生涯 [ ] 誕生 [ ] 、父王太子、母((兼)の娘)の三男ルイ・オーギュストとして誕生。 となる。 9月8日、ヴォギュヨン公爵がとなった。 のの日、兄ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフがで死亡し、に父の死により ( ドーファン )となった。 婚姻 [ ] 長年してきたブルボン家との間のを結ぶため、のマリア・テレジアにより娘マリア・アントーニア とルイ・ジョゼフとのが画策されていたが、のルイ・ジョゼフの死去により、ルイ・オーギュストとのの使節としてメルシーがとしてフランスにされた。 結婚の反対者であったルイの父が1765年に死亡した後の、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ文書が送られた。 、にて王太子ルイ・オーギュストとマリア・アントーニアの豪華絢爛な結婚式が挙行され、王太子妃はマリー・アントワネットとなった。 即位 [ ] ルイ16世 にフランス国王となり、、ので戴冠式を行った。 4月、各地で食糧危機に対する暴動 小麦粉戦争 が起き、5月2日、ヴェルサイユ宮殿にも8千人の群集が押し寄せた。 この際、国王はバルコニーに姿を現し、民衆の不満に答えている。 4月、子供が生まれず性生活を疑ったより、1777年4月、マリー・アントワネットの長兄が、新婚生活を送っていた ()(現在の ())の新婚夫妻の元に遣わされ、夫妻それぞれの相談に応じ、ルイ16世はの治療を受けた。 また、若くして結婚したため、子作りの方法を知らなかった国王夫妻は、義兄・ヨーゼフ2世より子作りの仕儀を授けられたという。 その甲斐あって結婚7年目のには長女、長男(夭折)、次男ルイ・シャルル(後の)、次女(夭折)が誕生する。 政治改革 [ ] 、ルイ15世の積極財政の結果を受け継いだため、即位直後から慢性的な財政難に悩まされ続けた。 それにも関わらず、の勢力拡大に対抗してに関わり、を支援するなどしたため、財政はさらに困窮を極めた。 海軍力の整備に力を入れ、に軍港を建設した。 一方でローヌ男爵にして学者や銀行家など、経済に詳しい者を登用して改革を推進しようとした。 またには拷問の廃止を王令で布告するなど、思想にも一定の理解を示している。 には名士会の開催と招集の布告を行なった。 少なくともルイ16世は政治に積極的に関わり、フランスの変革に努力を注いでいたのである。 しかし「なしに国王はない」とのモールパ伯の進言により、ルイ15世が弱体化させた高等法院を1774年に復活させたことにより常にその抵抗に遭い、改革は妥協を強いられ抜本的な変革には至らず、また財政の決定的な建て直しには及ばなかった。 保守派貴族は国王の改革案をことごとく潰し、結局改革は挫折した。 なお、アメリカ独立戦争を支援したことから、「」たちにはルイ16世に崇敬の念を抱く者が多かった。 革命 [ ] パリへ帰還するルイ16世 貴族層に対抗する窮余の策として招集した三部会は思わぬ展開を見せ、平民層を大きく政治参加へ駆り立てたことで、結果的にのに始まるを呼び起こした。 国王衣装係のリアンクール侯爵から報告を受けたが、日記には「なにもなし」と書いて寝てしまった。 の廃止などの要求に対して、ルイ16世は「余は決して、余の僧侶たちと余の貴族たちを剥ぎ取られることに同意しないだろう」と強硬な姿勢を崩さなかった。 10月、20万人の群集によるに際しては、議会の代表団に際して食糧の放出を裁可している。 この後「国王万歳」、「国王をパリへ」の叫び声が上がり、パリに連行されることになる。 ルイ16世は本心では革命の進展を望んでいなかったため、に家族とともにパリ脱出を企てたが、で発見され捕らえられた()。 ルイ一家はただちにパリへ護送され、以後に軟禁された。 6月、などによる対仏戦争の最中、は国防大臣を辞任する際、宣誓忌避僧に対する法案にを行使し続けるルイに対し、「僧たちは虐殺されるでしょう。 そしてあなたも…」と語ったが、これに対してルイ16世は「私は死を待っているのだ。 さようなら。 幸せでいるように」と述べたという。 6月20日、群集がテュイルリー宮殿に押し寄せた際、そのリーダーが王に誠意ある態度を求め、幾人かが槍を王に向け振り回した。 喧騒の中、彼は「余は憲法と法令が、余に命じていることをしているにすぎない」と冷静に述べ、威厳を示した。 その後でが停止され、国王一家はテュイルリー宮からに幽閉された。 国王裁判 [ ] で処刑される直前のルイ16世。 