般若心経 意味。 般若心経の意味とは?全文訳。唱えるとどのような効果があるの?

般若心経の意味とは?般若心経とは何か、解説いたします|終活ねっとのお坊さん

般若心経 意味

般若心経のいのちは「度一切苦厄(あらゆる悩み・苦しみを救う)」にある ある人は次のようにコメントをしてこの「度一切苦厄」ができない理由を挙げてごまかしています。 すなわち「般若心経は、よく読まれるお経ですが、その内容はあまりよく知られていません。 短いが この冒頭の一節の最後の「一切の苦厄を度したもうた」(度一切苦厄)という文は、サンスクリット原典には、小本にも大本にもありません。 おそらく漢訳者が心経最終段の「よく一切の苦を除く」(能除一切苦)を強調するために、ここに挿入したのでしょう。 」などと言ってここの重要なところの解説ができないことの弁解をしています。 本当は「能除一切苦」は本当のことだから二度も言葉を変えて登場させているのです。 何故「 能除一切苦」をもう一度繰り返しているのかを考えるべきです。 原典にあるかどうかはどうでもいいことなのです。 実際に「ギャーテーギャーテーハラギャーテーの大明呪」が本当に「能除一切苦」するからです。 しかも間違って空しい「空の思想」を説いています。 般若心経における「空」 には、 狭い意味では「何もない」と解釈できるが、一方ではその反対の「何でもある無限」という意味を持っていることを識別できていない解釈がほとんどです。 だから般若心経全体が見えてこないのです。 何を言っているのかよく分からないお経、ということになってしまうわけです。 どう間違っているのかはおいおい見てまいりましょう。 私が見させてもらった限りでは、この般若心経で実際に現実の問題を解決の方に向かわせる力を持ったお方の説明はほとんどありませんでした。 ただ言葉の解釈をしているだけがほとんどです。 特に学者の方がこの傾向が強い。 だから実際の力を持った「般若波羅密多」である「呪(じゅ)」については分からないから、現実に病を癒したり、現実を変える力を持っている「能除一切苦の呪」の深い意味を理解し説明することができないのです。 単なる呪文(じゅもん)だと思っているのです。 なので、浅いレベルの「空の理論」で終わっているのが大半の般若心経本です。 岩波文庫「般若心経」(東大教授の中村元・紀野一義訳注)の最高レベルと思われているものについても例外ではありません。 結局、諸行無常・諸法無我(全てのものは因縁によって生じたものであって実体性がないという意味)以上の般若心経が秘めているものすごいパワーを説明することができていません。 では、これから以上のような方々の説明ではない「般若心経の伝える真実」を見ていきたいと思います。 スポンサーリンク 般若心経が伝える真実 ぶっせつ ま か はんにゃは ら み た しんぎょう 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 この解説から。 まず「仏説」というのは、ここに展開されている般若心経の思想は、実際に説いておられる方は観自在菩薩のように見えますが、実は、それはもともと仏説すなわち釈尊という仏陀の到達されたさとりという意味をもっています。 摩訶 (まか)とは摩訶不思議の摩訶です。 「偉大な、とか、大いなる」という意味です。 次の般若波羅蜜多 の般若(はんにゃ)は、パンニャ という智慧を意味するサンスクリット語を音写したものです。 どんな智慧かと言うと、 波羅蜜多(はらみた)の智慧です。 波羅とは「彼岸(ひがん)」のことで別名「空」とも「涅槃」とも「悟りの世界」とも言います。 そこに至ることを、サンスクリット語で「密多(みた)」というのです。 空を涅槃とか悟りの世界とか彼岸 と同じとみなしている解釈は初めてではないかと思います。 さて、波羅の「彼岸(ひがん)」という空に対してこの世の目に見える形のある世界を「此岸(しがん)」の「色の世界」というのです。 彼岸とは、「彼岸という空であるカタチのない実体の世界」です。 その「彼岸という空である形のない実体の世界」を知る智慧のことを「般若波羅蜜多」というのです。 「空」を「形のない実体の世界」という解釈も初めてお目にかかったかと思います。 でもこの解釈が正しいのです。 そのうちわかります。 ですので、「 般若波羅蜜多心経」 とは、全体では、「カタチのない実体である彼岸(空)を知る智慧を解き明かす」という意味になります。 