 社団法人松戸青年会議所『松戸がよくわかる本』社団法人松戸青年会議所、34頁。 長さんのリタイヤ生活. 2009年10月7日閲覧。 2009年10月8日閲覧。 千野原靖方『松戸風土記(2版)』株式会社 ナウ企画、1978年11月、PP. 130-136。 千葉県. 2019年2月28日閲覧。 環境省. 2019年2月28日閲覧。 千野原靖方『松戸の歴史散歩』たけしま出版、2000年7月、pp. 235-237。 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• - 松戸市観光協会• - 葛飾区産業情報•

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ポインタ虎の巻〜関数呼び出しの手法

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「矢切の渡し」の歴史について 「矢切の渡し」は、江戸時代初期、地元民専用に耕作や対岸の農地への移動手段として使われるとともに、日用品購入、寺社参拝などの目的のために、徳川幕府が設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちのひとつであり、「金町・松戸の渡し」と呼ばれていた。 これらの渡しについては、江戸幕府による直轄事業として行われていた。 渡し場で使われていた船は、金町村と松戸村で 2隻ずつ出していたが、その後、松戸町だけで船を出すようになる。 当時の渡航運賃は1人3文。 馬も5文で乗ることができたといわれている。 1740年頃、渡しの運営が幕府による直轄事業から、幕府と松戸町、町民による半官半民の運営体制となったことから、百姓たちにも渡し業を請け負わせた時代もあったそうである。 明治初期には、関所廃止及び陸運の発達のため、鉄道や主要幹線道路などに橋が開設されるようになり、各地で渡し船を廃止するところが場を閉めるようになった。 隅田川では、戦後まで運行を続けている渡し舟もあったが、「佃の渡し」が昭和39年、「汐入の渡し」が昭和41年を最後に廃止され、現在、東京近郊で定期的に運行されている渡しは、「矢切の渡し」のみとなっている。 なお、「矢切の渡し」は、「下矢切の渡し」とも呼ばれる時期もあったそうである。 松戸市下矢切と東京都葛飾区を結ぶ、現在の「矢切の渡し」の運行航路の他に、1877年(明治10年)から1910年(明治43年)まで、この上流である上矢切から金町間を往来した「上矢切の渡し」が運行されていたからである。 この渡しが全国的に有名になったのは、1982年(昭和57年)に細川たかし氏が歌った、歌謡曲『矢切の渡し』が大ヒットしたことや、フーテンの寅さんが柴又を舞台に各地を訪れる映画『男はつらいよ』が上映されたことで、「矢切の渡し」が全国的有名となり、再び脚光を浴び、年間20万人以上の観光客が乗船する時期もありました。 「矢切の渡し」は、有限会社矢切渡船で運営・運行しているが、明治時代から、杉浦家において、世襲制で代々運行を引き継いでいる。 現在もなお、帝釈天や寅さん記念館&山田洋次ミュージアム、山本亭などがある対岸、葛飾区柴又などを訪れる人の観光コースとして、運行を続けている。 〈参考〉 「矢切の渡し」を紹介する看板の文面について 松戸側 矢切の渡しは 松戸市下矢切と東京都柴又を往復する渡しで、その始まりは380余年前、江戸時代初期にさかのぼります。 当時、 江戸への出入は 非常に強い規則のもとにおかれており、 関所やぶりは 「はりつけ」になろうという世の中でしたが、 江戸川の両岸に田畑をもつ農民は、 その耕作のため関所の渡しを通らず農民特権として自由に渡船で行きかうことができました。 これが矢切の渡しの始まりで、いわゆる農民渡船といわれるものです。 明治以降は、 地元民の足として、また自然を愛する人々の散歩コースとして利用され 現在では 唯一の渡しとなっています。 葛飾側 元和2年 1616 、幕府は利根川水系河川の街道筋の重要地点15ヵ所を定船場として指定、 それ以外の地点での渡河を禁止しました。 その1つが矢切の渡しで、 この付近を通る国分道に架かる渡しで、主に近郷の農民が対岸の農耕地へ渡るために利用していました。 現在、 都内に残る唯一の渡し場で、 今も昔ながらの手漕ぎの和船が対岸の松戸市下矢切との間を往復しています。 伊藤左千夫の名作「野菊の墓」の舞台となり、 ヒット曲「矢切の渡し」を生んだ地としても有名です。 電話での問い合わせのうえ、お出掛け下さい。 google. 759494,139. 7604,139. 007383,0. 765388,139. 024376,0.

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