形あるものいつかは壊れる。 団塊おやじのリタイア年金生活ブログ: 形あるものはいつか壊れる、洗濯機の件

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形あるものいつかは壊れる

皆さんこんばんは、寒い日が続きますね・・・ 風邪をひいている方、体調を崩されている方がいらっしゃる かと思いますが、クリスマスや忘年会、大掃除といろいろ行事 がありますので、体調を万全にしておきたいものです。 外から帰ったら 手洗いうがいを徹底しましょう。。。。。 さて、先日突然のアクシデントに見舞われ不便な思いをいたしました。 自宅の床で携帯が滑ってしまい、画面がバリバリになってしまったのです。 ガラスが粉状になってしまった為、ガラスの破片が刺さり指先がチクチク痛くて、 電話を使うことが出来ませんでした。 これがまた見事に粉々になるもんなんですね 基本的に携帯の画面がこのようになってしまったことがないのでどうしていいかわからず とりあえず大至急修理してくれるところを探して約2時間程度で元通りになりました。 本当にありがたかったです。 形あるものいつか壊れる・・・と言いますがどんなに大切に扱っていてもほんの一瞬で 壊れてしまうものなんですね・・・・ もしかしたら人間もそうなにかもしれません。 いつもニコニコしていた人が、ちょっとした 事がきっかけで、精神的又は肉体的に蝕まれていき壊れてしまう人もいるかもしれません。 また、知らず知らずのうちに自分が壊れてしまっているか、もしくは人を壊してしまう側になってし まっているかもしれません。 形あるものは見て確認することが出来ますが形のないものは難しいです ね・・・人は心が壊れると大変なことになってしまいます。 皆さんの周囲の方は大丈夫ですか? 声は元気ですか?笑顔はステキですか? オレンジでは皆さんに元気とパワーを分けてあげられるよ うにスタッフ全員いつも明るく元気にお客様をお迎えいたします。 お土地をお探しの方、建物をお探しの方、売却をお考えの方、アパートをお探しの方、不動産の件で 相談したい事がある方、温かいお飲み物をご準備してお待ちしておりますので、お気軽にご来店下さ い。 本日のブログ担当は藤井でした。

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形あるものいつかは壊れる

先日、曹洞宗のお葬式に参列し、 生まれて初めて、お葬式で僧侶の言葉に心を打たれました。 お葬式の場だったのでメモもとれず、少し違っているかもしれませんが、 確かこんな感じで… 生あるものは必ず滅し、形あるものは必ず壊れる。 人は因縁によって出会い、そしてまたその因縁によって別れる。 … と続いていったと思います。 内容は諸行無常って言うことなんだと思うんですが、 言葉の選び方が美しく簡潔で、耳に心地よく、 その数分ですっかり心をつかまれ、曹洞宗に宗旨変えしようかと思ったくらいです 笑 夫に聞くと、それは道元の「正法眼蔵」ではないかと言うのですが、 ネットで検索しても、その部分がでてくるものがなかなか見つかりません。 そのくだりをきちんと知りたいですし 難しくて理解できないと言う話ですが、 もし「正法眼蔵」なら、 それでも死ぬまでに一度は読んでみたいと思います。 もしご存知の方がいらっしゃったら教えてください。 本来、葬式や法要というのは亡くなった方のために営まれるのではなく、生きている人に仏陀の教えを再確認してもらうためのものなのですから。 葬儀で曹洞宗の僧侶が言ったのは、仏教をかじった人なら誰でも言えるようなごく一般的な言葉です。 その僧侶の創作か宗派で檀家の人に配られている冊子等からの引用でしょう。 道元の「正法眼蔵」というのは、一般の信者向けに書かれたものではなく、弟子たちのためにかかれたきわめて専門的な書物です。 いきなり素人が読んでも意味が分からないと思います。 そして、あなたが期待しているような事は書かれていないと思いますよ。 まずは、原始仏教の経典から読んでみては、どうでしょうか。 「スッタ・ニバータ」(仏陀の言葉)や「アーガマ」(阿含経)の解説書あたりが良いと思います。 そして、「この人を見よ」(ブッダ、ゴータマの生涯)なんかがお勧めです。 その後、大乗仏教の経典を読み「禅」も少し勉強した後、「正法眼蔵随聞記」を読んで見てはいかがでしょう。 道元の弟子が書いた「正法眼蔵」の解説書です。 回答ありがとうございます。 そうなんですか。 これだけ探しても出てこないと言うことは「正法眼蔵」ではないのかな、とは思ってきていました。 