左は知己である死刑執行人、。 (1798年の画) 幽閉されたルイ16世は家族との面会も叶わず、名前も「ルイ・」と呼ばれ、不自由な生活を強いられることになる。 その間(1792年後半)、国王の処遇を巡って、国王を断固として擁護する王党派と、処刑を求める、裁判に慎重なが三竦みの状態になり 、長々と議論が続けられていた。 膠着状態の中、、25歳の青年が、人民が元々有していたを独占した国王は主権簒奪者であり、共和国においては国王というその存在自体が罪として、個人を裁くのではなく、王政そのものが処罰されるべきであると演説 し、共和政を求めるものの国王の処遇は穏便に収めることを希望したジロンド派を窮地に陥れた。 12月11日、ルイ16世の国務大臣を二度務めたが議長に宛てて手紙を送り、ルイ16世の弁護人を引き受けた。 〜、国民公会はルイ16世の処遇を決定するために四回の投票を行った。 投票方法は、指名点呼という方法で行われることが事前に取り決めされており、各議員は登壇して意見を自ら表明する必要があった。 第一回投票では、まず「国王は有罪であるか否か」が問われて、各議員(定数は749)は賛成693対反対28(欠席23・棄権5)で有罪を認定した。 ジロンド派が公会の判決は人民投票で可否を問われなければならないと主張していたため、第二回投票では、「ルイに対する判決は人民投票によって批准されるべきか否か」が問われ、これは賛成292対反対423(欠席29、棄権5) で、ジロンド派の予想に反して否決された。 そして、第三回投票では、「ルイは如何なる刑を科されるべきか」という刑罰を決める投票が行われ、初めて賛否では決まらない意見表明の投票となった。 集計したところ、「無条件の死刑」が387票で最多となり、ただしこのなかにはマイユ条項つき死刑というものが26票含まれていた。 次いで「その他の刑」が334名で、内訳は鉄鎖刑2名、禁錮刑かつ追放刑 286名、執行猶予付き死刑46名であった。 387対334(欠席23・棄権5)で死刑と決まった。 第四回投票では、死刑延期の賛否が投票されたが、賛成310対反対380(欠席46・殺害1・棄権12 )で、これも70票差で否決され、即時の死刑執行が決まったわけである。 「 死刑に賛成した387人の内26人はを求めており、この26名を死刑反対票に加算するとすれば、賛成361対反対360となり、1票の僅差で処刑が確定した 」 という説明がしばしばなされるが、上記のようにこれは 間違いである。 執行猶予付きを含む死刑に賛成した票の総数は433で、執行猶予を反対票に含めて賛成387対反対334であり、マイユ条項や執行猶予を除いても、単純死刑361と死刑以外288の差は73票もある。 またマイユ条項は執行猶予とは異なり、同じに扱うことはできないし、死刑に反対していたととらえることは全くできない。 マイユ条項支持者のなかで第四回投票で延期に賛成した議員は1人もいなかった。 そればかりか第四回投票では(執行猶予付き死刑以外の)その他の刑を支持していた者の中からも22名は延期反対の方に寝返った。 王政復古では、この裏切りを含めた 455名の国民公会議員が と認識され、まだ生存して国内にいたものは追放された。 刑死と最後の言葉 [ ] 午前10時22分、の執行により革命広場(現)ででにされた。 これに先立って、革命前に「人道的な処刑具」としてギロチンの導入が検討された際、その刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言を行ったのは、錠前作りによって工学的知識、金属器の知識を持っていた ルイ16世本人だった。 は処刑当日の様子を次のように記述する。 朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。 革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。 10時に王は断頭台の下にたどり着いた。 王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。 王は群集の方に振り向き叫んだ。 「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。 太鼓の音がその声を閉ざす。 王は傍らの人々にこう言った。 「 私は私の死を作り出した者を許す。 