スポンサーリンク 「度一切苦厄」を約束する般若心経の要とはなにか? 次は、 かん じ ざい ぼ さつ ぎょう じん はん にゃ は ら みっ た じ しょう けん ご うん かい くう どいっさいくやく 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時」とは「観自在菩薩が、形のない実体であり 彼岸である 空を知る智慧の瞑想をした結果」であり、「照見五蘊皆空 」とは、「カタチはカタチのない実体の表れであることがわかった」という意味です。 通すと次のようになります。 ところが一般の解釈は次のようなものです。 「観自在菩薩が彼岸に至る智慧を得た時、形のあるこの世のものはすべて実体のないむなしいものであることを悟って一切の苦しみから解き放たれたのである」というまことに浅い解釈で終わっている場合がほとんどです。 「空」を「空虚とか実体のない虚(むな)しいもの」と見る、だから 「どんなものにもこだわりが亡くなって苦しみから解放された」というのですが、一体全体、「空」を「空虚とか実体のない虚しいもの」と見 て、そんな「諸行無常」の浅い空「空」を悟って、 人が一切の苦しみから、ほんとうに解放されるなどということがあり得るでしょうか。 ますます気が滅入ることがあっても、一切の苦しみから解き放たれるなどということは到底ありえません その反対です。 「空」ではなくて、目に見える「色の世界」こそ「常に変化します」からその本質は実体のないものです。 虚しいのは、変転、変化してやまない般若心経で色と呼ばれる世界の現象世界の方です。 実体がないからです。 生まれたものは必ずなくなります。 かたちあるものは必ず変化し、やがてなくなります。 そこでこのフレーズの意味は次のようになります。 「観自在菩薩が形のない実体である「空」を知る智慧の瞑想をしていた時、空の実体を見て、カタチは空という形のない実体の表れであることを知って、カタチのある世界へのこだわりから一挙に自由になることができた」ということがここでの本当の意味です。 当サイトに掲載されている記事及び画像、動画の著作権は、全て各権利所有者に帰属致します。 権利を侵害する目的は一切ございませんので、掲載について問題がございましたら、権利者様(ご本人様)よりご連絡をお願い致します。 当サイトは正しい情報を発信するよう努めておりますが、情報の正確性については保証できかねますので、ご了承願います。 また当サイトのご利用で起きたいかなる問題の一切の責任を負いません 人気記事ランキング• スポンサーリンク モーゼに出現した神の正体とは? 今回のタイトルの「I am t... 12ビュー 0件のコメント 投稿者: 2月 24, 2019 に投稿された• スポンサーリンク 本当はすばらしい自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)の教え お釈迦... 9ビュー 0件のコメント 投稿者: 3月 25, 2019 に投稿された• スポンサーリンク その神の構造とは何か 前回、人間もまた、あなたも私も、「I am that I... 6ビュー 0件のコメント 投稿者: 2月 26, 2019 に投稿された• スポンサーリンク 肉より生まれたものは肉であり霊により生まれたものは霊である 前回、悟り解脱をし... 5ビュー 0件のコメント 投稿者: 9月 5, 2018 に投稿された• 自観法の効果 私は以前、このブログの中で「内在の神に目覚める最短の方法」というタイトルでこの内在の神に目覚め... 5ビュー 0件のコメント 投稿者: 12月 9, 2019 に投稿された• あなたの悩みを根本的に解決へ 導く「自観法」 今回はあなたの悩みを根本的に 救う「自観法」の詳しいやり方につ... 5ビュー 0件のコメント 投稿者: 12月 15, 2019 に投稿された• 5ビュー 0件のコメント 投稿者: 3月 14, 2019 に投稿された• スポンサーリンク 信じられなかった心の力 実は、わたしは若いころ、20才頃の多感な年頃から、「人... 4ビュー 0件のコメント 投稿者: 1月 15, 2019 に投稿された• 4ビュー 0件のコメント 投稿者: 1月 16, 2020 に投稿された• スポンサーリンク 坐禅の坐の意味 前回、自観法が様々な心の欠陥や病気をも治してしまうのは、自観法... 3ビュー 0件のコメント 投稿者: 9月 4, 2018 に投稿された.

