Contents• 「桶川ストーカー殺人事件-遺言」 【事件・犯罪】のノンフィクション書籍を語る上で外せない存在。 それは、 「 清水 潔」氏だろう。 ノンフィクションの書籍ランキングでは、常にトップを飾っている。 彼は、自ら現場で一から全てを取材する。 多大な時間と労力をかけて。 ひとりの 週刊誌記者が、なぜそこまでするのだろうか。 それは、この本を読めばきっと分かると思う。 彼はこの事件で、 警察よりも先に犯人を見つけ、警察の闇を暴いた。 記者クラブには属さない清水氏だからこそ伝えられた、何者にも制されない、現場の臨場感溢れるリアルな声。 この記事では、清水氏の、 「記者の教科書」と絶賛された 「桶川ストーカー殺人事件-遺言」を紹介したい。 「桶川ストーカー殺人事件」とは ひとりの女子大学生が、元交際相手の男とその仲間グループから、ストーカーなどの嫌がらせ行為を受け続けた末、 1999年10月26日、埼玉県桶川市の駅前で殺害された事件である。 警察によるずさんな対応、書類改ざんなどが大きな問題となった。 なぜ事件が起きたか 被害者である女子大学生(ここではAさんとする)は、どこにでもいる普通の女の子だった。 ある日、Aさんはゲームセンターで男性に声をかけられる。 この男が、のちの交際相手(ここではXとする)である。 この出会いが、Aさんの運命を大きく狂わせてしまうことになる。 ほどなくして、AさんとXは交際を始めた。 Xは自称・青年実業家で、Aさんにプレゼントすることが好きだった。 はじめは、ぬいぐるみなどの安価なものが多かったが、段々と高価なものに変わっていった。 ルイ・ヴィトンのバッグや高級スーツをプレゼントされるようになった。 彼女が断ると、「なぜ俺の愛情表現を受け取らないんだ!」とXは怒り、 彼女はXを不審に思うようになった。 Xの変貌 Xと付き合いだして、3ヶ月ほど経った頃、 Xのマンションに遊びに行ったAさんは、部屋に隠してあったビデオカメラで、 盗撮されていることに気づく。 それを指摘すると、Xは突然、 「俺に逆らうなら、今までプレゼントした物の額として100万円払え。 払えないなら、今からお前の親に会いに行くぞ」 と大声で怒鳴った。 知り合った頃の、真面目で優しい人柄からは信じられない変貌だった。 家族が大好きだったAさんは、自分がこんな男と付き合っていると、知られたくなくて、家族に相談できなかった。 この日を境に、Aさんの生活はXに支配されるようになる。 異常なストーカー行為 携帯に30分おきに電話がかかってくるようになり、出ないと激しく激昂した。 犬の散歩中で出られない時は、 「お前の犬を殺してやる」と言われ、 別れを切り出せば、 「それはお前の決めることじゃない! 俺はたくさん金を持ってる。 リストラされたらお前の弟達、学校行けなくなるぞ」 と脅された。 挙句の果てには、 Aさんの大学の友人を金で買収し、「Aを見張るように」と学校まで監視をさせるようになった。 度重なる嫌がらせ 付き合いだしてから半年経ち、ついに限界を迎えたAさんは、別れをきっぱりとXに伝えた。 Xは心底怒り、 「俺を裏切るやつは絶対に許さない」と吐き捨てた。 そして、Aさんの家に仲間と一緒に乗り込むと、恐喝を始めた。 恐喝のやりとりをテープレコーダーに録音し、 翌日、警察署に行ったAさんだったが、警察の反応は驚くほど冷たいものだった。 「ダメダメ、これは事件にならないよ」 「プレゼントたくさんもらって、別れたいと言われたら、普通の男は怒るよ。 あなたもいい思いをしたんじゃないの?」と。 2日間警察署に通ったが、まったく取り合ってくれなかった。 Xの行動はどんどんエスカレートしていった。 自宅周辺にAさんを誹謗中傷するビラを撒き、Aさんの父親の会社にも、 800通もの大量な中傷の手紙を送った。 警察にそれらを持っていくと、 「これはいい紙を使ってますね。 手が込んでいるなぁ」と笑いながら言われた。 最悪の結末 警察に相談しに行ってから1ヶ月半後の7月、ついに告訴が受理された。 しかし、2ヶ月後の9月。 刑事が家に訪ねてくるやいなや、 「告訴を取り下げて欲しい」と言ってきた。 理由は言わなかったが、 「告訴するなら、また出来ますよ」という刑事に対し、Aさんはきっぱり断った。 その間にも、嫌がらせが止むことはなかった。 そして、10月26日。 