私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」。 という、フランスへの思いが込められた一言だった。 しかし、その言葉を聞いてもなお、涙するものはなかった。 死後 [ ] 遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地 に葬られた。 後にが到来すると、新しく国王となったは私有地となっていた旧墓地 を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。 その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。 発見されたルイ16世の亡骸は一部であったが掘り起こされ、その22回目の命日である、歴代のフランス国王が眠るに妻マリー・アントワネットと共に改葬された。 子女及び子孫 [ ] ルイ16世には妻マリー・アントワネットとの間に上記の通り、長女、長男(夭折)、次男ルイ・シャルル(後の)、次女(夭折)の4人の子供(2男2女)がいたが、いずれも子供を残さなかったため、直系の子孫は存在しない。 評価 [ ] 同じく民衆に示されるルイ16世の首 ルイ16世は「と造りが趣味で妻に操られる無能な王」、「国民の境遇に心を悩ませる心優しい王」という2つの相反する評価を受ける。 とくにの伝記小説『マリー・アントワネット』においてルイ16世を暗君として描いたイメージが広く知れ渡っている。 現代のフランスでも大統領が「私は宮殿で錠前作りに明け暮れる暗君のようにはならない」とルイ16世を無能な政治家の譬えとして発言している。 一方、2008年にジャン=クリスチャン・プティフィスが『ルイ十六世』で彼の政策を膨大な史料を元に紹介したところ、元外相(サルコジの政治的ライバル)などフランスの政治家が同書を取り上げ、ルイ16世を高く評価した。 当時のフランス国民(パリ市民)にまでは絶大な人気を得ていた。 当時の財政難はルイ14世とルイ15世の放漫財政も一因であり、財政再建のための改革にルイは積極姿勢を示したが、途中で挫折した。 ルイ16世は、国民の良き支配者、理想的な国王を目指したであった。 農奴制の廃止、プロテスタントやユダヤ人の同化政策などをすすめ、科学や地理探検にも理解があり、その支援者であった。 さらに三部会召集も第三身分をもって第一身分、第二身分の特権を突き崩そうとしたものであった。 当時、マリー・アントワネットが数々のスキャンダルで世間を騒がせていたにも拘わらず、国王の威信が地に堕ちるということはなかった。 人々は良き王の統治を求め、実際1789年の三部会開催に際し寄せられた数々の意見は、良き王への陳情という形式がとられていた。 「のちに革命への対応に失敗したからといって、さかのぼって無能の烙印を押すことは避けたほうがよい。 とくに欠陥のある国王というわけではなかったろう。 ただ、変動期に決断をせまられたときに、強力な指導力を発揮できるような人ではなかった。 政治感覚がひどく鈍かったわけではないが、ありていにいえば優柔不断だったのである。 」() 逸話 [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2009年11月) 革命勃発時、つまりバスティーユ牢獄襲撃当日のルイ16世の反応については次の2つのエピソードが有名である。 夜半に侍従の ()に起こされた王は、パリの状況を聞かされて、たずねた。 「なに、暴動か」。 リアンクール公は答えた。 「いえ陛下、これは暴動ではございません。 革命でございます」。 ルイ16世は日々の細かなことを手帳に書き記す、メモ魔であったが、そのメモの7月14日の欄。 「Rien(何もなし)」 1. は状況を正しく革命ととらえていたリアンクール公の慧眼を褒め称えると同時にルイ16世の政治感覚の鈍さを笑うための話として流布されてきたものである。 これは、リアンクール公の息子が19世紀になって、親から聞いた話として書き残したものに基いている。 これに近い会話があった可能性はあるだろう。 しかし王は、パリの状況を知った国民議会の代表から、すでに夕刻に報告を受けていたのだから、会話の場面としては正しくない。 [ ] 2. についても、 あれだけの出来事が生じた日について「何もなし」とは何と愚かな、という苦々しい感情が伴われているのが一般である。 しかしこの表現は、狩り好きのルイ16世が、ほとんど毎日のように行なっていた狩猟の獲物について記したものである。 