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般若心経の意味|全文を行ごとにわかりやすく直訳解説

般若心経 意味

彼岸の智慧による不変の教え 観自在菩薩が、彼岸の道に向かって深く行じていくとき、自我の思いから離れられることを心の眼で見ることができる。 そうなると、一切の苦しみと災いを超えることができる。 舎利弗および仏弟子たちよ、目に見えるものがすべてではない。 目に見えないものも実体として存在するのである。 そしてそれらは本質的には同じものである。 お互いを生かし合っている自然界には自我の思いが無い「空」であり、自我が無いから自然界という「色」は成り立っているのだ。 自分の心と行為についても、自我の思いや執着というものは本体無いものなのだ。 それゆえ、舎利弗および仏弟子たちよ、このさまざまな因縁の法則は、ものが新たに生まれたり消えたりすることも無ければ、垢が溜まって汚れることも浄める必要も無い。 宇宙エネルギーは一定であり、増えたり減ったりすることも無い。 それゆえ「空」の世界には「色」への執着も迷いを重ねることも無い。 心に仮相の根を作ることも、喜怒哀楽に振り回される心も無い。 また肉体感覚からくる迷いも無ければ、老死も苦悩も無い。 単なる知識では真相は分からない。 自己保存の欲望に揺れていては菩薩の智慧は得られないからだ。 般若の智慧を得ることで、心にとらわれが無くなる。 とらわれが無くなることで恐怖を感じることも無くなる。 物事を逆さまに観る一切のことから遠く離れることで仏の世界に往きつくことができる。 三世に渡るそれぞれの仏といわれる者は、彼岸の智慧によって最高の悟りを得た。 以上のことから分かるように、仏の智慧は大いなる神の言葉なのである。 一切の智慧であり、これ以上無い真実の言葉である。 これに比べられるものは無い。 そして、一切の苦しみが取り除かれるものであり、真実であって偽りの無いものである。 ゆえに、この智慧の言葉を要約すると、以下のとおりとなる。 彼岸へ、彼岸へ、彼岸へ到達しよう。 あなたも、わたしも、自我の執着から離れ、物事を正しく観ることにより悟りの彼岸に到達して、安心の境涯を手にしよう。 これが永遠に変わらぬ心の教えである。 以上の訳は、一般に出回っている般若心経の訳文とは大きく違うと思います。 私なりに意訳を加えて訳しています。 ご参考になれば幸いです。

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般若心経の意味|全文を行ごとにわかりやすく直訳解説

般若心経 意味

正しくは菩提寺にお尋ねください。 般若心経の和訳 上記玄奘訳を元に、仏教や哲学の専門用語をなるだけ使わずに日常語で意訳しました。 玄奘訳で欠けている部分の大筋などを 「大本(完全版)」やサンスクリット原本で補いました(青字部分)。 また、 分かりやすくするため説明を付加しています(緑字部分)。 般若心経の和訳 私はこのように聞いています。 お釈迦様が大勢の出家した弟子達や菩薩様達と共に王舎城の霊鷲山にいらっしゃった時、お釈迦様は深い悟りの瞑想に入られました。 人は私や私の魂というものが存在すると思っているけれど、実際に存在するのは体、感覚、イメージ、感情、思考という一連の知覚・反応を構成する 5つの集合体(五蘊)であり、そのどれもが私ではないし、私に属するものでもないし、またそれらの他に私があるわけでもないのだから、結局どこにも私などというものは存在しないのだ。 しかもそれら5つの要素も幻のように実体がないのだと。 そして、この智慧によって、すべての苦しみや災いから抜け出すことができました。 お釈迦さまの弟子で長老の シャーリプトラ(舎利子)は、観音様に次のように尋ねました。 