曹洞宗=道元と思ったのは短絡的でした。 私も「正法眼蔵」は難しくて読めないよ、とは聞いていたんですが、 それでもわからないなりに読んでみたいと思ったんですよね。 どのように読み進めていけば近づけるのか、 教えていただいてありがとうございます。 参考にさせていただきます。 実は今日図書館で「ブッダのことばI」、「ブッダの詩」、「正法眼蔵」を借りてきたんです。 まだパラパラと見ただけなんですが、 ブッダがこんなに多く語っていたこと、多くの詩を作っていたことに、まず驚いたんです。 そして、たいがいの人がどこかしらの仏教の檀家になっていると思うんですが、 ほとんど知られていないことにも驚いたんです。 確かにお葬式の場で、ブッダの言葉をきちんと伝えてもらえたらいいですね。 「正法眼蔵」も最初だけ読んでみました。 1つ1つの言葉が難解で、1つ1つ調べなくてはならない感じで。 また、少し読んだだけでも、 仏教の素養が無ければ理解できないのだろうとは思いました。 ただ、言葉は美しいなぁとは思ったんです。 死ぬまでには読んでみたいと思います。 そして、一部でも理解できればうれしいです。 言葉に心打たれました。 言葉の選び方が美しく簡潔で耳に心地よくその数分ですっかり心をつかまれ・・・? 打たれやすく、つかまれやすい、心、ですね。 カルト宗教などから、(カモだと思われ)勧誘メールなどが、殺到しかねませんよ。 「巧言礼飾 少なし仁」(論語)でもありませんが 耳に心地よく、心に働きかける言葉に、真実(=知恵)はないんじゃないでしょうか。 そう思わせようとの思惑ですから。 生あるものは必ず滅し。 形ある物は必ず壊れる。 一休さんの頓知話、で昔は子供でも知っていた言葉です。 和尚さんが大事にしていた、盆栽を壊した、言い訳に。 和尚に「生あるものは?」と、問うと「必ず滅す」と答え。 「形あるものは?」と、問い、和尚の「必ず壊れる」との答えを待って。 「実は、和尚さんの、盆栽を壊してしまいました」 と言った。 という話しです。 人は因縁によって出会いそしてまたその因縁によって別れる。 殆ど嘘、釈迦の理法の誤解、曲解による造語です。 釈迦の理法は 「すべては縁によりて起こる(縁がなければ何事も起こらない)」、であり。 この世界は、縁、実体のない、変化を起こす、能力方向性。 変化したもの、起きた事、という 「起」があるだけであり。 「起」は次の縁となり、 諸行無常、常なるものはない。 世界は変化する過程として、常に今ある、今しかない。 という在り方、起こり方、になる。 という、考え方であり。 仏教 とは、仏(ブツ、悟りに導くもの)を縁として、悟り、が起こる。 当然その、悟り、を縁=仏 として、次の悟りが起こる。 であり。 究極の悟り、とか、これが悟りだ などというものではありません。 釈迦は、死ぬ時、これより涅槃に入る、と言ったそうです。 道元の問答集もいいでしょうが、仏教を知りたいなら まずは、パーリ語経典の、和訳書に目を通されてはどうでしょう。 難しくも何ともありませんが、結構、心にも、知恵にも、響く、言葉に出会うと思いますよ。 回答ありがとうございます。 あっ、すみません。 私の言葉が足りなくて… 今回心をつかまれたというのは、 その言葉でいきなり盲信して、と言う感じではなく、 諸行無常っていろいろな言葉で語られてきたと思うんですが、 その簡潔な言葉の選び方に感動したと言いますか。 諸行無常は、中学のころ平家物語で知って、 本当にその通りだわ~、と目からうろこでした。 諸行無常って考えてみればごく当たり前のことなんですが、 すぱっ!と言い切ってくれて。 そういうのを真理っていうんですかね? >「すべては縁によりて起こる(縁がなければ何事も起こらない)」、であり。 この世界は、縁、実体のない、変化を起こす、能力方向性。 変化したもの、起きた事、という 「起」があるだけであり。 「起」は次の縁となり、 諸行無常、常なるものはない。 世界は変化する過程として、常に今ある、今しかない。 という在り方、起こり方、になる。 この辺は非常に参考になりました。 今まで少し勘違いしていました。 結果には必ず原因がある、と解釈していたので、 そういうこともあるし、そうじゃないこともあるわよね~、と思っていました。 >世界は変化する過程として、常に今ある、今しかない。 という在り方、起こり方、になる。 という、考え方であり。 仏教 とは、仏(ブツ、悟りに導くもの)を縁として、悟り、が起こる。 当然その、悟り、を縁=仏 として、次の悟りが起こる。 