灰皿の上には病的なほどに積み重なった吸殻がある。 そこにある燃え尽きた灰の欠片が口を開くたび喉の奥に侵入して、粘膜の襞にちりちりと張り付いてくる。 私だけが喋っている。 彼は私の話に無言で頷き、時々目を伏せたり足を組み替える以外はじっと黙って動かない。 その静けさが私を余計に焦らせて、ますます口が動いてしまう。 いったい何をどれだけ話して、今どの話題に触れているのか、元々何の話をしていたのか、もう自分でも解らなくなってきていた。 それでも私は喋り続けなくてはならない。 君が沈黙を貫こうとするのなら尚更に。 私は道化だった。 べらべらと果てしない詭弁ばかり並べている。 勝ち目のない裁判で抗い続ける弁護士のようだ。 「もういい」 不意に火村は私に告げた。 裁判官が黒衣を纏うのは何物にも染まらないという象徴だと云う。 目の前にいる彼もまた黒い背広を纏っていた。 その黒が今の私にはあまりにも重たく、冷たく映った。 要らないんだ、と低い声が響く。 唇の動きだけ後から別に再生されているかのように、スローモーションで視界に入る。 火村英生は手に持っていた最後の一本を灰皿に押し付けた。 声が出ない。 水中のように。 代わりに彼のぴしゃりとした声が私を打つ。 視界は一面、闇に変わる。 目の前に火村もいなければ、先程まで腰かけていた座席もない。 部屋も言葉も、何もかも。 「…………」 悪夢、と言えるほどのものでもない。 しかし忘れるには、彼の言葉と声はあまりに生々しく記憶の中に残っていた。 恋文を渡したあとに裂かれた手首の白さ。 私は目を閉じる。 記憶を、夢を、あらゆる不安を否定するように。 警部が隣で事件の概要を話してくれている。 火村の背中がすぐ前に見える。 そんな状況下にあっても。 私の意識はなお、消え去らぬ夢の世界に呼び込まれていた。 「アリス、聞いてるのか」 横から火村に小突かれる。 その様子に不自然さを覚えたのか、火村は顔をぐっと覗きこむようにしてこちらを向いた。 どうしたんだ」 「…………」 こんな感覚は初めてだった。 彼の顔を見た瞬間、言葉が全く出てこなくなってしまった。 声すらも。 彼に向かって話すことが怖い。 怖いのだ。 たまらなく。 口調が先程とうって変わって真剣なものになっている。 私のせいで。 すまん、ちょっと寝不足やねん。 でもちゃんと聞いてたで。 何ならそらでも言えるくらい。 ああ警部、話の腰を折ってすみません。 どれひとつ声になって出ていかない。 喉に栓をされたように言葉が出ない。 「おい」 冷たい汗が背中を伝う。 私は返事も出来ないまま、その場にへたりこんだ。 私はどこにいるかというと、寝台の上だった。 あれから倒れて今まで眠っていたらしい。 今日は気がつくとこんなことばかりだ。 詫びたかったが、言葉にならないまま沈黙が流れていく。 どうやら先程の失態はどれ一つ、夢ではないようだ。 「ここが何処か知りたいか?」 頷くことで、漸く今日初めてのコミュニケーションを彼にとる。 「現場はオフィスビルだったろう。 運良く医務室があったんでそこに担ぎ込ませてもらったのさ。 断っておくが俺が運んだんじゃないから筋違いの感謝はするなよ。 「アリス」 火村の表情が翳っている。 私にどんな異変が起きているのか、もう気が付いているのだろう。 「声が出ないのか」 「……」 何と答えれば良いのか解らなかった。 恐らく声が出ないわけではない。 会話も、出来ないわけではない。 ただ…… 火村のほうを見る。 彼は何かを言いたそうだったが、恐らくそれとは違うであろう言葉を続けた。 「医師の方が待機してくれている。 とりあえず問診を受けてこい。 「これだけ教えろ」 私を家まで送り届ける車内で、火村は静かに尋ねてきた。 「それは体調的なものなのか。 沈黙すること、それが精一杯の回答だった。 遠回しに気にかけているような素振りを見せることもあれば直接言葉にして訊いてくることもあったが、私はそのどれにも答えることが出来ないままでいた。 そればかりか、彼からのメールにすら返信することが出来ない。 火村と言葉を交わすことが怖い。 関わることそれ自体ではなく、否定されることが恐ろしかった。 返信をしないことが火村の心配をますます煽ることも解っていた。 