「シャーリプトラよ、 体は幻のように実体のないものであり、実体がないものが体としてあるように見えているのです。 体は幻のように実体のないものに他ならないのですが、かといって真実の姿は我々が見ている体を離れて存在するわけではありません。 体は実体がないというあり方で存在しているのであり、真実なるものが幻のような体として存在しているのです。 これは体だけでなく感覚やイメージ、感情や思考も同じです( つまり、私が存在するとこだわっているものの正体であるとお釈迦様が説かれた「五蘊」は、小乗仏教が言うような実体ではありません)。 シャーリプトラよ、このようにすべては実体ではなく、生まれることも、なくなることもありません。 汚れているとか、清らかであるということもありません。 迷いが減ったり、福徳が増えたりすることもありません。 このような実体はないのだという高い認識の境地からすれば、体も感覚もイメージも連想も思考もありません。 目・耳・鼻・舌・皮膚といった感覚や心もなく、色や形・音・匂い・味・触感といった感覚の対象も様々な心の思いもありません。 目に映る世界から、心の世界まですべてありません( つまり、お釈迦様が説かれた「十二処」は小乗仏教が言うような実体ではありません)。 迷いの最初の原因である認識の間違いもなければ、それがなくなることもありません。 同様に 迷いの最後の結果である老いも死もないし、老いや死がなくなることもありません( つまり、お釈迦様が説かれた「十二縁起」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではなく生まれたりなくなったりしません)。 苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません( つまり、お釈迦様が説かれた「四諦」のそれぞれは小乗仏教が言うような実体ではありません)。 知ることも、修行の成果を得ることもありません。 また、得ないこともありません。 心に妨げがないので恐れもありません。 誤った妄想を一切お持ちでないので、完全に開放された境地にいらっしゃいます。 ですから知らないといけません。 」 この時、お釈迦様は瞑想を終えられて、「その通りです」と、喜んで観音様をお褒めになられました。 そして、シャーリプトラや観音様やその場にいた一同をはじめ、世界のすべての者達はお釈迦様の言葉に喜びました。 『般若心経』とは? 『般若心経』は正しくは『般若波羅蜜多心(プラジュニャーパーラミターフリダヤ)経』と言いますが、インドのサンスクリット語の原典にはタイトルはなく、中国で、結びの言葉に「経」を付加してタイトルにしたのです。 「般若波羅蜜多」について説く経典は多数あって、それらを総称して般若経典と呼びます。 般若経典は紀元前後から作られ始め、12世紀頃まで作られました。 『般若心経』はその中の一つで、般若経典の神髄を短くまとめたとする経典です。 『般若心経』はいつどこで書かれたのか? 『般若心経』がいつどこで書かれたかははっきりしませんが、インドで観音信仰が広がり、仏教が密教化していった5-6世紀頃ではないかと推測されています。 4-5世紀に生きた鳩摩羅什によるとされる漢訳本があるため、もっと早く成立していたと思われていましたが、最近の研究では羅什訳は後の時代の偽作の可能性が強く、『般若心経』の成立が確実に確認できるのは7世紀初頭頃になってからです。 『般若心経』には、玄奘訳のように観音菩薩の説法に当たる本文だけからなる「小本」と、本文の前後に物語の基本的な設定に当たる序文やエピローグを含んだ「大本」の2つの系列があります。 上の和訳では「大本」だけにある部分は青字で大筋を訳しました。 この部分がないと、お釈迦様も登場せず「仏説」としての根拠がないので経典として成立しません。 