LAからおよそ300km、どこまでも続くカリフォルニアの青い空と広大な砂漠の中を走り続けていくと突然現れるカラフルでポップなHollyスポット「サルベーション・マウンテン」。 レオナード・ナイトというたった一人の人間が、殺風景な砂漠の中で毎日コツコツと30年の歳月をかけ、打ち捨てられた古いトラックの中で寝起きして、ドロとワラとペイントで作り上げた愛のこもったアートです。 日本でも今や有名スポットになりましたが、世界のミュージックシーンでも、ミュージックビデオや映画のロケ地として使われていおり人気スポットとなっています。 ビビッドな色使いの砂漠のサンクチュアリ。 これは砂漠というキャンバスに数万とも数十万リットルとも言われているペンキを敷き詰めた巨大なアートなのです。 ツアー後半は西海岸で最大級のアウトレット「デザートヒルズ・アウトレット」で、たっぷり5時間のショッピングつきです! 知ってトクするサルベーション・マウンテン!• 初めのころは彼のやっていることが理解できない人が多かったのですが、今ではフォーク・アート・ソサエティ・オブ・アメリカも「アート」として認めています。 今では多くのボランティアがサルベーション・マウンテンを維持するためにヘルプしています。 日本でサルベーションマウンテンを有名にしてくれたのは加藤ミリヤさんと清水翔太さんの「さくらメロディー」のミュージックビデオに紹介されてから。 その他、たくさんのミュージシャンや映画関係者に愛されていて撮影ロケ地としても有名です。 サルベーションマウンテンの辺りはアメリカ軍の基地としてかつて使われていました。 今は、軍も去り、見捨てられた土地となっています。 サルベーションマウンテンのすぐ隣にあるのがスラブシティ。 スラブシティはその名のとおり廃墟のコンクリートのスラブからきています。 水道も電気も下水もないこの土地は、固定資産税を払わなくても住めるため、最後の自由の国アメリカという人もいます。 Joylandのブログでサルベーションマウンテンの記事はこちら。 冬の時期は大変過ごしやすくなっていますが、気温の割に暑く感じます。 出発のときが寒くても昼には温かくなることが多いので夏は熱中症にご注意ください。 また、湿気が少なくカラッとしてますので、日光はかなり強烈でまぶしく、日焼けもしやすいです。 サルベーションマウンテンやアウトレットを見ている間、車内に不要な荷物を置いておくことは可能でしょうか? 可能です。 ただし、パスポート、現金などの貴重品は、ご自身で携帯くださいますようお願いします。 途中コンビニのようなところには寄ることは出来ますか? サルベーションに行く前にIn-N-Outなどのハンバーガーショップに立ち寄ることができます。 車内で食事はできません。 ドリンク類はOKです。
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日本では気象庁をはじめ、様々なお天気情報サイトで台風の進路予想を確認できます。 実は、米軍のサイトでも日本の台風情報を提供しています。 こちらの台風進路予想は、日本より先の長い予想をしているので、かなり前から台風進路を把握することができる利点があります。 当記事では、Joint Typhoon Warning Center JTWC を始めとする米軍の台風情報、そして日本の台風情報に関するサイトをまとめました。 米軍による台風情報 このサイトの使い方は、下の方に書いています。 【PR】 日本付近に台風がある場合、画面左側にある「West Pacific」の下に台風の名前が出てきますので、そこをクリックすると台風進路予想が表示されます。 「NRL Tropical Cyclone Page」の見方 例えば、2015年7月5日現在に発生している台風9号、10号、11号を事例に挙げると、左側の「West Pacific」の下にあるのが台風の号数と名前です。 なお、たまに台風の号数と名前がない場合もあります。 この場合、画面下に予想進路図の画像があるのでそれをクリックすると、拡大された予想進路図が表示されます。 台風には必ず名前が付けられるので、必ず号数と名前がセットになります。 気象庁のサイトでもこの名前が記載されています。 11W. NANGKA 台風11号(ナンカー)を意味します。• 10W. LINFA 台風10号(リンファ)を意味します。• 09W. CHAN-HOM 台風9号(チャンホン)を意味します。 (参考)台風の名前について 台風には従来、米国が英語名(人名)を付けていましたが、北西太平洋または南シナ海で発生する台風防災に関する各国の政府間組織である台風委員会(日本ほか14カ国等が加盟)は、平成12年(2000年)から、北西太平洋または南シナ海の領域で発生する台風には同領域内で用いられている固有の名前(加盟国などが提案した名前)を付けることになりました。 平成12年の台風第1号にカンボジアで「象」を意味する「ダムレイ」の名前が付けられ、以後、発生順にあらかじめ用意された140個の名前を順番に用いて、その後再び「ダムレイ」に戻ります。 台風の年間発生数の平年値は25. 6個ですので、おおむね5年間で台風の名前が一巡することになります。 【引用元】 「NRL Tropical Cyclone Page」に表示される日時の注意点 左側の「09W. CHAN-HOM」(台風9号チャンホン)をクリックした後、台風進路図の画像をクリックすると、このように大きな画像で台風進路図を確認できます。 (参考)アメリカの気象情報サイト アメリカの気象情報サイトで、やはり日本の台風情報他、お天気概況を確認できます。 日本の台風情報 日本語で台風進路予想を確認したい場合は日本のサイトにアクセスしましょう。