火村は次第に連絡を取らずに家に来ることが多くなった。 たとえ彼が無断で部屋の中に入ってきても、私は驚きはすれどそれを嫌がりはしなかった。 「お元気ですか?」 「片桐さん? お久しぶりです。 どうしたんですか」 「あれっ」 頓狂な声を出して片桐はしばらく黙った。 もしもし、と何回か問いかけるとよやく反応が返ってくる。 「有栖川さん、声、出るんですか?」 ああ成程。 電話の意図が漸く掴めた。 「……誰から聞いたんですか?」 「誰もなにも、火村先生ですよ。 この前直々に御電話を頂いたんです。 そういう質問ばかりなんでおかしいなと思って逆にどうしたのか聞いたんです。 僕が口を割ったの、火村先生には秘密にしといてくださいね」 「言わへんよ……たぶんもう、言われへんから」 倒れた翌日からもう、そうだった。 会話も発声も滞りなく行える。 彼とだけ話が出来ない。 悪い魔法に掛けられた心地だった。 「その……喧嘩でもされてるんですか」 ひそめた声で云う。 私は少し笑った。 「そっちのほうが楽やったかも」 「違うんですか」 「……やと思いたい」 「人魚姫みたいですね」 「そんなロマンチックなもんちゃうよ」 深くは伝えなかったし、片桐もそれ以上は聞いてこなかった。 私は心配をかけたことを詫び、受話器を置いた。 人魚姫なんて、なんて都合のいい解釈だこと。 動くと少し目眩がした。 さっきまで寝ていたからまだ完全に身体が起きていないのかもしれない。 風呂に湯でも張ろうかな、と私は足を動かした。 熱い湯船に身体を沈める。 片桐と話したことをいくつか思い返していた。 珀友社にまで、連絡していたのか。 彼はいったいどれだけの時間を私のために割いているのだろう……。 このまま沈んで消えてしまいたいような自己嫌悪に囚われる。 否定されるだと? 何を不安がっているんや。 それも火村相手に。 考えているうちにだいぶ長い時間入浴してしまったらしく、身体が逆上せ始める。 湯船から上がって鏡に顔を映すと、髭が少し伸びていた。 「……情けないな」 こんな面持ちで何事も上手く行く筈がない。 立ち直りたくて、置いていた剃刀を手に取った。 「おい」 だんだん、と背後で叩くような音がした。 心臓が跳ね上がりそうなほど驚いたあとに、風呂場のドアがノックされたということに思い至る。 「すまない。 「何をしている?」 右腕が強い力で掴まれ、手から剃刀が滑り落ちる。 タイルの上で細高い落下音が響き渡った。 よからぬ誤解を招いたらしい。 ずぶ濡れの全身から滴り落ちる雫が、段々と冷たくなっていく。 違う、と言ってやりたかった。 「来い」 火村は掴んだままの手を無理矢理引いて、私を浴室から連れ出した。 脱衣場で、乱暴にタオルを投げつけられる。 酷く苛々している様子だった。 身体を拭いて服を着る間も決してこちらから目を離そうとしない。 監視のつもりなのだろう。 剃刀なんかを手に取る隙を二度と与えないように。 着替え終わると脱衣場からはすぐに引き離された。 自分の部屋なのに、逃げ場のない洞窟に追い詰められたような気持ちだった。 「片桐さんが連絡をくれたよ」 火村は唐突に言葉を切り出す。 意味がよく解らなかった。 「お前に電話を入れるよう頼んでおいたんだ。 本当に口を割ってしまったのは、私のほうだったらしい。 「言っておくが片桐さんに非はない。 彼は完全に巻き込まれただけだ。 俺とお前にな」 頷く。 わかってるよ、ちゃんと。 「お前は電話で、もう言えないから、というニュアンスのことを言ったそうじゃないか。 それが引っ掛かったと、大慌てで片桐さんがこちらに掛けてきたんだ」 火村はまだ疑いを捨てていないようだった。 そんなところに、剃刀の件はあまりにもタイミングが悪かったに違いない。 お前を追い詰めたい訳じゃない」 私は首を横に振った。 子供のように、何度も何度も振った。 洪水のような後悔が、次々に押し寄せる。 火村は人差し指で自分の唇に触れる。 しばらく何も言わずにこちらを見てから尋ねた。 「俺に知る権利はあるか」 冷たい雫が。 髪から肌を伝って、冷たい雫が次々と落下していく。 酷く冷えている。 身体がぞくりと震えた。 お前、おかしいよ。 