大学に行くために向かった駅前で、彼女は怯え続けた日々を、死という形で終えた。 Aさんは亡くなる前、信頼できる友人に、 「私が殺されたら、犯人はX」 と、犯人の名を伝えていた。 遺言となってしまった、その名前を。 衝撃の真相 清水氏の執念深い取材が実を結び、Aさんの家族、友人からも信頼を得ることができた。 そして、数々の取材の果てに、警察よりも先に 犯人グループを割り出し、真相を明らかにすることができた。 しかし、その真相は衝撃的で、とてもいまいましいものであった。 その要因は、この3つだろう。 ブランド品を持っているのは、今時の女子大生では普通なこと。 しかも、ちゃんと自分でアルバイトをして稼いだお金で買っている。 『グッチの腕時計』は 「相当に使い込まれ、銀色の本体もベルトも、無数に細かい傷が付いていた」 「なんということもない、鈍い輝きを放っているだけだった。 二十代の女性がよく腕に巻いているような、それほど高価でもなく、 おそらくは大事に、長い期間、使い込まれた時計」 (「桶川ストーカー殺人事件-遺言」より引用) と、実物を見た清水氏は語っている。 「風俗店に勤務していた」というのは、 友人から頼まれて、スナックでアルバイトしていたことが原因だろう。 しかし、「自分には合わない」と、2週間ほどで給料も受け取らず辞めている。 多くの週刊誌やワイドショーで、こういった誤った憶測が飛び交っていた。 その警察が、この事件では、Aさんの友人から 「彼女は、犯人と警察に殺された」とまで言われている。 その要因をいくつか挙げてみる。 無気力警察 最初に問題となるのは、やはりAさんへの警察の態度だろう。 「プレゼントたくさんもらって~」など、上記の他に、 「(告訴は)時間かかるし、面倒くさいよ」、 「今試験中でしょ。 試験が終わってから出直してくればいいのに」 などの言葉を浴びせた。 まず、被害者をいたわるのが普通ではないか。 なにより、恐怖のどん底にいる彼女が、一刻も早く、安心して家族と暮らせることを望んでいるのが分からなかったのだろうか。 ウソだらけの告訴 次に、告訴の問題。 告訴が受理された2ヶ月後、告訴の調書をとった刑事が、 「告訴を取り下げて欲しい」「告訴するなら、また出来る」と家に訪れた。 しかし、実際のところ、 一度取り下げた告訴は、その件ではまた告訴することはできない。 その刑事は嘘をついたのだ。 これだけではない。 事件後分かることなのだが、Aさんがやっとの思いで作成した告訴調書は なんと改ざんされていたのだ。 警察が勝手に、「告訴状」を「被害届」に変えていたのだ。 後に、動機として「報告義務や捜査が面倒だと思い、告訴を減らしたかった」と語っている。 警察は当初、「告訴取り下げ要請の事実はない」と頑なに否認していた。 しかし、実際は取り下げうんぬんではなく、改ざんまで行なわれていた。 薄ら笑いの記者会見 埼玉県警上尾警察署(Aさんが被害を訴えていた署)は、事件発生後に記者会見を開いた。 事件の詳細を、記者クラブ所属の記者たちに話す為の会見である。 その場所で、上尾署の幹部は薄ら笑いを浮かべていた。 殺人事件の会見で、何を笑うことがあるのだろうか。 記者クラブ所属の記者たちを身内だと思っているのか、その笑みは止まらない。 その上、笑いながら、刺された部位を説明し出したのだ。 この会見の実際の映像は、テレビで放映され、当然のことだが、上尾署に多くの非難が集まった。 私もこの映像を見たことがあるが、胸くそ悪すぎてあまり直視出来なかった。 この会見をしていた幹部、「告訴取り下げ要請」をした刑事含め、三名が懲戒解雇となり、 その後、 虚偽有印公文書作成・同行使の罪で起訴され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。 警察は、市民の安全を守る責任を課されたはずの存在ではなかったか。 私達は、どこへ助けを求めたらいいのだろか。 誰も望まなかった結末 事件の翌年1月。 犯人グループ4人の逮捕後、Xは全国に指名手配され、逃亡先の北海道・屈斜路湖で自殺した。 被疑者死亡で不起訴処分となった。 Xは、罪を償うことなく死んだ。 桶川ストーカー殺人事件、その後 この事件がきっかけとなり、2000年「ストーカー規制法」が制定された。 しかし、法ができたからといって、ストーカー絡みの事件が無くなったわけではない。 