当日の社会的な出来事について記述しているわけではない。 [ ] 読書家であり、らの『百科全書』も購入しており、啓蒙思想にも明るかったといわれている。 また冒険旅行の本も好んだ。 ラペルーズを太平洋探索の大航海に派遣したのは、当面の競争相手イギリスに対抗するためだけではなく、王の個人的な関心のなせるところでもあった。 遺言書 [ ] ルイ16世が登場した作品 [ ] 小説 [ ]• 『王妃マリー・アントワネット』()• 『バスティーユの陰謀』 ()• 『小説フランス革命』() 漫画 [ ]• 『』 - 「」()で連載され、ルイ15世末期からフランス革命前後までのヴェルサイユ宮殿を舞台とした漫画。 40年余を経て不定期連載でエピソード編が描かれる。 『』 -「」()にて、フランス革命初期からロベスピエール処刑までを描かれた漫画。 他の作品と違い、この作品ではアントワネットの悪行をメインに描いている。 『マリー・アントワネット』 - 「週刊」()で連載された漫画。 史上初のによる。 愚鈍で気弱な夫と浪費家の悪妻という汚名を当時の新聞で捏造されたルイ16世とマリー・アントワネットの事実を描く。 『』 - 「」()で連載された漫画。 資料・文献提供:山中聡。 アニメーション [ ] 『』 - フランス革命の頃のパリが舞台のテレビアニメ。 主人公シモーヌ・ロランはルイ16世の正妃マリー・アントワネットのという設定で、ルイ16世とは義兄妹。 脚注・出典 [ ] []• フランス人の王を名乗ったのは、ルイ16世以外では、のみ• マリー・アントワネットのドイツ語形( Maria Antonia)• ルイ16世は日記をつけており、狩りや大工仕事、錠前いじりなどの趣味には詳しく書いていた(『この人から受け継ぐもの』( )pp. 142-151「ルイ十六世の笑い」参照)。 , p. 221• これは新人議員であった彼の公会での最初の演説であったため「サン=ジュストの処女演説」とも呼ばれる。 訳文は, pp. 304-309• , pp. 221-223• 『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』木崎喜代治著、岩波書店、1986年、pp. 334-337• これは傍聴人が怒声を浴びせるなかであり、議場の外には武装したサン=キュロットが待ち構えている。 下手な発言をした議員は生命の危険もあって、穏便に収めたいと考える派閥には不利な投票方法だった。 それまで国王処刑に反対していた議員が、突然態度を翻して、賛成票を入れて国王弑逆者になったのは、こういう背景がある。 反対票を入れるのは必死の覚悟がいった。 ゆえに王政復古後には、反対票を入れた少数の忠義者は英雄視されることになる• 225, 定数および欠席に関しては後述の別資料より• , pp. 224-225• ジロンド派やフイヤン派などは、この第二回投票が可決されることを予想して、第一回投票で賛成に回っていた。 意外な大差での否決は彼らの戦略を混乱させた• 「マイユ条項」というものは第三回投票で最初に壇上に登った議員マイユが主張したもので、彼は無条件の死刑に賛成としながらも、付加条件をつけ、もし死刑賛成が最多数を占めた場合には死刑を延期すべきかを国民公会で改めて討議するとした。 また次に明記されているように、執行猶予付き死刑の46票はその他の刑として計算されている• 革命戦争終結まで捕虜として禁錮刑とし、終戦後に追放するというもの• 河野(編)「資料フランス革命」との数字の違いは、一次資料の当時の集計そのものの誤り(重複・似た人名の取り違えなど)とのこと。 「資料フランス革命」は一次資料の翻訳がそのまま掲載されている• 319-322• 、ほか異口同義の記述は多数の書籍にみられる• マイユ条項の提案の厳密なる文章解釈から、死刑そのものに賛成であったことは疑いの余地はない。 マイユ条項の支持者は、延期だけでなく促進も考慮するように検討を要請したのであり、彼らの懸念はいつ殺すのが適当かということであって、できれば刑の執行を延期して有名無実にしたいと思っていたわけではない。 逆に死刑判決を確定しつつ減刑の可能性が出てくる平和の実現まで延期させようと主張した人々が2名いたが、これは執行猶予付き死刑の集計に含まれたのであって、マイユ条項の支持者とは数えられていない• 当時のアンジュー通りの角で、寺院の敷地の外であり、パリ8区にある現在のとはかなり離れている。 