それどころか、一人の人間にここまで深入りするはずがない。 無断で家に上がったり、知り合いに根回しをしたり、そんなことをするだろうか? なぁお前、ちょっとずつ歪んでいってるぞ。 私は首に掛けたタオルで顔を覆った。 そうでもしないと笑い出してしまいそうだ。 狂っている。 そう思った。 彼ではなく私のことだ。 拒まれたくないのに、ずっと近くに置いていたい。 置かせて欲しい。 私はその状況を、心のどこかで悦んでいた。 最も近しい友を自我のために利用していると気がついてもなお。 「……言いたくないのならそれでもいい」 火村は昏い声で言う。 言いたいさ。 言えるものなら、 私は狂っていると、大声で。 私だけが一方的に歪んでいる。 「…………君が聞けばきっと失望する」 それだけ言うのに、喉が擦りきれてしまいそうだった。 「お前にか?」 「……そうや」 「させてもらいたいな」 火村がぽつりと言う。 「そっちのほうがきっと楽だ」 こんな不毛な思いをするくらいなら、と低い声が耳の中に流れ込む。 不意にタオルが奪われ、隠していた顔があらわにされる。 「やっと口を開きやがった」 彼の穏やかな声を聞いたとき、喉の呼吸がわずかに落ち着いたような気がした。 [chapter:シェヘラザードは語らない].
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俳優・とがバディを演じた日本テレビ系連続ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』(2016年1月期)が今秋、3年半ぶりにHuluで復活することがわかった。 原作者・有栖川有栖氏の作家生活30周年イヤーでもある今年、セカンドシーズンが配信される。 主演の斎藤は「3年と半年の月日経て、円熟度の増したバディで、更なる難事件に挑みたいと思います」と期待をあおっている。 同ドラマは斎藤工演じる犯罪学者・火村英生と、窪田正孝演じる推理作家・有栖川アリスの最強コンビが数々の事件に挑むミステリードラマ。 人気作家・有栖川氏の27年も続く大ロングセラーシリーズを初映像化した同作は、連ドラ放送時に熱烈なファンを獲得。 続編を希望するはがきは現在も寄せられ続け、その数、約1万通。 その熱い想いを受け止めた斎藤は、全てに目を通し、ツイッターで御礼コメントを投稿したことも。 「この犯罪は美しいか?」と、殺人現場に快楽を求め、「人を殺したいと思ったことがある」とも公言しながら究極の犯罪を追い求める、かなりヤバそうな犯罪学者・火村。 そして…「この犯罪はオモシロいのか?」と、火村の捜査を観察しながら、時に的はずれな推理を繰り出しつつ、危なげな火村の保護者役も自認する、ちょっと頼りなさげな推理作家・アリス。 2人が互いの欠陥を補完し合いながら、複雑怪奇なトリックで固められた事件の真相を、世にも美しいロジックであぶり出す物語を描いていく。 プロデューサーの戸田一也氏は「続編希望のハガキ、SNS、そして鑑賞会と、ファンの皆様方の絶えることなき熱い応援が、今回の復活の原動力となりました。 本当にありがとうございます。 秋に向けて、様々な趣向を凝らして盛り上げていきますので、火村&アリス復活の宴を、皆で楽しみましょう! 更なるサプライズも用意しています。 ご期待ください」と予告している。 火村とアリスが、新たな時代に戻って来ます。 この奇跡を現実にして下さったのは、絶えず応援し続けてくれた皆様です。 火村とアリスの時間は、京の都の片隅で、あれからずっと続いていたのだと思います。 3年と半年の月日経て、円熟度の増したバディで、更なる難事件に挑みたいと思います。 今は何より、皆様に心から感謝致します。 火村英生」 窪田正孝 「また、火村に再会できることを嬉しく思います。 アリスとして火村をしっかりサポートし、 工さんと力を合わせて難解に挑みたいです。 」 原作者・有栖川有栖 「斎藤工さん・窪田正孝さんが演じる火村とアリスに再会できることを、原作者として大変喜んでいます。 放送終了から3年以上が経っても続編を希望し、熱い声援を送り続けてくださったドラマファンの皆様のおかげと感謝するばかりです。 ありがとうございます。 平成から令和に元号が変わり、3年半のインターバルを置いての続編。 かなりお待たせしました。 その間に、斎藤さんと窪田さんの俳優としての人気もステイタスもさらにさらに高くなっていますから、火村&アリスのバディもパワーアップすることでしょう。 前回は1月スタートの連続ドラマということで、火村先生はコート姿で犯罪現場というフィールドに立ち、真冬の物語が並びました。 今回は真夏の撮影になるため、がらりと違った雰囲気になりそうなのも楽しみです。 ファンの皆様とともに、首を長くして〈復活の日〉を待ちたいと思います。