Aさんは、必死に訴えていた。 他の事件だって、被害者は勇気を出して、警察に助けを求めた。 警察が手を尽くしていたら、そう考えてしまう。 法があるなしの問題ではない。 防げた事件が防げなかったことが問題なのである。 「真実」を知るために この本は、清水氏の「殺人犯はそこにいる」を読んだ時から、ずっと読みたかった本でした。 読了後、Xの卑劣さはもちろん、警察の実態にかなり驚きました。 被害者の味方であるはずの警察が起こした不祥事の数々。 この事件は、20年経った今でも、度々テレビで放送されています。 それだけセンセーショナルで、忘れてはいけない事件です。 「補章 遺品」とAさんのお父さんが書かれた「文庫化に寄せて」では、思わず涙しました。 この「桶川ストーカー殺人事件-遺言」は、事件が真相にたどり着くまでを鮮明に書かれた本です。 ひとりの 週刊誌記者である彼 が、 「真実」を知るために。 事件を知っている方も知らない、 記事では書ききれなかった、Xの正体、なぜ犯人を見つけられたか、なぜ真相にたどり着いたかを、一つ一つ知ることが出来ます。 なぜ、彼女が犯人と警察に殺されたのか。 ぜひ、 その「真実」を確かめてください。
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この記事の目次• 桶川ストーカー殺人事件の概要 「桶川ストーカー殺人事件」は、埼玉県桶川市で1999年10月26日に発生した殺人事件です。 当時21歳の女子大生・猪野詩織さんが、その日の午後0時53分頃、桶川駅西口前のショッピングセンター「パトリア桶川店(通称・おけがわマイン)」の前の路上で、元暴力団員の男・久保田祥史に上半身の脇腹あたり2ヶ所をサバイバルナイフで刺されました。 猪野詩織さんは、午後1時半頃、搬送先の上尾中央総合病院で死亡が確認されます。 死因は大量出血によるショック死、死亡推定時刻は午後1時50分頃と診断され、ほぼ即死状態だったようです。 事件の発端は猪野詩織と小松和人との交際 「桶川ストーカー殺人事件」の被害者、猪野詩織さんは、事件発生の約9ヶ月前の1999年1月6日、友人と遊びに来ていた大宮駅東口のゲームセンターで小松和人という男と知り合いました。 小松和人は当時27歳でしたが、名前と年齢を偽って、小松誠、23歳と名乗って猪野詩織さんに接近。 小松和人は、本当は無許可の違法風俗店経営者だった事も隠し、職業は外国車のディーラーだと偽りました。 猪野詩織さんは小松和人とドライブや食事を週1回する程度の交際を開始しました。 小松和夫は当初は優しい態度で猪野詩織さんに接し、高級なブランド品を頻繁にプレゼントするなどしたそうです。 しかし、猪野詩織さんがある日ブランド品のプレゼントを遠慮し、受け取りを拒否するそぶりを見せると、小松和人は突如激昂し「俺の気持ちがなぜ受け取れないのか!」と怒鳴りだしました。 これを発端に、小松和人には精神的に不安定な面を見せるようになり、猪野詩織さんは小松和人との交際に不安を感じて、距離を置きたいと考えるようになります。 猪野詩織が小松和人に不審を募らせる そんなある日、猪野詩織さんは、小松和人の車のダッシュボードから小松の本名が記されたクレジットカードを発見し、小松が偽名を使っている事を知ります。 さらに、猪野詩織さんは小松和人が暴力団風の男と親しげに「ミニパトにわざとぶつかってやった」などと自慢げに話しているところを目撃し、小松に対しての不審の念を募らせていきました。 小松和人が猪野詩織を脅迫、別れる事が出来なくなる 1999年3月20日、小松和人の自宅マンションを訪れた猪野詩織さんは、部屋の中に隠すようにしてビデオカメラが設置されているのを発見し、これは何かと小松に問いただしました。 すると、小松和人は態度を豹変させ「お前は俺に逆らうのか、それならばこれまでにお前に今までプレゼントした洋服代100万円を支払え!」などと怒り出し、猪野詩織さんを壁際まで追い詰め、顔面すぐ横の壁を拳で何度も殴って穴を開けるなどして脅した上、「金が返せないのなら風俗で働いて金を作れ!」などと言い出しました。 たまりかねた猪野詩織さんが別れを匂わせると、小松和人はさらに激昂し「俺と別れるつもりなら、お前の両親がどうなっても知らないぞ、今からお前の親のところに行って俺との交際を全てバラす」などと家族を巻き込む事を匂わせ脅迫しました。 