歴史的には、最初に般若経典から神髄だけを抽出した「小本」が作られて、後に経典として体裁の整った「大本」が 作られたようです。 般若心経の意味 「般若波羅蜜多(プラジュニャーパーラミター)」は「智慧の完成」、「完全なる智慧」という意味です。 「プラジュニャー(パンニャー)パーラミター」を「般若波羅蜜多」と音訳しているのは、これが固有名詞と考えるべき特別な智慧だからです。 大乗仏教では修めるべき六つの修行・徳目を「六波羅蜜多」と言い ますが、その中の最後の最も重要なものが「般若波羅蜜多」です。 「心」と訳されている「フリダヤ」は、直訳すると「心臓」ですが「神髄」という意味で使われます。 つまり「般若心経」とは、「般若波羅蜜多の神髄」であると共に「般若経典の神髄」という意味です。 「フリダヤ」は「真言」という意味でも使われるので、「般若波羅蜜多の真言」という意味だと解釈する説もありますが、結局はどちらでも同じです。 なぜなら、『般若心経』の中に「般若波羅蜜多は大いなる真言である」と書いてあり、『般若心経』の主張は「般若波羅蜜多の神髄は真言である」ということだからで す。 『般若心経』は「般若波羅蜜多」の修行方法を説いており、文章の流れからして、明らかに真言を伝授することを核心としています。 お釈迦様の生きておられた当時の多くのインドの宗教・思想では、禁欲・苦行や無念無想の瞑想を行って欲望や執着を制御することで解脱ができると考えていたのですが、お釈迦様は、あるがままを観察する瞑想で得られる智慧によって、欲望や執着の原因を理解してそれをなくすことで解脱ができると考えました。 仏教では何かに集中し、一体化して心を静める瞑想を「止(シャマタ、サマタ)」、何かを観察し、分析する瞑想を「観(ヴィパッシュャナー、ヴィパッサナー)」と呼びます。 「六波羅蜜多」の5番目の「禅波羅蜜多」が「止」に、6番目の「般若波羅蜜多」が「観」に相当します。 観自在菩薩と長老シャーリプトラ 『般若心経』は観自在菩薩が智慧第一の長老シャーリプトラに説法するという設定になっています。 観自在菩薩はその名前が示している通り、「観」の瞑想に秀でているとも解釈できる大乗仏教の菩薩で、一方シャーリプトラは小乗仏教の智慧を象徴すると考えられる人物です。 仏教の経典類は「三蔵」と呼ばれる「経」「律」「論」に分類されます。 原則としてお釈迦様の説法を記録した「経」に対して、お釈迦様の教えを解釈し、体系化したものが「論」です。 小乗仏教の各宗派はそれぞれに「論」を作りましたが、シャーリプトラがお釈迦様の教えを解釈してまとめたことが、「論」の始ま りとも言われています。 「観」の瞑想では、どのように集中するかということと、どうような教説に即して観察・分析し智慧を得るかということが問題になります。 以下にこの2つを説明しましょう。 「空」の思想 『般若心経』が「般若波羅蜜多」の修行で得られる智慧として説いているのは、大乗仏教の「空」の智慧です。 つまり、「般若波羅蜜多」の智慧は「空」を理解する智慧であり、瞑想修行の中ですべてを「空」であると洞察するのです。 『般若心経』が次々と数え上げながら、「空」である、「無い」と否定しているのは、「五蘊」「十二処」「十二縁起」「四諦」など、お釈迦様が説かれたとされる仏教の中心的な教説、教説で使われる基本的な概念で、「法(ダルマ)」と呼ばれるものです。 小乗仏教(部派仏教)はお経を解釈しながら、世の中のあらゆるものを細かく分析して、真に存在するものを「法」としました。 そして、観の瞑想によって「法」を見極め、我々が一般に存在していると思っているものは観念でしかなく、しかも、真に存在しているこの世の「法」(有為法・行)は無常なもので、し たがって執着することは苦であり、どこにも私はないのだという智慧を得て、煩悩をなくすことで悟りが得られるとしました。 