であり。 究極の悟り、とか、これが悟りだ などというものではありません この部分も非常に納得できます。 私も悟りなんて無いと思っています。 悟ったなどと言う人は信用できません。 もがきながらでも日々努力しているその行動のほうを尊敬します。 以前パーリ語経典なんでしょうか?釈迦の言葉集みたいなのを図書館から借りて少し読んだんですが、 ごく当たり前のことを、当たり前に言っていて、 過激なことはなく、本当に普通で、 そこに感動した記憶があるんですが、 ほんの少しだったので間違っているかもしれませんが… パーリ語経典の和訳、読んでみたいと思います。 道元も読んでみます。 いろいろ読んでみます。 仏教に限りませんが、現代では、宗教者といえども、「あの世」や「魂とか「奇跡」の存在を信じていない宗派が多いようです。 唯物論者のように、霊や魂の存在を否定することが「現代的」で「進歩的」な宗教であると考えているようですし、これは、日本の仏教大学の教育方針でもあるようです。 ただ、僧侶の中には、霊界のことを理解している方もいるので、そういう方のお話ですと、心を打たれることもあるでしょう。 因果応報 つまりは、仏教の教えですね。 道元さんは、中国に留学しながらも仏像も経典さえも持ち帰らず帰国したことで有名です。 「道元禅師」と言われるように「禅」を広められましたし、「不立文字」という「経典なんぞ無くても良いんじゃねいの」とか、ただただ座っていればいいんじゃねえの」という「只管打坐(しかんたざ)」という四文字熟語でも知られています。 まあ、勉強ばかりして、「悟り」というものを忘れていると思えた鎌倉時代の仏教界を批判したということでしょうか? 「教典はいらない」というようなことをいいながらも、道元さんは比叡山で学んでますから「仏典読まなくてもいい」ということにはなりませんね。 その元になった仏教は、2600年も前にインドやネパールで仏陀により説かれた教えです。 そして、道元さんは、その教えを仏陀の弟子や分派が記述した仏典や僧侶たちから学ぼうとしたわけですね。 で、「不立文字」と言いながらも不覚にも「正法眼蔵」などの教典を残すことになられました。 現代において、そういう古い教典を通して、仏教の教えを学ぶにはとても効率が悪い方法だと思いますよ。 やはり、約2600年前に、仏陀が「2600年後に東の国に生まれ変わる」という言葉を残され、そして、その予定された年に産まれられた「再誕の仏陀」である「幸福の科学」の大川隆法総裁の掛かれた800冊を超える書籍から学ばれるほうがいいと思います。 その書籍の中には、道元禅師の霊言も含まれていて、ご自身が学んだことに対する反省の言葉なども書かれています。 今年の大川総裁による最初のアジア講演は、インドのデリ・ムンバイ・ブッダガヤ、そしてネパールのカトマンズにて行われました。 ブッダガヤとカトマンズでは講演内容を全国生中継でTV放映されました。 ブッダガヤでは4万人の人々が講演会に参加され、その野外テントの会場に入ることができなかった3万人の人々が会場周辺で騒いで暴動寸前の状態になったようです。 また、その講演会の会場の最前列には、仏教の僧侶たちがずらりと勢揃いしていたそうです。 そして、スリランカの講演会では、仏教の上座部(小乗仏教)の国ということもあり、「悟りを得たならば、輪廻転生のくびきから逃れられる」つまりは「再誕」はあり得ないという教えを説く国です。 幸福の科学のスリランカ支部の支部長は、スリランカの僧侶たちに「仏陀再誕を信じない方は、大川総裁の講演会に来てくれるな!」と言い放ったのですが、彼らはやってきました。 やはり彼らは「仏陀に会いたい、その言葉を教えを聞きたい!」という想いが強かったということでしょうね。 日本では、宗教といえば、「悪いもの」という洗脳がマスコミや行政・教育機関を通じて行われていて、こういうニュースは報道されません。 が、世界の平均的に宗教心のある人々はキリスト教やイスラム教という宗派の違いを超えて、大川総裁の講演を聴けば、その真実の言葉に即座に「これは本物だ!」と反応します。 この12月6日には、埼玉スーパアリーナで「エル・カンターレ祭」があったのですが、それは全世界3,500カ所以上に衛星同時中継されたわけですけど、日本人の宗教に対する無知への批判の言葉が何カ所も含まれていて、「これが世界同時中継されているのか・・・」と日本人として恥ずかしい思いでした。 日本のマスコミは「マスゴミ」になっていて、多くの日本人はそれらに洗脳されているのが現状ですが、世界の人々は「再誕の仏陀」であり地球神でもあるエルカンターレの存在を認識しつつあります。 