は旧敷地の一部に立ち、ルイ18世が兄夫妻の冥福を祈って建てさせたものである• に閉鎖されていた• この地権者はに購入したものであり、正しく埋葬地を知っていたわけではなかったが、一時期、見物料を取っていたために、このような囲いがあった• www. afpbb. com 2009年5月21日. 2020年5月3日閲覧。 四国新聞社 2009年5月20日. 2020年5月3日閲覧。 参考文献 [ ]• 『世界の歴史 10 フランス革命とナポレオン』 、1961年。 芝生瑞和 『図説 フランス革命』 河出書房新社、1989年。 『資料フランス革命』 岩波書店、1989年。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 ルイ16世に関連する および があります。 (英語) 地位の継承.
次の1791年6月20日の国王一家の逃亡の失敗後、ルイ16世は軟禁状態に置かれた。 恐怖政治が始まると、貴族は皆ギロチン台へ送られ、王は外国勢力と共謀した裏切り者であると宣告された。 ルイ16世はまず退位を強制され、その後投獄され、「市民ルイ・カペー」と呼ばれるようになった。 1793年1月15日、国民公会は王の処刑を投票にかけ、反対360票に対し賛成361票を獲得した。 1793年1月21日、ルイ16世はギロチン台の露と消えた。 After the failed flight of the royal family on June 20, 1791 the king was forced into house-arrest. When the Reign of Terror started the nobility was beheaded en-masse and the king was declared to have conspired with foreign powers and thus considered a traitor. The king was first forced to abdicate, imprisoned and called 'Citizen Capet. ' On January 15, 1793 the National Convent voted for a proposal to execute the king with the figures 361 votes against 360. On January 21, 1793 King Louis was beheaded.
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王政を廃止して民主主義にしようとする市民革命。 とくに「自由」と「平等」を目的としている。 これはフランス国内に留まらず、他国にもフランス革命に共鳴する人たちが現れる。 ただし、フランス革命は暴走し、罪のない人々まで処刑されてしまう。 例えば、化学者ラヴォアジエ(燃焼反応が酸素の結合であることを解明)がギロチンで処刑されてしまう。 実際にはラヴォアジエに罪はない。 単に徴税に関わっていたというだけで旧体制側の人間とされて処刑された。 殺伐としてるね…。 日本史の教科書でフランス革命時代に重要なイベントを探すと「本居宣長が古事記伝を書いた」などくらいしか出てこない。 ヨーロッパの歴史に比べると日本史は平和。 フランス革命ではナポレオンが活動するんだよね。 ナポレオンはフランス革命でヨーロッパ中(イギリスを除く)を支配した。 しかし、ロシア遠征で失敗し、そこから風向きが変わる。 最終的に『ワーテルローの戦い』でプロイセンに敗れる。 因みに、ワーテルローはベルギーの地域。 ナポレオンは皇帝としてフランスを統治したらしいけど、国王と皇帝の違いは? 現在の視点から視るとナポレオン帝国は民主主義としては弱い。 実際、ナポレオン帝国は言論と出版を統制していた。 また、ナポレオン帝国は専制国家で、国民には皇帝への服従を求めていた。 ただし、皇帝の正当性は人民投票によるものとした。 一方、王政は血統によるものだった。 この点で「絶対王政」と「ナポレオン帝国」には違いがある。 フランス市民はナポレオン皇帝を受け入れたの? そう。 当時にナポレオンはフランスで支持されていた。 実際、ナポレオンの終身執政に関する国民投票では「賛成」が約350万票で「反対」が約8000票となった。 国王と王妃は悪い人だったの? ルイ16世とマリーアントワネットは処刑されるほどの悪事を行っていたわけじゃない。 