こうした小松和人からの脅迫を受けた事で、猪野詩織さんは「交際を断れば何をされるかわからない、殺されるかもしれない」と恐怖を感じ、やむなく交際を続ける事になります。 小松和人による異常な束縛が始まる それから、小松和人は、30分おきに猪野詩織さんの携帯電話に電話をかけるなど束縛を強めていきます。 ある時には電話で「今何をしているのか?」と尋ねる小松和人に、猪野詩織さんが「家の近所で犬の散歩をしている」と答えると「お前は俺よりも犬の方が大切なのか」などと恫喝する事もあったようです。 また、小松和人は興信所などを使って猪野詩織さんの行動を24時間監視し、家族について友人関係なども調べさせ、それをネタにして詩織さんを精神的に追い詰めていきました。 こうした行為によって追い詰められた猪野詩織さんが別れを切り出すと、小松和人は「お前の父親いい会社に勤めてるよな?リストラさせてやろうか?俺がその気になればお前の家族めちゃくちゃに出来る」などと家族に危害を加える事を匂わせて脅迫し、心理的に追い詰めました。 猪野詩織が小松和人に決別を伝える 脅迫を受けた事で猪野詩織さんはそれからも数ヶ月の間小松和人との交際を続けていましたが、心身ともに限界を迎えた詩織さんは、1999年6月14日、池袋駅構内の喫茶店で、ついに小松に対して別れを告げます。 猪野詩織さんの決意が固い事を見た小松和人は「弁護士に連絡する」といってどこかへ電話をかけました。 猪野詩織さんが電話を代わると、弁護士を名乗る男は「今からお宅へ伺います」と言って電話を切りました。 猪野詩織さんはこの帰り道、母親に電話を掛け、初めて自身の身に起こっているトラブルについての相談をしています。 小松和人と共犯者らが自宅へ押しかける 猪野詩織さんが小松和人に別れを告げたその日の午後8時頃、小松和人と、和人の兄の小松武史(当時32歳)、その知人の柳直之(当時29歳)の3人が突然、猪野詩織さんの自宅へと押しかけてきます。 小松和人の上司だと偽称した小松武史は、「小松和人が会社の金500万円を横領し、お宅の娘(猪野詩織さん)に貢いだ、250万円を補填しろ」などと言い、さらに「この男(小松和人)はこの件で精神的に不安定になった。 病院の診断書もあるからとにかく誠意を見せろ」などと、猪野詩織さんの母親を恐喝しました。 このやり取りの最中に、猪野詩織さんの父親が勤務先から帰宅、「女だけのところに上がり込んでくるのはどういうわけだ、警察がいる前で話そう!」と一喝すると、小松和人らは、「(父親の)会社に内容証明を送りつけるから覚えておけ!」などと捨て台詞を吐いて退出します。 小松和人と共犯者による執拗なストーカー行為が始まる 猪野詩織さんと両親は、すぐに事情を説明して埼玉県警上尾署に相談しますが、警察は「これは事件か民事かのギリギリのところ」などと言って取り合わず、まともな対応をしませんでした。 この時「プレゼントを貰っておいて別れると言ったら、それは相手の男も怒るよ」などと言われた事から、猪野詩織さんはこれまでに小松和人から貰ったプレゼント類を全て送り返しています。 しかし、これがきっかけとなって小松和人らのストーカー行為が激化します。 無言電話や自宅周辺の徘徊行為などにはじまり、自宅の前や近所一帯、大学や通学路などに猪野詩織さんや家族を誹謗中傷するビラをばらまく、父親の会社宛てに800通もの誹謗中傷の手紙を送りつける、車2台で自宅の前に乗り付け、大音量で音楽を鳴らすなどの悪質な嫌がらせ行為が繰り返されました。 こうした嫌がらせ行為が発生するたびに、猪野詩織さんと両親は上尾警察署に相談に訪れていますが、毎回上尾警察は適当にあしらい、まともな対応は一切見せませんでした。 小松和人が共犯者らに猪野詩織殺害を指示 その後、明らかになった事によれば、小松和人は、猪野詩織さんからプレゼントが送り返されてきた1999年6月、小松和人はこれを兄の小松武史に訴え、これを受けた武史は、元暴力団員の男・久保田祥史に、2000万円を渡して猪野詩織さん殺害を依頼したとされます。 久保田祥史らは、この2000万円の一部を資金として使い、猪野詩織さんや家族に対する誹謗中傷行為を行った事なども判明しています。 