時代の流れに乗り遅れないように、この奇跡の時代に産まれたチャンスを逃さないようにしましょうね。 大川総裁が亡くなられたのちでも、幸福の科学に入会して弟子になり、教典から学ぶことは可能です。 でも、「直弟子」と名乗ることが可能なのは、生前に三帰していた人だけです。 没後の人々は、望んでも決して「直弟子」にはなれません。 回答ありがとうございます。 お礼遅くなってすみません。 実は私も、霊魂とか、あの世とかは信じていないんです。 死んでしまえば全く何も無くなってしまうと思っている人間です。 だからこそ、生きている1日1日を大切にしたいと思っています。 今回感動したと言うのは、 諸行無常を語る、簡潔な言葉の選び方に心をつかまれたとでも言いますか… 個人的には、 諸行無常ってのは、 中学で初めて平家物語を習った時から、しみじみその通りだなあ、と思っていて、 因果応報ってのは、 なんだかその通りだと思う時と、原因なく突然与えられるな~と思う時と、 こちらはいろいろです。 また、マルクスの「宗教はアヘンである」と言う言葉にも一理あると思っています。 ある人の言葉が真理のように思っても、 おそらく私には、 その人を尊敬はしても、神のようにあがめることは、これからも無いだろうと思います。 ま、先のことはわかりませんが… マスコミに関しては同感です。 「エル・カンターレ祭」が大々的に行われていたのですか。 世界中に衛星中継されていたのですね。 そういうことを全く知らされないっていうことはあるかもしれませんね。 こう調べてもないっていうことは、道元の言葉ではないのかもしれませんね。 A ベストアンサー 「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。 普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。 パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。 残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。 当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。 従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。 ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。 それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。 例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。 これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。 風に抵抗できない。 いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。 しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。 しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。 少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。 人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。 自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。 そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。 ……このような意味の比喩ではなかったかと思います。 この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。 パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。 彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。 パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。 暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。 弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。 パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。 「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。 普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。 パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し... A ベストアンサー こんにちは。 30代オンナです。 私は5年前に実母を癌で亡くしました。 そのときに会社の皆さん、友人たちにいろいろな言葉をかけてもらいました。 「大変だったね」「何かできることあったら言ってね」等々なぐさめやねぎらい(お通夜・お葬式は大変だった!)の言葉はどれもありがたいものでした。 ただ、うちの母親の場合56歳という若さで亡くなったのでそれは私自身とても残念で悲しいことでした。 唯一「まだ、若かったのに残念ね・・」という言葉には正直辛く感じました。 わたくしごとをゴタゴタ並べてしまいましたが、やはり何か言葉をかけてあげたほうが良いと思います。 腫れ物を触るように気をつかっていただいたことがあり逆にこっちが気をつかっちゃったりしたことがありました。 ただ、なくなった直後は葬式やら事務手続き等でとても忙しくて亡くなったんだ実感というものが感じられません。 できたら、落ち着いた頃に 49日が終わり、2か月くらいたったころ)食事にでも誘ってお話を聞いてあげてみてください。 A ベストアンサー 基本として、水稲や麦の収穫は品種、地域の栽培体系により変わってきます。 例えば南から北に順に収穫期が移行していくというような、順序というのは基本的にはありません。 ですから収穫期については稲・麦それぞれの全国総体としての傾向値としてとらえる形になるかと思います。 稲は早いもので8月の下旬、遅いもので10月下旬くらいが収穫期となります。 8月下旬収穫のものは九州のコシヒカリや温暖地域でのあきたこまちなど、早期収穫を狙って栽培されるものです。 遅いほうの収穫は、品種的なものがあるので地域は絞れません。 収穫の遅い晩生品種を用いた栽培体系の収穫であり、概して温暖地になろうかと思います。 麦については、大麦(2条、6条)や小麦によっても異なりますし、それぞれの品種によっても違います。 しかし基本的には稲ほどの幅はなく6月中に収穫が終了するものです。 ただ、小麦については春蒔きの小麦と冬蒔きの小麦が存在します。 6月収穫するものは冬蒔きのもので、日本の殆どの小麦は冬蒔きですが、北海道等の積雪地帯では冬蒔き小麦の栽培ができませんので、春蒔きのものを作っています。 なっておりません。 前述した通り、品種などにより栽培期間が異なるため、収穫時期の早いものと遅いものでは品種や栽培体系が異なるため、単純な比較ができないのです。 なお、適正な収穫期にあれば稲、麦とも収穫量は変わりません(品種の収穫量差はある) 余談ですが、食味などは(地域が同じであれば)早期栽培のものが良いといわれています。 ただ大抵の都道府県は収穫の進捗状況について調査をしているはずですので、農林水産省の統計で把握する都道府県別の年の収穫量、反収、栽培面積と、都道府県ごとの収穫の進捗状況、を組み合わせれば、ある程度の推測は可能かと思われます。 現在米あまりのため、2期作はしないように指導が行われています。 沖縄の極一部以外ではやっていませんので無視して良いかと思います。 基本として、水稲や麦の収穫は品種、地域の栽培体系により変わってきます。 例えば南から北に順に収穫期が移行していくというような、順序というのは基本的にはありません。 ですから収穫期については稲・麦それぞれの全国総体としての傾向値としてとらえる形になるかと思います。 稲は早いもので8月の下旬、遅いもので10月下旬くらいが収穫期となります。 8月下旬収穫のものは九州のコシヒカリや温暖地域でのあきたこまちなど、早期収穫を狙って栽培されるものです。 遅いほうの収穫は、品種的なものがあるの... A ベストアンサー かなりややこしい問題です。 はっきりと正解・間違いかと答えられる人がいるのでしょうか、と感じるくらい難しいことのようです。 ただ末尾に〔普通、順序の意には「初」、開始の意には「始」を用いる〕」とあります。 