そして、「法」は、悟りと関係し た清いものであったり、煩悩と関係した汚れたものであったり、また、生じてはすぐに滅するものだなどと考えました。 これら小乗仏教の思想は「アビダルマ論」と呼ばれます。 しかし、大乗仏教は、小乗仏教が「法」を大切にし過ぎるあまり、これらを実体のように考えていると批判しました(当時、大乗仏教が批判の対象にしていたのは、小乗仏教の中でも主に「説一切有部」と呼ばれる部派であり、その後、東南アジアで主流となっている「上座部」とは違います)。 『般若心経』は、小乗仏教の「アビダルマ論」を知っている人を対象にして、「法」も含めてすべてのものは「空」であって、もともと真実に存在しているもの ではないのだから、生まれることも、滅することも、汚れているということも、清らかであるということもないのだと、一つ一つ批判しているのです。 『般若心経』は決して「五蘊」「十二処」「十二縁起」「四諦」などの仏教の基本的な教説を否定しているのではなく、これら「法」を実体視することを否定しているのです。 そして、この「空」を洞察する智慧によってこそ悟りに至ると説いています。 一連の「空」の説法の中でも最も重要なのは、大本が最初に観自在菩薩が見極めた内容だと語る「五蘊」の「空」です。 玄奘訳では「五蘊は空である」と訳されていますが、サンスクリット原典では「五蘊があり、それが空である」と書かれています。 つまり、お釈迦様が悟られた五蘊説をまず認め、次にそれを実体と 見ることを否定しています。 五蘊説は「無我」を説く仏教の基本的な教義で、これを理解することが『般若心経』を理解する基本になりますので、長い付加的な説明をつけて訳しました。 五蘊の無常を瞑想する修行法は「五蘊観」と呼ばれ、古来、これだけで悟りに至れるとされてきました。 「色」は一般に「形あるもの」とか「物質」と訳されることが多いですが、自我への執着をなくすために説かれた本来の「五蘊説」の文脈では「体」ですので、ここでは「体」と訳しました。 ちなみに「蘊」は「集合体」の意味で、実体ではないということですが、5つ集まっているから集合体なのではなく、五蘊の それぞれが集合体でどれも実体ではないという意味です。 また、玄奘訳に「色不異空 空不異色/色即是空 空即是色」という有名な一節がありますが、サンスクリット語の大本などにはこの前に「色性是空 空性是色」などと訳される部分があって、三段階の説明となりました。 経文を直訳すると下記のようになります。 (1) (A) 色は空性であり (B) 空性こそ色である (2) (A) 色は空性と別ではなく (B) 空性は色と別でない (3) (A) 色なら空性であり (B) 空性なら色である 似た文が6つ並んでいます。 『般若心経』は読経や瞑想修行を目的として、リズムや繰り返しを重視して書かれているので、それぞれの文の違いにはあまり意味がないかもしれません。 (1)、(2)、(3)は表現は違いますが、論理的には意味はほぼ同じです。 ただ、(A)と(B)については、インド仏教の伝統では下記のように大きな意味の違いがあると解釈されてきました。 (A)は言葉によって実体に執着することを否定する智慧の段階を表現しています。 それに対して、(B)は何も存在しないという極端な考え方を否定すると共に、言葉のない体験に執着することも否定する智慧の段階を表現しています。 (B)は大乗仏教が重視する智慧で「後得智」と呼ばれるものです。 言葉による 認識はあっても、それらを実体視せず、執着もない状態であり、最終的には、言葉のない直観的な認識と言葉をともなう認識が完全に一致・両立します。 