むしろ、ルイ16世は革命に好意的だった。 マリーアントワネットが浪費家であったという話は? そのような側面があったことは事実。 ただし、当時の王妃は贅沢に煌びやかに振る舞うことが1つの仕事でもあった。 ルイ16世は? ルイ16世は「狩猟」と「錠前づくり」が趣味であったらしい。 錠前づくり? 国王が? そう。 ルイ16世は頭脳が優れていたらしい。 例えば、哲学者ヒュームはヴェルサイユ宮廷でルイ16世(当時9歳)に会っていて、ルイ16世が既にヒュームの著作に親しんでいることに賛嘆している。 因みに、ルイ16世はギロチンの改良も行っている。 で、ルイ16世自身がギロチンで処刑されてしまうという皮肉は有名。 ルイ16世は天才だったの…イメージと違いすぎる。 どういうイメージだったの? そりゃ…美女に囲まれて酒池肉林な感じ? それはルイ16世ではなくて、ルイ15世。 実際、ルイ15世は60人以上の私生児をのこしている。 60人以上!? 因みに、本来、酒池肉林にそういう意味はない。 じゃあ、ルイ14世は? ルイ14世も女性に囲まれて生きたけど、ヨーロッパ大陸の覇者で、戦勝による栄光を得て「太陽王」と呼ばれていた。 言葉として「国とは、私のことである」を遺した。 そういえば、ルイ16世の女性関係は? ルイ16世は極めて珍しい国王で、愛人をつくらなかった。 そもそも、国王が愛人をつくっていいの? よい。 よいの!? 真面目な話、当時には「公式寵姫」という制度がある。 つまり、公式愛人。 これは決して日陰な存在ではなくて、むしろ、王妃より前面に出ることがある。 実際、以前にオーストリア史について対談したときにフランスのポンパドゥールが活躍したけど、ポンパドゥールはルイ15世の公式寵姫。 何で公式寵姫が王妃より活躍? 公式寵姫は他の愛人との競争を勝ち抜けているから、その意味で凡人ではないのだと思う。 けど、王妃も教育を受けているよね? そう。 ただ、王妃は競争をする必要があまりない。 そのあたりが影響しているのだと思う。 なるほど…。 改めて、ルイ16世は愛人をつくらなかった。 ゆえに、とくにマリーアントワネットが目立つ。 少し話を戻すけど、ルイ16世はギロチンを改良していたんだよね? 何でそんなことをしているの? 何か危険な趣味…? むしろ、ルイ16世は刑罰の人道主義化を推進していた。 実際、ルイ16世は王令によって拷問を廃止した。 ギロチンの改良も人道的処刑方法を求めたことによる。 ルイ16世の提案によってギロチンの刃は斜めに設計され、死刑囚の首は効率的に切断される。 これによって死刑囚は苦しまずに済む。 革命以前は残虐な刑があったから、それに比べると人道的。 因みに、斬首機械を最初に提案したのは医者ギヨタンであるらしい。 ギヨタンって、もしかして…。 人名ギヨタンが「ギロチン」の由来。 うそん…。 医者ギヨタン、死刑執行人サンソン、ルイ16世、この人たちの話し合いによってギロチンが実用化された。 死刑執行人サンソン!? 何それ、アサシン系の一族? 医者の一族で、他の医者が投げ出すような治療も行い、評判はよかったらしい。 因みに、ルイ16世をギロチンで処刑したのもサンソン。 えええ…どんな気持ちだったんだろう…。 まとめると、ルイ16世は人道を大切にしているし、頭脳は優れているし、女遊びはしない。 それなのに、フランス革命で処刑された…。 ひどい。 何でそんなことに…。 ルイ16世は改革は必要だと考えていた。 けど、宮廷内部には反改革派の勢力がある。 これによってルイ16世は「改革」と「反改革」のジレンマに苦しむ。 これによって決断を間違えたり、誤解されて無能と評されることもある。 具体的には? 例えば『ヴァレンヌ逃亡事件』がある。 これはパリを脱出してオーストリア軍の助力を得てパリに戻って武力によって国会を解散させて国王としての主導権を取り戻そうとする計画。 ところが、途中でバレてパリに連れ戻される。 これに対して国民は「国王が国を捨てて逃げた!」と解釈した。 そして「王政を廃止せよ!」という主張がフランス全土から出た。 なるほど…それでも、市民が王政を転覆させることは可能なの? ナポレオンの力? いや。 ナポレオンの力によるものじゃない。 たしかに、そのあたりは誤解されることが多いかもしれない。 フランス革命が成功した理由としては最初の『バスチーユ陥落』の成功が大きい。 バスチーユ陥落とは? 人々は国王の軍隊に対抗する武器を入手するためにバスチーユ監獄を攻めた。 