久保田祥史が猪野詩織を殺害 そして、1999年10月26日、久保田祥史は、大学に通学する猪野詩織さんを桶川駅前で待ち伏せし、駅前に自転車を停めていた詩織さんの背後から接近、サバイバルナイフで脇腹あたりを2度刺し、殺害に及んだのでした。 犯人ら4人が逮捕も、小松和人は自殺遺体で発見 なお、その後、小松武史や久保田祥史ら、犯人4人が逮捕されていますが、小松和人は、沖縄や北海道へと逃亡を続けた後、2000年1月27日、北海道の屈斜路湖で遺体で発見されています。 遺体の状況から自殺したとされています。 桶川ストーカー殺人事件の被害者は女子大生・猪野詩織 「桶川ストーカー殺人事件」の被害者は、当時21歳の女子大生・猪野詩織さんです。 事件当時は、跡見学園女子大学に通っていた事が明らかになっています。 猪野詩織さんの詳しい情報はほとんど公開されていませんが、家族と仲の良い優しく明るい女性だったようです。 幼い頃の猪野詩織さんは父親っこで、大人になってからも仲が良かったそうです。 父親を大切に思っていたため、小松和人のようなタチの悪い男に付きまとわれている事実をギリギリまで父親に明かす事ができず、苦しんだところがあったようです。 また、猪野詩織さんには2人の弟がおり、よく世話をする良いお姉さんだった事なども明らかになっています。 猪野詩織さんは、小松和人との別れ話を切り出しに行く前には、命の危険を感じていた事から、両親や親しい友人に宛てて、これまでの事を感謝する内容の遺書をしたためています。 こうした行動からも、猪野詩織さんの優しく誠実な人柄が伺えます。 実際の猪野詩織とはかけ離れたイメージが流布された 以上のように、猪野詩織さんは家族思いで優しく、真面目な女性でしたが、事件発生後、警察からの情報操作を鵜呑みにしたマスコミによって「ブランド好きの派手な女性」「水商売のアルバイトをしていた」といった事実とはかけ離れた報道がなされました。 「ブランド好き」のイメージが報道された原因については、警察が詩織さんを派手な女性と印象付けるため、被害時の所持品として「グッチの腕時計」「プラダのリュックサック」と意図的に発表したためだと疑われています。 友人らの証言によれば、実際の猪野詩織さんは「安いものをうまく取り入れながら、センス良く着こな巣ようなタイプだった」という事であり、所持品の「グッチの腕時計」にしても、長年使い込まれ細かな傷が無数についたもので、当時の女子大生の所有物として特に珍しいものではありませんでした。 また、「水商売のアルバイトをしていた」という報道についても、事件の1年ほど前、猪野詩織さんは友人の1人に「スナックで働く事になったが1人では心細いから一緒に働いてほしい」と頼まれ、仕方がなく2週間ほどスナックで働いたという事実が拡大され、あたかも水商売勤務の派手な女性であるかのようにセンセーショナルに報じられたものでした。 さらには、この「水商売で働いていた」云々の話をマスコミにリークしたのも、警察関係者だと言われています。 しかし、実際の猪野詩織さんは、「やっぱり私にはお酒を飲む人の接客はできない」と、給料を受け取る事もなく、わずか2週間でスナックでのアルバイトを辞めており、報道のイメージからは大きくかけ離れた真面目なタイプの女性だった事がわかります。 桶川ストーカー殺人事件の犯人・小松和人について 「桶川ストーカー殺人」の犯人で、発端となった男、小松和人は、事件当時27歳でした。 小松和人は、兄の小松武史と共に、東京都および埼玉県で、無許可の違法風俗店を6から7店舗経営しており、それで稼いだ金で好き放題遊び暮し、猪野詩織さんへの高額なプレゼント品なども購入していたようです。 小松和人は身長180cmくらい、髪は天然パーマで、少し染めており、「羽賀研二と松田優作を足して2で割ったような色男」だったとされています。 桶川ストーカー殺人事件の犯人・小松和人の生い立ち この小松和人については、猪野詩織さんに対する異常な行動から、生い立ちや家族についても注目が集まっていますが、その詳細な生い立ちについては不思議なほどに情報が出ていません。 小松和人は猪野詩織さんに対して自分の生い立ちについて「俺は親に捨てられた」などと発言したとされますが、家族との間にどのような経緯があったのかの詳細については何も明らかになっていません。 また、小松和人には、その異常な行動から「妄想性パーソナリティ障害」の疑いがあり、精神病院への通院歴や、猪野詩織さんと交際する以前に付き合っていた女性に対しても同様の嫌がらせ行為を行なっていたという情報も見られます。 