この智慧があってこそ、人を救うことができるのであって、小乗仏教の阿羅漢とは異なる大乗仏教の仏の智慧であると考えられました。 上の和訳では、(A)から(B)への認識の進展を(1)から(3)の流れの中で表現しようと試みました。 「真言」の修行法 『般若心経』で述べられている「空」の思想は、思想として勉強するためのものではなく、「観」の瞑想をするための指針です。 つまり、小乗仏教では「アビダルマ論」に沿って「観」の瞑想を行うのに対して、『般若心経』では「空」の思想に沿って「観」の瞑想を行うのです。 ちなみに、南伝アビダルマ(上座部)の修行道は『清浄道論』に、北伝アビダルマ(説一切有部系)の修行道は『阿毘達磨倶舎論』に、大乗仏教の般若経系の修行道は『現観荘厳論』にまとめられています。 般若経系の修行道は、北伝アビダルマの修行道を、空思想と菩薩の利他主義の観点から組み直したもので、「五道」という形にまとめられています。 ただ、『般若心経』は後半部で「真言(呪文・マントラ)」を称えて紹介しています。 具体的な説明はしていませんが、「般若波羅蜜多」の修行は「真言」を繰り返し唱える「念誦法」と呼ばれる方法を使った修行なのでしょう。 しかし、「真言」を唱えるからといって密教ではありません。 智慧を得て解脱するためには「観」の瞑想を行うのですが、深い智慧を得るためには、まず、何か一つのものだけに集中し続けて、言葉による認識のない状態でその対象との一体化を目指す「止」の瞑想が必要なのです。 小乗仏教でも、まず、呼吸など40種類の対象(四十業処)に集中する「止」を行って集中力を高め てから「観」に移ります。 「止」を行う際、集中する対象を指す言葉を繰り返し唱えながら集中することもあります。 例えば、呼吸に集中する場合は、「息を 吸った、息を吐いた」と繰り返し唱えます。 これに対して『般若心経』が説いている「般若波羅蜜多」の瞑想法は、「真言」を繰り返して唱えてそれ自身に集中する方法でしょう。 まず、「真言」を唱え ながら心を「真言」に集中し一体化します。 その後、おそらく「真言」を唱え続けながらも、自分が体験していることや外界の存在などの現実を対象にして観察 します。 日常的な主観を排除して、『般若心経』で述べられている「空」の教説に沿って、自分がそれらに対して妄想や執着を持っているけれども、実際にはそ れらが存在しないこと、つまり、「法」も含めてすべては「空」であると理解します。 「五道」の修行の階梯にそって智慧の深まりを簡単に紹介しましょう。 最初の「資糧道」では、空の思想を言葉によって知的に勉強します。 次の「加行道」では、それを言葉を使いながら「観」の瞑想の中で理解します。 分析を進め、集中力もついてくると、しだいに言葉のない状態で洞察を行う「止」と「観」が一体の瞑想になり、直観的にあるがままを認識する「空」の智慧が生じます。 そして、瞑想をやめて言葉の世界に戻っても、空の認識が生きた「後得智」が働きます。 この段階が「見道」です。 さらに瞑想修行を進めて、先天的な煩悩まで取り除いていくのが「修道」です。 最終的に、一切の煩悩がなくなると、言葉のない直観と言葉のある認識が一致して、すべてを知る仏の智慧が生まれま す。 この最後の段階が「無学道」です。 真言の意味 「真言」は、それをただ唱えれば何かがかなえられるという魔法の言葉ではありません。 本来、「真言」は経典や 仏の智慧を心の中に呼び起こして保持するための言葉です。 「真言」を唱える瞑想の中で、集中力の高まった直観的な智慧の体験を何度も経験していて初めて、「真言」を唱えることが条件反射的に智慧の体験を導くのです。 一般に「真言」の内容は、教説を凝縮した象徴的な言葉であったり、祈願や帰依の言葉ですが、「真言」は日常の言葉とは異なっていることが望ましく、言葉の意味よりも響きが重要とされます。 