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俳優・とがバディを演じた日本テレビ系連続ドラマ『臨床犯罪学者 火村英生の推理』(2016年1月期)が今秋、3年半ぶりにHuluで復活することがわかった。 原作者・有栖川有栖氏の作家生活30周年イヤーでもある今年、セカンドシーズンが配信される。 主演の斎藤は「3年と半年の月日経て、円熟度の増したバディで、更なる難事件に挑みたいと思います」と期待をあおっている。 同ドラマは斎藤工演じる犯罪学者・火村英生と、窪田正孝演じる推理作家・有栖川アリスの最強コンビが数々の事件に挑むミステリードラマ。 人気作家・有栖川氏の27年も続く大ロングセラーシリーズを初映像化した同作は、連ドラ放送時に熱烈なファンを獲得。 続編を希望するはがきは現在も寄せられ続け、その数、約1万通。 その熱い想いを受け止めた斎藤は、全てに目を通し、ツイッターで御礼コメントを投稿したことも。 「この犯罪は美しいか?」と、殺人現場に快楽を求め、「人を殺したいと思ったことがある」とも公言しながら究極の犯罪を追い求める、かなりヤバそうな犯罪学者・火村。 そして…「この犯罪はオモシロいのか?」と、火村の捜査を観察しながら、時に的はずれな推理を繰り出しつつ、危なげな火村の保護者役も自認する、ちょっと頼りなさげな推理作家・アリス。 2人が互いの欠陥を補完し合いながら、複雑怪奇なトリックで固められた事件の真相を、世にも美しいロジックであぶり出す物語を描いていく。 プロデューサーの戸田一也氏は「続編希望のハガキ、SNS、そして鑑賞会と、ファンの皆様方の絶えることなき熱い応援が、今回の復活の原動力となりました。 本当にありがとうございます。 秋に向けて、様々な趣向を凝らして盛り上げていきますので、火村&アリス復活の宴を、皆で楽しみましょう! 更なるサプライズも用意しています。 ご期待ください」と予告している。 火村とアリスが、新たな時代に戻って来ます。 この奇跡を現実にして下さったのは、絶えず応援し続けてくれた皆様です。 火村とアリスの時間は、京の都の片隅で、あれからずっと続いていたのだと思います。 3年と半年の月日経て、円熟度の増したバディで、更なる難事件に挑みたいと思います。 今は何より、皆様に心から感謝致します。 火村英生」 窪田正孝 「また、火村に再会できることを嬉しく思います。 アリスとして火村をしっかりサポートし、 工さんと力を合わせて難解に挑みたいです。 」 原作者・有栖川有栖 「斎藤工さん・窪田正孝さんが演じる火村とアリスに再会できることを、原作者として大変喜んでいます。 放送終了から3年以上が経っても続編を希望し、熱い声援を送り続けてくださったドラマファンの皆様のおかげと感謝するばかりです。 ありがとうございます。 平成から令和に元号が変わり、3年半のインターバルを置いての続編。 かなりお待たせしました。 その間に、斎藤さんと窪田さんの俳優としての人気もステイタスもさらにさらに高くなっていますから、火村&アリスのバディもパワーアップすることでしょう。 前回は1月スタートの連続ドラマということで、火村先生はコート姿で犯罪現場というフィールドに立ち、真冬の物語が並びました。 今回は真夏の撮影になるため、がらりと違った雰囲気になりそうなのも楽しみです。 ファンの皆様とともに、首を長くして〈復活の日〉を待ちたいと思います。
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