小松和人の以前のストーカー行為については、担当した川越署が適切に対応し、小松和人へ厳重注意を行っています。 また、この時に身元引き受け人とされたのは、兄の小松武史でした。 この事から、小松和人と両親の関係は希薄だったと推測されます。 ただ、北海道の屈斜路湖で死亡した小松和人のリュックサックからは「支払われる生命保険料は両親の老後に使って欲しい」などと書かれていたとされています。 この遺書には「天国にはいけない」などとも書かれていたそうです。 桶川ストーカー殺人事件の犯人・小松和人の家族の異常な行動も話題に 「桶川ストーカー殺人事件」の犯人・小松和人の家族が、事件後に異常な行動を起こしていた事も話題になっています。 小松和人の母親は、マスコミの取材に対して「息子は悪くない!」などと怒鳴って暴言を吐き、小松和人の姉は、弁護士を雇い、テレビや出版などの報道各社を周り、「ストーカー殺人という言葉を使うな」と警告していた事などが、一部週刊誌報道や、後に発表されたルポなどから明らかになっています。 殺害を指示したという兄・小松武史も含め、小松和人の家族らの行動は極めて異常であり、小松和人という人間を作り出した元凶であるかのように感じられますが、その家族に関する報道は、不思議なほどなされていません。 桶川ストーカー殺人事件では警察の酷すぎる対応も問題化 「桶川ストーカー殺人事件」では、対応に当たった埼玉県警・上尾警察署の対応のあまりの酷さも問題化しました。 何度も相談に訪れた猪野詩織さんや、その両親を適当にあしらい、まともに取り合わなかった上尾警察でしたが、猪野詩織さんが断固告訴したいと訴えると、渋々告訴状を作成しています。 これで捜査してくれると安堵した猪野詩織さんと両親でしたが、実際には上尾警察はこの告訴状を机の奥にしまい込み、まともな捜査を行っていませんでした。 さらには、署の成績を優先した上尾警察署幹部は、この告訴状を被害届に勝手に改ざん、さらには「何か問題が起きたら告訴し直せば良いから、一度告訴を取り下げてくれないか」と刑事に頼みに行かせています。 しかし、実際には告訴は一度取り下げれば、もう一度告訴し直す事は出来ません。 こうして上尾署は、嘘を平然とついてまで、まともな捜査を一切行わなかったのです。 結果として、猪野詩織さんは殺害される事になりました。 そしてその後、上尾署の幹部らは、こうした杜撰な対応を批判される事を恐れ、事実を隠蔽するための工作を開始します。 上尾署幹部は、会見や取材でマスコミに対し、猪野詩織さんの方にも非があるかのように思わせる情報を意図的に流し、また、自ら改ざんしておきながら「告訴状」が出ていた事には触れず「被害届」が出ていたと強調して見せました。 さらに、その後、週刊誌「FOCUS」など一部週刊誌の記者達の独自捜査により、警察による卑劣な改ざんや隠蔽工作が次第に明らかになります。 その記者らは独自に突き止めた犯人らの情報を警察に提供するなどしますが、警察の動きは鈍く、まるで真実を隠蔽するためにあえて逮捕しないようにしているかのようだったといいます。 さらに批判を集めたのは、事件発生後の家族に対する対応でした。 猪野詩織さんが刺され病院に運ばれた時、上尾署は警察署に母親を呼び出し、事件現場の確認や事情聴取を受けさせています。 母親が猪野詩織さんの容態を訊ねても「頑張っている」と答えるだけで、詳細を伝える事もありませんでした。 そして、その日の午後3時頃に、母親は、警察職員を通じて「今亡くなりました」と伝えられたと言います。 母親はこの事について、「何故すぐに病院の娘の元へと向かわせてくれなかったのか」と怒りを露わにしました。 桶川ストーカー殺人事件で抗議が殺到した警察会見動画 「桶川ストーカー殺人事件」の発生後、埼玉県警は事件に関する記者会見を行っています。 この時、記者らの質問に答えた警察幹部は、ニヤニヤと笑いながら会見に臨み、あたかも自分は当事者ではないかのような態度を取りました。 この時の様子はテレビ番組などで報じられ、警察に対する抗議が殺到しました。 このふざけた警察会見の様子の動画はネットに上がっているので紹介します。 あまりに腹立たしく、当時の上尾署の異常性の全てを表しているかのような動画です。 