そのため、『般若心経』の「真言」も音訳されることが多く、上の訳では、インドの原典の発音をカタカナにしました。 「波羅蜜多(パーラミター)」は、「完全な」「完成」という意味だと書きましたが、語呂合わせ的には「パーラ」=「彼岸(悟り)」に「イター」=「到った」と解釈できるので、仏教の伝統ではこの解釈もされてきました。 この解釈は「般若波羅蜜多」を擬人的に表現したものですので、自然に「般若波羅蜜多」を人格的に考えるようになりました。 真言の「ガテー」は「行く」という言葉の過去受動分詞、女性単数の呼格と思われます。 『般若心経』のテーマである「智慧(般若)」はインドの言葉では女 性名詞です。 ですから「ガテー、ガテー、パラガテー」は「彼岸に到った貴女よ」と「般若波羅蜜多」に呼びかけています。 「パーラミター」と同じ意味の 「パーラガテー」を掛けているのでしょう。 つまり、 『般若心経』の「真言」は「般若波羅蜜多」の智慧に呼びかけるものであり、修行の目標そのものを意味しています。 もともと「真言」というものは智慧を導び き、智慧に等しいものですから、 『般若心経』の「真言」は「真言」そのものであり智慧そのものだと言えます。 そして、過去にも菩薩達がこの「真言」を唱えた結果、実際に智慧を完成させて 悟りを得て目標を達したのだから、この「真言」はその言葉の内容を実現する力がある真実のものであるということになります。 ですから、「般若波羅蜜多」の 神髄は「真言」であり、「般若波羅蜜多」=「真言」であるというのが 『般若心経』の主張なのです。 「智慧」は女性名詞であり、「智慧」によって仏が生まれるということから、『大般若経』では「般若波羅蜜多は諸仏の母」と書かれ、密教の時代には「般若 仏母」と呼ばれる女性の仏であると考えられるようになりました。 『般若心経』は密教が盛んになり始めた頃に作られたものだと推測されているので、「智慧」 を女神のように考えていたという側面がすでにある程度あったのでしょう。 ただ、密教以前でも、大乗仏教が生まれた当時のインドは、ヘレニズム文化圏の東端にあたり、ギリシャ、イラン(ペルシャ)系の王朝が次々と支配し、その 文化の影響を受けていました。 仏像が生まれたのはギリシャ彫刻の影響ですし、救いや光の性質を持ったたくさんの仏・菩薩が生まれたのはイランの神々の影響 です。 当時のヘレニズム文化圏では宗教を超えて霊的な「智慧の女神」に対する信仰が広がっていましたので、『般若心経』にもその影響があったかもしれませ ん。 ギリシャの智慧の女神ソフィアの影響を受けて、イランでは河の女神アナーヒターが智慧の女神となりました。 アナーヒターは観音菩薩の誕生にも影響を与 えたと言われています。 まとめ 読経と写経 『般若心経』は「真言」の念誦について説いていますが、『般若心経』の「読経(読誦)」や「写経」については何も語っていません。 しかし、『般若心経』は明らかに読経しやすいことを配慮して翻訳されています。 小乗仏教では寺院に多額に相当する布施をすることが功徳とされましたが、大乗仏教では一般民衆を対象に布教していましたので、多額のお布施よりも「読 経」や「写経」をすることが功徳になるとしました。 また、大乗仏教では、お経そのものに対する信仰も生まれました。 「読経」や「写経」は心を集中させることができますし、仏教の教えに心を向けることで邪念を避けることができるのは間違いないでしょう。 いい葬儀で葬儀場・斎場を探す エリアを選択してください 北海道・東北地方 探す• 関東地方 探す• 中部地方 探す• 関西地方 探す• 中国・四国地方 探す• 九州地方・沖縄 探す• いい葬儀の鎌倉新書が運営するサービス•

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