本来、バスチーユ監獄は市民によって攻められた程度で陥落するようなものではない。 けど、司令官は自分から降伏して門を開けた。 え…何で司令官は降伏したの? 攻撃に参加している市民は1000人程度だけど、見物人が大勢いて、人数が多く見えたことなどが理由らしい。 えええ…。 国家の監獄を陥落したことは衝撃的で、バスチーユ陥落は人々に「革命は可能だ」と信じさせる効果があったと考えられる。 やってみるものだねぇ。。。 先見のある人なら「バスチーユ陥落は不可能」と諦める。 それは正しいけど、正しくなかった。 人生、何が起きるか分からない。 さて、それで、国王が処刑されて…どうなるの? ナポレオンが現れる。 どこから? どのように? ナポレオンは地中海の「コルシカ島」に生まれた。 家は最下級貴族で、特別な身分ではなかった。 コルシカ島はジェノヴァ共和国に長く支配されていて、イタリア系が多かった。 けど、ナポレオンが生まれる1年前にコルシカ島がフランスに譲渡された。 結果、ナポレオンはフランス人ということになった。 その後、ナポレオンはフランスに来るけど、フランス語が話せなくて苦労したらしい。 士官学校に進学して少尉任用試験を受ける。 成績は58人中で42位。 割と地味だね。 ただ、軍人となってから成果を出していく。 また、運命の女性ジョゼフィーヌに出会う。 ジョゼフィーヌはカリブ海のマルチニック島で生まれた。 カリブ海って、アメリカだよね? そう。 ただし、マルチニック島はフランス領だった。 なるほど。 そして、ナポレオンはイタリア方面軍最高司令官に任命されてイタリアに向かう。 フランスはイタリアと対立していたの? いや。 当時のイタリアはオーストリアに支配されていた。 そして、ナポレオンはイタリアでオーストリアを攻撃すべきだと考えていた。 ただし、実は、フランス政府はイタリア戦線に期待していなかった。 実際、軍の主力をドイツ戦線に配置していた。 ところが、ドイツ戦線ではあまり成果が出ず、イタリア戦線は連戦連勝する。 ナポレオンの戦略は? 常識外れで速いらしい。 「まだ遠くにいる」と見せかけて、接敵して各個撃破するらしい。 あと、士気を高めることがうまかったらしい。 何かの参考になりそう。 これによってナポレオンは低質な装備でオーストリア軍を破った。 ナポレオンは大量の賠償金を持ち帰り、これによってフランス政府は破産寸前から回復した。 ナポレオンがフランスに帰ってきたときは英雄扱い? そう。 正真正銘の英雄。 ナポレオンの家がある街は名が改められて「ヴィクトワール街」になった。 つまり、勝利の街。 絵本のストーリーみたい。 そして、ナポレオンはエジプト遠征に出発する。 何でエジプト? イギリスとインドの連絡を切って、イギリスにダメージを与えるためであるらしい。 ナポレオンはエジプト遠征で学者や作家を同行させて『ロゼッタストーン』などを発見する。 この学者一同には数学者フーリエも含まれていた。 フーリエがどう考えたのか分からないけど、ナポレオンに「エジプトに行くぞ、来い」と言われたら断れないね…。 ただし、エジプト遠征は軍事的には成功しなかった。 実際、イギリス海軍ネルソン提督の作戦でナポレオン軍はエジプトに孤立させられる。 それでもナポレオンはフランスに帰還する。 また、ナポレオンの人気は衰えることなく、最終的に皇帝となる。 ジョゼフィーヌは何か活動していたの? ジョゼフィーヌは人脈をもっているらしくて、これでナポレオンをサポートしたらしい。 そういえば、ナポレオンとジョゼフィーヌはどこに住んでいるの? ナポレオンはルイ16世の部屋で、ジョゼフィーヌはマリーアントワネットの部屋。 うそん…。 革命政府だからね。 ナポレオンに軍才があるとしても、それでここまで至るものなんだね。 ナポレオンは軍才だけでなくて政治力もあったらしい。 へぇ…。 因みに、日本は明治維新後に民法を制定するときに『ナポレオン法典』を下地にしている。 現在の民法とは違うものだよね? いや。 現民法は明治民法が修正されてつくられたもので、明治民法もナポレオン法典を参考につくられている。 まさか、日本とナポレオンに縁があるとは…。 参考文献: 安達正勝『物語 フランス革命』中央公論新社: フランス革命史(29-40,49-54,129,150-152,223-225,280-310,320-324).
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