大辞泉では、 「はじめ【始め・初め】 5 (「…をはじめ」「…をはじめとして」の形で用いる)多くの中で、主となるもの。 また、先に立つもの。 つまり、5の文例は「初め」を慣用とするとしているようです。 岩波国語辞典では、 「はじめ【始め・初め】」としているだけで、特にどちらを が 用いる・用いられるかは明確にしていません。 ただし、副詞に限っては「初め」としています。 新明解国語辞典 「はじめ【初め】」として、末尾に「「始め」とも書く」としています。 Windows付属のIMEでは、 始め: [一般的][物事に関して][動詞的] 初め: [時間に関して][副詞的] としています。 IMEだけは、はっきりと「校長を始めとして」と用例をあげています。 しかし根拠は ? です。 漢字の由来としては、 「始」は「終わり」に対する「始め」の意味だけです。 [始皇帝、終始、始終、始末、始めは処女のごとく後には脱兎のごとく] ま、大辞林のとおりですね。 IME他、時間的な始まりと物事の始まり、という分け方をしているものを時々みかけますが、どうでしょうか。 「並んでいる一番目」「第一の」というようにとらえれば「初め」になるようです。 初恋、初陣、初夜などは時間とばかりはいえないでしょう。 少なくとも、「社長をはじめ、職員の…」であれば「はじめ」は動詞・連用形と考えられるので「始め」になります。 しかし、「社長をはじめとする職員の…」となると「ははじめ」は名詞ですから、やはり ? です。 歯切れのいい回答にならず申しわけありません。 かなりややこしい問題です。 はっきりと正解・間違いかと答えられる人がいるのでしょうか、と感じるくらい難しいことのようです。 ただ末尾に〔普通、順序の意には「初」、開始の意には「始」を用いる〕」とあります。 大辞泉では、 「はじめ【始め・初め】 5 (「…をはじめ」「…をはじめとして」の形で用いる)多く...

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形あるものいつかは壊れる、と言うけれど

形あるものいつかは壊れる

さんによるからの写真 イメージ ちょうど10年前、2008年の7月に買った Nationalの ドラム式電気洗濯乾燥機です。 (まだPanasonicではありませんでした) 当時はまだ高い価格で、9㎏用で178,000円もしたものでした。 この洗濯機は、3年前に1回故障して出張修理を依頼し、ギアードモーターというのを交換して1万数千円かかりました。 2日ほど前から「ギシギシ」と言うか「ゴトゴト」という音が出ていて 今日はとうとう、取扱説明書に載っていない故障のアラーム番号が出て、動かなくなってしまいました。 3年前のアラームの番号と違っていました。 とりあえず、メーカーのサービスセンターに連絡したのですが、「お客様がご自分では直せないアラームの番号なので、出張点検に行きますと、〇千円ほどかかります。 修理ですと見てみないと詳しくは分かりませんが、1万5千円から3万円くらいです・・・云々」とのこと。 10年経っているし、今回直しても、また他の個所故障で出費が嵩む可能性が高いかも知れない。 この洗濯機は[はずれ]だったのかも知れない。 うーん ゜-゜ 思案のしどころですが、修理はせずに、新しい洗濯機を買うことにしました。 洗濯物は毎日出るので、買うなら早めに買った方がいいということで、ネットではなく、実物を見られる近くのヤ〇ダ電機の実店舗に駆けつけ。 周辺に数店ある、大型家電店で相性のいいというか、感じがいいのが、このヤ〇ダ電機です。 平日なので空いていて、セール(特売)の洗濯機をいろいろみて行くうちに、今回もドラム式の洗濯乾燥機(H社製)を買うことに決定。 ドラム式にした決め手は、ドラム式の方が、値段が高いけど乾燥した後「しわ」が寄りにくい、と担当販売員さんがいうので。 早めに決めたので、良かったと言えばよかったのですが、思わぬ出費になりました。 生活費からは工面できないので、やせ細った「虎の子」から出ることになります。 虎の子の?貯金もいつかはなくなる ものですね。 配達、取り付けは20日の金曜日、ということで、「ありがとうございました」 それまで、最寄りのコインランドリーでお洗濯になります。 今日も読んでいただきましてありがとうございます。 134• 278• 363• 366• 148•

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