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十一月二十六日、第三軍は第三次総攻撃を開始。 正面攻撃を行った各師団の攻撃はことごとく撃退され、さらに各師団からの選抜で特別編成した白襷隊による松樹山第四堡塁の奇襲も失敗した。 一方、児玉は二十九日に満州軍総司令部を出発し、十二月一日に旅順へ到着。 そして児玉は重砲、攻城砲の配置換え指示した。 すぐに港内の軍艦に対する砲撃を行い、旅順艦隊の残存艦を次々と沈めていった。 東鶏冠山北堡塁を始め、各地の堡塁が次々と陥落。 明治三十八年一月二日、ついにロシア軍が降伏し、約190日に及んだ旅順攻略戦はその幕を閉じたのである。 現在も軍港として使われている。 旅順陥落時の港内。 日本軍の砲撃により多数の軍艦が大破着底している。 旅順港内で大破着底したパルラーダ(左)とポベータ(右)。 戦後、日本軍によって改修され、それぞれ「津軽」「周防」と命名された。 日本軍による東鶏冠山北堡塁の坑道爆破。 望台に突撃する一戸旅団。 東郷が旅順の第三軍司令部を訪れたときの記念写真。 前列右から四人目が乃木、その左が東郷、伊地知。 2列目右から四人目が真之、その左が飯田。 3列目左から二人目が津野田。 復元された水師営の会見所。 水師営会見後の日露両軍将校の記念写真。 中列左からレイス、乃木、ステッセル、伊地知。 前列右が津野田。 ステッセルより乃木に贈られた愛馬。 逸話 第一次総攻撃後、志岐の部隊に前田隆礼少将が旅団長として赴任してきた。 そして第二次総攻撃の少し前、志岐の案内で対壕を視察した前田は攻撃工事の進捗状況を見て「これなら攻撃も容易だろう」と語った。 志岐は「敵も手強いので、第二次総攻撃の予定日までには予定通り攻撃準備を整えるべきです」と返答したのだが、その数日後に旅団に攻撃命令が下されたことを知った。 この攻撃命令に不同意だった志岐が師団参謀に直訴したのだが、師団の幕僚達はこの命令を全く知らず、調査を行ったところ下痢のため後方で入院していた土屋光春師団長が前田と意気投合して無謀な旅団による単独攻撃の実施を決めたということが判明した。 そこで志岐は幕僚らと相談し「砲弾が未着のため、師団が要求する砲撃には応じられない」と報告して師団長にこの無謀な計画を思い止まらせた。 その後も前田は戊辰、西南、日清戦争における過去の経験に訴えて機関銃の威力を軽視し、攻撃に慎重な部下を罵倒することもあった。 しかし、第三次総攻撃で自ら大隊を率いて盤龍山方面への突撃を試みたとき、目の前で突撃部隊がなぎ倒されるのを見て初めて機関銃の威力を知り、攻撃中止後に部下達に謝罪したという。 志岐は戦後の口演で上記の例を紹介した後、次のように述べた。 「 兵器進歩著しき今日、将来戦を思うと将校たり、幕僚たるもの、その初戦に於いてまず第一に新兵器の威力を親しく視察することが緊要である。 戦争の経験があって尚必要なことは前例の通りだ。 況んや全く経験なきものに於ておやである」 白襷隊による松樹山堡塁夜襲の際、指揮官や副官が次々と倒れていく中で小出政吉少尉が先頭が立って突撃し、敵堡塁に飛び込んだ。 小出少尉は大砲を盾にして日本刀を揮い、縦横無尽に奮闘したが、敵の増援部隊の中で孤立して遂に戦死した。 水師営会見の際にステッセルは小出の軍刀を乃木に渡し、「あの将校は最先頭に立って勇敢な働きをし、我が軍も大きな損害を受けた。 その行動は誠に感慨の他ない。 これはおそらく伝家の宝刀であろうから、ぜひご遺族に渡して当時の壮烈な奮闘ぶりをお伝え願いたい」と語った。 十二月半ば、日本軍の二十八センチ砲陣地に敵が発射した二十八センチ砲弾が飛来した。 その弾底の砲片に「大阪」という文字が彫られていたため、攻城砲司令部の奈良武次は不発弾を撃ち返されたのではないかと考えたが、その時点では確かめるすべがなかった。 旅順開城の際、要塞受領委員として豊島陽蔵と共にロシア引渡委員ベーリー長官の官邸を訪れた奈良は、日本軍の不発弾や信管が断面を切って展示されているのを目撃する。 当時は機密扱いで日本軍の将校でも見ることの出来なかった伊集院信管まで展示されていたという。 この時ベーリーは奈良に対して、「あなた方の二十八センチの不発弾は、ちょうど黄金山砲台にある我が軍の二十八センチ砲と合う。 そこで、信管を直してそのまま使いました」と語った。 前線で肉弾戦を目の当たりにした志岐は、戦後の座談会で次のように述べている。 「 昔から勇壮、悲壮の戦いにはよく屍を乗り越えて進むということがある。 屍を乗り越えて進むということが非常に偉いことであるように考えるが、今日はそういうことは出来ない。 昔は屍を乗り越えて進むという間は危険はない。 敵にぶつかった後にはじめて接戦する。 今日の戦争では屍を乗り越える間に自分は叩き伏せられる。 だから、昔の戦争で屍を乗り越えて進むということはむずかしいことでない。 今日においてはその意義があてはまらない。 言葉はおなじことであるけれども、よほど状況が違うから区別してもらわないと第一線の者が困るのです。 それからもう一つは、肉弾、肉弾ということを言うけれども、いかに肉弾とはいえ鋼鉄の弾丸にぶつかって倒れるのは当たり前だ。 敵にぶつかって、敵と格闘してはじめて肉弾が働く。 そこに接近するまでの間は肉弾は何も働かない。 だから敵と接近するまでには何とかして敵に接近できるようにしてくれなければならない。 つまり側面や背後から銃砲弾で敵を押さえつけて、体当たりするまでにしてくれなければ肉弾の値打ちがない。 肉弾が銃砲弾の代わりをすると思ったら間違いである。
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