桶川ストーカー殺人事件のその後と現在 「桶川ストーカー殺人事件」のその後と現在についても紹介します。 事件後の犯人らについては、事件の原因となった小松和人は2000年に自殺していますが、その他の共犯者4人が逮捕されそれぞれに刑が確定しています。 小松和人の兄・小松武史は、事件の主犯格として無期懲役の判決が下っています。 実行犯である久保田祥史には、懲役18年の実刑判決が下されています。 また、杜撰な対応が問題化した上尾署の署員に対しても処分が下され、告訴状の改ざんなどに関わった署員3名が懲戒免職となり、他、幹部職員の減給処分などが下されています。 猪野詩織さんの両親は、事件後、こうした悲惨な事件の再発を防ぐ活動に力を注がれており、猪野詩織さんの母は、刑事裁判への被害者参加制度導入にも尽力され、父は、この事件に関しての数々の講演を行っています。 また、この「桶川ストーカー殺人事件」がきっかけとなってストーカー行為等の規制に関する法律、いわゆる「ストーカー規制法」が国会で成立する事にもつながりました。 まとめ 今回は1999年に発生した「桶川ストーカー殺人事件」についてまとめてみました。 「桶川ストーカー殺人事件」は、犯人・小松和人とその仲間たちによって、当時21歳の女子大生・猪野詩織さんが、交際のもつれから悪質なストーカー被害を受け、最後には殺害された悲惨な事件でした。 この事件では、事件の異常性と共に、被害者からの相談を何度も受けながらまともな対応を取らなかった埼玉県警上尾警察署への批判も問題視され、「ストーカー規制法」が成立するきっかけにもなりました。 「桶川ストーカー殺人事件」から既に20年以上が経過していますが、その間にも何度もストーカー行為から凶悪な犯罪に発展する事件が発生しています。 こうした悲惨な事件を2度と起こさぬためにも、事件を風化させず語り継いでいく事も大切だと思います。
次の小松和人との交際に不安を募らせていた猪野詩織さんですが、車のダッシュボードの中から彼のクレジットカードを見つけ、当時名乗っていた名前と違うことに不信感を覚えました。 実際、小松和人は彼女に嘘のプロフィールを教えていて、その時の設定は名前が小松誠、年齢は23歳で外車を販売する青年実業家を名乗っていたようです。 しかし実際は当時は27歳で風俗店の経営をしていました。 決定的だったのは猪野詩織さんが小松和人の自宅を訪れた際に隠しカメラを発見したことです。 それを指摘されると彼は逆上して「今までのプレゼント代を払え、すぐ払えないならソープで稼げ」と脅し、壁を殴ったそうです。 彼女は深く恐怖心を抱き、3月30日に家族や友人にあてた遺言書をしたためた上で小松和人に別れを切り出しました。 小松和人からの嫌がらせはエスカレートする一方で、プレゼントを返送した翌日から一層ひどくなったようです。 その中でも彼女の自宅周辺や大学付近、父親の会社に誹謗中傷のビラを撒くという悪質な行為が行われました。 「wanted 天にかわっておしおきよ!!」という見出しの黄色いビラには猪野詩織さんの写真や誹謗中傷の言葉、電話番号などが書かれており、インターネット上にも同様の書き込みがされました。 また、自宅への徘徊や無言電話、父親の会社にも数百通の嫌がらせの手紙を送る行為などが行われ、母親はビラが撒かれた当日と2日後に上尾署を訪れて被害を再三訴えました。 しかしながら相変わらず警察は被害を聞き入れてくれず、上記の様に母親に告げたといいます。 桶川ストーカー殺人事件が起こったのは10月26日のことです。 実行犯の久保田祥史と運転手の川上聡、見張り役の伊藤嘉孝の3人は池袋に集合したのち2台の車で桶川駅に到着しました。 そして、午後0時53分頃に大学へ向かう為駅前の駐輪場に自転車を止めた猪野詩織さんは上半身を2か所刺され悲鳴を上げてその場に倒れました。 このとき目撃者から「ひったくり」と声が上がった事で付近にいた男性が久保田祥史を追いかけましたが捕まえることができませんでした。 被害者の詩織さんはすぐに上尾中央総合病院へ搬送されましたが、午後1時30分には医師の診断で死亡が確認されました。 死因は大量出血によるショック死で、推定時刻は事件が発生した午後0時50分頃と判断されました。 桶川ストーカー殺人事件の容疑者を割り出したのは警察ではなく一人のジャーナリストでした。 そのジャーナリストは『FOCUS』の清水潔記者で、被害者の猪野詩織さんの友人から「詩織は小松と警察に殺されたんです」という言葉に衝撃を受け、独自に犯人を調査しました。 犯人は小松和人、もしくはその周辺人物に絞られ、目撃者の証言による人相から風俗店の従業員だった当時34歳の保田祥史であると割り出しました。 その後、同僚の伊藤嘉孝(当時32歳)、川上聡(当時31歳)も共犯であることをつきとめ、清水潔記者は別の記者を通して警察に連絡し、これにより、ようやく警察は動き出し12月19日に保田祥史を殺人容疑で逮捕しました。 2000年1月27日、小松和人は北海道の屈斜路湖において水死体となって発見されました。 その後、遺書が残されていたことから警察によって自殺だと断定されます。 彼の残した遺書の一つはカバンに、もう一通は被害者の遺族のもとに送られ、どちらも被害者や遺族、そして怨嗟の言葉が綴られていました。 しかしながら、冤罪を主張し、恨み言が書かれる一方で、自らに掛けている生命保険金を老後資金として役立てて欲しいとも書いてありました。 小松和人に掛けられていた名誉毀損容疑は被疑者が死亡していたために、2月23日に起訴猶予処分となり、小松和人自身が桶川ストーカー殺人事件に関する罪を問われることはなくなりました。 代わりに実行犯を含む多くの逮捕者を出しました。 桶川ストーカー殺人事件について非難を浴びたのは犯人たちだけではなく、警察の対応でした。 事件の真相が明らかになる上で警察の対応も暴かれていき、写真週刊誌の『FOCUS』や報道テレビ番組『ザ・スクープ』が行った調査報道により埼玉県警の不祥事としてこの件は大きく取り上げられました。 この後、遺族側も2000年12月22日に埼玉県警に対して、国家賠償請求訴訟を起こしており警察を相手取った裁判は注目を浴びました。 桶川ストーカー殺人事件の被害者の猪野詩織さんとその家族が何度も上尾署に相談したのに対し、警察側の対応はひどいものでした。 何度も民事という言葉を口にし、まともに取り合わないどころか告訴がなければ捜査ができないと伝えました。 そして、その告訴自体も「試験が終わってからのほうが良い」、「嫁入り前のお嬢さんには辛いだけだ」など強く告訴を求めた母親を諭して結局その場で取り合いませんでした。 その後、母親が告訴状を出したのに対し、警察は県警本部への報告義務がなく迅速に捜査をする必要のない被害届に変更するように説得しました。 実際は一度告訴を取り下げると二度と同じ内容での告訴ができないという事実に反し、警察はあたかもそれができるような口ぶりで話したと言います。 しかしながら母親の意志は固く、告訴を取り下げることはありませんでした。 桶川ストーカー殺人事件の犯人の特定は写真週刊誌『FOCUS』でこの事件を担当していた清水潔記者が完全に警察を出し抜いて割り出しました。 12月6日にはすでに犯人を確信の元、写真に取ることも成功し、記者クラブの協力者を通じ情報を警察に提供したところ、ようやく19日に実行犯の久保田祥史の身柄が確保されました。 事件当日から2か月弱の間、警察がどのような捜査を行っていたのか、1人の記者の捜査のほうが早く犯人を特定してしまったのですから疑問に思われても仕方がありません。 後に遺族が警察側に「何故週刊誌のほうが先に犯人を特定できたのか?」と問うと「彼らはお金をばら撒いて捜査をしている、やり方が汚い」と答えたそうです。 2001年7月17日に実行犯の久保田祥史に懲役18年、見張り役の伊藤嘉孝に懲役15年の実刑判決が下されました。 続いて翌年の2002年6月27日に車の運転手役の川上聡に懲役15年実刑判決が下されました。 2002年12月25日、兄の小松武史に対し無期懲役の判決が下されましたが、彼は殺意を否認し、傷害致死の適用を求め控訴しますが2005年12月20日に東京高裁は地裁判決を支持し控訴を棄却しました。 それでも小松武史は殺意を認めず上告しましたが、2006年9月5日に最高裁第2小法廷は上告を棄却し、無期懲役が確定しました。 なお、被害者の元恋人である和人に関しては、名誉毀損罪の共犯とはされたものの殺人罪の共犯とはされず、本人が既に亡くなっていた為に判決が下されることもありませんでした。
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